(劇評・11/4更新)「思いを乗せて列車は走る」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2020年10月24日(土)19:30開演のProduce Unit 数寄屋道楽『米原ー金沢』についての劇評です。

 パイプ椅子が整然と並べられていた。上手側に2席×6列、通路を開けて、下手側に2席×5列。『米原ー金沢』(脚本・演出:兵藤友彦)という、この芝居のタイトルが表すように、列車内を模している。舞台に置かれている物はこの椅子だけだ。客入れ時から、上手の、客席から見て最後列に男(長山裕紀)が一人座っている。最前列には、小さなハンドバッグが置いてある。やがてハンドバックの所に女(清水万鳳)がやってくる。その後、男(新保正)が一人、下手側の座席の前から2列目に座る。しばらくして発車のベルが鳴り響く中、黒いスーツ姿の男、関家(関家史郎)が車内に飛び込んでくる。その後に続く黒いスカートの女(吉野佳子)。彼は彼女を窓際の席に座らせると、自分も隣に座る。列車が動き出し、車内アナウンスが流れる。静かな車内で、人々は振動に揺られている。そこに、大きな声で喋る男(井口時次郎)と、もう一人の男(春海圭祐)が車両を移動してくる。

 男女二人組と、男性二人組は、それぞれ話しあうことがあるが、乗客達は皆、その他の乗客と直接関係することはない。一人で乗っている者は、ただ黙って到着を待つ。長い乗車時間にすることもなく、彼らはそれぞれ、様々なことに思いを馳せる。劇中で彼らが発する言葉は、そんな心の内を表現した独白である。

 特急列車に長時間乗ったことのある人なら、このような環境においてぼんやりと考え事をしてしまう状態になることがわかるのではないだろうか。とりとめのない思いが浮かんでは消えるその時間は、生産性のない無駄な時間であるかもしれない。しかし、その緩やかな時間の中で、人は少しずつ自分を変えていく。列車に乗った時の自分から、列車を降りる時の自分へ。彼らはそれぞれに思い浮かべる。自分が向かう場所のこと、自分の今について、過去について、これからについて。思いを巡らせることで、何か明確な答えが欲しいわけではない。ただ、各々の乗客達が列車に乗るまでに動き回ってきた間で、自分の中に溜まった情報と感情を整理したい気持ちはあるのではないか。

 登場人物の中でも、男女の二人組が何やら訳あり気に見える。二人は取引関係にある会社の社員だ。関家は四国地区を統括しており、金沢から松山へ頻繁に出張している。女は松山で勤めている。女はボストンバッグを持っているのだが、その中には現金が詰まっている。会社の金庫から横領してきたらしい。どこか挙動不審な彼らは不倫関係にあることが、モノローグを重ねることでわかってくる。なぜ横領したのか。そしてなぜ自分を追ってきたのか。彼女の心のうちは語られたとしても、関家との思い出に関するものばかりで、行動の理由は最後まで明かされない。

 謎はもう一つある。二人組のうちの一人、声の大きな男が突然、レモンを一つ取り出す。それは何かと同行者に尋ねられると彼は、お守りだと返す。だがしばらく後に、レモンを彼は通路にぽとりと落とす。そのレモンに気付いた関家は、恐る恐る近づくとレモンを手に取る。その瞬間、車内が赤い光に包まれる。そして乗客達の思い出の場面が、乗客それぞれによって繰り返し再現される。何度も何度も繰り返される、彼らの心に引っかかっている場面。それらをただ眺めることしかできない関家。レモンは彼に何を為したのか。半密閉空間である車内では、空気の完全な入れ替えはできない。いくらかぬるくなった風な空気が車内には漂っていただろう。そんな現実の空気と同じように、乗客達が囚われている思い出の場面も、もやもやと色濃く彼らの脳内に渦巻いていたことを、レモンが関家の頭の中に可視化したのではないか。行き場のない思いを、関家も、他の乗客達も抱えていた。その重い空気を凝縮するきっかけになったのが、もやもやとした空気とは対称的な、レモンの爽やかな芳香だったのではないか。

 関家が我に返った後も、列車は走り続けていく。そして終点である金沢に着く。ここが目的地である者もいれば、ここから先へ向かう者もいる。たった2時間弱乗り合わせただけの、もう二度とすれ違うことはないだろう乗客達。数え切れない人とすれ違い、そのほとんどの人について何も知ることはできずに、それぞれが自分の目的地を目指して進んでいく。その、知られるはずのなかった誰かの思いを垣間見ることができる機会のひとつが、演劇だ。誰かが何かを思いながら生きていること、そして自分もそうであること。しばし確認して、少しの共感を覚えたり、反感を持ったりもするかもしれない。たとえ、終演すれば頭から消えてしまうとしても。そのたった一時を作るための時間が、『米原ー金沢』だった。


(以下は更新前の文章です)


 パイプ椅子が整然と並べられていた。上手側に2席×6列、通路を開けて、下手側に2席×5列。『米原ー金沢』(脚本・演出:兵藤友彦)という、この芝居のタイトルが表すように、列車内を模している。舞台に置かれている物はこの椅子だけだ。客入れ時から、上手の、客席から見て最後列に男、長山(長山裕紀)が一人座っている。最前列には、小さなハンドバッグが置いてある。やがてハンドバックの所に女、清水(清水万鳳)がやってくる。その後、男、新保(新保正)が一人来て、下手側の座席の真ん中辺りに座る。しばらくして、発車のベルが鳴り響く中、黒いスーツ姿の男、関家(関家史郎)が車内に飛び込んでくる。その後に続く黒いスカートの女、吉野(吉野佳子)。彼は彼女を窓際の席に座らせると、自分も隣に座る。列車が動き出し、車内アナウンスが流れる。静かな車内で、人々は振動に揺られている。そこに、大きな声で喋る男、井口(井口時次郎)と、もう一人の男、春海(春海圭祐)が車両を移動してくる。

 男女二人組と、男性二人組は、それぞれ話しあうことがあるが、乗客達は皆、その他の乗客と直接関係することはない。乗客がまばらな車両ではあるが、それでも公共の場。人目を気にしながら過ごさねばならない。特に一人で乗っている者は、ただ黙って到着を待つのみである。新保は時折、本を広げたりなどしていたが。長い乗車時間に行うこともなく、彼らはそれぞれ、様々なことに思いを馳せる。劇中で彼らが発する言葉は、そんな心の内を表現した独白である。

 特急列車に長時間乗ったことのある人なら、このような環境においてぼんやりと考え事をしてしまう状態になることが、わかるのではないだろうか。とりとめのない思いが浮かんでは消えるその時間は、生産性のない無駄な時間であるかもしれない。しかし、その緩やかな時間の中で、人は少しずつ自分を変えていく。列車に乗った時の自分から、列車を降りる時の自分へ。
 彼らはそれぞれに思い浮かべる。自分が向かう場所のこと、自分の今について、過去について、これからについて。思いを巡らせることで、何か明確な答えが欲しいわけではない。ただ、列車に乗るまでに動き回ってきた間に、自分の中に溜まった情報と感情を、整理したい気持ちはあるのではないか。

 登場人物の中でも、男女の二人組が何やら訳あり気に見える。二人は同じ会社の社員だ。関家は四国地区を統括しており、金沢から松山へ頻繁に出張している。吉野は松山で勤めている。どこか挙動不審な彼らは不倫関係にあることが、モノローグを重ねることでわかってくる。女はボストンバッグを持っているのだが、その中には現金が詰まっている。会社の金庫から吉野が横領してきたらしい。なぜそのようなことをしたのか。そしてなぜ自分を追ってきたのか。関家には吉野の行動がわからない。彼女の心のうちは語られたとしても、関家との思い出に関するものばかりで、行動の理由は最後まで明かされない。

 謎はもう一つある。井口が突然、レモンを一つ取り出す。それは何かと春海に尋ねられると井口は、お守りだと返す。だが、そのお守りであるレモンを、井口は通路にぽとりと落とす。そのレモンに気付いた関家は、恐る恐る近づくと、レモンを手に取る。その瞬間、車内が赤い光に包まれる。そして乗客達の思い出の場面が、乗客それぞれによって繰り返し演じられる。何度も何度も繰り返される思い出の場面。それらをただ眺めることしかできない関家。レモンは彼に何を為したのか。
 半密閉空間である車内では、空気の完全な入れ替えはできない。いくらかぬるくなった風な空気が車内には漂っていただろう。そんな現実の空気と同じように、乗客達が頭に思い浮かべていた場面も、もやもやと色濃く車内に渦巻いていたことを、レモンが関家の頭の中に可視化したのではないか。行き場のない思いを、関家も、他の乗客達も抱えていた。その重い空気を一新する前に凝縮してみせたのが、レモンの爽やかな芳香だったのではないか。

 関家がレモンの幻影から我に返った後も、列車は動き続けていく。そして終点である金沢に着く。ここが目的地である者もいれば、ここから先へ向かう者もいる。たった2時間弱乗り合わせただけの、もう二度とすれ違うことはない乗客達。
 数え切れない人とすれ違い、そのほとんどの人について何も知ることはできずに、それぞれが自分の目的地を目指して進んでいく。その、知られるはずのなかった誰かの思いを垣間見ることができる機会のひとつが、演劇だ。誰かが何かを思いながら生きていること、そして自分もそうであること。しばし確認して、少しの共感を覚えたり、反感を持ったりもするかもしれない。たとえ、終演すれば頭から消えてしまうとしても。そのたった一時を作るための時間が、『米原ー金沢』だった。