徳川光圀(1628~1700 or 1701

徳川光圀 - Wikipedia

徳川 光圀(とくがわ みつくに)

寛永5年6月10日1628年7月11日) - 元禄13年12月6日1701年1月14日


Wikipedia によると没したのは陰暦元禄13年(疑似西暦で1700年)末と陽暦1701年正月の重なった時期。
江戸時代の2代目水戸藩主。
『大日本史』の編纂を始め、ラーメン(拉麺)好きとも言われる。

 

1690年に隠居。その後の10年間、主に西山荘で生活したが、日本各地で起きた諸問題の被害者が首都圏まで陳情に訪れ、綱吉の命令で光圀が何度も旅をしていた。

 

水戸藩の佐々宗淳(さっさ むねあつ、1640~1698)が佐々木助三郎として、安積澹泊(あさかたんぱく、1656~陰暦1737/陽暦1738)が渥美格之進として旅に参加。
里見浩太朗は佐々木助三郎と水戸光圀を演じたことで有名だが、里見が助三郎役だったとき、光圀一行が敵をあざむくために、里見扮する助三郎が光圀に変装した場面があり、今、観ると予言的な作品である。

 

フジ『トリビアの泉』では「水戸黄門の最大遠征先は鎌倉」というトリビアが紹介され、それより前にNHK『歴史への招待』でも「水戸黄門、漫遊せず」という特集が組まれていた。

 

ドラマ『水戸黄門』では、綱吉の時代、各地方の政治、経済で問題が多く發生し、これらを立て直すため、綱吉は水戸の隠居・徳川光圀に何度も偵察を頼んでいた。
当然、場当たり的な対症療法で、各地域に根付いた改革にならず、光圀一行が何度、全国行脚しても、各地域の諸問題は収まらなかった。言うまでもなく、光圀の死によって、これは破綻する。
漫遊で紀州にやってきた際に、光圀は、当時、源六と名乗っていた若き吉宗に会ったことがある。

 

確か、TBSの『水戸黄門』では光圀が綱吉に犬の皮を多数献上して諭(さと)したように想うが、実際は「憐みの令」は綱吉の死まで、つまり、光圀の死後も9年ほど続いた。
 

光圀を演じた俳優のうち、月形龍之介と西村晃は吉良上野介も演じたことがある。
また、里見浩太朗が大石内蔵助を演じた日本テレビの『忠臣蔵』(1985年)では西村晃が荻生徂徠(をぎふそらい、1666~1728)、佐野浅夫が大学頭(だいがくのかみ)・林鳳岡(はやしホウカウ、1644~1732)で、綱吉の前で「水戸黄門」同士の論争となっていた。

 

徳川光圀は1628年生まれ。当時は徳川家光の治世であった。家光は1804年生まれなので光圀より24歳年上であった。
1634年、光圀が数え年7歳のとき、家光が江戸と京都を往復したときに浪人に化けて忍び旅を敢行。
1651年、家光が没したのは光圀が24歳のとき。この前後、梓右近(『江戸を斬る』第1部)と松平長七郎が江戸市中で隠密行動。
1661年、光圀は2代目水戸黄門藩主になった。
1680年、徳川綱吉が将軍となった。この年、高松藩の松平頼豊誕生。
1684年、紀伊徳川家に元禄誕生。のちの徳川吉宗である。
1685年、綱條の息子・吉孚(よしざね、よしのぶ)誕生。
1686年、第42部における助三郎と格之進の剣術の試合はこのときか。
1687年または翌年、光圀の姪・密姫が庄内藩主・酒井忠真に嫁いだ模様。
1688年、この年から元禄年間である。
1689年、松尾芭蕉が『おくのほそ道(奥の細道)』の旅。
1690年、光圀が隠居。第29部で光圀、助三郎、格之進に加えてお娟、せん、みつ、ひでが配下に。
1691年、高松藩の頼豊が12歳になったのがこの時期で、第42部でその設定である。助三郎と格之進が剣の試合からほぼ5年ぶりに再会。
1692年または1693年、第4部で光圀が2年ぶりに江戸を訪問。越後高田では越後騒動から14年後であった。
1693年または1694年、第40部で光圀が江戸に来たときに新旧八兵衛が交代。鶴岡で光圀が密姫と再会。前庄内藩主・酒井忠義(1681年没)の13回忌であった。
推定1694年以降、源六が新之助と改名。第28部で光圀が京都を訪れたとき、新之助がいたらしい。
1694年に松尾芭蕉没。第29部と第40部で光圀は芭蕉に会っている。藤井紋太夫が柳沢吉保と組んで光圀をおとしいれる動きをしていたことが判明。紋太夫は光圀によって討たれ、第1部と第29部で描かれている。
1697年、第38部第5話「暴れ若様まかり通る」(2008年2月4日放送)で光圀がまた吉宗と会っている。「史実」では吉宗はこの年、江戸で綱吉に謁見したらしい。
1698年、第37部の旅の途中までは鬼若が参加していたが忍者同士の抗争で一時、行方不明となり、途中から弥七が再度合流。弥七は別行動が多く、アキはお娟とコンビニなった。最終回で吉宗の父・光貞が水戸藩を相手に事件を起こし、実行犯が処罰された。吉孚が14歳のころであった。アキが江戸を去るとき鬼若が現れて一緒に去って行った。
元禄13年(疑似西暦1700年)末、陽暦では翌年の初め、光圀は73歳で没した。光圀の忍び旅の癖は家光や長七郎の影響だったか定かでないが、これが吉宗に継承されたことは確かのようだ。

 

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平成20年5月

 

関連語句

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参照

平成20年BLOG

▲徳川綱吉の時代、綱吉から吉宗へ(『水戸黄門』、『忠臣蔵』、『ガリヴァー旅行記』) - gooブログ ものがたりの歴史 虚実歴史

2008-02-25 21:47:00

(もとはTeaCup Blogに書き込んだもので、令和4年にTeaCupのサービスが終了、一部の記事もGoo Blogに移行)

 

こちらに移動↓
http://blogs.yahoo.co.jp/itouk_monogatari_rekishi/17390558.html 

(Yahoo!Blogを使っていた時代にWiki文法を使って再投稿)

徳川光圀(または水戸光圀)【人物】

 

平成21年BLOG

水戸徳川家のその後

 

水戸黄門』【作品

 

徳川光圀・補足

 

徳川家光、光圀、吉宗年齢変遷比較

 

徳川光圀隠居期間と『水戸黄門』の光圀役の出演期間

 

徳川光圀と『水戸黄門』主演俳優年齢変遷比較

 

水戸徳川家の虚実歴史

 

令和4年BLOG

水戸黄門の時間軸…光圀隠居後10年と「水戸黄門」放送50年

 

水戸黄門の50年と光圀晩年の10年

 

徳川光圀生誕395年…#寛永レトロ/~/#元禄レトロ/