停戦は終戦にあらず。 | 橘 白扇 のひとりごと

停戦は終戦にあらず。

パレスチナ自治区ガザ地区のイスラエルとハマスの戦闘はどうやら

停戦を迎えるようである。


武力に勝るイスラエルによって、バレスチナ人側に多大な死傷者が発生

した。

これは、ある意味では当然の結果といえよう。いかに勝れた武器が存在

しても、無抵抗な人々を選別し、これを避けて攻撃することは不可能だから

である。

しかも単発式の銃器では無く、広範囲に対する攻撃を目的とする兵器が

使用されれば、その有効範囲に含まれる全ての人間に被害が及ぶことは

自明の真理である。


イスラエルとパレスチナの争いはほぼ人類の歴史の創世記にまで遡る

ほどの歴史があり、ことに第二次世界大戦終結後、イスラエルの建国

から今日にいたるまで、何度と無く武力衝突を繰り返している。


ハマス(イスラム抵抗運動)がイスラエル殲滅を掲げている以上、

イスラエルとしては座して死を待つことも出来ない。少なくとも共存のうえで

、お互いの利益を図るものでなければ容認することは、今後ともないであろう。


如何にハタハがパレスチナ人の、ガザ地区内での生活に資するとしても、

イスラエルにとって脅威であることに何ら変化は無い。


無抵抗な子ども、女性の被害といった現実のみを見て、いわば安っぽい

ヒューマニズムで停戦をはかっても、根本的な解決にいたる筈も無く、

徒に事態の悪化を放置するこことなる。

少なくとも停戦期間には、お互いが更なる軍備増強を図るであろうことは

想像に難くない。



ふりかえって、わが国の近代史を見れは、1938年(昭和13年)に

国家総動員法が制定され、戦時の国防目的達成のため、人的、物的

資源を総動員する事となった。

これを当時の対戦国からせ見れば、日本人の全てがいわば、戦闘員で

あったとも言えよう。何の罪もない国民が無慈悲にも殺されたとは

言い切れない側面も、実は有ったのではないか。


パレスチナでも同様の論理がイスラエル側からは持ち出す事が可能であろう。

イスラエルを非難するためには、少なくとも共存を前提とする勢力が指導的

役割を担う必要があろう。



それにしても、武器が容易に手に入れられ、使用される世界をどうにかする

必要がある。世界の指導者達が本当に平和を望むのであれば、武器商人、

武器製造企業を管理監督する必要がある。