みなさんこんにちは。今日の話題です。

 




今月に入ってからのことですが、おらが街では

市内のどちらに行っても、このポスターを見かけるようになりました。かなり目立ちます。




ああ、今年も盆踊り、中止なんや…

その時期までに、終息しているようにはとても思えませんし、仕方ありません。ただ、楽しみにしている娘たちにはかわいそうですが…


野田市長からのお願い。
市内には、複数の総合病院はもちろんですが、この一帯の救急救命を司る「府立中河内救命救急センター」もあります。

ただし、そちらは府内でも比較的定員のあるコロナ病床も満員に近く、重症者が搬送されて来たら、まだ治療が必要な中・軽症者を転院させる、ということが続いていると聞きます。


市内でも、やはり第4波での感染者が爆発的に増加していることに驚きます。「東大阪市政だより 2021年5月15日発行」より。


ワクチン接種も、ようやくにして目処が立ったと耳にしました。最短で昨日からだとのこと。
ともかく、いち早く進めてほしいと願います。



ところで、最寄り駅構内の「セブンイレブン ハートイン」が、三度目の緊急事態宣言を受けてまたも閉店していました。

政府の方針に従って…というところなのでしょうが、その政府がまったく情けないので、これでは傷口に塩を塗られるようなものです。 



その、最寄り駅から仕事場に向かうために乗った電車。誰ひとり乗ってはいません。


もうそろそろいい加減に、お国の偉い方々には本気を出してほしいと思います。本当に本気で、この禍に取り組む気があるのかないのか。

感染拡大を防ぐための努力は惜しみません。
ただ「人流を減らす緊急事態宣言」と言いますが、これで三度目でさらに延長となると、最早自助努力でなんとかなるようには思えません。


感染拡大のリスクを減らすのも大事なのでしょうが、さまざまなことで、国民は疲弊しているという事実に目を向けて貰いたいです。

今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。



時代は平成に入りました。
続いては「野田〜梅田地下化」と「梅田駅改良工事」。1992(平成4)年〜1995(平成7)年の出来事でした。


現在の「大阪梅田駅」には、1939(昭和14)年3月に、地下線で乗り入れをするようになった…と、先日の記事で触れました。


昭和50年代の、梅田地下線出入口の様子を、手元の書籍に見つけました。いずれも出典①。

まさにその地下線に入ろうかという電車の左隣には広大な「梅田貨物駅」。その向こうの高架線には「大阪環状線」のオレンジ色、103系の姿も見えます。ひと昔前の懐かしい風景です。


グーグル地図より。
現在、この一帯は大規模な再開発が行われ、高層オフィスビルやホテルが建ち並んでいます。



ここで地上に出ていた阪神電車(付近)も、さらに西の「野田駅(同福島区)」に近い「大阪環状線」の高架をくぐる手前まで、地下区間は延伸されました(付近)。
1993(平成5)年9月のことです。

あたらしく地下線が延伸されたのは、地上線時代の「福島駅(同)」付近の踏切渋滞が著しくなったことなどが理由としてあるようです。



同時に駅構内もリニューアルが施されました。
自動改札機がずらりと並ぶ光景は、ようやく今日に近づいて来ました。



さらなる駅設備のリニューアル改良工事が、平成半ばに入っても継続して実施されます。
これは現在にも続いているものです。


さて、ここからは…
そのリニューアル工事さなか、現在の「大阪梅田駅」付近の様子を見て参ります。ひとつ前の写真と、ほぼ同じアングルの「3・4番線」。


改札を抜けます。天井の露出具合から、まだまだ工事は真っ最中だという印象を受けます。


階段、エスカレーターを上がったところ。
待ち合わせで「阪神の前」というと、このあたりで十二分に通用する、大変有名な場所です。

右後ろには「OsakaMetro御堂筋線 梅田駅」の改札もあるので、余計にでしょうか。


ここには「阪神百貨店 梅田本店」の地下入口があります。普段ですと大変な人出なのですが…しかし、緊急事態宣言の発出で、大半のフロアは閉鎖されたまま。


地下街も、きれいにリニューアルされました。
それまでは、地方の土産物を売る、通称「アリバイ横丁」なるものがあったのですが。


地上へ至る階段の左側には、そういえば、ええにおいを漂わせる串カツやさんがあったなあと思い出します。えらい変わり様です。

朝も、昼も、夜も、紺色の暖簾の向こうで肩を寄せ合うようにして、黙々と飲む人が引きも切らぬ立ち飲み屋でした。それを眺めるに、大人ってええなあ、などと思っていました(笑)


それはさておき、地上へ上がって来ます。
両側には「大阪シティバス」のターミナル。
右側には「阪急百貨店」、そして正面には…



「JR大阪駅」がすぐそこ、というところです。
そういったことで、ここは市内随一の交通の要衝だということがわかります。

遠方の旅行から帰って来て、疲れながらも、ここを通って乗り換えなどする時など、「ああ、大阪へ帰って来たんやなあ」(正確には「帰って来てしもたんやなあ」でしょうか)と、一気に現実に引き戻されるところです(苦笑)


ところで、駅の改良工事とともに、その直上では大規模な建て増し工事も進められています。
それについては、こちらをどうぞ。

第一期棟は2018年4月27日に竣工し、6月1日には阪神梅田本店が移転した。また、ビルの名称は「大阪梅田ツインタワーズ・サウス」となる。 全体竣工は2022年春頃を予定している。


そこから左(東方向)を向きますと、横断歩道、ペデストリアンデッキの先には「阪急百貨店 うめだ本店」が目の前です。


最近「大阪では市街地の人出や、感染者数がどうこう」…などと、全国ニュースでよく映される場所は、まさにここです。
2021(令和3)年5月16日付け、ヤフーニュースの朝日新聞デジタル記事より。余談でした。


阪急うめだ本店が入居する梅田阪急ビルも2022年の本ビルの全体竣工と共に「大阪梅田ツインタワーズ・ノース」と名称変更し、両ビルを「大阪梅田ツインタワーズ」と総称する予定。
(出典「Wikipedia#阪神大阪梅田駅」より)

ということで、梅田を代表する「阪神・阪急大阪梅田駅」、それと併設されている百貨店も、近年にかけて共に大きく建て替えられます。


かつて、この両社が鉄道輸送のみならず、百貨店でも火花を散らし、競合しているのをこの梅田周辺を通り掛かる度に感じるものでした。

まさかその未来永劫のライバル同士が合流するとは想像だにつきませんでしたが、どちらもその「ブランド力」というのは、阪神間では殊に絶大なものですので、きっと、相乗効果になるのでしょうね。


開業から一世紀以上という、長い歴史を誇る「阪神電車」。さまざまな経緯を経て、今日に至っているのだなと、大変勉強になりました。いずれも出典①。


梅田も、これからさらに進化して行くことになりそうで、実に楽しみです。

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック5 阪神」廣田尚敬写真・吉川文夫解説・山と渓谷社刊 1982年6月発行)


例によって?いろんなところに話しが飛び交いましたが(汗)

おつきあいくださりありがとうございました。

今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。



さて、こちらはその「大阪梅田駅」東口。
大阪人にはあまりにも有名なショットですが、行き交う人の波は、実にまばらな昨今です。



この階段を降りますと、すぐにたくさんの改札機が並んでいまして…


その向こうには、行き止まり式のホームが4番線まで見通せます。
電車に乗るにしても乗らへんにしても、通りかかる度、神戸や姫路、という行き先を見るに、わくわくする、昔からの大好きな光景です。


ここでようやく?わたしも実体験した時代のショットが出て参りました!懐かしいですが、上の画面とだいたい同じような場所です。


手元の書籍にその左隣、3番線ホームの、実に印象的なショットを見つけました。

線路の行き止まりの部分には新聞のスタンドがありまして、ようこないにぎょうさん並べよるなあ…というくらい、溢れんばかりの豊富な品揃えだったのを、この写真の通り、幼な心に強烈に覚えています。


こうなると?スタンドのおばちゃんの手元にある、雑誌や新聞の類の内容も気になります。
世の中にはこんなにさまざまの大衆週刊誌、月刊誌があるのかとあらためて感じますが、タイガースのカレンダーが売られているのは、やはり「阪神電車」ならではですね。

ところで、この写真が撮られたのはいつ頃なんやろう?と、ここまで来たら、探ってみないと気が済みません。余計な性分ですね(笑)


夕刊紙の山を、上下ひっくり返してみますと…
画像左上は「日刊ゲンダイ」でしょうか。
見出しに「ポーランド 軍隊投入」とか、右上のには「ワレサ」…とあるのを見つけました。いずれも出典①。

「ワレサ(レフ・ヴァウェンサ、1943-)」は東欧ポーランドの政治家。名前は知っています。


ワレサは1980年代にかけて、当時の独裁政権と対峙する、労働者民主主義組織「連帯」(後に政党化)を結成したことから、厳しい弾圧を受けたものの、後年にはそれを排して大統領に就任、ポーランドの民主化に大きな役割を果たしたとして「ノーベル平和賞」を受賞した…というのは思いっきり、知ったかぶりです(苦笑)

その功績が映画になるほどの人物ですが、おそらくは、その「連帯」が結成された翌年、独裁政権による戒厳令が敷かれた1981年末頃か、翌年はじめ頃のもの、だと思われます。


命がけの、民主化運動に取り組んだワレサ。
日本から遠く離れた東欧にまで、話しが飛躍して恐縮ですが…

疑問が解決したところで、停車しているのは「種別不明の新開地ゆき(神戸市兵庫区)」。
「新開地」は先日も取り上げました「神戸高速鉄道」の駅ですが、先頭車両の貫通扉が開け放たれて、なにやらされているのがわかります。


この箇所には「特急」を示すヘッドマークが掲出されていました。推測ですが、ここまで「特急」以外の種別でやって来たために、これの取り付けをやっている最中でしょうか。出典②。


ここでまた写真を拡大してみます。
「停車駅ご案内」を見ますと、いちばん上の「特急」は梅田を出ると、しばらく停車駅がありません。この時代は「西宮駅(兵庫県西宮市)」までノンストップ運転されていました。

対する「急行」は「野田 尼崎 甲子園 西宮」、
その下の「準急」は、それに加えてさらにこまめに停まって行きます。ちなみに、前回まで取り上げた「国道線 甲子園線」の乗り換え案内があるので、それらが廃止された1975(昭和50)年5月以前に撮影されたものだとわかります。


そして、路線図の端は「山陽須磨浦公園(神戸市須磨区)」。現在は「直通特急」が長駆、山陽電車の姫路まで乗り入れていますが、この当時は「須磨浦公園駅」がその西端でした。



阪神と同じく、ライバルの阪急も、梅田から「須磨浦公園駅」まで乗り入れていました。



ただし、さまざまな理由で、阪急の山陽乗り入れは1998(平成10)年限りで打ち切りとなり、現在は「神戸高速線 新開地駅(神戸市兵庫区)」まで乗り入れ区間は縮小されました。

これも懐かしの「Hマーク」や、正面の飾り帯が復刻された編成でした。その新開地にて。


ところで…このように気になる電光標示も見つけました。現在では「特急」「直通特急」が停車する「甲子園駅(兵庫県西宮市)」。


ひと昔前までは、主に野球開催時のみ臨時停車だったとのことで、些か驚きます。出典②。

そういえば、阪神電鉄のグループ会社「阪神航空フレンドツアー(現在は阪急交通社のいちブランド)」は、確かヨーロッパツアーに特化した旅行商品を取り扱っていることで、昔から知られています。なんという偶然なことで(笑)

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック5 阪神」廣田尚敬写真・吉川文夫解説・山と渓谷社刊 1982年6月発行)
(出典②「カラーブックス559 日本の私鉄12 阪神」廣井恂一・井上広和共著 保育社刊 昭和57年2月発行)

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。





「阪神電車」には、本線系統の他にも、日本最長の規模を誇る「路面電車(軌道線)」が存在していた…ということについて触れています。出典①。


ではここからは、毎度おなじみ「Wikipedia#阪神国道線」の項から拾ってみたいと思います。




阪神間を結ぶ日本初の都市間高速鉄道(インターアーバン)として阪神本線を1905年に開業した阪神電鉄は、大正末期の阪神国道(現・国道2号)建設計画に伴い、同道路上を他社の軌道が走ることへの予防措置として、自らの手で国道上に軌道を運営することにした。


1925年に子会社の阪神国道電軌を設立、突貫工事で1927年に野田 - 東神戸間26.0kmを開業。1928年には阪神本社が阪神国道電軌を吸収合併し、直営の国道線とした。


なるほど…自社の営業エリアに、競合他社が参入しないように、という思惑があったようです。これはちょっと、意外な感を受けます。



ところで、「国道線」の神戸方の終着駅は、Wikiの記載にあるように、開業当初は「東神戸駅」。後年に廃止となり、以降はひとつ大阪方の「西灘駅(神戸市灘区)」がその替わりとなりました。


だいたい、どのあたりに位置しているのかと言いますと、神戸の中心「三宮」から、大阪方面へ3つ戻ったあたり。まったくの市街地です。



さらに拡大。
それならば「東神戸」で止めておかずに、せっかくなのであと少しの「三宮」まで乗り入れたらよかっただろうに…と思うのですが、そうならなかったのには理由がありました。

今度は「#東神戸駅」の項から。

1927年(昭和2年)7月1日 - 阪神国道線神戸東口駅(→東神戸駅)が開業。

1932年(昭和8年)9月21日 - 神戸市電東部国道線敏馬(みるめ。後に脇浜町、わきのはまちょう) - 脇浜三丁目間が開業。

1935年(昭和10年)1月1日 - 神戸市電東部国道線が全通。


というように、神戸市内中心部から「神戸市電」がここまで乗り入れることになっており、当時はここが神戸市域の東端部だった所以とのこと(現在は「中央区」と「灘区」の境界となっている。「西灘駅〜東神戸駅」付近の「武庫郡西灘村」が神戸市に合併されたのは1929年4月)。どちらかというと、中途半端なこの場所が境界になっていた理由がはっきりしました。


その「国道線 東神戸駅」と「神戸市電 脇浜町駅」は名称が異なるだけの実質的には同じ駅で、相互に線路もつながっていたようです。出典②。



その後は…

1968年(昭和43年)4月21日 - 神戸市電東部国道線三宮阪神前 - 脇浜町間廃止。

1969年(昭和44年)12月14日 - 阪神国道線東神戸 - 西灘間廃止。


という経緯をたどり、昭和40年代半ばには「国道線」も「神戸市電」も姿を消してしまいました。



再び「#国道線」の項に戻ります。出典③。

戦時中には沿線の工場への通勤客を中心に利用客が増加した。戦争末期には沿線周辺が爆撃によって被災したが、車両の損失は免れた。



1950年代には、沿線の人口増加や阪神工場地帯の発展により最盛期を迎えたが、1960年代前半には早くもモータリゼーションの影響を蒙り、表定速度低下とそれに伴う乗客減に悩まされると共に、沿線の尼崎市や西宮市などからは国道線撤去の要請が出される様になった。



1969年には西灘から東神戸までの区間が廃止され、1970年代になると、利用客の少ない上甲子園より西側区間の運転本数を1時間に1本程度にまで減便する合理化を実施したが、結局同区間は1974年に廃止された。


この時点で、残る区間についても日中は48分おきの運行に減便されたが、1975年5月、甲子園線及び同じく軌道線だった北大阪線と共に姿を消した。出典④。



続いては「甲子園線」についてです。出典①。


「国道線」の「上甲子園駅(兵庫県西宮市)」から南へ分岐、「甲子園駅(同)」で本線と接続、「甲子園球場」の東側を通り「浜甲子園駅(同)」に至る、全長3.8kmの路線です。

規格は「国道線」と同じ路面電車でした。
では、再び「#阪神国道線_甲子園線」より。


国道線開通のちょうど1年前(1926年)、阪神が開発した郊外住宅地である甲子園への足として、まず甲子園 - 浜甲子園が開業。

1927年に国道線が開通。

この時点では車両は甲子園駅の連絡線を使って本線から入線していた。続く国道線直営化を受けて、1928年6月に上甲子園まで延長、国道線と連絡した。



1930年、浜甲子園からさらに海岸部の中津浜までを専用軌道で延長した。

この区間は未成の今津出屋敷線の先行開業区間であり太平洋戦争末期に休止となり、戦後も復活することなく後に廃止された。出典②。



当初は阪神本線の、後に国道線の支線としての役割を担い、また戦後に浜甲子園団地が開発され「団地を走る軌道」との個性を見せていた。


廃止直前の昭和40年代後半には、国道線の西半分の運転間隔は48分間隔と、もはや大都市近郊の鉄道としては末期症状の様相を呈していたが、甲子園線は12分間隔で運転されるなど乗客数も比較的多く、団地住民の足としての役割を果たしていた。出典④。



しかし、国道線の廃止により浜田車庫(兵庫県尼崎市)への出入庫ができなくなるために廃線の方針が出された。

当然ながら、住民からの廃止反対の声が上がったものの、結局は1975年(昭和50年)5月の国道線全廃と共に廃線となった。


国道線との直通は、海水浴シーズンにわずかに行われたのみで普段は無く、基本は上甲子園以南の折り返し運転だった。出典②。



そういったことで、モータリゼーションの激流には勝てずに「国道線」は廃止されてしまいました。出典③。




路線廃止後に「甲子園阪神パーク(現在は閉鎖、跡地は『ららぽーと甲子園』となっている)」内で静態保存されていた、軌道線車両。出典④。


ですが、比較的利用客の多かった「北大阪線」や「甲子園線」を廃止せざるを得なかった理由というのが、車庫の場所が、利用が低迷していた「国道線」沿線にあったから…というのが、なんとも残念なことに感じます。出典③。


もし、その問題が解決して居たら…

大阪近郊、あるいは甲子園周辺では、これらがバリアフリーの「LRT(Light Rail Transit)」化され、活躍していたのかも知れません。


(出典①「私鉄ガイドブック・シリーズ第5巻 阪急・京阪・阪神」慶應義塾大学鉄道研究会編 誠文堂新光社刊 昭和42年12月発行)
(出典②「レールウェイマップル 全国鉄道地図帳」昭文社刊 2020年12月発行)
(出典③「カラーブックス日本の私鉄12 阪神」廣井恂一・井上広和著 保育社刊 昭和57年2月発行)
(出典④「ヤマケイ私鉄ハンドブック5 阪神」廣田尚敬写真・吉川文夫解説・山と渓谷社刊 1982年6月発行)

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。


前回までの記事では「阪神電車」は、本線系統の他にも、日本最大の規模を誇る路面電車路線も保有していた…ということについて、だいぶ引っ張って(苦笑)述べて来ました。出典①。


「阪神電車の路面電車(軌道線)」は、二つにその路線系統が大別されていました。
「国道線」「甲子園線」と「北大阪線」です。
出典②。


その「国道線」「北大阪線」のターミナルとなっていたのが、いま居る「大阪梅田駅(大阪市北区)」から2駅西に位置する「野田駅(同福島区)」です。




グーグル地図より。
「特急」「直通特急」などは通過するのですが、「西宮駅(兵庫県西宮市)」を発着する「急行」は終日にわたり、停車します。



阪神のみならず「OsakaMetro千日前線(野田阪神駅)」や「JR東西線海老江駅」が、互いに連絡しています。
「大阪シティバス」も数多くの系統がここを終始発地とするなど、「野田阪神」という地名で親しまれている市内西部の交通の拠点です。


わたしも、JRから阪神電車への乗り換えには、この駅によくお世話になっています。


この駅の北側、現在は、バスターミナルや商業施設「ウィステ」、阪神電鉄本社が入居している広い敷地には「軌道線 野田駅」が1975(昭和50)年5月の路線全廃までありました。


その「野田阪神」から、大阪・梅田駅の北側を迂回する形で、新淀川沿いに路線を延ばしていたのが「北大阪線」です(地図中)。以下、出典③。


路線については、毎年おなじみ「Wikipedia#阪神北大阪線」から。

1914年8月に開業した。
大阪の北側、新淀川沿岸における未開発地域を開発する目的で敷設された。
軌道敷設の特許を受けたのは別会社の北大阪電気軌道だった(ただし、阪神電気鉄道の株式に半分の株を割り当て、役員の多くも阪神の関係者であった)が、後の1927年に阪神国道電軌の手によって開業した阪神国道線とは異なり、工事に着手する前に阪神電気鉄道と合併し、阪神の路線として開業した。

大淀区(現・北区)経由で大阪市街北部を半周し、梅田へ集まる各鉄道線を短絡する、準環状線としての性格を持っていた。


阪神国道線ほどにはモータリゼーションの影響は受けず(後日項で触れます)、乗客数も比較的多かったものの、阪神国道線の廃止によって車庫への出入庫ができなくなるためにバス化されることになり、1975年5月、国道線・甲子園線全廃と運命を共にし、廃線となった。出典④。


野田から延びる、その「北大阪線」の終着駅は「天神橋筋六丁目駅(同北区)」でした。出典③。


長い地名や駅名を略すのが好きな?大阪人には「天六(てんろく)」と呼ばれています。
現在は「OsakaMetro谷町線・堺筋線」と「阪急千里線」が乗り入れている、こちらも市内有数のターミナル駅。


ただ、野田阪神と違うのは、長い長い「天神橋筋商店街」や飲み屋などが集積している「盛り場」だということでしょうか。
いつ行ってもにぎやかなところです。


ちなみに「堺筋線」と「阪急千里線」は、この駅を介して相互乗り入れをしています。「南森町駅(同)」にて。


しかし、個人的には「天六」というと、「堺筋線」や「阪急」のイメージが強いので、40数年前のことだとはいえ、実体験のない世代のわたしとしては、梅田からだいぶ東側に当たるこの天六に「阪神電車」が乗り入れていたとは、なかなか実感が湧きません。


そして、「野田駅」をターミナルにしていたもうひとつの軌道線が「国道線」です()。

「阪神本線」と「国鉄東海道本線(現在のJR神戸線)」にはさまれた「国道2号」上を走ることに路線名は由来しています。出典②。


「国道2号」を走る「国道線」車両。
現在は、終日にわたって多数のクルマが引きも切らぬ主要幹線ですが、モータリゼーションがはじまる前には、のんびりとした雰囲気です。出典①。

(出典①「カラーブックス日本の私鉄12 阪神」廣井恂一・井上広和著 保育社刊 昭和57年2月発行)
(出典②「私鉄ガイドブック・シリーズ第5巻 阪急・京阪・阪神」慶應義塾大学鉄道研究会編 誠文堂新光社刊 昭和42年12月発行)
(出典③「レールウェイマップル 全国鉄道地図帳」昭文社刊 2020年12月発行)
(出典④「ヤマケイ私鉄ハンドブック5 阪神」廣田尚敬写真・吉川文夫解説・山と渓谷社刊 1982年6月発行)

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。


前回に引き続きまして、昭和40年代後半、もしくは50年代と思われる、この駅にも登場した自動券売機について、探ってみることにします。


この当時の、阪神電車の初乗り運賃は「30円(現在は150円)」。それだけでも、随分と隔世の感を覚えるのですが…


気になるのは、見慣れない駅名もずらりと記載されている路線図です。

「梅田駅()」の真上には「西九条駅(、同此花区)」。これは現在でももちろん存在しているのですが、梅田から二つ目の「野田駅(同福島区)」からは、2路線が延びていることがわかります()。



ひとつずつひもといて行くことにします。
の「西九条駅」が終着になっているのは「西大阪線」です。出典①。


府県境を越えた「大物駅(だいもつえき、兵庫県尼崎市)」から本線と分岐、その南側を並走し「大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)」の「西九条駅」に至っていた、本線のバイパス的性格を持つ路線でした。出典②。

ただ、人口密集地を走っているものの、利用客は少なく、大阪市内においても、のんびりとした雰囲気のある路線でした。しかし…


乗り入れ先の「近鉄電車 大和西大寺駅(奈良市)」で発車を待つ、阪神車両の快速急行。



近鉄線内、高架複々線を行き交う阪神車両。「鶴橋(大阪市生野区)」にて。

その「西九条駅」からさらに線路を東へ「大阪難波駅」まで延伸させ、近鉄電車と相互乗り入れをするに至りました。


2010(平成24)年3月には、この路線延伸を以て「阪神なんば線」と改称されるとともに、逆に近鉄車両が尼崎、神戸三宮までやって来るようになり、神戸・難波・奈良という、あらたな広域ネットワークが誕生したのは、記憶にあたらしいところです。

いまや、本線を凌ぐ8両、10両編成の快速急行が行き交う姿に、大きな変貌を感じます。
近鉄車両による阪神尼崎ゆき。「大阪上本町駅(同天王寺区)」にて。


続いては、別書籍のこちらの路線図から。
1967(昭和42)年当時の阪神電車の姿です。


本線の駅々を見るに、今日と大きな差異はないのですが、本線と「国鉄東海道本線(現在のJR神戸線)」との間には、この当時「国道線」という路線が存在していました。出典③。


「国道線」で使用されていた車両。
その名の通り「大阪・梅田新道交差点」を起点として、山陽路を西へ向かう「国道2号線」に路線を設けていた「路面電車」でした。

この他にも「北大阪線」「甲子園線」という路線も有していました。


本線と同様に、大阪と神戸を結んでいた「国道線」。路面電車としては、日本最長の規模を誇るものでした。出典①。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「カラーブックス日本の私鉄12 阪神」廣井恂一・井上広和著 保育社刊 昭和57年2月発行)
(出典②「レールウェイマップル 全国鉄道地図帳」昭文社刊 2020年12月発行)
(出典③「私鉄ガイドブック・シリーズ第5巻 阪急・京阪・阪神」慶應義塾大学鉄道研究会編 誠文堂新光社刊 昭和42年12月発行)

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。



時代は進みまして、カラー写真になりました。
ずらり並んだ自動券売機、昭和40年代後半から50年代はじめ頃の様子でしょうか。


その前で、話しに夢中らしいおばちゃんたち。
このような風景は、大阪ではいまも昔も変わらんなあ、などと思うのですが…

それよりも?お二人の真上に書かれている「ご案内」の内容も気になりますが、この自動券売機、いまでは見かけることが出来ない、貴重なものだと気づきます。左端から…


初乗り区間専用の「30円」(現在は150円)。


2区間専用の「45円」(同、190円)。


3区間専用の「60円」(同、240円)。


4区間専用の「70円」(同、270円)。


5区間専用の「80円」(同、290円)。

しかし、4区間の「鳴尾(なるお、兵庫県西宮市。現在は鳴尾・武庫川女子大前)」と、ここに書かれている「甲子園 久寿川 今津」(同)は、ここ梅田からですと確か同じ「270円」のはず…
後年に、運賃の改定があったのでしょうか。



その他は「阪神電車」全区間と、「神戸電鉄」や「山陽電車」への連絡きっぷ、入場券や回数券などが購入出来る、多機能の機種です。


自動券売機が、都市圏でようやく一般的になったこの頃は、いまのように多機能なそれは数が少なく(導入するにも高性能で高価だった)、「発売出来る券片の種類(つまり金額)が単一のものに限られる」というものが主でした。


ところで、わたしはアラフォー世代です。
さすがに、大阪都市圏ではこれを見たり使ったりした記憶はないのですが、小学生の頃までは地元駅で他社線への連絡きっぷを買い求めると厚いボール紙の「硬券」でした。

自動改札機にはもちろん対応していない、ハサミを入れて貰う、裏が白い色のものです。


そういえば「裏が白いきっぷは改札機を通れません」「係員の居る改札をお通りください」という案内は、当たり前のようにありました。

きっぷすら買う機会がなくなった、交通系ICカードが当たり前になった昨今を鑑みますと…わたしも年を取ったものです(笑)


さらに、運賃が示された路線図をさらに観察してみますと…なにやら、2つの路線が延びているではないですか。それも、梅田からふたつ隣の「野田駅(大阪市福島区)」からです。


実は「阪神電車」には、本線系統の他にも、実に長い路線長を誇る「路面電車」が存在していたことでも知られていました。

(出典「カラーブックス日本の私鉄12 阪神」廣井恂一・井上広和著 保育社刊 昭和57年発行)

次回に続きます。

今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。



明治末の開業以来、地上駅だった「梅田駅」。
大正から昭和にかけて利用客の増加と、周辺の急速な開発が進み、地下線方式で地下駅に乗り入れることになった…というところまで、触れて参りました。


阪神にとっては、地上駅が梅田の西外れの不便なところにあったこと(現在では西梅田「ハービスENT」のあたり)市内中心部を南北に縦貫する、日本初の公営地下鉄「地下鉄御堂筋線」の開業(昭和8年)もあり、その「梅田駅」や「国鉄大阪駅」に近接する形での、地下駅への移動は悲願だったようです。


阪神梅田地下駅の開業は、1939(昭和14)年3月のことでした。




ところで、その「御堂筋線」は日本有数の利用客数を誇ることで知られています。




同時期の昭和初期には、当時、空前の規模を誇る「御堂筋」が整備された他、周辺の町や村を次々とその市域に組み入れたこともあり、人口は爆発的に増加、大阪は東京を凌ぐ日本一の都市に膨れ上がりました。淀屋橋近辺にて。


また、商工業の発展も著しく「東洋のマンチェスター」という異名がつくほどの、いわゆる「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれる時代に入っていました。


NHKの連続テレビ小説「おちょやん」の主軸になっていた時代が、ちょうどそのあたりです。

わが河内言葉がとても心地よい杉咲花さん、もとい、苦労人の竹井千代ちゃん。
毎朝の楽しみでしたので、今週で終わりやとは至極の残念…余談でした。


ところで、梅田地下駅の出札口には…
当時は、自動券売機などというものはなかったので、乗車券の類はすべて手売りでした。

そんな中、運賃表には「北大阪線 傅法線(でんぽうせん)甲子園線」という文字も見られます。いまは、そのような路線はないのですが…
これについては、また後日の項で。


完成直前の梅田地下駅全景。
広いドーム様の構造に4線路、ホームも乗降が分離されているという、当時としては、大変に規模の大きいものだったようです。しかし…




こちらは、戦後の様子でしょうか。ラッシュ時かはわかりませんが、ものすごい人の波です。

昭和30年代に入ると、激しい混雑ですでに駅設備は手狭になって来たようで、拡張工事もたびたび行われる次第になったとのこと。


ところで、パネル写真の中に気になるものが。こちらも、おそらく昭和30年代と思われます。



いちばん南側の、4番線に停車しているのは丸っこい顔つきの「特急」。
そして、乗り場案内板の下に「神戸三宮まで止りません」とあるではないですか。


現在の「特急」「直通特急」が、実にこまめに停車していくことを考えると、信じられないものがあります。スピード重視だったんですね。
「ノンストップ特急」は、阪神間を25分で走破していたそうです。

とはいえど、つい最近まで「特急」は、梅田を出たら「西宮駅(兵庫県西宮市)」までノンストップやったですし…時代は変わりました。


次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。




「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」改札内で掲出されている、この駅の開業以来の歴史を振り返るパネル展示「大阪梅田駅今昔物語」について、あれこれと取り上げています。


今日は「地下化着工」の様子から。


グーグル地図より。
現在の「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北区)」は地図中、赤い□付近。


現在の地下駅の様子、改札外から。こちらには、地下線(赤い↓)で乗り入れています。


もともと、阪神は梅田に地上にターミナルを設けていました。
ただし、明治期の開業当時は街外れだった梅田周辺も、大正から昭和初期に入ると、急速に開発が進んだことなどから、駅を含む線路を地下化することになりました。


その、地下化が進められているショットが!
これはなかなか、貴重な記録です。

見た感じ、建設が進められているのは半地下部分というところ。おそらくは、地上線から地下線へ切り替えられようとする地点でしょうか。


左側には、地上を走る電車の姿も見られます。
奥に向かって、半地下の線路は神戸方面に向かって勾配にかかっているので、右側が北方向だとわかります。


そして、現在も使用されている梅田地下駅は1939(昭和14)年3月に開業しました。
線路の勾配具合から、上の写真が撮影された場所から真反対を向いたあたりだと思われます。

後方のビルは「大阪中央郵便局」。
しかし、地下線に入ろうとする車両の、なんとスタイリッシュなデザインです。



大量輸送の必要が高まっていたこの頃、大阪では「地下鉄御堂筋線」も開業(昭和8年)、これに近接する形での梅田地下駅乗り入れは、阪神にとっては悲願だったようです。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。今日の話題です。



先日から、神戸を走る鉄道にまつわる話題をお送りしています。尼崎にて。


そして、こちらは「阪神電車 大阪梅田駅(大阪市北口)」。今日からは「阪神電車」について取り上げて参りたいと思います。


ただいま、大規模な改良工事中のこの駅。
その中を進んで行きますと…



実に気になる、パネル写真の展示がなされていました。この「大阪梅田駅」にまつわる、開業以来からの変遷をたどった、さまざまな光景が切り取られているものです。


ではここからは、明治末の開業以来、長い歴史を誇る「阪神電車」のターミナル駅、ここ「大阪梅田駅」の変遷について、こちらのパネル写真展示を見ながら、あれこれ述べたいと思います。宜しければ、どうぞおつきあいください。



現在「大阪梅田駅」が地下に入居している「阪神百貨店」。梅田のランドマークです。


「阪神電車」の開業は、1905(明治38)年4月にまで遡ります。「日本初のインターアーバン(都市間を結ぶ電車)」として、鉄道史にその名を残す存在でもあります。


開業当時、使用されていた車両。
見た目には「路面電車」そのものなのですが…
それについては、毎度おなじみ「Wikipedia#阪神本線」から拾ってみます。

本線は、当初軌道線(路面電車)として開業した。しかしそれまでの軌道線が市街地交通としての役割しか果たしていなかったのに対し、阪神電気鉄道は都市間交通としての電車に注目し、それを阪神間に投入することにした。


そもそも阪神間には東海道本線がすでに存在するため、それを運営する逓信省鉄道作業局(後、運輸省→国土交通省)から並行路線の私設鉄道法に基づく鉄道敷設免許は下りる見込みは低く、ならば路面電車扱いにして内務省(後、建設省→国土交通省)から認可を取ろうということになり、それも本来軌道なら道路上に敷設しなければならないところ、一部でも路面区間(この場合御影や神戸など)があればいいということで認められたものである。

そして阪神電気鉄道に対する認可後、京阪電気鉄道・箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)・大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)・京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)・京王電気軌道(現在の京王電鉄)・京成電気軌道(現在の京成電鉄)など、次々とこの類型の形による私鉄会社が誕生することになった。


ということで、当時は、鉄道事業を管轄する国の出先機関の差異と、見解の違いをうまく活用して、開業に漕ぎ着けたという、いまでは想像がつかない経緯があったようです。尼崎にて。

その結果、阪神電車は「路面電車」扱いとして無事に開業。大阪方にターミナル駅として「出入橋駅(でいりばしえき)」を設けました。


グーグル地図より。
現在、阪神電車の「大阪梅田駅」は青い○のあたり。そこから、地下で神戸方面へと路線を延ばしているのですが…

開業当時のターミナル「出入橋駅」があったのは、現在では梅田の西端に当たるところ。
地図中、赤い○あたりになりましょうか。



これをさらに拡大。「国道2号 出入橋交差点」や「阪神高速11号池田線 出入橋インターチェンジ」がある周辺になります。


大阪人の感覚からしますと、ここいらはもう「梅田」ではなく「福島」です。



さすがにここがターミナル駅だと流石に不便だということで、早くも翌1906(明治39)年には、現在の「大阪梅田駅」に近接した場所まで、仮線という形で路線を延伸したとのこと。



ターミナル移転後の「梅田駅」の様子。

いまでは、全国的に有名な「武庫川女子大」や団地街がある鳴尾(なるお、兵庫県西宮市)でも、いちご狩りが出来たんですね。


ちなみに、鳴尾はあの「甲子園」の隣駅です。




先に開業していた国営鉄道(現在のJR)や、後に「阪急電車」の開業も続き、これら三社は、阪神間で熾烈な競合を始めることになります。


次回に続きます。

今日はこんなところです。