(劇評)「現状を変えたいのに堂々巡り」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2020年10月31日(土)19:00開演のProject=A Night of Parricides『親殺したちの夜』についての劇評です。

金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたProject=A Night of Parricides『親殺したちの夜』(作:ホセ・トリアーナ、構成・演出:本庄亮)は、兄ラロ(田中祐吉)と2人の妹クカ(下條世津子)、ベバ(古林絵美)が親殺しのゲームに耽ることで抑圧的な両親への鬱憤を晴らすという内容だった。舞台上にはサーカスのテント小屋みたいなセットが設置されている。中央の一番高い主柱から四隅の支柱へ向かって透明なビニールの覆いを斜めに張り渡し、屋根代わりとした。支柱から支柱へは透明なサランラップをぐるりと巻き付け、周囲の壁に見立てている。内部には机や椅子、灰皿、花瓶などの家財道具が置かれているが、通常よりもサイズが小さいため、ままごとのオモチャらしくも見えた。

30歳のラロが今夜も親殺しのゲーム開始を宣言し、真面目な性格のクカや20歳の末っ子ベバも巻き込んでいく。ラロの殺人が発覚するや、新聞に事件の記事が掲載されたり、逮捕されたラロが裁判にかけられたり、と芝居は続く。3人でさまざまな役を演じ分けながらストーリーが展開する。さらに殺されたはずの両親が証言台に立ち、過去の苦労や内緒にしていた罪を告白したりする。母は綺麗な赤い服ほしさに戸棚にしまっておいたお金を持ち出すが、ラロが盗んだことにした。おかげでラロは父親からこっぴどく鞭打たれてしまった、などのエピソードも次々と明るみに出されていく。

この物語の面白さは、大衆の好奇心をそそる刺激的なドラマと見せかけつつ、実は関係者の弁解や裁判の証言などを通じて5人家族の平凡でかけがえのない日常生活が次第に浮き彫りにされていく過程だと思う。しかし、今回の上演では、役者たちがピエロみたいな白塗りのメークを施している時点で、最初からファンタジーの世界を描いているように感じられた。登場人物がゲームを中断してふと素顔に戻った時も、ずっとフィクションの中にいるようだった。その結果、幼い頃に虐待されたアダルト・チルドレンたちが、ひきこもりの現状を変えたいにもかかわらず、妄想の中で堂々巡りを続け、異常にテンションの高い親殺しの儀式をひたすら繰り返す姿ばかりが印象に残った。それもまた、この戯曲の一面ではあるのだが。

原作の戯曲(翻訳:佐竹謙一/水声社刊「ラテンアメリカ現代演劇集」収載)を読んでみると、兄妹たちは実際には父も母もいる家の中で、彼らの目を盗みながら屋根裏部屋あるいは地下室で親殺しの芝居を演じているのだった。ラロの暴君ぶりに耐えかねたクカが、母親に言い付けに行くそぶりを見せるなど、親たちにいつバレるかわからないスリリングな状況でゲームは繰り広げられていた。

戯曲の中にこんなセリフがあった。

クカ「パパとママはいつだって兄さんに気を配り、愛していたことは事実よ」
ラロ「あんな風な愛情なんてまっぴらさ。彼らにとってみれば、おれの存在なんて生身の人間だってことを除けば、何だってよかったんだ」(p65)

ここでは両親が彼らなりの方法でラロを愛しており、彼自身もそれを認めている。しかし、その愛し方が気に入らないと文句をつけているのだ。また、彼は裁判ごっこの中で、両親を殺した動機について、次のように口述する。

ラロ「自分としては(中略)あたりまえの人生を送りたかっただけです。(中略)ずっと自分一人で行動することを望んでいたんです、必死の思いでそう願っていたんです」(p96)

ラロ「自分はわかってました、あの人たちが与えてくれた人生は普通の生き方ではなかったってことを、またそうなりえないってこともね。それで自分にこう言い聞かせました、『普通の生活を送りたければ、やるしかない……』と」(p98)

単純に暴力的な抑圧が問題なのではなく、生き方に関する価値観の違いから殺意が生じており、これはもう解決策はどこにもないような気がした。

私自身、すでに父母を亡くしているにもかかわらず、今だに時折り「親を殺したい」と呪うことがある。今回、キューバの作家が1964年に書いたこの戯曲を読み、同じことを考える人がいたと驚かされた。私を産んでくれたことには感謝するが、なぜこうもイケメンでないのか?もっと天才的に、もっとスポーツ万能に育ててくれなかったか……等々、不満や言いたいことは山ほどもある。すべては私の劣等感を誰かのせいに転嫁したいだけなのだが。

今回の上演における解釈は「親殺し」というタイトルのイメージに引きずられ過ぎたのではないだろうか。どうにか苦労しながら生きてきた家族の歴史や子どもたちがそれでもやはり親を愛していることなど、戯曲がはらんでいる豊かなニュアンスを生かしきれなかったのは残念だと思う。