かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ -14ページ目

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2020年11月14日(土)19:00開演の北陸つなげて広げるプロジェクト『マジックマッシュRoom』についての劇評です。

 日常を、非日常が覆いつくしてしまった。当たり前だったことができなくなった。外に出ることも、人に会うことも。自由を制限され、家の中に閉じ込められた時、そこで人はどう動くのか。北陸つなげて広がるプロジェクトによる『マジックマッシュRoom』(振付・演出:宝栄美希)は、コロナ禍において、部屋に篭らざるを得なくなった人々の困惑する心持ちを幻覚として表現した、コンテンポラリーダンス作品だ。

 着ぐるみのようなリラックスウェアを着た女性が、座布団を持って登場する。彼女は上演前の諸注意に合わせて身振りを取る。その後、新しい生活様式における鑑賞についての注意を促す映像が流れる。女性は座布団を床に置き、そこで寝転がる。左右から人々が転がってくる。全員、ゆったりしたリラックスウェアを身に付けて、それぞれクッションやぬいぐるみなどを抱えている。合計8名が寝転がって、体をわずかに揺らしている。話し声が聞こえる。それはどうやらラジオの音声らしい。

 人々は転がって舞台袖にはけていく。その後、舞台に歩み出てくる人物達は、本を手にしている。別の人物が近づいて、本を取り上げる。ブックカバーだけが落とされる。この動作が何組かによって何度も繰り返される。舞台背面のスクリーンには、Facebookの記事が映し出されている。それは「7日間ブックカバーチャレンジ」。読書文化の普及に貢献するため、7日間、ブックカバーだけを投稿する。その際、一人の知人にも同様の投稿をお願いする、という趣旨の投稿が流行した。その後、3人が缶を持って登場。飲む動作をしたり、スマートフォンをいじる動作をしたりする。スクリーンにはLINEの画像。話の内容は、オンライン飲み会をしよう、ということのようだ。FacebookにLINE。こういったSNSがなかったら、外に出られず人に会えない自粛生活は、もっと寂しかったことだろう。テキストデータだけであっても、誰かから返事がある。今まで当たり前だったことが、非常に有り難く感じられたものだ。

 映像にてマジックマッシュルームの説明がなされる。それらは幻覚作用を起こすキノコ類。日本では2002年から使用・所持が禁止されている。舞台上の人々が見ているのは、マジックマッシュルームのルームならぬroom、部屋の中で起きている幻覚だ。ずっと籠もりきりで鬱屈した心が見てしまったものか。舞台にはカラフルな衣装を着た人々が登場する。赤、白、茶、紫、ピンク、青、緑、黒。衣装には丸いモチーフが付いている。皆、両腕を下に伸ばし両手を広げて、かわいらしく動く。その後、シーンはいくつか展開する。折り紙を折る人。折る音をマイクで拾う人。折り紙でできた何かは袖へ消えていく。そして、丸いクッションを持った3人が、クッションの位置を上へ下へと移動させる。その後ろを通る自転車。ここまで、何名かが一緒に踊っていたシーンが続いたが、舞台に黒い衣装の人物が一人になる場面があった。新聞記事、ウイルスの写真や、死亡者数のグラフなど、COVID-19関連の映像をバックに一人で踊る。攻撃をするような積極的な振りは、ウイルスの脅威と戦っているのかようで、しかし何かを避けているような動きもあった。誰もが初めて接する未知の事象に対して、どう行動すればいいのか、正解はわからない。けれどもダンサーは、戸惑いながらも進んでみたり、退いてみたり、自分なりの行動を取ろうとしているように思えた。

 新聞を持って全員が出てくる。新聞を床に置き、ゆっくりとうなだれるように、体を曲げていく。やがて皆、新聞紙の上でうずくまる。人々はまた眠りについたのか。舞台は暗くなり、『マジックマッシュRoom』は終わる。これで終わりなのか、と感じた。たくさんのシーンがあったが、それらに自分なりの解釈をしようとしているうちに、別のシーンに変わってしまう。そんな印象だった。はっきりした映像が多用されていたのは、わかりやすさの点においてはよかったのかもしれない。明らかな筋書きがないことが多いコンテンポラリーダンスを見慣れていない人には、よいガイドになっただろう。しかし筆者としては、もっと想像させてほしかった。何も奇をてらったり技巧に優れていたりする動きを見せろというのではない。その人だからこその動きが、もっとあるような気がしてならなかったのだ。ダンサー達の踊りは、特殊過ぎる状況に困惑している体を表現していたように思う。集まることもできないし、家から出られないから、踊りたいのに踊れない。そういった事情はあっただろう。思うように動けない体の表現を補うように、画像の表現が強くなってしまったところもあるだろう。そういった意味で、『マジックマッシュRoom』は、「今」の現れである。今はただじっと、うずくまって耐える時なのだ。だが、その閉塞感を打ち破ろうとするような、情熱で湧き起こすような、身体の強さがあるはずだ。


(以下は更新前の文章です)


 日常を、非日常が覆いつくしてしまった。当たり前だったことができなくなった。外に出ることも、人に会うことも。自由を制限され、家の中に閉じ込められた時、そこで人はどう動くのか。北陸つなげて広がるプロジェクトによる『マジックマッシュRoom』(振付・演出:宝栄美希)は、コロナ禍において、部屋に篭らざるを得なくなった人々の困惑する心持ちを幻覚として表現した、コンテンポラリーダンス作品だ。

 着ぐるみのようなふわふわしたリラックスウェアを着た女性が、座布団を持って登場する。彼女は上演前の諸注意に合わせて身振りを取る。その後、新しい生活様式における鑑賞についての注意を促す映像が流れる。女性は座布団を床に置き、そこで寝転がる。左右から人々が転がってくる。全員、ゆったりしたリラックスウェアを身に付けて、それぞれクッションやぬいぐるみなどを抱えている。合計8名が寝転がって、体をわずかに揺らしている。話し声が聞こえる。それはどうやらラジオの音声らしい。

 人々は転がって舞台袖にはけていく。その後、舞台に歩み出てくる人物達は、本を手にしている。別の人物が近づいて、本からブックカバーだけを外して落とす。この動作が何組かによって何度も繰り返される。床にブックカバーが散乱する。舞台背面のスクリーンには、Facebookの記事が映し出されている。それは「7日間ブックカバーチャレンジ」。読書文化の普及に貢献するため、7日間、ブックカバーだけを投稿する。その際、一人の知人にも同様の投稿をお願いする、という趣旨の投稿が流行した。筆者にも回ってきたので参加したため、そういえばこんなこともあったなと思えた。大量のブックカバーの画像がネット上を行き交っていた様子が、床に散乱したブックカバーから感じられた。その後、3人が缶を持って登場。飲む動作をしたり、スマートフォンをいじる動作をしたりする。スクリーンにはLINEの画像。話の内容は、オンライン飲み会をしよう、ということのようだ。FacebookにLINE。こういったSNSがなかったら、外に出られず人に会えない自粛生活は、もっと寂しかったことだろう。

 映像にてマジックマッシュルームの説明がなされる。それらは幻覚作用を起こすキノコ類。日本では2002年から使用・所持が禁止されている。舞台上の人々が見ているのは、マジックマッシュルームのルームならぬroom、部屋の中で起きている幻覚だ。ずっと籠もりきりで鬱屈した心が見てしまったものか。舞台にはカラフルな衣装を着た人々が登場する。赤、白、茶、紫、ピンク、青、緑、黒。衣装には丸いモチーフが付いている。皆、両腕を下に伸ばし両手を広げて、かわいらしく動く。その後、シーンはいくつか展開する。折り紙を折る人。折る音をマイクで拾う人。折り紙でできた何かは袖へ消えていく。そして、丸いクッションを持った3人が、クッションの位置を上へ下へと移動させる。その後ろを通る自転車。ここまで、何名かが一緒に踊っていたシーンが続いたが、舞台に黒い衣装の人物一人になる場面があった。新聞記事や、ウイルスの写真や、死亡者数のグラフなど、COVID-19関連の映像をバックに一人踊る。ウイルスの脅威と戦っているのか、避けているのか、未知の事象に対して、戸惑いながらも自分なりの行動を取ろうとしているように思えた。

 新聞を持って全員が出てくる。新聞を床に置き、ゆっくりとうなだれるように、体を曲げていく。やがて皆、新聞紙の上でうずくまる。人々はまた眠りについたのか。舞台は暗くなり、『マジックマッシュRoom』は終わる。これで終わりなのか、と感じた。たくさんのシーンがあったが、その一つ一つに自分なりの解釈をしようとしているうちに、別のシーンに変わってしまう。そんな印象だった。はっきりした映像が多用されていたのは、わかりやすさの点においてはよかったのかもしれない。明らかな筋書きがないことが多いコンテンポラリーダンスを見慣れていない人には、よいガイドになっただろう。しかし筆者としては、もっと想像させてほしかった。何も奇をてらったり技巧に優れていたりする動きを見せろというのではない。その人だからこその動きが、もっとあるような気がしてならなかったのだ。ダンサー達の踊りは、特殊過ぎる状況に困惑している体を表現していたように思う。集まることもできないし、家から出られないから、踊りたいのに踊れない。そういった事情はあっただろう。思うように動けない体の表現を補うように、画像の表現が強くなってしまったところもあるだろう。そういった意味で、『マジックマッシュRoom』は、「今」の現れである。今はただじっと、うずくまって耐える時なのだ。だが、その閉塞感を打ち破ろうとするような、身体の強さを見せて欲しかった気持ちが残る。
この文章は、2020年11月2日(月)よりオンライン公開の星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』についての劇評です。

「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」参加作品として、星稜高校演劇部+星の劇団「ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ」(作:池端明日美、演出:近吉鈴蘭)の動画全6話が11月2日から8日(3日除く)にかけて1日1話のペースでオンライン公開された。この作品では、将来について真剣に考えたことがなく、進路の紙を出せないでいた女子高生・桐谷ルナ(松本梨留)がいきなりゾンビになっている自分に驚く。そこは見た目こそ同じ高校だが、先生も生徒もゾンビ化したパラレルワールドだった。ゾンビとして生きていくための職業訓練を受けさせられながら、人間界へ戻りたいともがくルナの姿を描いている。ゾンビと言えば、顔や体の一部にパックリと口を開いた傷跡がトレードマークだが、優れた特殊メーク技術により、血が滴り落ちそうな生々しい傷口を作り上げ、ドラマの空想的な世界観にリアリティーを与えていた。それはまた、プライドをズタズタに切り裂かれたゾンビたちの心の傷を可視化しているようにも見えた。

第1話の結末で、担任の教師(山岸光)がルナに「進路、決まってないんだろ?それをゾンビって言うんだよ」と問い詰めた直後、彼女がゾンビ化していることから、将来の見通しを持たずにフラフラと生きる人間がゾンビになるという法則性があるのかと思った。そうであってみれば、最初の訓練で「運び屋」たち(山出暖大、浅賀香太、飯田達也)が机の上に段ボール箱を積み上げるたび、ネコ(大石涼々香)によって叩き落とされてしまう場面が何となく理解できる。無意味な作業をひたすら黙々と「永遠」に繰り返すことにより、考えたり感じたりする心をなくすためのトレーニングというが、ゾンビとして上からの指示に従うだけの単純労働に従事する場合には役立つのかもしれない。

次の教室では前方のスクリーンに映し出された女王様(黒瀬香)とメイド(北﨑千琴)のコンビが講師を務め、寸劇を演じながら「マウントの取り方」を実践的に指導する。マウントとは最近のSNSなどでよく使われる用語だ。会話のやり取りによって相手をへこませ、自分を優位に立たせるというような意味らしい。例題に対して新入生のルナが機転を利かせて答えると、意外にも女王様から褒められる。マウントを取るためには考えたり感じたりする能力が不可欠であり、運び屋とはまた違った適性が要求されるのは当然だ。しかし、言葉の上で相手を打ち負かしてやったと満足できるプライドとは、自分を大切にする本当の自尊心ではなく、単なる虚栄心に過ぎないのではないだろうか。

続いてピエロ(杉俣天乃)に連れて行かれた部屋では、吟遊詩人(中野優羽)とギター弾き(谷野美怜)が室内を綺麗に飾り付け、歌や演奏を楽しんでいる。美しいものを求めてやまない彼女たちはそこでは「劣等生」と呼ばれている。やがて戻ってきた先生により、罰としてピエロは片眼をくり抜かれ、詩人とギター弾きは心に杭を打ち込まれてしまう。最後の教室では、3人の女子生徒(岡田あかり、泉紗香、勘田成葉)がドラマの音声を収録している。賑やかに喋ったり踊ったりする彼女たちは、ゾンビながらも生き生きとして楽しそうだ。しかし、3人の会話やマネージャー(川本紗羽)から出される指示を聞くと、女の子らしい可愛さを強調したり、わざとバカなふりをすることが求められており、とても幸福とは思えなかった。

ある意味では、自分で考えず、バカのふりして可愛がってもらえるなら、それも一つのラクな生き方なのかもしれない。だが、それならなぜルナは、元の世界へ戻りたいと願ったのだろうか。無事に生還できたルナが先生に発した言葉は「進路の紙を明日持って来ます!」だった。結局のところ、ゾンビ体験を通じて、自分で責任を持って決めていくしかないと腑に落ちたのではないか。彼女が帰れたきっかけは、以前にスマホで見たドラマ「ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ」のSNSに投稿されていたコメントだった。まさに自分がドラマの世界へ引きずり込まれていたと気付き、一足先に脱出に成功した人の体験談を参考にしたのだ。校内ではスマホの使用が禁止されていたようだが、皮肉にも改めてSNSの威力を思い知らされるエピソードではあった。

ルナはこれまでずっと案内してくれた優等生(直江美怜)と最後に別れる際、「握手して」と言いながら、ゾンビワールドから脱出できる手順を記したメモをそっと渡す。このシーンは美しいだけでなく、非常に重要だ。もしかしたら、優等生が他のゾンビたちに告げ口する恐れもあったのに、なぜこんな危険を冒したのだろうか?吟遊詩人やギター弾き、ピエロにも教えてあげてほしいと書いている。一人でさっさと逃げれば良かったはずなのに……。いや、ルナは、友達を大切に思う自分の気持ちを尊重することこそが、ゾンビ界から離れる道だと悟り、行動で示したのではないだろうか?ギリギリの状況で彼女が選んだのは、握り締めた手から手へ自筆メモを渡すというアナログ極まりない方法だった。

(以下は改稿前の文章です。)

「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」参加作品として、星稜高校演劇部+星の劇団「ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ」(作:池端明日美、演出:近吉鈴蘭)の動画全6話が11月2日から8日(3日除く)にかけて1日1話のペースでオンライン公開された。この作品では、将来について真剣に考えたことがなく、進路の紙を出せないでいた女子高生・桐谷ルナ(松本梨留)がいきなりゾンビになっている自分に驚く。そこは見た目こそ同じ高校だが、先生も生徒もゾンビ化したパラレルワールドだった。ゾンビとして生きていくための職業訓練を受けさせられながら、人間界へ戻りたいともがくルナの姿を描いている。ゾンビと言えば、顔や体の一部にパックリと口を開いた傷跡がトレードマークだが、優れた特殊メーク技術により、血が滴り落ちそうな生々しい傷口を作り上げ、ドラマの空想的な世界観にリアリティーを与えていた。それはまた、プライドをズタズタに切り裂かれたゾンビたちの心の傷を可視化しているようにも見えた。

第1話の結末で、担任の教師(山岸光)がルナに「進路、決まってないんだろ?それをゾンビって言うんだよ」と問い詰めた直後、彼女がゾンビ化していることから、将来の見通しを持たずにフラフラと生きる人間がゾンビになるという法則性があるのかと思った。そうであってみれば、最初の訓練で「運び屋」たち(山出暖大、浅賀香太、飯田達也)が机の上に段ボール箱を積み上げるたび、ネコ(大石涼々香)によって叩き落とされてしまう場面が何となく理解できる。無意味な作業をひたすら黙々と「永遠」に繰り返すことにより、考えたり感じたりする心をなくすためのトレーニングというが、ゾンビとして上からの指示に従うだけの単純労働に従事する場合には役立つのかもしれない。

次の教室では前方のスクリーンに映し出された女王様(黒瀬香)とメイド(北﨑千琴)のコンビが講師を務め、寸劇を演じながら「マウントの取り方」を実践的に指導する。マウントとは最近のSNSなどでよく使われる用語だ。会話のやり取りによって相手をへこませ、自分を優位に立たせるというような意味らしい。例題に対して新入生のルナが機転を利かせて答えると、意外にも女王様から褒められる。マウントを取るためには考えたり感じたりする能力が不可欠であり、運び屋とはまた違った適性が要求されるのは当然だ。しかし、言葉の上で相手を打ち負かしてやったと満足できるプライドとは、自分を大切にする本当の自尊心ではなく、単なる虚栄心に過ぎないのではないだろうか。

続いてピエロ(杉俣天乃)に連れて行かれた部屋では、吟遊詩人(中野優羽)とギター弾き(谷野美怜)が室内を綺麗に飾り付け、歌や演奏を楽しんでいる。美しいものを求めてやまない彼女たちはそこでは「劣等生」と呼ばれている。やがて戻ってきた先生により、罰としてピエロは片眼をくり抜かれ、詩人とギター弾きは心に杭を打ち込まれてしまう。最後の教室では、3人の女子生徒(岡田あかり、泉紗香、勘田成葉)がドラマの音声を収録している。賑やかに喋ったり踊ったりする彼女たちは、ゾンビながらも生き生きとして楽しそうだ。しかし、3人の会話やマネージャー(川本紗羽)から出される指示を聞くと、女の子らしい可愛さを強調したり、わざとバカなふりをすることが求められており、とても幸福とは思えなかった。

ある意味では、自分で考えず、バカのふりして可愛がってもらえるなら、それも一つのラクな生き方なのかもしれない。だが、それならなぜルナは、元の世界へ戻りたいと願ったのだろうか。無事に生還できたルナが先生に発した言葉は「進路の紙を明日持って来ます!」だった。結局のところ、ゾンビ体験を通じて、自分で責任を持って決めていくしかないと腑に落ちたのではないか。彼女が帰れたきっかけは、以前にスマホで見たドラマ「ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ」のSNSに投稿されていたコメントだった。まさに自分がドラマの世界へ引きずり込まれていたと気付き、一足先に脱出に成功した人の体験談を参考にしたのだ。校内ではスマホの使用が禁止されていたようだが、皮肉にも改めてSNSの威力を思い知らされるエピソードではあった。

ルナはこれまでずっと案内してくれた優等生(直江美怜)と最後に別れる際、「握手して」と言いながら、ゾンビワールドから脱出できる手順を記したメモをそっと渡す。このシーンは美しいだけでなく、非常に重要だ。もしかしたら、優等生が他のゾンビたちに告げ口する恐れもあったのに、なぜこんな危険を冒したのだろうか?吟遊詩人やギター弾き、ピエロにも教えてあげてほしいと書いている。一人でさっさと逃げれば良かったはずなのに……。いや、ルナは、友達を大切に思う自分の気持ちを尊重することこそが、ゾンビ界から離れる道だと悟り、行動で示したのではないだろうか?ギリギリの状況で彼女が選んだのは、握り締めた手から手へ自筆メモを渡すというアナログ極まりない方法だった。脚本を担当した池端は、演劇部の顧問として、生徒たちへ伝えたかったメッセージをこのシーンに込めた気がする。
この文章は、2020年11月2日(月)よりオンライン公開の星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』についての劇評です。

コロナ禍の中、生であることが前提であった音楽、演劇、イベントなどの舞台芸術の世界に、もともと利用されていたオンライン配信が急激に様々な形に発展した。今年のかなざわリージョナルシアター「げきみる」にもオンライン配信の演目がある。星稜高校演劇部+星の劇団の作品はその一つだ。
この作品は舞台上での演劇を撮影したものではなく、ドラマと同じような映像作品としての形態を取っている。6話85分の動画作品だ。主役は人間の女子高校生・桐谷ルナ(松本梨留)。ゾンビ化ウイルスの感染が拡大したため、人間、完熟ゾンビ、半生ゾンビが存在する世界だ。ルナは担任(山岸光)に呼び出されて物理講義室にいた。担任は提出物を出すようにと注意するがルナは口答えする。穏やかに優しく話していた担任は急に声を荒げてルナを責め始める。そこでルナは気を失ってしまう。目覚めると彼女はゾンビになっていた。連れて行かれた教室ではゾンビ職業訓練校としてゾンビの教育を行っていた。
ゾンビは感情を持ってはいけない。感情を持っていては生きられない。ここは感情を消す訓練をする場所だ。ルナは校内を案内してくれる優等生(直江美怜)にそう教えられた。案内されたのは運び屋の部屋だ。管理者であるネコ(大石涼々香)が管理する作業場だ。仕事とは何も考えず、疑問を持たず、命令にだけ従うことを意味すると男子生徒は言う。ルナはちょっと工夫した作業を提案するがネコに見つかってしまう。優等生は次の教室への移動中に他の生徒の説明やこの訓練校での居かたなどを教えてくれる。
女王の部屋では、女王(黒瀬香)とメイド(北崎千琴)がモニターの中から実践的な会話術をレクチャーする。この部屋には女子生徒しかいない。彼女たちは彼氏がいることや玉の輿を狙えること、お菓子作りができることなどをステイタスの一つととらえ、相手にマウントを取るための会話を会得しようとする。
案内役の優等生が来る前にピエロが運び屋の部屋に連れていく。そこにはネコに命じられて部屋を片付ける吟遊詩人とギター弾きがいた。彼女たちは作業していた運び屋たちとは違い、気になる箱を開け中にあったもので部屋に飾り付けを施していく。ギター弾きは時折ギターを爪弾き(谷野美怜)、吟遊詩人(中野優羽)とピエロの過去を語る。ルナはピエロの話を悲しいと感じる。ルナはなくしつつあった感情があることを2人から教えられた。
 次に連れて行かれた部屋はルナが人間だった頃好きで見ていたアニメ『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』を制作している場所だった。主役の3人が役作りを話し合っている。女子高生が世間から求められているのは「元気」「かわいい」「バカ」の3つだという結論を出すとアフレコを始めた。その後エンディング曲に合わせてダンスを始めた。その様子を見てルナはゾンビの世界から戻ってきた話をインターネット上で見かけたことを思い出す。上手くメモ用紙を手に入れたルナは、常にヒントを教えてくれた優等生に渡す。二人は無事に人間に戻り、メモを渡した優等生に再会することができる。優等生に渡したメモには訓練校で感情をなくしていなかったピエロや吟遊詩人たちにも教えて欲しいと書いてあった。
ゾンビの世界はどこか見たことがある世界だ。指導者の指示のもと、全員で大きな声を出して同じことを叫ぶこと。管理者の意に反すると頭ごなしに叱られる状況。特定の幸せの形に価値があると考え、それを得ることで自分の評価になると感じる姿。他人をカテゴライズしてその枠にはめようとすること。ゾンビとは作り手である高校生から見た大人の世界のように見える。高校生が訓練をして大人になる準備をする。私自身このまま社会に出ても大人の社会でうまく生きていける気がしなくて、進学を2年制から4年制の学校に変更することで先延ばしにした。準備期間が必要なのはとてもわかる。ただゾンビ職業訓練校が教える生きていくために「考えない」というのは結果的に自分の首を絞めることになるのではないだろうか。。表に出るものだけが感情ではない。夢や希望は生きていくための選択肢を増やす。疑問を持つことは結果的に自分を守る。命令にだけ従わなければいけない場にはいなくてもいい。私はそう思う。
この文章は、2020年11月2日(月)よりオンライン公開の星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』についての劇評です。

 「社会では感情を殺さなければ生きていけない」とか「マウントを取られたら冷静に取り返す」とか「高校生らしく、元気でかわいくてバカでいないと」とか、そういった言葉が学生の口から出るのを聞いて、今の学生はなんて大変なのだろうと感じた。筆者の高校生時代を振り返ってみると、自分のふがいなさを悩むことに精一杯で、自分を取り巻く社会のことなんて考えもしなかった。今の高校生達は、自分と社会、そのつながりの中で悩み、苦しんでいるのだ。星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』(演出:近吉鈴蘭、脚本・プロデュース:池端明日美)は若い世代の目に映る社会問題を示し、それらへ彼らなりに対峙する姿を描いた作品だった。コロナ禍において大人数での舞台公演は困難であるため、この作品は映像として制作され、YouTubeで公開された。

 ゾンビウイルスによって、国民が「人間」「半ナマゾンビ」「完熟ゾンビ」に分かれてしまった日本。まだ意志を持っている半ナマゾンビ達が通う星稜高校が舞台のアニメ『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』。アヤ、モネ、アリサの3人の半ナマゾンビが、たわいもない会話をしているこの動画を、イヤホンで聴きながら歩く女子高生、ルナ(松本梨留)。彼女は進路希望の用紙を提出していないため、先生(山岸光)に呼び出されていた。物理講義室に出向くも、先生はいない。スマホを取り出し、動画を見ながらルナは眠ってしまう。叫び声でルナが目を覚ますと、先生は普段の温和な姿とは全く異なる威圧的な態度で、ルナを怒鳴りつける。逃げだそうとしたルナが見たのは、ゾンビのように顔や体のただれた生徒達。進路が決まっていないルナに対して担任は「それをゾンビって言うんだよ」と告げる。気付くと自分の体も、ゾンビのようになっていた。先生に命令された優等生(直江美怜)と共にルナは、訓練を受けることになる。そこは星稜高校ではなく、ゾンビ職業訓練校という場所だった。

 心を無にして箱を移動する仕事。マウントを取ってきた相手に冷静にマウントを取り返す練習。感情を持たず、好奇心を持たず、扱いやすい存在として生きることを強要されるゾンビ達。それは、この現実世界をなんとなく生きている多数の人々の戯画化であることは間違いない。何にも逆らわずただ与えられた物事だけをこなしていく。それで、自分だけの命を生きてるなんて言えるだろうか。ルナと優等生は、アヤ(岡田あかり)、モネ(泉紗香)、アリサ(勘田成葉)の3人が会話の収録や、ダンスをするところを見学する。3人のダンスを見、音楽を聴いて、ルナは気が付く。これは自分が見ていた動画ではないかと。その動画にまつわる様々な書き込みの中には、ゾンビの世界から帰還したという物もあったことを思い出す。

 ルナはそのかつて見た書き込みを参考に、元いた世界に戻ることができる。そして、進路のことをちゃんと考えると先生に伝える。人間として、自分の進む道を自分で考えて進もうとする。彼女の前向きな心の変化が希望となっている。しかし、ルナは訓練校で、自ら何かを考えて行動したわけではないことが気になった。教師に立ち向かうという行動は取らない。それは力の弱い学生として当然のことかもしれないが、物語世界の中でくらいは、大人に盾突いてみてもよいのに、とも感じた。もしそうなれば、自分より強い立場の者に立ち向かい、打ち倒すことで得られるような高揚感が生まれただろう。しかし、最初に書いたように、自分と社会のつながりの中で生きている学生達は、何かと敵対することを望まないのかもしれない。これはどちらがいいとかいう話ではない。自分の望む行動のための方法が、筆者の若かりし頃とは違ってきているということだ。

 今回の公演は映像であり、動画を見慣れているであろう学生達による表現を観ることができて興味深かった。ただ、筆者が昨年の星稜高校演劇部の上演『またこの空の中で』を観ているためか、舞台上ならばこうなるのではないだろうか、と想像することもできた。そして、昨年の上演作品との類似点が感じられた。『またこの空の中で』は、姉妹が不思議な世界をグライダーで巡る物語だった。姉妹は旅の中で、それぞれが心に抱えていたわだかまりを解きほぐしていく。彼らが取り組みたい大きなテーマとして、非現実の世界から現実を捉え直してみる、ということがあるのだろう。普段の生活ではできない大胆なことも、いつもと違う場所でならできたりする。いつもなら考えないことも考えるし、いつもなら言えない台詞も言える。映像も演劇も、そのためのツールに使えばいい。フィクションに編み込まれた本音を見せてもらえることを、今後も期待している。


(以下は更新前の文章です)


 「社会では感情を殺さなければ生きていけない」とか「マウントを取られたら冷静に取り返す」とか「高校生らしく、元気でかわいくてバカでいないと」とか、そういった言葉が学生の口から出るのを聞いて、今の学生はなんて大変なのだろうと感じた。星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』(演出:近吉鈴蘭、脚本・プロデュース:池端明日美)は若い世代の目に映る社会問題を示し、それらへ彼らなりに対峙する姿を描いた作品だった。コロナ禍において大人数での舞台公演は困難であるため、この作品は映像として制作され、YouTubeで公開された。

 ゾンビウイルスによって、国民が「人間」「半ナマゾンビ」「完熟ゾンビ」に分かれてしまった日本。まだ意志を持っている半ナマゾンビ達は、エリア50~55に暮らしていた。そのエリア55にある星稜高校が舞台のアニメ『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』。アヤ、モネ、アリサの3人の半ナマゾンビが、たわいもない会話をしているこの動画を、イヤホンで聴きながら歩く女子高生、ルナ(松本梨留)。彼女は進路希望の用紙を提出していないため、先生(山岸光)に呼び出されていた。物理講義室に出向くも、先生はいない。スマホを取り出し、動画を見ながらルナは眠ってしまう。

 叫び声で目を覚ますルナ。準備室に先生がいたのだが、彼は、普段の温和な姿とは全く異なる威圧的な態度で、ルナを怒鳴りつける。逃げだそうとしたルナが見たのは、ゾンビのように顔や体のただれた生徒達。進路が決まっていないルナに対して担任は「それをゾンビって言うんだよ」と告げる。気付くと自分の体も、ゾンビのようになっていた。先生に命令された優等生(直江美怜)と共にルナは、訓練を受けることになる。そこは星稜高校ではなく、ゾンビ職業訓練校という場所だった。まずはネコ(大石涼々香)の下で「運び屋」の仕事。段ボールを運んでは落とされ、運んでは落とされが繰り返される。

 次の部屋では、ピエロ(杉俣天乃)が場を仕切っている。ここでは、テレビに映る女王(黒瀬香)とメイド(北﨑千琴)により、「マウントを取ってきた相手に対して冷静にマウントを取り返す」お題が訓練生達に出されていた。良回答をしたルナは女王にほめられ喜ぶ。しかしピエロはそれを面白く思わないのか、ルナに「人間に戻りたくないの?」と問う。そしてピエロがルナを連れていったのは、先ほどの段ボールの部屋。そこでは吟遊詩人(中野優羽)とギター弾き(谷野美怜)が、勝手に段ボール箱を開け、部屋に飾り付けをしていた。彼らは好奇心を抑えることができないのだ。しかし、勝手な行動はネコと先生に見つかってしまう。ピエロは罰として右の目玉をくり抜かれ、吟遊詩人とギター弾きは細い棒で刺されてしまう。

 ルナと優等生は次の部屋で、3人の女子訓練生達が会話の収録や、ダンスをするところを見学する。アヤ(岡田あかり)、モネ(泉紗香)、アリサ(勘田成葉)の3人のダンスを見、音楽を聴いて、ルナは気が付く。これは自分が見ていた動画ではないかと。その動画にまつわる様々な書き込みの中には、ゾンビの世界から帰還したという物もあったことを思い出す。

 感情を持たず、好奇心を持たず、扱いやすい存在として生きることを強要されるゾンビ達。それは、この現実世界をなんとなく生きている多数の人々の戯画化であることは間違いない。何にも逆らわずただ与えられた物事だけをこなしていく。それで、自分だけの命を生きてるなんて言えるだろうか。その様子を、動いているが生きていないゾンビに準えて、問題提起が為されていた。

 ルナはかつて見た書き込みを参考に、元いた世界に戻ることができる。そして、進路のことをちゃんと考えると先生に伝える。人間として、自分の進む道を自分で考えて進もうとする。彼女の前向きな心の変化が、問題提起に対しての希望となっている。しかし、ルナは訓練校で、自ら何かを考えて行動したわけではないことが気になった。教師に立ち向かうという行動は取らない。それは力の弱い学生として当然のことかもしれないが、物語世界の中でくらいは、大人に盾突いてみてもよいのに、とも感じた。

 今回の公演は映像であり、動画を見慣れているであろう学生達による表現を観ることができて興味深かった。ただ、筆者が昨年の星稜高校演劇部の上演『またこの空の中で』を観ているためか、舞台上ならばこうなるのではないだろうか、と想像することもできた。そして、昨年の上演作品との類似点が感じられた。『またこの空の中で』は、姉妹が不思議な世界をグライダーで巡る物語だった。彼らが取り組みたい大きなテーマとして、非現実の世界から現実を捉え直してみる、ということがあるのだろう。映像も、舞台も、今いる場所をしばし離れることのできるツールだ。そのツールをこれからも有意義に使って、自分達ならではの新しい視点を提示してほしい。
この文章は、2020年10月31日(土)19:00開演のProject = A Night of Parricides『親殺したちの夜』についての劇評です。

 Project = A Night of Parricides『親殺したちの夜』(作:ホセ・トリアーナ、構成/演出:本庄亮)の舞台は大きな透明のテントだった。五角形に細い柱が立ち、真ん中には高めの柱がある。屋根のビニールはところどころ破れている。テントの回りも大きなビニールで巻かれている。テントの中央には小さなテーブル、その回りには椅子がある。その他、テント内には細い布きれや服、帽子、花瓶など、小物が置かれている。テントから離れた上手隅には、ギターとドラム奏者がいる。劇中の効果音や音楽などを彼らが演奏することで、芝居の即興性が強調されていた。

 下手から、パッチワークを施した白い服を着た女性が二人登場する。顔は白塗りに赤い模様。長女のクカ(下條世津子)と、次女のベバ(古林絵美)だ。二人はテントに巻かれたビニールの下から、テント内に入る。二人が服を手にしたり、帽子を被ってみたりしていると、同じような白い服に白い顔の長男ラロ(田中祐吉)がやってくる。彼は人を殺した、と言い始める。ベバは、演技が始まった、と言う。公演チラシには「両親を殺害するという「ゲーム」を演じる三人の兄妹」と紹介文があった。

 彼らの発する言葉は、何がゲーム上の作り事で、何が劇中での現実なのか判別できない。彼らの言動は、決められたシナリオ通りに台詞を発するものではなく、自分に与えられた役になりきってその役が言いそうなことを言う、即興劇のように感じられる。彼らが繰り広げるゲームはまるで、「ごっこ遊び」だ。役になりきった誰かが発した、その役らしい言葉。それを拾って、別の誰かがまた、それらしい言葉を発する。その繰り返しで物語のようなものができていく。ラロが両親を殺したと言う。隣人が訪れ、両親について詮索する。警察官が彼らの家を調べにやってくる。ラロは裁判にかけられる。ラロが両親への愛を語ることで、ゲームは終わる。物語の大まかな流れとしてはこのようになっている。彼らは複数の役を演じる。両親、隣人、警察官、裁判官、検察官。わかりやすい演じ分けはない。彼らは必要な時に急にその役になる。

 隣人が現れた後しばらくすると、ベバが「前半が終了したのよ」と言い、舞台は暗転する。明るくなった舞台では、ラロが逆さにした松葉杖にハンドマイクを付けた物を、スタンドマイクのように持って歌っている。「Who are you?」とラロは何度も叫ぶ。それはラロの、自らに対する心の叫びなのであろうが、同時に観客の心の叫びでもある。一体、あなたは誰で、何をしているというのか。そして彼らの行動に何の意味があるというのか。彼らの言動を信じるならば、兄妹は随分と両親に抑圧されている。その影響を最も直接的に受けているのがラロなのであろう。だが両親にも事情があった。母は子供が生まれたため結婚せざるを得なくなったと言い、父は生活のため結婚を選んだと言う。二人に愛情があったわけではないのかもしれない。その二人の下で、兄妹達も愛情を受け取ることが難しかったのかもしれない。このゲームは愛情に飢えた子供達の怒りの表れか。

 裁判が始まる前に、家を巻いていたビニールの前面が妹の手で切り裂かれて落ちる。同様に左、後ろ、右のビニールも切り落とされる。丸見えになり、世間に開かれた家で、裁判が始まる。裁かれるのはラロだが、兄妹達は、自分達がこんな風に育ってしまったのは両親のせいですよと、裁判の場で明らかにしたいのではないか。その後、柱とビニールの屋根だけになったテントは、ベバによって倒されてしまう。代償行為として、ゲームの中で家を壊す。それは家など彼らには必要ではないという意志表示か。しかしラロは「何はともあれ俺は両親を愛しているんだ」と言う。家を散らかし、壊すほどの衝動を持って暴れ回っておきながら、愛という曖昧な言葉で事態を収束する。そして「今度は私の番よね」とベバが言う。妹達は、またゲームを始めようとする。

 壊したいくらいの家ならば、出ていけばいい。家を出ようと試みた旨も語られてはいるのだが、彼らは家を出ることができていない。愛情から離れられないのか、事情から離れらないのか、どちらにしろ、兄妹は家族に縛られている。そこに歪んだ愛情が見える。兄妹達は自立を避け、愛という名の庇護の下に「ごっこ遊び」を続ける。彼らがゲームに飽きる日は来るのだろうか。外部から強制的にスイッチを切られるような干渉でもない限り、ごっこ遊びが続いていくのだろうか。大人にならない子供達による悪夢のような、混沌があった。


(以下は更新前の文章です)


 A Night of Parricides『親殺したちの夜』(作:ホセ・トリアーナ、構成/演出:本庄亮)の舞台は大きな透明のテントだった。四隅に細い柱が立ち、真ん中には高めの柱がある。屋根のビニールはところどころ破れている。テントの回りも大きなビニールで巻かれている。テントの中央には小さなテーブル、その回りには椅子がある。その他、テント内には細い布きれや服、帽子、花瓶など、小物が置かれている。テントから離れた上手隅には、ギターとドラム奏者がいる。劇中の効果音や音楽などは、彼らが演奏する。

 下手から、パッチワークを施した白い服を着た女性が二人登場する。長女のクカ(下條世津子)と、次女のベバ(古林絵美)だ。二人はテントに巻かれたビニールの下から、テント内に入る。二人が服を手にしたり、帽子を被ってみたりしていると、同じような白い服の長男ラロ(田中祐吉)がやってくる。彼は人を殺した、と言い始める。ベバは、演技が始まった、と言う。公演チラシには「両親を殺害するという「ゲーム」を演じる三人の兄妹」と紹介文があった。ラロの登場により、ゲームが始まったのだろう。続く彼の言葉から、殺されたのは彼らの両親という設定であることがわかる。

 ラロだけでなく、クカとベバもゲームに参加している。彼らの発する言葉は、何がゲーム上の作り事で、何が本当の事か判別できない。彼らの言動は、決められたシナリオ通りに台詞を発するものではなく、自分に与えられた役になりきってその役が言いそうなことを言う、即興劇のように感じる。彼らが繰り広げるゲームはまるで、「ごっこ遊び」だ。役になりきった誰かが発した、その役らしい言葉。それを拾って、別の誰かがまた、それらしい言葉を発する。その繰り返しで物語のようなものができていく。ゲームなのか、本当のことなのか、それをわかりにくくしているのは、彼らが複数の約を演じることにも理由がある。両親、隣人、警察官、裁判官、検察官、これらを彼らが演じていく。わかりやすい演じ分けはない。彼らは必要な時に急にその役になる。

 ラロが両親を殺したと言う。隣人が訪れ、両親について詮索する。警察官が彼らの家を調べにやってくる。ラロは裁判にかけられる。ラロが両親への愛を語ることで、ゲームは終わる。物語の大まかな流れとしてはこのようになっている。隣人が現れた後しばらくすると、ベバが「前半が終了したのよ」と言い、舞台は暗転する。明るくなった舞台では、ラロが逆さにした松葉杖にハンドマイクを付けた物を、スタンドマイクのように持って歌っている。「Who are you?」とラロは何度も叫ぶ。それは観客の心の叫びだ。一体、あなたは誰で、何をしているというのか。そして彼らの行動に何の意味があるというのか。彼らの言動を信じるならば、兄妹は随分と両親に抑圧されている。その煽りを最も受けているのがラロなのであろう。だが両親にも事情があった。母は子供が生まれたため結婚せざるを得なくなったと言い、父は生活のため結婚を選んだと言う。二人に愛情があったわけではないのかもしれない。その二人の下で、兄妹達も愛情を受け取ることが難しかったのかもしれない。このゲームは愛情に飢えた子供達の怒りの現れか。

 裁判が始まる前に、家を巻いていたビニールが妹の手で切り裂かれて落ちる。丸見えになった家の中で、裁判が始まる。裁かれるのはラロだが、本当に裁かれるべきは、裁判の場で事情を語る両親であると、兄妹達は考えていやしないか。自分達がこんな風に育ってしまったのは、彼らのせいですよと明らかにしたいのではないか。柱とビニールの屋根だけになったテントは、ベバによって倒されてしまう。家を壊す。それが彼らのやりたいことだったのか。家など彼らには必要ではないという意志表示。しかしラロは「何はともあれ俺は両親を愛しているんだ」と言う。家を散らかし、壊すほどの衝動を持って暴れ回っておきながら、愛という曖昧な言葉で事態を収束する。そして「今度は私の番よね」とベバが言う。妹達は、またゲームを始めようとする。

 壊したいくらいの家ならば、出ていけばいい。家を出ようと試みた旨も語られてはいるのだが、彼らは家を出ることができていない。愛情から離れられないのか、事情から離れらないのか、どちらにしろ、兄妹は家族に縛られている。そこに歪んだ愛情が見える。兄妹達は自立を避け、愛という名の庇護の下に「ごっこ遊び」を続ける。彼らがゲームに飽きる日は来るのだろうか。外部から強制的にスイッチを切られるような干渉でもない限り、ごっこ遊びが続いていくのだろうか。大人にならない子供達の悪夢のような、混沌があった。