公的資金による一般企業への資本注入
政府は、世界同時不況による一時的な業績不振で赤字に陥った
企業などを救済するため、公的資金を資本注入する方針だそうだ。
注入規模は最大で数兆円に達する可能性があるとのことである。
アメリカ、ヨーロッパも公的資金を活用した企業支援、再生を目指して
いるが、日本も同様の手段をとる事とするのであろう。
これは、裏返せばアメリカで自動車産業への資金拠出が世間の
批判を浴びたのと同様の批判に晒される事を意味していよう。
今回の第二次補正予算には、日本政策投資銀行を通じた1兆円の
低利融資枠が設定されている。新制度はこの融資枠を資本注入に
使うのだそうである。
しかし、融資と出資は明らかに異なるものであり、別途議論する余地
があろう。
対象企業は、経済産業省から産業活力再生特別法(産業再生法)に
基づく事業計画の認定を受けた企業とされる。
この制度により構造不況業種の徒な延命などを防ぎ、業種、企業
を選択することは、対象から漏れた企業、中小企業で働く労働者等
からの批判、非難にどう答えるかを含めて、極めて困難な作業となる
であろう。
対象とされた企業が破綻した場合の責任を含め、税金を投入するには
それなりの覚悟が必要だと思われるが、今の政府にその覚悟がある
とは思われない。制度を作ってあとは野となれ山となれと、政権を放り出す
姿が容易に想像される。
年金制度がその典型であろうが、のちの運用に責任をもてる制度設計
を望むばかりである。
水は低きに流れる。
国の中央防災化異議が、東京都の荒川堤防が200年に一度起きる
ような大洪水で決壊した場合の浸水被害予想を発表した。
それによると地下鉄の97駅が浸水するとのことである。
前提とされる200年に一度とは3日間で550ミリの雨量のようだが、
その降る範囲はどの程度の広さなのか、少なくとも新聞では荒川
流域としか判らない。
洪水を防ぐために堤防などの構築、維持管理が行なわれている筈
であるし、地下鉄の建設にあたっても十分な予測計算に基づいている
のでは無いのか。
コンピュータの発達によりいろいろなシュミレーションが容易に行なえる
ようになったことは結構だが、わけのわからない研究を国家の資金を
使って行ない、さも大変なことのように発表する態度は首肯しがたい。
確かに近年、何度かゲリラ豪雨とよばれるものが会ったが、いわば
極めて局地的な豪雨であった。
荒川流域の定義を知らないが、全域で3日間豪雨が続く事は、果たして
現実的なのであろうか。
天が落ちてくるのを心配した中国の杞の国のひとの故事から名づけられた
という杞憂では無いか。
水は高きから低きに流れる。こんな常識を知らぬひとはいない。
地下に構造物を作る時点で見落すことは無い。前提条件を適当に操作し、
恐怖心をあおり、無駄な出費を強いるような態度は厳に慎むべきであろう。
地震予知といい、防災会議といい、いったいどんな研究をして、どれほどの
冗費を垂れ流しているのであろうか。
生活習慣病の危険度判定
世界保健機構(WHO)が心臓病や糖尿病などになりやすい人を
見つけるための新基準として腹囲を採用するのだとか。
従来のBMI(体格指数)では、現実的には生活習慣病の危険度
を正確に判断できなかったことに拠るのだそうである。
新基準は、アジアでは男性85センチ前後、女性75センチ前後の腹囲
が境界線とされるようだ。
BMIの基準としての精度が疑問ならば、腹囲が精度が高いかどうかも
疑問のような気がする。
同じアジアの男性でも身長差を全く考慮しなくても良いのか。
成人病の原因は特定されているのか。この新基準の算定根拠は何か。
どういったデータに拠るのか、まったく理解出来ない。
メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)対策の基準は、腹囲男性
85センチ以上、女性90センチ以上とされているが、今回の成人病対策
の新基準と別の概念といいきる根拠もわからない。
メタボの判断材料として腹囲が妥当かどうかの議論も遅々として進んで
いないようである。
数値を出しておいて、数値に一喜一憂するなというのなら、そもそも数値
など持ち出すべきではあるまい。
数値を示される事により該当しないだけで安心してしまう風潮を危惧する
必要もあろう。
それにしても医者不足が深刻となり、現在既に病気の人間すら救えなく
なりつつある状況で、未発病の成人病の心配をしている余裕は一体どこから
来ているのだろうか。
停戦は終戦にあらず。
パレスチナ自治区ガザ地区のイスラエルとハマスの戦闘はどうやら
停戦を迎えるようである。
武力に勝るイスラエルによって、バレスチナ人側に多大な死傷者が発生
した。
これは、ある意味では当然の結果といえよう。いかに勝れた武器が存在
しても、無抵抗な人々を選別し、これを避けて攻撃することは不可能だから
である。
しかも単発式の銃器では無く、広範囲に対する攻撃を目的とする兵器が
使用されれば、その有効範囲に含まれる全ての人間に被害が及ぶことは
自明の真理である。
イスラエルとパレスチナの争いはほぼ人類の歴史の創世記にまで遡る
ほどの歴史があり、ことに第二次世界大戦終結後、イスラエルの建国
から今日にいたるまで、何度と無く武力衝突を繰り返している。
ハマス(イスラム抵抗運動)がイスラエル殲滅を掲げている以上、
イスラエルとしては座して死を待つことも出来ない。少なくとも共存のうえで
、お互いの利益を図るものでなければ容認することは、今後ともないであろう。
如何にハタハがパレスチナ人の、ガザ地区内での生活に資するとしても、
イスラエルにとって脅威であることに何ら変化は無い。
無抵抗な子ども、女性の被害といった現実のみを見て、いわば安っぽい
ヒューマニズムで停戦をはかっても、根本的な解決にいたる筈も無く、
徒に事態の悪化を放置するこことなる。
少なくとも停戦期間には、お互いが更なる軍備増強を図るであろうことは
想像に難くない。
ふりかえって、わが国の近代史を見れは、1938年(昭和13年)に
国家総動員法が制定され、戦時の国防目的達成のため、人的、物的
資源を総動員する事となった。
これを当時の対戦国からせ見れば、日本人の全てがいわば、戦闘員で
あったとも言えよう。何の罪もない国民が無慈悲にも殺されたとは
言い切れない側面も、実は有ったのではないか。
パレスチナでも同様の論理がイスラエル側からは持ち出す事が可能であろう。
イスラエルを非難するためには、少なくとも共存を前提とする勢力が指導的
役割を担う必要があろう。
それにしても、武器が容易に手に入れられ、使用される世界をどうにかする
必要がある。世界の指導者達が本当に平和を望むのであれば、武器商人、
武器製造企業を管理監督する必要がある。
宗主国の国王交替
なんだかアメリカの大統領就任式の報道を見ていてふと、心に浮かんだ
のが、タイトルの、宗主国の国王の交替である。
日本は同盟国という認識は、はたして正確なのか。
単なる属国にすぎないのではないか。
そんな疑問が頭をよぎるのである。
アメリカ合衆国大統領が目指すものは、当然ながら合衆国の国益であり、
それは必ずしもわが国の国益と合致するわけでは無い。
オバマ大統領に何を望みますか、などというばかげた質問をするほうも、
答えるほうもどうかしているのでは無いか。
そんな暇があれば、自国の指導者たるべき麻生太郎首相に要望を
つたえるのが、本来の姿であろう。
自国のことのようにさわぐのは、みずから属国であることを示すようで
何とも無残である。
経済はグローバル化しており、アメリカの政策がわが国に影響を及ぼす
ことは事実であるが、わが国を助けるための政策に期待するのは筋違い
であろう。合衆国の国益のための政策がたまたまわが国の利益になることは
ありえても、いわば副次的効果にすぎない。
現在の状況では、自動車産業、金融機関などで、保護主義的政策が打ち
出される可能性が高い。それは日本の競争力をそぐ結果をもたらすおそれを
含むものである。ヨーロッパはすでに自国の産業を保護し、アメリカに対抗
する手段を整えている。
アメリカの出方を見てからでは遅きに失するのである。
早晩、わが国の総理大臣は、属国の首長の義務として、おおいなる手土産を
持参してワシントン詣を行うのであろう。
朝貢貿易をいったい何時まで続ける事になるのだろうか。
少人数学級に死角は無いか。
またしてもいじめによる自殺と思われる事件が起きたようだ。
これには、現在遂行されている少人数学級のもつ問題点があるような
気がする。
確かに少人数のほうが教員の目が全体に行きわたり、勉強の進捗度
も各生徒ごとに把握できるという利点はあろう。
しかし、少人数の集団特有の問題がありはしないだろうか。
一度いじめが発生していまえば、小集団の内部でこれを解決することは、
ほとんど不可能な状態になりはしないか。
誰かがやめようと切り出さない限り、やめられないと思われるが、
孤立をおそれ、かえって自分が次の標的にされると思えば、なかなか
勇気ある行動は期待できない。
人数が多ければ、全体がひとついの方向に進む可能性は、少人数
の場合よりは少ないのでは無いだろうか。
誰かがいじめをおこなっていても、それがクラス全員によるものへ
発展してしまうおそれは、人数が少ないほど高いと考えられる。
勉強の面でも、たとえば60人がひとクラスの場合、成績最下位は
1名であるが、30人クラス2つだと、成績最下位は2名となる。
人数の多寡を話題とすることなしでは、最下位とされることの悲劇を
倍化させるのでは無いだろうか。
マラソンのように大勢で走れば上位の数名を除き、ほどぼとの成績
とされても、短距離、百メートルのように少人数の場合、その全体
のレベルを無視すれば、1位とビリでは雲泥の差を感じることにもなる。
おとなとの会話に気後れを感じるタイプの子どもは、常に監視され
ているような強迫観念を持つおそれもある。
教室で授業中にボーつとしているのが大好きで、学校でほとんど
口をきくことがなかった私のような少年もいないわけではあるまい。
勉強を優先するとしても、余りに少人数学級とせず、教員の複数化
という手段は検討の余地が無いのであろうか。
私たちの年代では、小学校、中学、高校の同窓会やクラス会が
そろそろ年中行事と化しつつある。
少人数学級では、将来のこうした集まりも実に味気ないのでは
と思う次第である。
公務員制度改革の欠落した視点
自民党内で退職国家公務員の天下り「渡り」を巡って、議論が
行なわれているとの事である。
議論は公益法人等への天下りが繰り返されることを問題としている
ようであるが、どうも焦点がぼけているように感じる。
一度の天下りは良くて、繰り返す「渡り」だけがいけないかの様な
議論は奇妙である。
確かに高齢化時代を迎え、退職公務員も再就職の必要があることは
理解出来る。
しかし退職の理由を問題とすべきではないのか。
上級公務員が、同期が局長、事務次官等に就任すると、定年以前に
自主退職する慣行こそ、天下りの問題点ではないのか。
定年以前に自己都合で離職するならば、自分で次の仕事をさがすのは
民間では当然である。
公務員には手厚い制度上の保護があり、たとえ犯罪の容疑があっても、
民間のように直ちに懲戒解雇とはならない。有罪判決が確定するまでは
居座ろうと思えば可能なのである。
中国の故事では 罪士太夫に及ばず という言葉がある。
これは疑われたことだけでも恥として自済、自決する清廉さゆえの言葉
である。
民間では、上司より年長の部下がいることは、当然のことであるが、
公務員社会は、これとことなる慣行を続けていることにこそ焦点をあて、
定年まで勤務する上級公務員の制度、慣行を確立するよう促すのが
まず第一の方策であろう。
天下り先確保のため無用な公益法人をやたら多数用意している現状
も改善が遅々として進んでいない。
民間企業への天下りは、官公庁との癒着のおそれが多く、談合の温床
なのは夙に知られた事実である。
公務員の能力は、失礼ながら、利益獲得を主たる目的とする企業では
無用の能力であり、出身官庁とのパイプ以外の能力はその有無が
疑わしい。
所詮、官僚主導の公務員改革には期待できないと諦めるしかないので
あろうか。
格差から階級、階層の固定化へ
日本経済新聞の1月14日経済教室で、国立社会保障・人口問題研究所
の阿部彩さんが、子どもの貧困について書かれている。
日本の相対的貧困率は、おとなも子どもも共通して、14~15%と低く、
子どもの学力は、父母の学歴が高く、社会階層が高いほど、高いのは
ある意味で当然の結果であろう。
大人の収入格差は、その子弟に対して支出可能な教育関連費用に直ちに
影響する。
収入格差に基づき階層化が進展し、支配階級と被支配階級が出現する。
問題はこれらの、社会階層、社会階級が固定化され、身分社会を出現
させる事である。
いくら努力をしても報われる事のない社会を、青少年は歓迎するであろうか。
努力が報われるのは、いまやスポーツの世界だけともいえるが、それさえも
本人の能力のほかに、立派な練習環境が必要となっている。
才能だけでは、十分とは言えないのである。
企業がスポーツへの支援を打ち切りつつある現状では、スポーツさえ
努力の仕様が無くなりつつある。
この閉塞感を打破しないことには、どんな少子化対策も有効足り得ない。
税制上の優遇や、多少の交付金で事足れりというのは、自らの子弟に
十分な教育資金を提供できる、雇用、収入の安定している公務員の
発想にすぎないのでは無いだろうか。
★緊急告知★ ウイルス侵入か
昨日から、私自身のブログにアクセスすると、ウイルスバスター
が、スパイウェアの潜むおそれがあると警告を発するように
なっています。ブラウザのウインドを閉じてこのWebサイトを
開かないように、との警告です。
今日、コメントをくださった方のペーシ゜を覗こうとしたところ
同じ警告が出ました。
理由が判らないので、とりあえず皆様に報告しておきます。
私は3,4重のウイルスチェックをかけています。