兼原信克『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』(新潮新書 2020年)読了。
国家安全保障局次長や内閣官房副長官補を務め、昨年退官した元外交官の著書である。
本書の構成としては、第1部と第2部に分かれ、第1部では明治以降の日本の歴史を、第2部では、第1部を受けて、これからの日本の外交戦略についてどうあるべきかを考察している。
著者の「日本を何とか良くしていきたい」という気持ちは本書から伝わってきたし、日本がこれからの国際社会で生き抜くために外交戦略をしっかりと考えなければならない、ということについては賛成である。しかし、「うーん、これは…」と、気になったところもある。
その気になったものの中から2つほど挙げ、それに対する所感を書いてみる。
①帝国国防方針が「優れている」もの?
本書第2章において、
「この帝国国防方針は、戦略的思考に貫かれ、現在の国家安全保障戦略体系に近く、その論理の組み立て方は現在のものよりも優れている。」(p67)
「第一次帝国国防方針に問題があるとすれば、日英同盟が所与のものとされており、「なぜ日英同盟が国益に資するのか」という外交戦略(政略)に関する部分が薄く、国防方針(軍略)に重きがかかっていることである。」(p68~69)
と、帝国国防方針にプラスの評価をしている。
さらに、
「軍事戦略は、最悪事態に関わるシナリオを複数予測し、万が一の場合にはどの国と戦争を構える恐れが最も高いかを検討し、仮想敵国に応じてシナリオを考え、作戦の概要を構想するものである。軍人の頭の体操である。」(p69)
としている。
明治40年帝国国防方針の原文を見たことがないので推測で物を言うことになるが、帝国国防方針の構成という点からすれば、優れた論理の組み立て方だったのかもしれない。また、軍事戦略に関しての仮想敵国に応じてシナリオを考えるというのも、あらゆる場合を想定しなければならない安全保障という観点からは当然とも思う。
しかし、軍事戦略はともかく、国家戦略として仮想敵国を2ヶ国、それも当時世界最強の大英帝国に次ぐ実力のロシア(と、後のソ連)と、徐々に力をつけてきていた新興国のアメリカを想定し、一応1番ロシア、2番アメリカとはなっているが、事実上両方が同率1位の仮想敵国となっていることはどうも理解に苦しむ。
結局のところ、陸軍と海軍の予算の取り合いの結果、”陸軍”の仮想敵国をロシア(ソ連)、”海軍”の仮想敵国をアメリカにしたので、それを書き込んだだけなのではないか。それがそのまま、”日本”の1番の仮想敵国が2ヶ国ということで承認されてしまったということである。
1番の仮想敵国を2ヶ国も想定するということは、それぞれの国と互角以上に戦えるだけの戦力を保持する必要がある。ということは、陸軍は質・量ともにロシア以上の陸軍を編成することが目標となるし、海軍もアメリカと質・量ともにアメリカ以上の海軍を目指すことが目標となるのではないか。
であるならば、それができるだけの経済力や工業力をつける必要があるだろうが、果たして当時の日本がそれを望めるような状況であったを考えると、それは不可能に近いことだったのではないか?
あまつさえ、日露戦争では陸軍は奉天会戦の勝利の時点で弾薬を使い果たし、撤退するロシア軍に追撃をかけることができなかった。しかし、ロシア軍は弾薬が底をつくというような状況にはなく、態勢を立て直して日本軍に逆襲することも可能だったものと思われる。
日本にとっては国家の命運を懸けた戦争であったが、ロシアにとっては極東で朝鮮半島までも勢力圏下に入れようとしたのが、北満洲まで押し戻されたという程度。日露戦争で勝利したとはいえ、軍事力のみならず経済力や工業力なども合わせた総合的な国力が急速にロシアよりも上回るとは考えにくい。
まして、アメリカは幕末以来の友好国であり、かつ新興国として徐々に台頭しつつあった地域大国である。
自らの国力も顧みず、自分たちの利権争いのために国家戦略として1番の仮想敵国を2ヶ国も想定するというのは、まるで国益というものを考えていない。これでは、「亡国の作文」と罵られることはあっても、「優れたもの」とは言い難い。
繰り返しになるが、軍事戦略として、周辺諸国と戦争になった時に様々なケースを想定して研究するということは絶対にしておかなければならないことである。よって、陸軍も海軍も「頭の体操」として大いに研究する必要がある。しかし、そのことと、国家戦略として1番の仮想敵国を2ヶ国も想定するというのは違う。
国家戦略としてそれを採用してしまえば、2ヶ国と戦争を遂行するための軍備の編制を行わなければならず、ために国力の疲弊を招き、後顧の憂いを断つために結んでおかなければならないアメリカまでも敵に回すという愚かな結果を招いてしまう。決してやってはいけないことなのではないだろうか。
②山本五十六が「天才」?
「しかし海軍には山本五十六連合艦隊司令長官という天才がいた。彼の天才は、日本国にとってはむしろ不運であった。山本は、持久戦になったら負けるのだから、一番初めに勝機を求めなければ駄目だと考えたのである。」(p125)
「山本は海軍軍令部の反対をただ一人で押し切って、空母機動部隊を世界で初めて戦略運用し、乾坤一擲の真珠湾攻撃に出る。山本は武人らしく、潜水艦による消耗戦では無く、空母による正面決戦を挑んだのである。」(p125)
うーん…。
山本五十六が天才だったとすれば、それは軍事的な才能においてではなく、日本を滅ぼすという意味ではないのか。
持久戦になったら負けるということなど、当時の情勢を鑑みれば当時の人であっても分かりそうなものである(支那大陸にて泥沼の事変に引きずり込まれ、ただでさえ国力を損耗しているのに、無傷のアメリカと戦えるだけの余力があるとは考えにくいのでは?)。
まして、石油が欲しいなら、石油が採れるオランダ植民地のインドネシアを占領すれば済む話。本書でも、
「実を言えば、日米間で総力戦を戦うほどの死活的利害の不一致は、何一つなかったのである。」(p127)
と言っているのである。
さらに、伝統的な海軍の対米戦の戦略としては、アメリカ軍を、アメリカ本土からその植民地であるフィリピンまではるばる出張らせ、疲弊したところに痛撃を与えて米艦隊を壊滅するというものであったはずである。
ところが、わざわざフィリピンを占領し、日本から遠く離れたハワイを攻撃する、さらには真珠湾への攻撃も不徹底という有様。
戦う理由もない相手をわざわざ怒らせてどうするのか。
「対米戦争に当初反対だった山本は、おそらく全てを分かっていた。」(p128)
分かっていたなら、何で真珠湾を攻撃したの?
よしんば対米戦が不可避だったとしても、はるばる太平洋を渡ってくる米艦隊を迎撃すればよかっただけではないのか?
著者は、真珠湾攻撃は戦術的には大成功だが戦略的には大失敗、と言っているが、戦術的にも大失敗ではないのか?
山本は何をしたかったのだろうか。
アメリカに直接の対日戦の口実を与えた山本の責任は重大である。やはり山本は、日本を滅ぼすという意味での「天才」なのだろう。
…戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり、東北諸藩とともに戦った先祖の長岡藩の家老・山本帯刀に何と申し開きするつもりなのか。
やはり山本は愚将であって、天才・名将とは認められない、という結論にならざるを得ない。
最後に、もう少し戦前の日本政府の意思決定に共産主義の影響がどの程度あったのか、というあたりの視点からも叙述してほしかった。
勿論コミンテルンが万能だったなどというつもりはないが、少なくとも政府の中枢に赤い連中が相当数紛れ込んでいたことは確実なので、近現代史を振り返るなら、共産主義の影についてももう少し触れておく必要があったのではないかと思った。
そこから「歴史の教訓」を汲み取らなければならないのではないか、と思った次第。