かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

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 この文章は、2022年12月10日(土)15:00開演のかなざわリージョナルシアター2022「げきみる」参加作品、劇団羅針盤『魔法少女続けました+LOVE』についての劇評です。

 日本の漫画・アニメの系譜には「魔法少女もの」というキャラクター類型がある。美少女戦士セーラームーンに代表されるように、普段は普通の学校生活を送る少女が戦闘において変身し、魔法などの不支持な力を使って、悪い敵をやっつける。

 ただし、いくら魔法少女でも永遠に少女であるわけにはいかない。25年続けたら少女だって年をとるし、普段はパートで働く中年のおばさんになっているかもしれない。
 
 そんな魔法少女のリアルを地元ネタをちりばめてユーモラスに描いたのが劇団羅針盤による『魔法少女続けました+LOVE』(作・演出:平田知大)だ。舞台設定は「レジ応援お願いします」の音声が頻繁に流れるようなスーパーマーケットかドラッグストアの裏方のスタッフルーム。同時にそこは魔法少女「ジュエルウィッチバニー」(宮崎裕香)と仲間たちの秘密基地でもある。色とりどりの立体物が乱雑に設置されていて、商品在庫のダンボールが積まれているようにも見える。立体物がシーンごとに様々に見立てられる抽象的な舞台だ。

 ある若者、太田(能沢秀矢)がリンゴを三つ盗んだ万引き容疑で連れてこられる。しかしそれは魔法少女が仲間を募る求人情報に仕掛けた暗号を読み解いたことのサインであった。彼は魔法少女の熱烈なファンであり、仲間に受け入れられることは長年の夢だった。
 
 しかし、仲間になった太田は魔法少女が自分の思い描いていた、二頭身で金髪ツインテールの、瞳が大きくて全身がキラキラと輝いている二次元的な少女キャラではなく、いささか生活に疲れた感のある身体の線の緩んだリアリズムの中年女性であることに愕然とし、幻滅を味わうことになる。それでも悪との戦いに参戦し一度は勝利するもより強力な敵が現れて‥‥‥魔法少女チームの戦いはまだまだ終わりそうにない。

 二部構成の後半の舞台設定は一転して大正時代にさかのぼり、魔法少女の先祖が魔法のほうきを手に入れるまでのエピソードが演じられる。刀を捨てきれない着流しの男が登場し、師匠との立ち回りを演じるなど、展開に唖然とさせられるがこの殺陣のシーンがこの劇団の十八番でもありどうしても演じたかったのだろう。全体として、男性が妄想する少女キャラクターへの批評性が、結局は女性の年齢や外見を揶揄しているレヴェルに留まってしまったことに物足りなさを感じた。

 物語をじっくり味わうというよりも、変身する戦隊モノのショーを見ているような、俳優のスター性を全面に出して「かっこいい」ポーズを決める演出が羅針盤のスタイルである。このスタイルは一見古めかしいかもしれないが、羅針盤はブレずにその指針を一貫してきた。そのように考えると、彼らにとって魔法少女とは営々と続けてきた彼らの演劇そのもののメタファーなのかもしれない。劇団が動きのキレや若いヴィジュアルを失いかけていることを自虐的に嗤いながらも、観客に魔法をかける演劇という夢はこれまでも続けてきたしこれからも続けていく。そんな決意を感じた上演だった。
この文章は2022年11月26日(土曜)19時半に公演された劇団浪漫好―Romanceー「なにもん芝居」(作・演出 高田 滉己)の劇評です。

 舞台は黒い八角形の舞台、舞台装置は特にない簡素な舞台。下手、上手には黒幕があり、袖を作っていた。舞台後方には大きなスクリーンがあり、前説の後、しばらくしてスクリーンにオープニングアニメーションが映し出された。
 
 劇団浪漫好-romance公演「なにもん芝居」は「人生保険」「化かし化かされ」「泣く子はいねぇか」の短編三本のオムニバス芝居である。当日配られたパンフレットの演出家挨拶にはそれぞれが独りしたお話で関連性はないという。

 最初の「人生保険」は交通事故で死んだ男(平田 渉一郎)が天使(岡島 大輝、志田 絢音、室木 翔斗、柳原 成寿)に来世の人生を保証するための契約を迫られるお話、寿命と引き換えにお金持ちになれたり、人気者になれたりする契約を天使が勧めてくるが、寿命を全うする普通の生活を望む男は一貫して拒否する。天使はほかの天使と手を組む。そして魔王とファビラス嬢が戦い、ファビュラス嬢が負ける荒唐無稽な状況を男にみせ、荒唐無稽な理屈で契約を迫ってくる。男はしぶしぶ契約を受け入れ、バズーカを手にして、魔王を倒す。そしてそのあとも契約を迫ってくる天使をバズーカで吹き飛ばして舞台は暗転する。

 次は「化かし化かされ」である。狐の面をつけた法被姿の男(山根 宝華)がでてきて、自分は占い師を騙る狐であると観客に向けて説明する。後に狐は女性客(山崎 真優)を迎え、占い始める。占う中で狐は女性客の正体が同類の女狐であると気づく。そして女狐は稲荷の白狐であると正体を明かし、占って欲しくて来たという。彼女は人間に憧れて、人間社会に入ったが、嘘をつく人間の姿を見て幻滅したという。その悩みに狐も共感し、歩み寄ろうとするが。女狐は豹変し、狐を動けなくすると狐の稼いだお金を奪っていくのであった。

 最後の話は「泣く子はいねぇか」。舞台前にて、町内のイベントで『なまはげ』をする青鬼と赤鬼の面つけた男(岡島 大輝、小石川 武人)が作戦会議をしている。彼らはこれからある家に押し入り「泣く子はいねぇか」と言いに行くのだ。だが、赤なまはげが入ったその家は夫婦(横川 正枝、室木翔斗)が離婚話の真っ最中の家だった。2人のなまはげは離婚間際の夫婦の迫力の前になすすべがない。そんな中、夫婦の子供(山根 宝華)が舞台上に出てくる。子供が出てきたので、再びなまはげを遂行する二人、なぜか子供に笑われる。その姿に赤なまはげは、子供を悲しませる離婚夫婦に『子供を楽しませるのは親の役目ではないか』と諭す。その姿には説得力があった。なまはげという人間味のある『なにもん』が見えた気がした。感化された夫婦はようやく対話し、誤解が解け、和解する家族。

 今回のなにもん芝居の3本は若い役者が多く、勢いや熱量が感じられたものの、作品全体を通してリアリティがなく、物語の展開を楽しむことができなかった。ここでいうリアリティとは物語を観客に信じさせる、また、展開される物語に観客を入り込ませる現実的要素のことである。ここでは特に「化かし化かせれ」と「泣く子はいねぇか」に触れる。 「化かし化かされ」では狐のキャラクターがぶれてしまっている。この狐は『人間をだますのが好きである』と冒頭で語っている。その理由として、人間社会に入ったときにいじめられたことを復讐としてあげている。ところが、ラストシーンで自分を騙した同類の女狐から神様にお目にかかってみたかったという理由で稲荷のあかしを取り上げる。なぜ、神様にお目にかかってみたいのか?人間をだますのが好きだという冒頭の設定とつながらない。こういう性格の人物だとうかびあがってこない。女狐とのやり取りにしても葉っぱの効果で正体がわかるというのはあまりに早すぎる上に簡単すぎるため、心理戦として成り立たず、物語に引き込まれない。本来、心理戦はもっと緻密なやり取りがあり、かまをかけたり、うかつに言った一言で上げ足をとられるものではないか。また、展開が早すぎるため、女性客がどんな人物なのかという人物の輪郭が見える前に正体をさらしてしまっているため、まるで意外性がない。 また、女狐が悩みとして告白するエピソードにしても短く端的で抽象的で、真実味がない、いじめられて悲しいという漠然とした雰囲気しか伝わらない。そのため、迫力がない。職場の人にどんなことをされたのか?具体的にどう思ったのか?想像させてほしい。 「泣く子はいねぇか」の夫婦は、なまはげが入ってきたときから、喧嘩をしている雰囲気は伝わるものの、何に怒っているのか、なぜ怒っているのか、芝居の中に具体的な中身が感じられず、怒っているポーズをとっているようにしか見えなかった。また、青なまはげが神だといった言葉をうのみにして質問しているさまは、離婚間際の夫婦というリアリティを崩壊させていた。この瞬間から私は、二人を離婚中の夫婦として見れなくなっていたと思う。

 人間ドラマをやるにしても、コメディをやるにしても舞台にはある程度のリアリティは必要である。でないと、物語を信じることはできないし、入り込めない。舞台にリアリティがなくなった途端に観客の心は舞台を俯瞰して、離れてしまう。赤なまはげのようになまはげという一貫した現実の役割があり、そこから脱線することで面白さが生じる。今回はとても簡素な舞台であり、観客を世界観に引き込むには舞台装置を頼ることができなかった。その分だけ、登場キャラクターが具体的な存在であり、リアリティを持たせなくてはいけなかった。しかし、今回の舞台では赤なまはげを除いて登場キャラクターもどこか輪郭がぼんやりとしていて不明瞭だった。また、キャラクターはどこかで見たことあるような典型的なキャラクター(離婚間際の夫婦など)なので、オリジナリティが感じられず、魅力的に見えなかった。これからはもっと具体性を持った物語創作を目指して、頑張ってほしい。
 この文章は、2022年12月3日(土)18:00開演の劇団血パンダ『冬の練習問題』についての劇評です。

 劇団血パンダは富山県で活動している劇団で、ホームページによると、一見日常的で、演技をしているのかどうかわからない演劇を上演している劇団らしい。団長である仲悟志の戯曲を旗揚げ以来上演しているそうでこの舞台の演出も、全編通して仲氏の何かしらのこだわりが感じられた。

 冒頭では、「何かを見て何かを考える男」(金澤一彦)が、「過去を振り返る男(石川雄士)のうなだれた様子に、気遣うような声をかけていた。「4年前に」、「このあいだ」等、曖昧で意味深な単語が交わされ、深刻な様子の相手に対し、薄ら笑いを浮かべたり、言いよどんだり、言葉が相手と重なり合って発声されたりしていた。会話の間(ま)は妙なリアリティーがあり、舞台上の演者ではなくそのへんにいる人のように感じる。今度は、「なにかを見直している女」(加美晴香)が、数学の勉強をしていた。その様子を「考えた事を伝えられない女」(長澤泰子)と「変わらない男」(小柴巧)が質問したり、茶化したりしていた。おのおの、「え~と」「う~ん」等、ごまかすような相づちが多い。会話の核心からはずれたり、核心をつく前に言った言葉が急に話の中で飛躍し、空想やたとえ話や哲学的思想によっていって、その抽象的な感覚について共感し合ったりする。とはいえど、「ガチのやつだ」とか、「マジ」などかなり現代っぽい言葉づかいも挟まれる会話は、こちらの注意をひきつけ、普段意識していない人の心理について、深く洞察された内容もあり、芝居も計算されている感じがあって、興味深かった。
 しかしながら、次第にある感情が沸き上がった。率直に申し上げると、「なんか変」と思った。ではどこが変なのか。と聞かれるとうまく説明できない。会話の接続詞が変なのか。各役が話す会話に何かしら言葉が足りない。いやそもそも話の筋が見えない。場面が変わってもそんな疑問で頭がぐるぐるして、集中力も途切れはじめたころ、唐突に異音が響き始めた。音で異変を感じた者らが入ってきて、緊迫した雰囲気になり、会話の中からここが観測所だとわかった。「12年前とは違う動き」とか「線ではなく面で、切断面が怖い」などと言い合う会話から、筆者はこの間見た、「シンゴジラ」でのゴジラの検証シーンを思い浮かべた。これまでのフックとなった言葉から、この物語の全容が明らかになると期待した。
 しかしまたも場面が変わり、今度は「思いついたことを組み合わせる男」(山﨑広介)がスープを作ってきて、「考えた事を伝えられない女」とスープについて数学の時と同じように語り合っている。オリーブオイルを使っているとか、焦げた玉ねぎがどうだとか、つい先ほどの異音についても断片的に触れられる程度でもどかしかった。味を「寸止め」と形容し、同じような言葉を繰り返す会話がまた交わされた。そしてとうとう大きな進展もないまま舞台は終わりを迎えた。例えるなら、もともと緻密に作られていた、完成されたジグソーパズルを、バラバラにし、多くのパズルのピースを意図的になくし、再度組み立てたものを見せられたような感じがした。なんとも不可解で、こちらが寸止めである。
 「小劇場演劇は、根底に深い思想やメッセージを表現するもの」と私は考えていた。私は、異音や急遽避難が必要な観測所での様子を、災害や戦争や原発等の社会問題と強引に結びつけようとしたが、そうでなない気がした。それらは単に話のテーマにしただけにすぎず、仲氏は意図的に話を構成しないように細工して、観客にあえて消化不良を起こさせたのではないか。アフタートークで語った「消費されるのではなく記憶に残る」強い芝居になるようにしたのではないか。
 パンフレットの前口上に、演劇をはじめた時期、後に死刑となった人との出会いの話があった。仲氏の中で、潜在的にリンクした、記憶に残る出来事だったようだ。
観客に消費させない事で、客らの記憶に残し、その強さで客のその後の人生できっかけを起こさせる。記憶に残さなければ意味がない。今回の舞台でその実験が出来たのではないかと思う。
この文章は、2022年12月10日(土)20:00開演の劇団羅針盤『魔法少女続けました+LOVE!!』についての劇評です。

劇団羅針盤『魔法少女続けました+LOVE』は、現代のスーパーマーケットを舞台にした前半と、大正時代を舞台にした後半の2部構成だ。

14歳から25年間魔法少女を続けている吉乃森(宮崎裕香)。彼女が働くスーパーに、魔法少女オタクの太田(能沢秀矢)が面接にやってくる。気が弱そうで優しそうな店長(平田知広)の下で働きながら太田は魔法少女の秘密とその敵の正体を知ることになる。

前半はテンポがよく、地元ネタの笑いをふんだんに取り入れていた。ただ、地元銀行とそっくりな制服の高校がどこなのかピンとこなかったり、地名はわかるけどそこから繋がるあるあるネタが理解できなかったり、わからないものも多かったのでテンポが良い分、置いてけぼり感が残った。25年間魔法少女を続けているという設定は、長くアイドルとして活動しているTOKIOなどが思い起こされてとても希望があると思った。残念だったのは吉乃森が魔法少女として戦う場面がなかったことだ。戦う描写は太田と店長が2本の指を人の足に見立てて、再現をしたものだった。この再現そのものは男子二人がごっこ遊びをしているようで、前半軽やかさを感じさせる場面の一つだった。そこに吉乃森が魔法少女として戦う場面があれば、前半は完ぺきだったと思う。設定としては変身するとチラシや当日のパンフレットにあるような「ジュエルウィッチバニー」の姿になるのだろうか。太田は光に包まれてよく見えなかったから吉乃森の年齢の女性が魔法少女だとは気づかなかったという。その光が物理的なものか、ファンであるため憧れすぎて直視できなかったのか。どちらにせよ、25年のキャリアを積む魔法少女に期待していたし、その姿に熱狂したかった。

後半は遡って大正時代。東雲一族は鉱石を採掘し精錬して様々な形の武器を作っていた。前半に魔法少女・吉乃森役の宮崎裕香が一族の一人である東雲ハルを、悪の組織とつながっていた店長役の平田知大は元居た組織から追われている爺さんを、魔法少女オタク太田役の能沢秀矢は爺さんが抜けた組織のナンバー3である三郎を演じた。東雲一族が海外から来た魔法を取り入れて魔法アイテムであるほうきを作ったことで魔法少女は生まれた。この時生まれた魔法少女は鉱石の採掘場で一緒に働いているチヨ(澤田京華)だ。ここから現代の魔法少女に繋がるのだろう。

大正時代の後半が終わると、現代のスーパーマーケットに舞台を戻すことなくエンディングとなった。すべてのキャストの決めポーズで締めくくるのだが、魔法少女チヨはしっかり魔法少女のコスチュームをまとった姿で登場する。スーパーの吉乃森さんは相変わらずエプロン姿だし、「ジュエルウィッチバニー」のトレードマークであるツインテールでもない。ここでちょっとした疑問がわく。コスチュームの有り無しは、どこで線引きをしているのだろうか。チヨとスーパーのエプロンを付けた吉乃森さんが、それぞれのほうきを持ってポーズを作る。その場面でさえ変身しない吉乃森さんに変身させない理由はなんだろう。前半と後半とで魔法少女に対する扱い方が違うのはどうしてなのか。

前半と後半の繋がりを示す存在としてあった、「ラリーくん」にも疑問がある。ライオンのぬいぐるみに似た「ラリーくん」はそれ自体がどのような力を持つものがわからなくて、結果的に前半と後半を物語としてつなげることを難しくしていた。もう一つ、スーパーにあった「精錬潔白」の札も大正時代からつながるヒントだったが、こちらももう少し説明が欲しいところだ。また、組織を抜けた爺さんと追う三郎の攻防がアクセントとしては強すぎたし、メインだとしたら前半と後半の印象が違いすぎて一つの作品としてとらえることが難しくなる。大正時代はもう少し魔法少女の謎解きを中心に展開したほうがわかりやすかったのではないだろうか。

劇団羅針盤は一見わかりやすい受け狙いの会話や派手な殺陣で取っ掛かりがよさそうに見える。だが、その割合を間違えると主張や物語の筋など、本来伝えたいものが見えにくくなる。それが意図的なのかそうでないのかわからない。彼らはこの「かなざわリージョナルシアターげきみる」に毎回のように参加している石川県内では中堅の劇団だ。この先も長く活動を続けてほしい。だからこそノリや勢いだけでなく、もう少し作り手の考えや思いが伝わる表現にシフトしてもいいのではないかと思う。

(以下は更新前の文章です)



劇団羅針盤『魔法少女続けました+LOVE』は、スーパーを舞台にした前半と、大正時代を舞台にした後半の2部構成だ。

14歳から25年間魔法少女を続けている吉乃森(宮崎裕香)。彼女が働くスーパーに、魔法少女オタクの太田(能沢秀矢)が面接にやってくる。気が弱そうで優しそうな店長(平田知広)の下で働きながら太田は魔法少女の秘密とその敵の正体を知ることになる。

前半はテンポがよく、地元ネタの笑いをふんだんに取り入れていた。地元ネタはわからないものも多かったのでテンポが良い分、置いてけぼり感が残った。25年間魔法少女を続けているという設定は、とても希望があると思った。残念だったのは吉乃森が魔法少女として戦う場面がなかったことだ。戦う描写は太田と店長が2本の指を人の足に見立てて、再現をしたものだった。この再現そのものは男子二人がごっこ遊びをしているようで、前半軽やかさを感じさせる場面の一つだった。そこに吉乃森が魔法少女として戦う場面があれば、前半は完ぺきだったと思う。設定としては変身するとチラシや当日のパンフレットにあるような「ジュエルウィッチバニー」の姿になるのだろうか。太田は光に包まれてよく見えなかったから吉乃森の年齢の女性が魔法少女だとは気づかなかったという。その光が物理的なものか、ファンであるため憧れすぎて直視できなかったのか。どちらにせよ、25年の歳月を感じる魔法少女が目の前に現れたら、私のテンションは上がっただろう。

後半は遡って大正時代。東雲一族は鉱石を採掘し精錬して様々な形の武器を作っていた。前半に魔法少女・吉乃森役の宮崎裕香が一族の一人である東雲ハルを、店長役の平田知大は元居た組織から追われている爺さんを、魔法少女オタク太田役の能沢秀矢は爺さんが抜けた組織のナンバー3である三郎を演じた。東雲一族は海外から来た魔法を取り入れて魔法アイテムであるほうきを作ったことで魔法少女が生まれた。この時生まれた魔法少女は鉱石の採掘場で一緒に働いているチヨ(澤田京華)だ。スーパーの吉乃森さんとは違って、しっかり魔法少女のコスチュームをまとった姿で登場した。ここでちょっとした疑問がわく。コスチュームの有り無しは、どこで線引きをしているのだろうか。エンディングにコスチューム姿のチヨとスーパーのエプロンを付けた吉乃森さんが、それぞれのほうきを持ってポーズを作る。その場面でさえ変身しない吉乃森さんに変身させない理由はなんだろう。

前半と後半の共通点であるライオンのぬいぐるみに似た「ラリーくん」は、魔法少女がスーパーで働く世界とをつなぐアイテムだったが、「ラリーくん」自体がどのような力を持つものがわからなくて、結果的に前半と後半を物語としてつなげることを難しくしていた。もう一つ、スーパーにあった「精錬潔白」の札も大正時代からつながるヒントだったが、こちらももう少し説明が欲しいところだ。また、スーパーで働く3人と同じ役者が演じる大正時代の3人は少し捻りが強すぎて、繋がりのヒントだとしたらわかりづらい。さらに、組織を抜けた爺さんと追う三郎の攻防がアクセントとしては強すぎたし、メインだとしたら前半と後半の印象が違いすぎて一つの作品としてとらえることが難しくなる。大正時代はもう少し魔法少女の謎解きを中心に展開したほうがわかりやすかったのではないだろうか。

構成的に大正時代の後のもう一度現代のスーパーで戻ってわかりやすい答え合わせが欲しかった。羅針盤は一見わかりやすいパフォーマンスで取っ掛かりが良いものしているが、本質をパフォーマンスで見えにくくしている。それが意図的なのかそうでないのかわからないが、もう少し作り手の考えや思いが伝わる表現にシフトしてもいいのではないかと思う。
この文章は、2022年12月10日(土)20:00開演の劇団羅針盤『魔法少女続けました+LOVE!!』についての劇評です。

劇団羅針盤第55回公演のタイトルは『魔法少女続けました+LOVE!!』。公演チラシの裏にある文章は「あれから25年。私はまだ、魔法少女です。そして。」と締められている。25年もの間、彼女は何を思い、魔法少女であり続けてきたのか。興味が湧いた。羅針盤と言えば殺陣を多用した動きから見せるかっこよさが、劇団の特徴として挙げられる。今回は女性が主人公なのであろうから、どのように女性のかっこよさを、それも歳を重ねた女性の物語として、表現してくれるのだろうかと思っていた。

黒い舞台には、大きさの違う四角い箱状の物がいくつか置かれている。それらは四角に組んだパイプに布を張って作られているようである。背後には黒い壁があり、下手側には「精錬潔白」という文字が書かれた看板がある。その横にある箱の上には、ライオンのような黄色いぬいぐるみが置いてある。

アナウンス(声:矢澤あずな)が流れる。「レジ応援、お願いします」。しかしエプロン姿の吉乃森(宮崎裕香)は箱に腰掛けていて、動かない。そこはスーパーのバックヤードのようだ。店長(平田知大)が、万引きをした男性(能沢秀矢)を連れてやってくる。だが、彼は万引き犯ではなかった。スーパーのチラシに載った暗号を解いて彼はやってきたのだ。スーパーは、実は魔法少女「ジュエルウィッチバニー」(以下、バニー)の司令基地であった。バニーのファンである男性・太田は、バニーをサポートする魔法助手になることを志望している。吉乃森がバニーの正体であることを知った太田は、自分が憧れていたバニーとは違うと失望する。だが、秘密を知ってしまった彼は、司令基地で働かされることとなる。店内放送は出撃の合図だ。敵を倒しにバニーは出撃するが、彼女は強敵と引き分けて戻ってくる。なぜ強い必殺技が使えないのかと問う太田。宝石の力を使っているバニーが必殺技を使うには、お金がかかるのだと店長。そこで太田はフェスを開催し、ファンの力、お金を集めることを企画する。魔力が枯渇し、長時間変身できない吉乃森だが、気力を振り絞り舞台に臨む。

今作は二部構成となっていて、ここまでが前編となる。前編は、2022年7月に上演された『魔法少女続けました』の内容と同じであるようだ。前編中で最も気になったのが、魔法少女として吉乃森が戦う場面がないことだ。戦闘の場面は、平田と能沢が手を人に見立て、指を動かして表現するのである。少女ではなくなった女性が、どのように魔法少女であるのか、できれば役者が演じる形で観たかった。そして、彼女が重ねてきた25年間の思いをもっと吐露してほしかった。

続く後編は、大正時代の話であった。東雲ハル(宮崎裕香)の指揮の下、爺さん(平田知大)、マサシ(小松航大)、チヨ(澤田京華)が鉱物を掘り出す。それに、おキクさん(寺嶋佳代)が売りにくる材料も加えて、彼らは魔法道具と呼ばれる物を錬成している。その道具は、魔女という存在が使用しているようだ。そこに刀を携えた男(能沢秀矢)が現れる。男は世界を変えようと企む団体に所属しており、目的達成のために爺さんの力を必要としているのだ。この後編でハル達が作った魔法道具が、後世に受け継がれていくのだと思われる。前編と後編、それぞれの最後のシーンが重り合うイメージを見せて、物語は終わる。多くの人々の思いを乗せた魔法道具を手に、魔法少女という存在は戦い続けている。

羅針盤が届けるものはかっこいいものであらねばならない、のかもしれない。だから、歳を重ね若い頃のようには動けない姿は、見せにくいのかもしれない。この点で、今回のテーマである年月を経た魔法少女と、長く活動を続けている羅針盤は重なり合っている。しかし魔法少女というテーマを使い、長い活動の年月を描く試みは、上手くいっていないように思えた。若さを重要視する社会のイメージに、疑問を突き付けることを行っていないように感じられたのだ。若さがもてはやされるこの社会では、歳を重ねながら若く見える行動を取る人物が、嘲笑を浴びてしまうこともある。若さはまた、ルッキズムの問題にも絡んでいて、見た目のみでの評価は差別につながる。扱いが難しい題材であることは間違いがない。だが、あえてこの題材を選んだからには、舞台上で、歳を重ねてもずっと何かを続けてきたことへの羅針盤の思いを、生身の人間が演じる事によって、もっと伝えてほしかった。

以前のように動くことはできないのかもしれない。でもそれをネガティブにばかり捉えなくてもいいと思うのだ。どうにもならなさを越えて、それでもやりたいという、諦められない思いがあることは伝わる。かっこわるさの中にもかっこよさが滲み出ることがあるのではないか。その表現ができるだけの経験を、羅針盤は積んできていると思うのだ。


(以下は更新前の文章です)


劇団羅針盤第55回公演のタイトルは『魔法少女続けました+LOVE!!』だ。公演チラシの裏にある文章は「あれから25年。私はまだ、魔法少女です。そして。」と締められている。25年の間、彼女は何を考えて魔法少女であり続けてきたのか。興味が湧いた。羅針盤と言えば殺陣を多用した動きから見せるかっこよさが、劇団の特徴として挙げられる。今回は女性が主人公なのであろうから、どのように女性のかっこよさを表現してくれるのだろうかと思っていた。ただ、『魔法少女続けました+LOVE!!』』は、続編である。前作を観ていないので、ついていけるのかと不安もあった。

黒い舞台には、大きさの違う四角い箱状の物がいくつか置かれている。それらはパイプに布を貼って作られているようである。背後には黒い壁があり、下手側には「精錬潔白」という文字が書かれた看板がある。その横にある箱の上には黄色いぬいぐるみが置いてある。

アナウンス(声:矢澤あずな)が流れる。「レジ応援、お願いします」。しかしエプロン姿の吉乃森(宮崎裕香)は箱に腰掛けて休んでいて、動かない。そこはスーパーのバックヤードであるようだ。店長(平田知大)が、コートを着た男性(能沢秀矢)を連れてやってくる。彼がリンゴ3個を万引きしたらしい。吉乃森に後を任せて店長はレジ応援に入る。だが、彼は万引き犯ではなかった。彼はスーパーのチラシに載った暗号を解き、そこで指示された行動を取った。スーパーは仮の姿で、そこは魔法少女「ジュエルウィッチバニー」の司令基地であることが、2人の会話から明らかになる。ジュエルウィッチバニー(以下、バニー)のファンである男性・太田は、バニーをサポートする魔法助手になることを志望している。

しかし、吉乃森がバニーの正体であることを知ると、太田は失望する。自分が憧れていた魔法少女とは違うと。だが、秘密を知ってしまった彼は、司令基地で働かされることとなる。店内放送は、実は出撃の合図であった。敵を倒しにバニーは出撃するが、彼女は強敵と引き分けて戻ってくる。なぜ強い必殺技が使えないのかと問う太田。宝石の力を使っているバニーが必殺技を使うには、お金がかかるのだと店長。そこで太田はフェスを開催し、ファンの力、お金を集めることを企画する。魔力が枯渇し、長時間変身できない吉乃森だが、気力を振り絞り舞台に臨む。

ここまでが以前上演された『魔法少女続けました』の内容であるようだ。今回の再演にあたり前編としてまとめたためか、少々駆け足になっている感があった。そして内容だが、魔法少女として吉乃森が戦う場面はない。戦闘の場面は、平田と能沢が指を使って表現するのである。少女ではない女性が、どのように魔法少女であるのか、できれば役者が演じる形で観たかった。そして彼女の25年間の思いをもっと吐露してほしかった。

しかし、25年という年月を描くには困難がある。若さがもてはやされるこの社会では、歳を重ねながら若く見える行動を取る人物が、嘲笑を浴びてしまうこともある。若さはまた、ルッキズムの問題にも絡んでいて、見た目のみでの評価は差別につながる。扱いが難しい題材であることは間違いがない。だが、あえてこの題材を選んだからには、舞台上で、歳を重ねながら何かを続けてきたことへの羅針盤の思いを、もっと伝えてほしかったのだ。

年齢の問題を取り上げるのではなく、太田と吉乃森の二人の関係性から「オタクと推し」を主題として描く方向へ進むのかとも思ったが、そうではなかった。推しと共に年齢を重ねていく、オタクの葛藤と喜びを描く脚本にもなり得たように思う。

続く後編は、大正時代の話であった。東雲ハル(宮崎裕香)の指揮の下、爺さん(平田知大)、マサシ(小松航大)、チヨ(澤田京華)が鉱物を掘り出す。それに、おキクさん(寺嶋佳代)が売りにくる材料も加えて、彼らは魔法道具と呼ばれる物を錬成している。その道具は、魔女という存在が使用しているようだ。そこに刀を携えた男(能沢秀矢)が現れる。男は爺さんの元弟子で、爺さんを引き戻したいらしい。男は世界を変えようと企む団体に所属しており、目的達成のために爺さんの力を必要としているのだ。

後編でハル達が作った魔法道具が、後世に受け継がれていくのだと思われる。前編と後編、それぞれの最後のシーンが重り合うイメージを見せて、物語は終わる。多くの人々の思いを乗せた魔法道具を手に、魔法少女という存在は戦い続けている。

ただ、その敵の正体が判然としない。敵は男が所属していた団体だけではなさそうだ。他にも設定は盛りだくさんであったが、あれはどういうことだったのだろう?という疑問が多数残る。何より、魔法少女が長い間、戦い続けている理由を納得させてほしかった。

羅針盤が届けるものはかっこいいものであらねばならない、のかもしれない。だから、歳を重ね若い頃のようには動けない姿は、見せにくいのかもしれない。しかし、かっこわるさの中にもかっこよさが滲み出ることがあるのではないか。その表現ができるだけの経験を、羅針盤は積んできていると思うのだ。