徳川光圀【人物】

光圀を演じた俳優のうち、月形龍之介と西村晃は吉良上野介も演じたことがある。
また、里見浩太朗が大石内蔵助を演じた日本テレビの『忠臣蔵』(1985年)では西村晃が荻生徂徠(をぎふそらい、1666~1728)、佐野浅夫が大学頭(だいがくのかみ)・林鳳岡(はやしホウカウ、1644~1732)で、綱吉の前で「水戸黄門」同士の論争となっていた。

徳川光圀は1628年生まれ。当時は徳川家光の治世であった。家光は1804年生まれなので光圀より24歳年上であった。
1634年、光圀が数え年7歳のとき、家光が江戸と京都を往復したときに浪人に化けて忍び旅を敢行。
1651年、家光が没したのは光圀が24歳のとき。この前後、梓右近(『江戸を斬る』第1部)と松平長七郎が江戸市中で隠密行動。
1661年、光圀は2代目水戸黄門藩主になった。
1680年、徳川綱吉が将軍となった。この年、高松藩の松平頼豊誕生。
1684年、紀伊徳川家に元禄誕生。のちの徳川吉宗である。
1685年、綱條の息子・吉孚(よしざね、よしのぶ)誕生。
1686年、第42部における助三郎と格之進の剣術の試合はこのときか。
1687年または翌年、光圀の姪・密姫が庄内藩主・酒井忠真に嫁いだ模様。
1688年、この年から元禄年間である。
1689年、松尾芭蕉が『おくのほそ道(奥の細道)』の旅。
1690年、光圀が隠居。第29部で光圀、助三郎、格之進に加えてお娟、せん、みつ、ひでが配下に。
1691年、高松藩の頼豊が12歳になったのがこの時期で、第42部でその設定である。助三郎と格之進が剣の試合からほぼ5年ぶりに再会。
1692年または1693年、第4部で光圀が2年ぶりに江戸を訪問。越後高田では越後騒動から14年後であった。
1693年または1694年、第40部で光圀が江戸に来たときに新旧八兵衛が交代。鶴岡で光圀が密姫と再会。前庄内藩主・酒井忠義(1681年没)の13回忌であった。
推定1694年以降、源六が新之助と改名。第28部で光圀が京都を訪れたとき、新之助がいたらしい。
1694年に松尾芭蕉没。第29部と第40部で光圀は芭蕉に会っている。藤井紋太夫が柳沢吉保と組んで光圀をおとしいれる動きをしていたことが判明。紋太夫は光圀によって討たれ、第1部と第29部で描かれている。
1697年、第38部第5話「暴れ若様まかり通る」(2008年2月4日放送)で光圀がまた吉宗と会っている。「史実」では吉宗はこの年、江戸で綱吉に謁見したらしい。
1698年、第37部の旅の途中までは鬼若が参加していたが忍者同士の抗争で一時、行方不明となり、途中から弥七が再度合流。弥七は別行動が多く、アキはお娟とコンビニなった。最終回で吉宗の父・光貞が水戸藩を相手に事件を起こし、実行犯が処罰された。吉孚が14歳のころであった。アキが江戸を去るとき鬼若が現れて一緒に去って行った。
1700年末、陽暦では翌年の初め、光圀は73歳で没した。光圀の忍び旅の癖は家光や長七郎の影響だったか定かでないが、これが吉宗に継承されたことは確かのようだ。

前後一覧
2010年2/9