(劇評)「記憶に残す効果」舟木香織   | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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 この文章は、2022年12月3日(土)18:00開演の劇団血パンダ『冬の練習問題』についての劇評です。

 劇団血パンダは富山県で活動している劇団で、ホームページによると、一見日常的で、演技をしているのかどうかわからない演劇を上演している劇団らしい。団長である仲悟志の戯曲を旗揚げ以来上演しているそうでこの舞台の演出も、全編通して仲氏の何かしらのこだわりが感じられた。

 冒頭では、「何かを見て何かを考える男」(金澤一彦)が、「過去を振り返る男(石川雄士)のうなだれた様子に、気遣うような声をかけていた。「4年前に」、「このあいだ」等、曖昧で意味深な単語が交わされ、深刻な様子の相手に対し、薄ら笑いを浮かべたり、言いよどんだり、言葉が相手と重なり合って発声されたりしていた。会話の間(ま)は妙なリアリティーがあり、舞台上の演者ではなくそのへんにいる人のように感じる。今度は、「なにかを見直している女」(加美晴香)が、数学の勉強をしていた。その様子を「考えた事を伝えられない女」(長澤泰子)と「変わらない男」(小柴巧)が質問したり、茶化したりしていた。おのおの、「え~と」「う~ん」等、ごまかすような相づちが多い。会話の核心からはずれたり、核心をつく前に言った言葉が急に話の中で飛躍し、空想やたとえ話や哲学的思想によっていって、その抽象的な感覚について共感し合ったりする。とはいえど、「ガチのやつだ」とか、「マジ」などかなり現代っぽい言葉づかいも挟まれる会話は、こちらの注意をひきつけ、普段意識していない人の心理について、深く洞察された内容もあり、芝居も計算されている感じがあって、興味深かった。
 しかしながら、次第にある感情が沸き上がった。率直に申し上げると、「なんか変」と思った。ではどこが変なのか。と聞かれるとうまく説明できない。会話の接続詞が変なのか。各役が話す会話に何かしら言葉が足りない。いやそもそも話の筋が見えない。場面が変わってもそんな疑問で頭がぐるぐるして、集中力も途切れはじめたころ、唐突に異音が響き始めた。音で異変を感じた者らが入ってきて、緊迫した雰囲気になり、会話の中からここが観測所だとわかった。「12年前とは違う動き」とか「線ではなく面で、切断面が怖い」などと言い合う会話から、筆者はこの間見た、「シンゴジラ」でのゴジラの検証シーンを思い浮かべた。これまでのフックとなった言葉から、この物語の全容が明らかになると期待した。
 しかしまたも場面が変わり、今度は「思いついたことを組み合わせる男」(山﨑広介)がスープを作ってきて、「考えた事を伝えられない女」とスープについて数学の時と同じように語り合っている。オリーブオイルを使っているとか、焦げた玉ねぎがどうだとか、つい先ほどの異音についても断片的に触れられる程度でもどかしかった。味を「寸止め」と形容し、同じような言葉を繰り返す会話がまた交わされた。そしてとうとう大きな進展もないまま舞台は終わりを迎えた。例えるなら、もともと緻密に作られていた、完成されたジグソーパズルを、バラバラにし、多くのパズルのピースを意図的になくし、再度組み立てたものを見せられたような感じがした。なんとも不可解で、こちらが寸止めである。
 「小劇場演劇は、根底に深い思想やメッセージを表現するもの」と私は考えていた。私は、異音や急遽避難が必要な観測所での様子を、災害や戦争や原発等の社会問題と強引に結びつけようとしたが、そうでなない気がした。それらは単に話のテーマにしただけにすぎず、仲氏は意図的に話を構成しないように細工して、観客にあえて消化不良を起こさせたのではないか。アフタートークで語った「消費されるのではなく記憶に残る」強い芝居になるようにしたのではないか。
 パンフレットの前口上に、演劇をはじめた時期、後に死刑となった人との出会いの話があった。仲氏の中で、潜在的にリンクした、記憶に残る出来事だったようだ。
観客に消費させない事で、客らの記憶に残し、その強さで客のその後の人生できっかけを起こさせる。記憶に残さなければ意味がない。今回の舞台でその実験が出来たのではないかと思う。