かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ -15ページ目

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2020年10月31日(土)19:00開演のProject=A Night of Parricides『親殺したちの夜』についての劇評です。



 この作品はキューバの脚本家ホセ・トリアーナの作品を本庄亮の演出によって上演されものだ。五角形の壁を梱包用ビニールで巻いてあるテントのようなセットが兄妹たちの住まいだ。長男・ラロ(田中祐吉)、長女・クカ(下條世津子)、次女・ベバ(古林絵美)のメイクは白塗りでピエロのように模様が描かれている。部屋の中央にある低いテーブルの上には小さな椅子がいくつか乗っている。クカがその椅子を床に置くと、ラロはこの家では椅子はテーブルの上に置くのだと言って元の位置に強引に戻す。ベバは2人のやり取りを面白がって、真ん中に立つ柱にいろんなものを掛けていく。一見遊んでいるかのようなやり取りの中で、ラロは両親を殺したと妹たちに伝える。
 彼は両親を殺すに至った自分の境遇を物語の中で明らかにしていく。彼の年齢は30歳。ナイフで40回刺して両親を殺した。親には何かというと怒られ殴られた。やっていないことでムチを打たれたこともあった。仕事も学校も行かない放蕩息子だと罵られた。両親にいつも付きまとわれ追い詰められていた。私は「そっとしてくれる時間がなかった」というセリフにこれは典型的な虐待だと感じた。こういう親にはどんなに気に入られようと努力しても無駄に終わる。ラロが彼らを「やっちまうしかない」と思ったのは当然だろう。
 殺された両親はどんな人だったのか。クカが母になり代わって夫アルベルトへの不満をぶちまける。結婚式には彼の親戚は誰も来なかった。彼の母親はずるがしこい人だった。夫は子どもみたいな人で気持ちを汲んではくれなかった。自分は子どもが欲しくなかったのに、彼は子どもを欲しがった。そのせいでラロという「怪物」を産み落としてしまった。彼女の夫への不満は子どもという弱者に向かう。死んでくれたらいいのにという言葉を発している。
 クカとバベはラロの妹だ。クカについては他の二人に比べて目立った行動もなく情報が少ない。年齢も明らかにされない。ベバは20歳。子どもの頃からいわゆる問題行動が多い。自分に下半身を見せるラロの真似をして街なかでゴロツキたちに下着を見せたり、お漏らしをしたり、トイレの場所を勝手に決めたり、親としては手を焼く行動だ。だが母親はバベのことをラロのように激しく咎めている様子はなかった。
 親殺しの罪でラロは裁判にかけられる。家の回りを囲っていたビニールが順番に断ち切られ、外と内との境目がなくなる。ラロはバベが演じる裁判官に責められ同じくバベが演じる傍聴人たちにも責められる。両親の過干渉による虐待によって内にこもっていたラロが、突然外に放り出され他人からの圧力にさらされる。おそらく、ラロにとって初めての経験だ。ラロは下手の奥の薄暗い場所にあるベンチに座り、両親に対して愛していると叫ぶ。愛していると伝えるのは、相手から愛されていることを知りたいときだ。パパとママを殺したけど愛している。僕に殺されたけど彼らは僕を愛している。両親の暴力を受け続けたラロは、両親に愛されていると思いたかったのではないだろうか。
 家であり裁判所であったテントのようなものは、最後に支柱と屋根が残った。それらをまとめてバベが倒していく。そしてクカに向かって大人びた口調で「どう?気分は」と問いかける。彼女からそれまであった子どもっぽさは消えていた。問われたクカは「スッキリした」と答える。公演のチラシによると、三人の兄妹は「ゲーム」を演じていた。クカに対する描写が極端に少なかったのは、彼女が作・演出をした家族の再現だったからだ。
 クカは兄を救いたかったのかもしれない。自分と両親の距離に比べてラロと両親の距離が近いことに気づいていただろう。近いからこそ暴力が介在しやすく、親に支配されやすい。外の世界を知らないラロはそこから逃げたり離れたりする発想は考えもしないだろう。そこでラロに「親殺し」を演じさせるのだ。「親を殺す」とは親離れして大人になることだ。大人になるために実際に親を殺す人は少ない。クカはラロに大人になる道筋を作った。彼女にとってこれはラロを幸せにする物語だったのかもしれない。


(以下は更新前の文章です)



 四方の壁を梱包用ビニールで巻いてあるテントのようなセットが兄妹たちの住まいだ。長男・ラロ(田中祐吉)、長女・クカ(下條世津子)、次女・ベバ(古林絵美)のメイクは白塗りでピエロのように模様が描かれている。部屋の中央にある低いテーブルの上には小さな椅子がいくつか乗っている。クカがその椅子を床に置くと、ラロはこの家では椅子はテーブルの上に置くのだと言って元の位置に強引に戻す。ベバは2人のやり取りを面白がって、真ん中に立つ柱にいろんなものを掛けていく。一見遊んでいるかのようなやり取りの中で、ラロは両親を殺したと妹たちに伝える。
 彼は両親を殺すに至った自分の境遇を物語の中で明らかにしていく。彼の年齢は30歳。ナイフで40回刺して両親を殺した。親には何かというと怒られ殴られた。やっていないことでムチを打たれたこともあった。仕事も学校も行かない放蕩息子だと罵られた。両親にいつも付きまとわれ追い詰められていた。そっとしてくれる時間がなかった。ラロは彼らを「やっちまうしかない」と思った。彼はただ普通に生きるために両親を殺したと言った。
 殺された両親はどんな人だったのか。クカが母になり代わって夫アルベルトへの不満をぶちまける。結婚式には彼の親戚は誰も来なかった。彼の母親はずるがしこい人だった。夫は子どもみたいな人で気持ちを汲んではくれなかった。自分は子どもが欲しくなかったのに、彼は子どもを欲しがった。そのせいでラロという「怪物」を産み落としてしまった。彼女の夫への不満は子どもという弱者に向かう。死んでくれたらいいのにという言葉を発している。
 クカとバベはラロの妹だ。クカについては目立った行動もなく情報が少ない。年齢も明らかにされない。ベバは20歳。自分に下半身を見せるラロの真似をして街なかでゴロツキたちに下着を見せたり、お漏らしをしたり、トイレの場所を勝手に決めたり、このエピソードがすべて20歳時点での行動かどうか分からないが、親としては手を焼く行動だ。母親はバベの行動に困っているようだったが、ラロのように激しく咎められている様子はなかった。
 親殺しの罪でラロは裁判にかけられる。ラロたちが住んでいた家は手前のビニールがベバによって裁ち切られて、その場所は裁判所に早変わりした。ラロはバベが演じる裁判官に責められ同じくバベが演じる傍聴人たちにも責められる。裁判が進むにつれて残りの三方のビニールも順番に切り裂かれて外との境界がなくなっていった。ラロは下手の奥の薄暗い場所にあるベンチに座り、両親に対して愛していると叫ぶ。愛していると伝えるのは、相手から愛されていることを知りたいときだ。パパとママを殺したけど愛している。僕に殺されたけど彼らは僕を愛している。両親の暴力を受け続けたラロは、両親に愛されていると思いたかったのではないだろうか。
 家であり裁判所であったテントのようなものは、最後に支柱と屋根が残った。それらをまとめてバベが倒していく。そしてクカに向かって大人びた口調で「どう?気分は」と問いかける。彼女からそれまであった子どもっぽさは消えていた。問われたクカは「スッキリした」と答える。公演のチラシによると、三人の兄妹は「ゲーム」を演じていた。クカに対する描写が極端に少なかったのは、彼女が見た家族の再現だったからだ。クカは兄を救いたかったのかもしれない。自分と両親の距離に比べてラロと両親の距離が近いことに気づいていただろう。近いからこそ暴力が介在しやすい。そこでラロに「親殺し」を演じさせるのだ。クカにとってこれはハッピーエンドの物語だったのかもしれない。
この文章は、2020年10月31日(土)19:00開演のProject=A Night of Parricides『親殺したちの夜』についての劇評です。

金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたProject=A Night of Parricides『親殺したちの夜』(作:ホセ・トリアーナ、構成・演出:本庄亮)は、兄ラロ(田中祐吉)と2人の妹クカ(下條世津子)、ベバ(古林絵美)が親殺しのゲームに耽ることで抑圧的な両親への鬱憤を晴らすという内容だった。舞台上にはサーカスのテント小屋みたいなセットが設置されている。中央の一番高い主柱から四隅の支柱へ向かって透明なビニールの覆いを斜めに張り渡し、屋根代わりとした。支柱から支柱へは透明なサランラップをぐるりと巻き付け、周囲の壁に見立てている。内部には机や椅子、灰皿、花瓶などの家財道具が置かれているが、通常よりもサイズが小さいため、ままごとのオモチャらしくも見えた。

30歳のラロが今夜も親殺しのゲーム開始を宣言し、真面目な性格のクカや20歳の末っ子ベバも巻き込んでいく。ラロの殺人が発覚するや、新聞に事件の記事が掲載されたり、逮捕されたラロが裁判にかけられたり、と芝居は続く。3人でさまざまな役を演じ分けながらストーリーが展開する。さらに殺されたはずの両親が証言台に立ち、過去の苦労や内緒にしていた罪を告白したりする。母は綺麗な赤い服ほしさに戸棚にしまっておいたお金を持ち出すが、ラロが盗んだことにした。おかげでラロは父親からこっぴどく鞭打たれてしまった、などのエピソードも次々と明るみに出されていく。

この物語の面白さは、大衆の好奇心をそそる刺激的なドラマと見せかけつつ、実は関係者の弁解や裁判の証言などを通じて5人家族の平凡でかけがえのない日常生活が次第に浮き彫りにされていく過程だと思う。しかし、今回の上演では、役者たちがピエロみたいな白塗りのメークを施している時点で、最初からファンタジーの世界を描いているように感じられた。登場人物がゲームを中断してふと素顔に戻った時も、ずっとフィクションの中にいるようだった。その結果、幼い頃に虐待されたアダルト・チルドレンたちが、ひきこもりの現状を変えたいにもかかわらず、妄想の中で堂々巡りを続け、異常にテンションの高い親殺しの儀式をひたすら繰り返す姿ばかりが印象に残った。それもまた、この戯曲の一面ではあるのだが。

原作の戯曲(翻訳:佐竹謙一/水声社刊「ラテンアメリカ現代演劇集」収載)を読んでみると、兄妹たちは実際には父も母もいる家の中で、彼らの目を盗みながら屋根裏部屋あるいは地下室で親殺しの芝居を演じているのだった。ラロの暴君ぶりに耐えかねたクカが、母親に言い付けに行くそぶりを見せるなど、親たちにいつバレるかわからないスリリングな状況でゲームは繰り広げられていた。

戯曲の中にこんなセリフがあった。

クカ「パパとママはいつだって兄さんに気を配り、愛していたことは事実よ」
ラロ「あんな風な愛情なんてまっぴらさ。彼らにとってみれば、おれの存在なんて生身の人間だってことを除けば、何だってよかったんだ」(p65)

ここでは両親が彼らなりの方法でラロを愛しており、彼自身もそれを認めている。しかし、その愛し方が気に入らないと文句をつけているのだ。また、彼は裁判ごっこの中で、両親を殺した動機について、次のように口述する。

ラロ「自分としては(中略)あたりまえの人生を送りたかっただけです。(中略)ずっと自分一人で行動することを望んでいたんです、必死の思いでそう願っていたんです」(p96)

ラロ「自分はわかってました、あの人たちが与えてくれた人生は普通の生き方ではなかったってことを、またそうなりえないってこともね。それで自分にこう言い聞かせました、『普通の生活を送りたければ、やるしかない……』と」(p98)

単純に暴力的な抑圧が問題なのではなく、生き方に関する価値観の違いから殺意が生じており、これはもう解決策はどこにもないような気がした。

私自身、すでに父母を亡くしているにもかかわらず、今だに時折り「親を殺したい」と呪うことがある。今回、キューバの作家が1964年に書いたこの戯曲を読み、同じことを考える人がいたと驚かされた。私を産んでくれたことには感謝するが、なぜこうもイケメンでないのか?もっと天才的に、もっとスポーツ万能に育ててくれなかったか……等々、不満や言いたいことは山ほどもある。すべては私の劣等感を誰かのせいに転嫁したいだけなのだが。

今回の上演における解釈は「親殺し」というタイトルのイメージに引きずられ過ぎたのではないだろうか。どうにか苦労しながら生きてきた家族の歴史や子どもたちがそれでもやはり親を愛していることなど、戯曲がはらんでいる豊かなニュアンスを生かしきれなかったのは残念だと思う。
この文章は、2020年10月24日(土)19:30開演のProduce Unit 数寄屋道楽『米原ー金沢』についての劇評です。

「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」の一環として金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたProduce Unit 数寄屋道楽『米原ー金沢』(作・演出:兵藤友彦)は、特急列車「しらさぎ」号を舞台にさまざまな人間模様を描く作品だった。左右2列ずつのパイプ椅子が並べられ、計7人の乗客が登場する。静かな車内には、音響効果による走行音が絶えず流れている。それに合わせて役者たちも休みなく体を左右に揺れさせる。やがてそれぞれが自分の身の上話をポツリポツリと呟く。今回の作品では、モノローグによって物語を進行させていく手法を採用しており、現代的なリアリティーを感じさせる。全員が座っているので、動きが少ない点では単調だ。しかし、電車の振動という非日常的な身体感覚を巧みに生かすことにより、普段は隠している心の声をさらけ出してもおかしくないような場を作り上げていた。

私もよく電車の旅に出かけるが、席に座ってしまえば、特にやることもない。そんな時に限って、だいぶ昔のどうでもいいような記憶が、心の奥底からいきなりヒュッと浮かび上がって来て、自分でも困ってしまうことがある。何であんなことをしてしまったのかと後悔したり、あれきり会っていない人は今でも元気にしているかと妙に気になったり……。心地良い揺れに身を委ね、規則正しいリズムを聞いていると、家から離れた気安さも手伝って、知らず知らず心の警戒も緩んでしまうのかもしれない。

乗客たちはさまざまな事情を抱えている。幼い頃にいじめられていた介護士(長山裕紀)は、仕事で信頼された自信を胸に久しぶりの福井へと帰って行く。かつて学生運動で挫折した71歳の年金生活者(新保正)は、50年ぶりの同窓会で旧友との再会を楽しみにしている。銀行員である父の都合で自分の気持ちとは無関係に転校を余儀なくされて来た女性(清水万鳳)は、ようやく自らの意志でエステティシャンという仕事と結婚相手を見つけ、今度こそ両親に会って自分らしさを認めてもらいたいと願っている。金沢の税理士(井口時次郎)は、地元に育てられたと感謝しながら、一方ではぬくぬくとした日常を嫌悪しており、ささやかな悪事で心のバランスを保っている。彼と連れ立って女を買いに行くことになった飲み友達(春海圭佑)は、離婚後に自分を慕ってくれていた子供を引き取れずに苦しんだ過去を思い返していた。

未来への希望とやり切れない思い出をないまぜにしたような車内で、一組だけ、現在進行形の問題に直面している男女がいた。米原から乗り込んだ関家(関家史郎)と彼を追って松山から来た吉野(吉野佳子)だ。男が飲みかけのペットボトルを渡すと、吉野は口をつけて茶を飲んだ。そんな二人のただならぬ関係が女の上司である部長の耳にも入っていると聞き、つい声を荒げてしまう関家。周囲の客たちも一斉に振り返る。月に一度、彼が四国へ出張した際には取引先の事務員である吉野のアパートに泊まる間柄だった。それにしても、彼女がなぜ、仕事を休んでここにいるのか。しかも会社の金庫から持ち出した五千万円をカバンに詰めて。思い余った関家は「奥さんと別れて、なんて言わないよね?それだけはやめてほしい」と必死で頭を下げる。だが、吉野は無表情だ。席を立ち、列車のデッキ(舞台前方)へ出て来て一息つく。彼女は何を考えているのだろうか。関屋と結婚したい?それとも、彼との関係を清算したい?矛盾した感情が整理されないまま、上気した頬の後ろで渦巻いているように感じられた。

加賀温泉駅に停車する間、男は彼女のカバンだけ抱えて逃げようとしたが、途中で足が止まり、列車は再び動き出す。追い詰められた鼠のような関家。その時、埃っぽい通路に落ちていたレモンを見つけ、拾い上げた。目を閉じて、甘酸っぱい匂いを嗅いでみる。彼の表情は、吉野の魅力に溺れていたこの6年間を振り返り、後悔するようにも見えた。次の瞬間、しわがれた声で男性ジャズシンガーが歌い出したブルースを合図に、回想シーンが始まる。ホリゾント(背景)を照らす赤い光の中で、乗客たちの姿がシルエット気味に浮かび上がり、各自のトラウマとなっている動作をパントマイムで何度も強迫神経症的に繰り返す。それらは自らの執着によって作り出した地獄の業火に焼かれている者たちのようでもあった。関屋は彼らの様子を呆然と見回すのだが、一方で今日これから自分に降りかかるひどい事態がトラウマとなり、彼自身もフラッシュバックに苦しむ者たちの仲間になるかもしれないと予感しているようにも私には思えた。

現実の車内に戻り、金沢まであと4分、のアナウンスが流れる。彼の妻が金沢駅で美味しいものでも食べようと迎えに来ているというのに、不倫の女は目をつむって関家の肩へとしなだれかかったままだ。ついに金沢、金沢とアナウンスが連呼される。乗客たちは降りて行く……。その先の展開は、見た者一人ひとりの想像力に任されている。関屋が拾い、再び通路に投げ出して行ったレモンだけが、残酷な甘酸っぱさを放っているようだった。

(以下は改稿前の文章です。)

(劇評)「レモン爆弾が炸裂する4分前」原力雄

「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」の一環として金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたProduce Unit 数寄屋道楽『米原ー金沢』(作・演出:兵藤友彦)は、特急列車「しらさぎ」号を舞台にさまざまな人間模様を描く作品だった。左右2列ずつのパイプ椅子が並べられ、計7人の乗客が登場する。静かな車内には、音響効果による走行音が絶えず流れている。それに合わせて役者たちも休みなく体を左右に揺れさせる。やがてそれぞれが自分の身の上話をポツリポツリと呟く。今回の作品では、こうした独り言のようなモノローグによって物語を進行させていく手法を採用しており、現代的なリアリティーを感じさせる。もはや列車に乗り合わせただけの他者と何らかの価値ある対話を成立させることは不可能だろうから(大声で喋ると怒られたりもする)。全員が座っているので、動きが少ない点では単調だ。しかし、電車の振動という非日常的な身体感覚を巧みに生かすことにより、普段は隠している心の声をさらけ出してもおかしくないような場を作り上げていた。

私もよく電車の旅に出かけるが、席に座ってしまえば、特にやることもない。そんな時に限って、だいぶ昔のどうでもいいような記憶が、心の奥底からいきなりヒュッと浮かび上がって来て、自分でも困ってしまうことがある。何であんなことをしてしまったのかと後悔したり、あれきり会っていない人は今でも元気にしているかと妙に気になったり…。心地良い揺れに身を委ね、規則正しいリズムを聞いていると、家から離れた気安さも手伝って、自分の心の裏側をつい覗き込んでしまうのかもしれない。

乗客たちはさまざまな事情を抱えている。幼い頃にいじめられていた介護士(長山裕紀)は、仕事で信頼された自信を胸に久しぶりの福井へと帰って行く。かつて学生運動で挫折した71歳の年金生活者(新保正)は、50年ぶりの同窓会で旧友との再会を楽しみにしている。銀行員である父の都合で転校を繰り返してきた女性(清水万鳳)は、ようやく自分の力でエステティシャンという仕事と結婚相手を見つけ、今度こそ両親に会って認めてもらいたいと願っている。金沢の税理士(井口時次郎)は、地元に育てられたと感謝しながら、一方ではぬくぬくとした日常を嫌悪しており、ささやかな悪事で心のバランスを保っている。彼と連れ立って女を買いに行くことになった飲み友達(春海圭佑)は、離婚後に自分を慕ってくれていた子供を引き取れずに苦しんだ過去があった。

未来への希望とやり切れない思い出をないまぜにしたような車内で、一組だけ、今まさにじっとりと手を汗ばませているような男女がいた。米原から乗り込んだ関家(関家史郎)と彼を追って松山から来た吉野(吉野佳子)だ。男が飲みかけのペットボトルを渡すと、吉野は口をつけて茶を飲んだ。そんな二人のただならぬ関係が女の上司である部長の耳にも入っていると聞き、つい声を荒げてしまう関家。周囲の客たちも一斉に振り返る。月に一度、彼が四国へ出張した際には取引先の事務員である吉野のアパートに泊まる間柄だった。それにしても、彼女がなぜ、仕事を休んでここにいるのか。しかも彼女のカバンには会社の金庫から持ち出した五千万円が入っている。思い余った関家は「奥さんと別れてなんて言わないよね?それだけはやめてほしい」と必死で頭を下げる。だが、女は動じる様子がない。一息吐くために席を立ち、列車のデッキ(舞台前方)へ出てきた吉野の上気した頬が美しい。

加賀温泉駅に停車する間、男は彼女のカバンだけ抱えて逃げようとしたが、途中で足が止まり、列車は再び動き出す。追い詰められた鼠のような関家。その時、埃っぽい通路に落ちていたレモンを見つけ、拾い上げる。甘酸っぱい匂いと鮮やかな色彩。6年前に出会った頃の27歳だった吉野が思い出される。当時も今も、彼女は男にとってレモンそのものなのだった。金沢まであと4分、のアナウンスに緊張感は高まる。彼の妻が金沢駅で美味しいものでも食べようと迎えに来ているのに、女は眠ったふりして関家の肩へとしなだれかかったままだ。

梶井基次郎の有名な小説「檸檬」では、書店の棚で乱雑に積み重ねた画本の上に「時限爆弾」と見立てたレモンを置いて立ち去る主人公が出てくる。それは間もなく気付いた店員や他の客たちを驚かせたはずだ。今回の作品でも、作者によって仕掛けられたレモンは、金沢へ着き次第、炸裂するであろう。そんな幻想が目の前にありありと見えた。関屋の安穏な日常は吹き飛ばされる。もはやジタバタしても、逃れようがない。彼はしばらく虚空を睨みつけた後、観念したように吉野の横顔を眺めている。このきれいな女を捨てることができるのか、と私は気を揉む。金沢、とアナウンスが連呼される。乗客たちは降りて行く…。その先がどうなったかは、見た者一人ひとりの想像力に任された。そして、今日もしらさぎ号は無数のドラマを乗せて走り続けている。
この文章は、2020年10月24日(土)19:30開演のProduce Unit 数寄屋道楽『米原ー金沢』についての劇評です。

 パイプ椅子が整然と並べられていた。上手側に2席×6列、通路を開けて、下手側に2席×5列。『米原ー金沢』(脚本・演出:兵藤友彦)という、この芝居のタイトルが表すように、列車内を模している。舞台に置かれている物はこの椅子だけだ。客入れ時から、上手の、客席から見て最後列に男(長山裕紀)が一人座っている。最前列には、小さなハンドバッグが置いてある。やがてハンドバックの所に女(清水万鳳)がやってくる。その後、男(新保正)が一人、下手側の座席の前から2列目に座る。しばらくして発車のベルが鳴り響く中、黒いスーツ姿の男、関家(関家史郎)が車内に飛び込んでくる。その後に続く黒いスカートの女(吉野佳子)。彼は彼女を窓際の席に座らせると、自分も隣に座る。列車が動き出し、車内アナウンスが流れる。静かな車内で、人々は振動に揺られている。そこに、大きな声で喋る男(井口時次郎)と、もう一人の男(春海圭祐)が車両を移動してくる。

 男女二人組と、男性二人組は、それぞれ話しあうことがあるが、乗客達は皆、その他の乗客と直接関係することはない。一人で乗っている者は、ただ黙って到着を待つ。長い乗車時間にすることもなく、彼らはそれぞれ、様々なことに思いを馳せる。劇中で彼らが発する言葉は、そんな心の内を表現した独白である。

 特急列車に長時間乗ったことのある人なら、このような環境においてぼんやりと考え事をしてしまう状態になることがわかるのではないだろうか。とりとめのない思いが浮かんでは消えるその時間は、生産性のない無駄な時間であるかもしれない。しかし、その緩やかな時間の中で、人は少しずつ自分を変えていく。列車に乗った時の自分から、列車を降りる時の自分へ。彼らはそれぞれに思い浮かべる。自分が向かう場所のこと、自分の今について、過去について、これからについて。思いを巡らせることで、何か明確な答えが欲しいわけではない。ただ、各々の乗客達が列車に乗るまでに動き回ってきた間で、自分の中に溜まった情報と感情を整理したい気持ちはあるのではないか。

 登場人物の中でも、男女の二人組が何やら訳あり気に見える。二人は取引関係にある会社の社員だ。関家は四国地区を統括しており、金沢から松山へ頻繁に出張している。女は松山で勤めている。女はボストンバッグを持っているのだが、その中には現金が詰まっている。会社の金庫から横領してきたらしい。どこか挙動不審な彼らは不倫関係にあることが、モノローグを重ねることでわかってくる。なぜ横領したのか。そしてなぜ自分を追ってきたのか。彼女の心のうちは語られたとしても、関家との思い出に関するものばかりで、行動の理由は最後まで明かされない。

 謎はもう一つある。二人組のうちの一人、声の大きな男が突然、レモンを一つ取り出す。それは何かと同行者に尋ねられると彼は、お守りだと返す。だがしばらく後に、レモンを彼は通路にぽとりと落とす。そのレモンに気付いた関家は、恐る恐る近づくとレモンを手に取る。その瞬間、車内が赤い光に包まれる。そして乗客達の思い出の場面が、乗客それぞれによって繰り返し再現される。何度も何度も繰り返される、彼らの心に引っかかっている場面。それらをただ眺めることしかできない関家。レモンは彼に何を為したのか。半密閉空間である車内では、空気の完全な入れ替えはできない。いくらかぬるくなった風な空気が車内には漂っていただろう。そんな現実の空気と同じように、乗客達が囚われている思い出の場面も、もやもやと色濃く彼らの脳内に渦巻いていたことを、レモンが関家の頭の中に可視化したのではないか。行き場のない思いを、関家も、他の乗客達も抱えていた。その重い空気を凝縮するきっかけになったのが、もやもやとした空気とは対称的な、レモンの爽やかな芳香だったのではないか。

 関家が我に返った後も、列車は走り続けていく。そして終点である金沢に着く。ここが目的地である者もいれば、ここから先へ向かう者もいる。たった2時間弱乗り合わせただけの、もう二度とすれ違うことはないだろう乗客達。数え切れない人とすれ違い、そのほとんどの人について何も知ることはできずに、それぞれが自分の目的地を目指して進んでいく。その、知られるはずのなかった誰かの思いを垣間見ることができる機会のひとつが、演劇だ。誰かが何かを思いながら生きていること、そして自分もそうであること。しばし確認して、少しの共感を覚えたり、反感を持ったりもするかもしれない。たとえ、終演すれば頭から消えてしまうとしても。そのたった一時を作るための時間が、『米原ー金沢』だった。


(以下は更新前の文章です)


 パイプ椅子が整然と並べられていた。上手側に2席×6列、通路を開けて、下手側に2席×5列。『米原ー金沢』(脚本・演出:兵藤友彦)という、この芝居のタイトルが表すように、列車内を模している。舞台に置かれている物はこの椅子だけだ。客入れ時から、上手の、客席から見て最後列に男、長山(長山裕紀)が一人座っている。最前列には、小さなハンドバッグが置いてある。やがてハンドバックの所に女、清水(清水万鳳)がやってくる。その後、男、新保(新保正)が一人来て、下手側の座席の真ん中辺りに座る。しばらくして、発車のベルが鳴り響く中、黒いスーツ姿の男、関家(関家史郎)が車内に飛び込んでくる。その後に続く黒いスカートの女、吉野(吉野佳子)。彼は彼女を窓際の席に座らせると、自分も隣に座る。列車が動き出し、車内アナウンスが流れる。静かな車内で、人々は振動に揺られている。そこに、大きな声で喋る男、井口(井口時次郎)と、もう一人の男、春海(春海圭祐)が車両を移動してくる。

 男女二人組と、男性二人組は、それぞれ話しあうことがあるが、乗客達は皆、その他の乗客と直接関係することはない。乗客がまばらな車両ではあるが、それでも公共の場。人目を気にしながら過ごさねばならない。特に一人で乗っている者は、ただ黙って到着を待つのみである。新保は時折、本を広げたりなどしていたが。長い乗車時間に行うこともなく、彼らはそれぞれ、様々なことに思いを馳せる。劇中で彼らが発する言葉は、そんな心の内を表現した独白である。

 特急列車に長時間乗ったことのある人なら、このような環境においてぼんやりと考え事をしてしまう状態になることが、わかるのではないだろうか。とりとめのない思いが浮かんでは消えるその時間は、生産性のない無駄な時間であるかもしれない。しかし、その緩やかな時間の中で、人は少しずつ自分を変えていく。列車に乗った時の自分から、列車を降りる時の自分へ。
 彼らはそれぞれに思い浮かべる。自分が向かう場所のこと、自分の今について、過去について、これからについて。思いを巡らせることで、何か明確な答えが欲しいわけではない。ただ、列車に乗るまでに動き回ってきた間に、自分の中に溜まった情報と感情を、整理したい気持ちはあるのではないか。

 登場人物の中でも、男女の二人組が何やら訳あり気に見える。二人は同じ会社の社員だ。関家は四国地区を統括しており、金沢から松山へ頻繁に出張している。吉野は松山で勤めている。どこか挙動不審な彼らは不倫関係にあることが、モノローグを重ねることでわかってくる。女はボストンバッグを持っているのだが、その中には現金が詰まっている。会社の金庫から吉野が横領してきたらしい。なぜそのようなことをしたのか。そしてなぜ自分を追ってきたのか。関家には吉野の行動がわからない。彼女の心のうちは語られたとしても、関家との思い出に関するものばかりで、行動の理由は最後まで明かされない。

 謎はもう一つある。井口が突然、レモンを一つ取り出す。それは何かと春海に尋ねられると井口は、お守りだと返す。だが、そのお守りであるレモンを、井口は通路にぽとりと落とす。そのレモンに気付いた関家は、恐る恐る近づくと、レモンを手に取る。その瞬間、車内が赤い光に包まれる。そして乗客達の思い出の場面が、乗客それぞれによって繰り返し演じられる。何度も何度も繰り返される思い出の場面。それらをただ眺めることしかできない関家。レモンは彼に何を為したのか。
 半密閉空間である車内では、空気の完全な入れ替えはできない。いくらかぬるくなった風な空気が車内には漂っていただろう。そんな現実の空気と同じように、乗客達が頭に思い浮かべていた場面も、もやもやと色濃く車内に渦巻いていたことを、レモンが関家の頭の中に可視化したのではないか。行き場のない思いを、関家も、他の乗客達も抱えていた。その重い空気を一新する前に凝縮してみせたのが、レモンの爽やかな芳香だったのではないか。

 関家がレモンの幻影から我に返った後も、列車は動き続けていく。そして終点である金沢に着く。ここが目的地である者もいれば、ここから先へ向かう者もいる。たった2時間弱乗り合わせただけの、もう二度とすれ違うことはない乗客達。
 数え切れない人とすれ違い、そのほとんどの人について何も知ることはできずに、それぞれが自分の目的地を目指して進んでいく。その、知られるはずのなかった誰かの思いを垣間見ることができる機会のひとつが、演劇だ。誰かが何かを思いながら生きていること、そして自分もそうであること。しばし確認して、少しの共感を覚えたり、反感を持ったりもするかもしれない。たとえ、終演すれば頭から消えてしまうとしても。そのたった一時を作るための時間が、『米原ー金沢』だった。
この文章は、2020年10月25日(日)11:00開演、Produce Unit数寄屋道楽『米原ー金沢』についての劇評です。



 開演時刻5分前に劇場に入るとパイプ椅子が並べてあった。チラシによると特急しらさぎの車内に見立てたもので、左の列は5列、右の列は6列ある。左の前から2列目窓側に男性が一人、右側の6列目通路側に男性が一人すでに座っていた。しばらくして右側1列目に女性が慌ただしく一人乗り込んできた。汗を拭いたり、窓側に座ったり通路側に移動したり、ずっと落ち着きがない様子だ。その後、二人の男性と、一組の男女が加わった。最終的にこの車両は7人の乗客を乗せて米原を出た。
 7人は同行者以外と会話をすることはなく、それぞれのモノローグで彼らの心の内を知ることができる。トキちゃん(井口時次郎)・ケイちゃん(春海圭佑)の2人組みは飲み屋での知り合いだ。「女を買いに行く」ために米原発のしらさぎに乗車することになった。トキちゃんは昔からの人脈で仕事をしている。地元なので目立つことはできない。その窮屈さを「女を買いに行く」ことで憂さを晴らす。ケイちゃんは離婚した相手の元にいる子どもに愛情は感じているが引き取って育てるほどの自信がないことに罪悪感を持っていた。そこへトキちゃんから「女を買いに行く」事を誘われたのだ。
 同人誌即売会に参加した帰りにこの列車に乗った男性(長山裕紀)は、自分が原因で両親と共にハバ(村八分)にされるという辛い少年期を小さな村で過ごした。彼は中学卒業後にその村を離れ、今は休みの日は趣味を満喫し、職場では利用者たちに頼られていると実感できる生活を送っている。彼はこの車両でただ一人、終点まで行かずに途中で降りる。
 1列目の女性(清水万鳳)も希望が持てた。彼女は転勤の多い父親と社宅という狭い世界で生きている母親の強い思いに振り回されていた。高校卒業後、浪人したのち自分で選んだ職業に就くも、親からは否定的な言葉を掛けられていた。両親に結婚の挨拶をしたいという彼より前に一人で親に会いに行くのは今度こそ否定されたくないという思いがあってのことだろう。ただ「結婚を許してもらわねば」という言葉に違和感を覚えた。成人だから結婚に親の許可はいらない。パートナーと新しく戸籍を作るのが婚姻という制度だ。金沢到着の直前にそれまで落ち着きがなかった彼女が、表情を引き締めて髪を整え始めた。「許してもらいに行く」形はとっているが、さらに前に進むための彼女なりの区切りなのかもしれない。
 同窓会に参加する70代の男性(新保正)は若いころの自分に捕らわれているように見えた。学生運動に影響を受け、その理念のもと草の根運動に勤しんでいたが、自分より教養があるとは思えない男に「衒いがある」と言われたことでショックを受け挫折する。その頃活発な活動をしていた東北出身の同窓生に会うために彼は金沢に向かっている。車内で彼は辺見庸『もの食う人びと』を読んでいる。表紙のタイトルは周りからはっきり見えるくらい大きく書かれている。今でも彼には衒いがあるように見えた。そんな彼が同級生に会うのは、自分より活動に熱心だった彼の何かを確認したいのだろうか。
 よくわからなかったのは松山から不倫相手のセキヤ(関家史郎)を追うようにやってきた事務員(吉野佳子)だ。彼女自身に関してわかることは「上司から信頼がある」という他人からの評価だけだ。心情がわからない。セキヤに無理やりつれてこられたのかと思ったがそうではなかった。セキヤのことを好きで追いかけてきた感じもしない。お金に執着している雰囲気もなかった。ただ諦めた雰囲気は強く感じた。
 席を立っていたセキヤと事務員がそれぞれ戻ってきた。トキちゃんが意味ありげに落としたレモンをセキヤが拾ったことをきっかけに、彼だけが同じ車両に乗り合わせた人たちの内側を目撃する。一定の時間を一つの空間で過ごす人びとの心の中のセリフに結論があるものは少なかった。会話ではなく自分の中でつむぐ言葉は、こうやってぐるぐる回るものかもしれない。だらだらと続くモノローグや、彼らが深く傷ついたシーンを壊れたレコードのように繰り返す場面は、それをうまく表していた。


(以下は更新前の文章です)

 開演時刻5分前に劇場に入ると、特急しらさぎの車内に見立てたパイプ椅子が並べてあった。左の列は5列、右の列は6列。左の前から2列目窓側に男性が一人、右側の6列目通路側に男性が一人すでに座っていた。しばらくして右側1列目に女性が慌ただしく一人乗り込んできた。汗を拭いたり、窓側に座ったり通路側に移動したり、ずっと落ち着きがない様子だった。その後、二人の男性と、一組の男女が加わった。最終的にこの車両は7人の乗客を乗せて米原を出た。
 7人は同行者以外と会話をすることはなく、それぞれのモノローグで彼らの裏側を知ることができる。飲み屋で知り合って「女を買いに行く」ことになった男性の二人組(井口時次郎・春海圭佑)は、自分自身に対する思いはあるが、そんなことより目下の心配は夜失敗しないことだ。トキちゃんは黒蝮ドリンクを飲み、ケイちゃんは栄養ドリンクを購入して夜に備える。福井で降りた男性(長山裕紀)は、自分が原因で両親と共にハバ(村八分)にされるという辛い少年期を小さな村で過ごした。今は休みの日は同人誌即売会に参加して趣味を満喫し、職場では利用者たちに頼られていると実感できる。彼はこの車両でただ一人、終点まで行かずに途中で降りる。
 1列目の女性(清水万鳳)も希望が持てた。父親の職業と母親の強い思いに振り回された人生だと本人は感じているが、彼女は理由をつけて家を出て、自分の力で前に進んでいる。ただ「結婚を許してもらわねば」という言葉に違和感を覚えた。成人だから結婚に親の許可はいらない。パートナーと新しく戸籍を作るのが婚姻という制度だ。金沢到着の直前にそれまで落ち着きがなかった彼女が、表情を引き締めて髪を整え始めた。「許してもらいに行く」形はとっているが、さらに前に進むための彼女なりの区切りなのかもしれない。
 同窓会に参加する70代の男性(新保正)は若いころの自分に捕らわれているように見えた。学生運動に影響を受け、その理念のもと草の根運動に勤しんでいたが、自分より教養があるとは思えない男に「衒いがある」と言われたことでショックを受け挫折する。その頃活発な活動をしていた東北出身の同窓生に会うために彼は金沢に向かっている。何を期待して彼に会うのだろう。彼の読む本にはカバーが掛けられていなかった。それは彼の変わらない性質を現しているように感じた。
 よくわからなかったのは松山から不倫相手のセキヤ(関家史郎)を追うようにやってきた事務員(吉野佳子)だ。他の登場人物が希望も含めて「本当の自分」「本来の自分」を語っているのに対して、彼女自身に関することは「上司から信頼がある」という他人からの評価だけだ。心情がわからない。セキヤに無理やりつれてこられたのかと思ったがそうではなかった。セキヤのことを好きで追いかけてきた感じもしない。お金に執着している雰囲気もなかった。ただ諦めた雰囲気は強く感じた。
 一定の時間を一つの空間で過ごす人びとの心の中のセリフに結論があるものは少なかった。会話ではなく自分の中でつむぐ言葉は、こうやってぐるぐる回るものかもしれない。だらだらと続くモノローグや、彼らが深く傷ついたシーンを壊れたレコードのように繰り返す場面は、それをうまく表していた。事務員の女性は何を表していたのだろう。おそらくじっと座るあの姿が彼女の無表情を作り出した場面だ。彼女は何を諦めたのだろうか。私には最後まで謎のままだった。