海を越えた国で日本や日本文化、そして日本語に
興味を持ってくれるというのはすごいことだ。
『英語が話せれば、世界○億人と話せる!』
『スペイン語が話せれば、世界○億人と話せる!』
『中国語が話せれば、世界○億人と話せる!』
というのはあるけれど、日本語は日本でしか話されていない言語。
だからそこに興味を持ってくれるというのはすごいことだ。
昨年夏、ロシアから21歳の女の子が我家にホームステイにやってきた。
彼女は日本のマンガやアニメが大好き。
それが高じて日本語を学び始めたという。
最近、この角度から日本に興味を持って
日本語を学んだり来日したりする人はすごく多い。
彼女は日本語を学び始めて2年。
短い文章で簡単な単語を使えば、問題なく通じる。
でも、ここでも例の「教科書日本語」との調整が必要になってくる。
「今日は本屋さんに行こう!」 と言っても通じない。
「今日は本屋さんに行きます」 と言えば通じる、といった具合。
私たちにとって、「行こう」と「行きます」は全然ニュアンスが違う。
「行こう」は誘ってるけれど、「行きます」は決定を伝えている。
意味合いが違ってくる。
日本人同士だったら、この状況であの言い回しは絶対にしない。
これに関しては、私たちと彼女が一晩一緒に過ごすことで築いた関係性で
補えたので問題はないのだけれど…
ネイティブとしては、気持ち悪い言い回しだ。
そしてもうひとつ。
気づかされたことがあった。
「何したい?」
「食べる?」
こういう言い回しが通じない。
通じないというか、自分に質問されているということを彼女は理解していなかった。
じゃあどう言えば通じるのか。
「あなたは何をしたいですか?」
「食べますか?」
つまり、「~か?」というのが日本語における疑問形だと学んでいるのだ。
だからこちらが「~か?」と言わない限り、
彼女は自分に何かを聞かれているとは思っていない。
これはすごく興味深いことだった。
というのも、私たちは普段の日常の中で、
この「~か?」という言い回しをほとんどつかっていないということに気づいたから。
もちろん公の場や、目上の方への質問となれば使っている。
でも、家族や友人との普段の会話において何かをたずねるとき
「~か?」はほぼ使っていないのだ。
「食べた?」
「いる?」
「行ってきたの?」
いや、それだけではない。
目上の方が相手の時ですら、そうだ。
「召し上がりました?」
「いらっしゃいます?」
必ずしも「~か?」と使わなくても、丁寧な表現は可能だ。
同年代の人にいつまでも「~ですか?」とばかり言われ続けると
この人、全然心を開いてくれないんだな~…と悲しくなってしまうくらい。
『日本語の疑問形=「~か?」』
この図式は間違ってはいないけれど。
間違ってはいないのだけれど…
使ってないんだなぁ。
外からの目が入ったとき、自分のフィールドの新たな気づきとなるのだとつくづく思った。
多角的視点、おもしろい。
オーストラリア滞在中、
現地の高校で日本語アシスタントのボランティアをした。
ある日、メルボルンの男子校で近々行われる日本語試験の
面接の練習相手をお願いされた。
「どういう風に進めるかは、本人達がわかってますので」
という、よくわからない説明を受け、私は面接官役となった。
面接練習に臨むのは、先生曰くクラスで一番日本語ができるという男の子。
生徒 「ぼくは日曜日にお父さんと○○に行きました」
私 「ああ、お父さんと出かけたの!」
生徒 「???」
私 「(…あれ?)」
困ってる。
生徒くん、ものすごーく困ってる!!
そこで私は、ちょっと言い方を変えてみた。
私 「あなたは日曜日にお父さんと○○に行きましたね」
生徒 「はい!」
すごくホッとした表情の彼。
うーん…、これは…
日本語学習者用の教科書を見たことがある方はご存知のことでしょうけれど
まず彼らは、「ですます調」から学び始める。
それ自体をどうこう言うつもりはない。
でも、はっきり言って、そこに載っている例文を
私たちネイティブ日本人が日常の中で口にすることは、ない。
9割方、ない。
日本語の会話は、前後のやりとりから主語が抜けることが多々あるし
敬語の使い方も、教科書に載っているものとはちょっと違う。
例えば友達同士の会話。
教科書ver.
「○○さん、私は図書館に行きます。あなたも行きますか?」
「はい、私も図書館に行きます」
「では行きましょう」
日本人ver,
「○○さん、私図書館に行くけど、行く?」
「うん、行く!」
「じゃあ行こう」
これはあくまで一例だけれども。
その時、私は怖いと思った。
もしかして、私たちが学んだ英語もこうなの…?
それはとてもとても、嫌だと思った。
通じるんだけど…
通じることはもちろん大切なんだけれども…
そこから学ぶことが、本当に最善なんだろうか…?
現地の高校で日本語アシスタントのボランティアをした。
ある日、メルボルンの男子校で近々行われる日本語試験の
面接の練習相手をお願いされた。
「どういう風に進めるかは、本人達がわかってますので」
という、よくわからない説明を受け、私は面接官役となった。
面接練習に臨むのは、先生曰くクラスで一番日本語ができるという男の子。
生徒 「ぼくは日曜日にお父さんと○○に行きました」
私 「ああ、お父さんと出かけたの!」
生徒 「???」
私 「(…あれ?)」
困ってる。
生徒くん、ものすごーく困ってる!!
そこで私は、ちょっと言い方を変えてみた。
私 「あなたは日曜日にお父さんと○○に行きましたね」
生徒 「はい!」
すごくホッとした表情の彼。
うーん…、これは…
日本語学習者用の教科書を見たことがある方はご存知のことでしょうけれど
まず彼らは、「ですます調」から学び始める。
それ自体をどうこう言うつもりはない。
でも、はっきり言って、そこに載っている例文を
私たちネイティブ日本人が日常の中で口にすることは、ない。
9割方、ない。
日本語の会話は、前後のやりとりから主語が抜けることが多々あるし
敬語の使い方も、教科書に載っているものとはちょっと違う。
例えば友達同士の会話。
教科書ver.
「○○さん、私は図書館に行きます。あなたも行きますか?」
「はい、私も図書館に行きます」
「では行きましょう」
日本人ver,
「○○さん、私図書館に行くけど、行く?」
「うん、行く!」
「じゃあ行こう」
これはあくまで一例だけれども。
その時、私は怖いと思った。
もしかして、私たちが学んだ英語もこうなの…?
それはとてもとても、嫌だと思った。
通じるんだけど…
通じることはもちろん大切なんだけれども…
そこから学ぶことが、本当に最善なんだろうか…?
この2年ほど、我家で楽しんでいるのが
ホームビジットやホームステイ。
日帰り~2泊程度で海外からのゲストを受け入れ。
ゲストはJICAの研修員の方、留学生、短期滞在の学生さんなどなど。
日本語が話せる方もいらっしゃれば
英語のコミュニケーションになる方もいらっしゃるし
日本語も英語もNGだから他言語で…という方も。
当然、使う言語とそのレベルによって楽しみ方が変わってくる。
日本語が堪能であれば
その国の文化や食、考え方や教育制度など
かなり深い話ができるし
英語が堪能でも、けっこう同様の話が可能。
ちなみに英語の場合、先方の出身地域によって、
こちらとあちらの話す率がかわってくるのもオモシロイ!(笑)
一方、先方が日本語学習者で、でも会話に慣れていない場合。
私自身、日本語について考えさせられることが多い。
これは深くて面白いので、また別の機会に語りたい。
さて、今日は英語のお話。
学生時代、私はとーーーーーーーっても英語が苦手だった。
でも25歳で1人イギリスに行ったときに思ったの。
英語はベーシックスキルだ!
できなきゃ恥ずかしい!
(ちなみにこれはあくまで、私個人の自分に対する意見であって
「話せない人=恥ずかしい」と思っているわけではないので
誤解しないでね。)
そこで英会話教室に通い
ある程度の会話力を身につけ
人生そのものの経験が不足しまくっていると感じた自分を
追い込むように9ヵ月半オーストラリアへ。
まぁ、オーストラリア(ほぼ)1周1人旅(←これをラウンドという)が
できる程度の英語力はついたというわけ。
そんな私の英語なので、はっきり言って語彙力がまるでない。
単語の知らなさといったら、自分でも驚くほど。
しかも私は人とのコミュニケーションを通して言語習得していくのは大好きだけれど
語学に関しては「勉強」が大嫌い!
コツコツ単語を覚えたり、文章読解したり、、、
徹底的に嫌なの。(ゴメンナサイ)
だって不自然なんだもん。
ことばはどんな人間でも自然に身につけたものなのに…
その学習法って。。。
苦しめられた記憶しかない。
そんな私が、英語堪能ゲスト達を受け入れる中で気づいたことがある。
それは
ネイティブの英語の方が、わかりやすい! ということ。
使っている単語も、言い回しも。
英語堪能な非ネイティブの方の英語は
使う単語も言い回しも、難しさを兼ねそろえているということ。
それは会話においても、メールにおいてもそうだった。
「なんかソレ、高校の教科書に載ってたような…」
という単語が出てきたりね。
決して間違っているわけではない。
私の勉強不足と言ってしまえばそれまでのこと。
でも、そんな言い方しなくてもナチュラルな会話が可能なことを
ネイティブの友人たちは教えてくれた。
もちろん、単語は知らないより知っていた方がいい。
もちろんよ。
難しい構文や言い回しだって、
知らないより知っていた方が世界が広がる。
その通り!
それはわかっている。
その上で、私はなるほど~と思ったの。
ネイティブと非ネイティブの会話の違い。
それはきっと、どんな言語でも同じことが起こっているのだろうな。
ホームビジットやホームステイ。
日帰り~2泊程度で海外からのゲストを受け入れ。
ゲストはJICAの研修員の方、留学生、短期滞在の学生さんなどなど。
日本語が話せる方もいらっしゃれば
英語のコミュニケーションになる方もいらっしゃるし
日本語も英語もNGだから他言語で…という方も。
当然、使う言語とそのレベルによって楽しみ方が変わってくる。
日本語が堪能であれば
その国の文化や食、考え方や教育制度など
かなり深い話ができるし
英語が堪能でも、けっこう同様の話が可能。
ちなみに英語の場合、先方の出身地域によって、
こちらとあちらの話す率がかわってくるのもオモシロイ!(笑)
一方、先方が日本語学習者で、でも会話に慣れていない場合。
私自身、日本語について考えさせられることが多い。
これは深くて面白いので、また別の機会に語りたい。
さて、今日は英語のお話。
学生時代、私はとーーーーーーーっても英語が苦手だった。
でも25歳で1人イギリスに行ったときに思ったの。
英語はベーシックスキルだ!
できなきゃ恥ずかしい!
(ちなみにこれはあくまで、私個人の自分に対する意見であって
「話せない人=恥ずかしい」と思っているわけではないので
誤解しないでね。)
そこで英会話教室に通い
ある程度の会話力を身につけ
人生そのものの経験が不足しまくっていると感じた自分を
追い込むように9ヵ月半オーストラリアへ。
まぁ、オーストラリア(ほぼ)1周1人旅(←これをラウンドという)が
できる程度の英語力はついたというわけ。
そんな私の英語なので、はっきり言って語彙力がまるでない。
単語の知らなさといったら、自分でも驚くほど。
しかも私は人とのコミュニケーションを通して言語習得していくのは大好きだけれど
語学に関しては「勉強」が大嫌い!
コツコツ単語を覚えたり、文章読解したり、、、
徹底的に嫌なの。(ゴメンナサイ)
だって不自然なんだもん。
ことばはどんな人間でも自然に身につけたものなのに…
その学習法って。。。
苦しめられた記憶しかない。
そんな私が、英語堪能ゲスト達を受け入れる中で気づいたことがある。
それは
ネイティブの英語の方が、わかりやすい! ということ。
使っている単語も、言い回しも。
英語堪能な非ネイティブの方の英語は
使う単語も言い回しも、難しさを兼ねそろえているということ。
それは会話においても、メールにおいてもそうだった。
「なんかソレ、高校の教科書に載ってたような…」
という単語が出てきたりね。
決して間違っているわけではない。
私の勉強不足と言ってしまえばそれまでのこと。
でも、そんな言い方しなくてもナチュラルな会話が可能なことを
ネイティブの友人たちは教えてくれた。
もちろん、単語は知らないより知っていた方がいい。
もちろんよ。
難しい構文や言い回しだって、
知らないより知っていた方が世界が広がる。
その通り!
それはわかっている。
その上で、私はなるほど~と思ったの。
ネイティブと非ネイティブの会話の違い。
それはきっと、どんな言語でも同じことが起こっているのだろうな。
今でこそ、「ことばが大好き!」なんて言っているけれど
私は昔、それはそれは『ことば』というものが苦手だった。
学生時代は、言葉にしてしまったら全部がうそになってしまうような気がして。
本当の気持ちを表せる言葉なんかない気がして。
全部ぜんぶ、信じられなかった。
だから本当の本当の、
心の奥底にある気持ちを言葉にして表すのは苦手だった。
…いや、もしかしたら今でも苦手かもしれない。
言ってはいけないという、無意識のブレーキがかかっていることが多々ある。
それは、セラピストという職業で出会った仲間たちによって
ずいぶん引き出され、癒されてきたけれど。
それでも。
言葉を使う仕事を選んだ私。
もしかしたら、だからこその過去なのかもしれない。
学生時代、あるバンドの曲の歌詞の一節が妙に心に響いた。
『ことばのナイフは時には何よりも君を傷つけ臆病にさせてしまうけど』
そうだなぁ。
ほんとうになぁ。。。
不用意に人を傷つけ、また傷つけられる学生時代。
そんなつもりがなくても、
あのとき投げかけられた言葉は大人になっても胸につきささったまま…
なんていうこと、あるでしょう?
逆に、そんなつもりはなかったのに
傷つけてしまったあの人と、関係が修復してない…なんていうことも。
大人になっても、言葉は難しい。
不用意に人を傷つける。
無意識に人を傷つける。
言わなくていい言葉は口にしてしまうのに
本当に言わなきゃいけない言葉はずっと心の奥底にしまったまま…
なんていうこともある。
でもやっぱり言葉にしなくちゃ伝わらない。
『察する文化』なんて、響きはいいけれど
実はものすごい驕りだ。
「言わないけどわかってよ!」 っていうことでしょ?
逆も然り。
相手の気持ちを思いやることは大切。
でも、わかった気になって全然違う解釈で扱ってしまったら
相手は途方に暮れて逃げ出したくなる。
結局どっちも傷つく。
「どうしてわかってくれないの?!」
「こんなに察してあげてるのに!」
…違うよね。
ことばは難しい。
でも、シンプルに伝えると、結構ちゃんと伝わることに気づく。
シンプルに受け取ると、心が通うことに気づく。
そういえば、子どもと話すときはそうだ。
コトバ不信だった私。
今はとても興味がある。コトバについて。
「大好きよ」って、ことば達に伝えたら、彼らは味方になってくれるかもしれないとさえ思う。
…さて。
あなたはどう思う?
私は昔、それはそれは『ことば』というものが苦手だった。
学生時代は、言葉にしてしまったら全部がうそになってしまうような気がして。
本当の気持ちを表せる言葉なんかない気がして。
全部ぜんぶ、信じられなかった。
だから本当の本当の、
心の奥底にある気持ちを言葉にして表すのは苦手だった。
…いや、もしかしたら今でも苦手かもしれない。
言ってはいけないという、無意識のブレーキがかかっていることが多々ある。
それは、セラピストという職業で出会った仲間たちによって
ずいぶん引き出され、癒されてきたけれど。
それでも。
言葉を使う仕事を選んだ私。
もしかしたら、だからこその過去なのかもしれない。
学生時代、あるバンドの曲の歌詞の一節が妙に心に響いた。
『ことばのナイフは時には何よりも君を傷つけ臆病にさせてしまうけど』
そうだなぁ。
ほんとうになぁ。。。
不用意に人を傷つけ、また傷つけられる学生時代。
そんなつもりがなくても、
あのとき投げかけられた言葉は大人になっても胸につきささったまま…
なんていうこと、あるでしょう?
逆に、そんなつもりはなかったのに
傷つけてしまったあの人と、関係が修復してない…なんていうことも。
大人になっても、言葉は難しい。
不用意に人を傷つける。
無意識に人を傷つける。
言わなくていい言葉は口にしてしまうのに
本当に言わなきゃいけない言葉はずっと心の奥底にしまったまま…
なんていうこともある。
でもやっぱり言葉にしなくちゃ伝わらない。
『察する文化』なんて、響きはいいけれど
実はものすごい驕りだ。
「言わないけどわかってよ!」 っていうことでしょ?
逆も然り。
相手の気持ちを思いやることは大切。
でも、わかった気になって全然違う解釈で扱ってしまったら
相手は途方に暮れて逃げ出したくなる。
結局どっちも傷つく。
「どうしてわかってくれないの?!」
「こんなに察してあげてるのに!」
…違うよね。
ことばは難しい。
でも、シンプルに伝えると、結構ちゃんと伝わることに気づく。
シンプルに受け取ると、心が通うことに気づく。
そういえば、子どもと話すときはそうだ。
コトバ不信だった私。
今はとても興味がある。コトバについて。
「大好きよ」って、ことば達に伝えたら、彼らは味方になってくれるかもしれないとさえ思う。
…さて。
あなたはどう思う?
昨年、とある席で初老の男性とお会いした。
彼は仕事の関係で、数年間上海で暮らしていたという。
中国語の“ちゅ”もわからない状態で渡った上海。
必死に現地の人とコミュニケーションをとっていくうちに
中国語が身についていったという。
前述した通訳さんと、経験の仕方としては似ている。
でもだんだん会社から中国語を学んだ日本人が来るようになって
彼は言われるようになったという。
「お前の中国語はおかしい」
例えば『日本』という中国語。
ピンイン表記すると『ri ben』となる。(わぁ!四声の記号が出ない!)
彼はこれを「リューベン」と発音していた。
中国人が言っているのがそう聞こえるから、と。
でも日本で中国語を学んだ同僚は
「それは間違っている。『リーベン』だ」 と言うというのだ。
(はっきり言って、これは文字に書くといささかニュアンスが伝わりにくい。
まぁその辺りは、ちょっと大目に見ていただいて。)
これ、どっちが正しいのか。
というより、そもそも日本人の耳の基準を持ってして「正しい」「正しくない」と論議することに
一体何の意味があるのか。
彼の耳にそう聞こえていたなら、それでいいのではないだろうか。
それが中国人に伝わっているのだし。
日本人が日本で学んだ中国語は、下手すると英語でいう「カタカナ英語」になりかねない。
いわば「カタカナ中国語」といったところか。
言葉は相手に通じたらとりあえず「よっしゃ!」だ。
テキスト通りに言っても通じなければ、ナチュラルな言葉とは何かが違うということになる。
彼の中国語は、中国の人たちに通じていた。
それがすべてだ。
そもそも言葉は、まずはじめに音がある。
文字というのは、それを伝えるツールのひとつだ。
中国語を例に出すと、確かにピンインというものは存在している。
でも例えば台湾で使われている中国語は、大陸で使用されているピンインは用いていない。
もっと不思議な、記号が用いられているのだ。
そしてピンインのみに注目したとしても
今回の「r」のみならず、そこにある「b」とか「p」とかに惑わされて発音が混乱することは多い。
みんな自国の言語の感覚で読むからね。
例えば「b」だけ見てみても、日本語の「b」と中国語の「b」は表す音が異なっている。
さらにそこにロシア語やらドイツ語やらを加えると、
どの言語も似ているようで微妙に表す音は異なっている。
それが「お前の中国語はおかしい」に繋がるのではないだろうか。
これはとても残念なことだ。
ちなみにこの男性は、同僚の心無いその言葉で自信を失ってしまったという。
「だから“正しい中国語”を学ばなくちゃと思って」
でもそれっておかしいよね?
それではまるで、上海で話されている中国語は正しくなくて
北京で話されている中国語のみが正しいと言われているみたい。
それはつまり、東京で話されている日本語が正しくて
北海道で話されている日本語は正しくない、と言われているのと同じことだ。
地域によって方言やイントネーションは異なる。
でもそれと、「正しい」「正しくない」は、まったく別の次元の話。
たぶん『日本』は、中国語で、『リーベン』でも『リューベン』でもなく
『日本』なのだ。
彼は仕事の関係で、数年間上海で暮らしていたという。
中国語の“ちゅ”もわからない状態で渡った上海。
必死に現地の人とコミュニケーションをとっていくうちに
中国語が身についていったという。
前述した通訳さんと、経験の仕方としては似ている。
でもだんだん会社から中国語を学んだ日本人が来るようになって
彼は言われるようになったという。
「お前の中国語はおかしい」
例えば『日本』という中国語。
ピンイン表記すると『ri ben』となる。(わぁ!四声の記号が出ない!)
彼はこれを「リューベン」と発音していた。
中国人が言っているのがそう聞こえるから、と。
でも日本で中国語を学んだ同僚は
「それは間違っている。『リーベン』だ」 と言うというのだ。
(はっきり言って、これは文字に書くといささかニュアンスが伝わりにくい。
まぁその辺りは、ちょっと大目に見ていただいて。)
これ、どっちが正しいのか。
というより、そもそも日本人の耳の基準を持ってして「正しい」「正しくない」と論議することに
一体何の意味があるのか。
彼の耳にそう聞こえていたなら、それでいいのではないだろうか。
それが中国人に伝わっているのだし。
日本人が日本で学んだ中国語は、下手すると英語でいう「カタカナ英語」になりかねない。
いわば「カタカナ中国語」といったところか。
言葉は相手に通じたらとりあえず「よっしゃ!」だ。
テキスト通りに言っても通じなければ、ナチュラルな言葉とは何かが違うということになる。
彼の中国語は、中国の人たちに通じていた。
それがすべてだ。
そもそも言葉は、まずはじめに音がある。
文字というのは、それを伝えるツールのひとつだ。
中国語を例に出すと、確かにピンインというものは存在している。
でも例えば台湾で使われている中国語は、大陸で使用されているピンインは用いていない。
もっと不思議な、記号が用いられているのだ。
そしてピンインのみに注目したとしても
今回の「r」のみならず、そこにある「b」とか「p」とかに惑わされて発音が混乱することは多い。
みんな自国の言語の感覚で読むからね。
例えば「b」だけ見てみても、日本語の「b」と中国語の「b」は表す音が異なっている。
さらにそこにロシア語やらドイツ語やらを加えると、
どの言語も似ているようで微妙に表す音は異なっている。
それが「お前の中国語はおかしい」に繋がるのではないだろうか。
これはとても残念なことだ。
ちなみにこの男性は、同僚の心無いその言葉で自信を失ってしまったという。
「だから“正しい中国語”を学ばなくちゃと思って」
でもそれっておかしいよね?
それではまるで、上海で話されている中国語は正しくなくて
北京で話されている中国語のみが正しいと言われているみたい。
それはつまり、東京で話されている日本語が正しくて
北海道で話されている日本語は正しくない、と言われているのと同じことだ。
地域によって方言やイントネーションは異なる。
でもそれと、「正しい」「正しくない」は、まったく別の次元の話。
たぶん『日本』は、中国語で、『リーベン』でも『リューベン』でもなく
『日本』なのだ。
子どもの頃は、英語が好きだった。
英会話教室はとても楽しくてワクワクしていた。
だから英語に力を入れているという中学に入学したときは
それはそれは、期待に胸を躍らせた。
なのに。
中学・高校で学んだ英語は、それはそれはつまらなかった。
一気に私の英語に対するモチベーションは下がり(むしろ嫌いになり)、
一気に苦手科目となった。
高校時代なんて、英語が週8時間もあって(学校に通うのは週6日なのに!)
嫌で嫌でたまらなかった。
ただただ、文法と読解の日々。
単語を延々と調べるのが予習。
解説を聞いてもいまいちピンとこない。
読めない、書けない。
単語スペルを覚えることで点数がつくから、正しい発音なんてわからない。
もちろん話せるようになんてならない。
これは一体、なんの勉強をさせられているのだろう…?
昔から、日本の学校の英語教育は疑問視されているけれど
多聞に漏れず、私も疑問を感じながらひたすら辞書をめくった。
そんな高校2年の夏。
中国に親善交流に行くことになった。
そこで私は、言葉に対して驚くべき体験を持つ男性と出会う。
日本から中国に渡った高校生は確か20~30人。
詳しい人数は覚えていないけれど。
そこに市役所の職員数名と通訳さんが同行して、四都市(上海、西安、洛陽、北京)をまわった。
その通訳さんが、私にとって驚くべき体験を持っていた。
彼は当時20~30代くらい(だったと思う)。
日本人だ。
中国という国そのものや中国語に興味を持っていた私は、彼に聞いてみた。
「どうして中国語が話せるようになったんですか?」
その時の彼の答えが、すごくショッキングだった。
「仕事に疑問を感じて会社を辞めた後、3ヶ月くらい中国をぶらぶら放浪してたんだよね。
その時に身についた」
は?
意味がわからなかった。
え?じゃあ、勉強してないの?
勉強しないで話せるようになったの?
でもどうやって?
だって意味もわからない言葉で、基本も学んでいなければとっかかりもないじゃない。
なのに話せるようになっちゃったの?
しかも通訳ができるくらいに??
目から落ちるウロコがなくなるくらい、目からウロコだった。
その時からだ。
“耳から聞いて、現地での体験と共に人は自然に外国語と言われている言語を話せるようになる”
ということに興味を持ち始めたのは。
今から20年ちょっと前の話。
その時の答えを今、私は自分で実験しながら掴み始めている気がする。
英会話教室はとても楽しくてワクワクしていた。
だから英語に力を入れているという中学に入学したときは
それはそれは、期待に胸を躍らせた。
なのに。
中学・高校で学んだ英語は、それはそれはつまらなかった。
一気に私の英語に対するモチベーションは下がり(むしろ嫌いになり)、
一気に苦手科目となった。
高校時代なんて、英語が週8時間もあって(学校に通うのは週6日なのに!)
嫌で嫌でたまらなかった。
ただただ、文法と読解の日々。
単語を延々と調べるのが予習。
解説を聞いてもいまいちピンとこない。
読めない、書けない。
単語スペルを覚えることで点数がつくから、正しい発音なんてわからない。
もちろん話せるようになんてならない。
これは一体、なんの勉強をさせられているのだろう…?
昔から、日本の学校の英語教育は疑問視されているけれど
多聞に漏れず、私も疑問を感じながらひたすら辞書をめくった。
そんな高校2年の夏。
中国に親善交流に行くことになった。
そこで私は、言葉に対して驚くべき体験を持つ男性と出会う。
日本から中国に渡った高校生は確か20~30人。
詳しい人数は覚えていないけれど。
そこに市役所の職員数名と通訳さんが同行して、四都市(上海、西安、洛陽、北京)をまわった。
その通訳さんが、私にとって驚くべき体験を持っていた。
彼は当時20~30代くらい(だったと思う)。
日本人だ。
中国という国そのものや中国語に興味を持っていた私は、彼に聞いてみた。
「どうして中国語が話せるようになったんですか?」
その時の彼の答えが、すごくショッキングだった。
「仕事に疑問を感じて会社を辞めた後、3ヶ月くらい中国をぶらぶら放浪してたんだよね。
その時に身についた」
は?
意味がわからなかった。
え?じゃあ、勉強してないの?
勉強しないで話せるようになったの?
でもどうやって?
だって意味もわからない言葉で、基本も学んでいなければとっかかりもないじゃない。
なのに話せるようになっちゃったの?
しかも通訳ができるくらいに??
目から落ちるウロコがなくなるくらい、目からウロコだった。
その時からだ。
“耳から聞いて、現地での体験と共に人は自然に外国語と言われている言語を話せるようになる”
ということに興味を持ち始めたのは。
今から20年ちょっと前の話。
その時の答えを今、私は自分で実験しながら掴み始めている気がする。
子どもには大人ほどの垣根がない。
前の記事に続き、ベルギーでのお話。
ブリュッセルの公園で、地元のお兄ちゃん達と遊んでいる写真が私のアルバムに残っている。
その記録によると、お兄ちゃんたちの真似をして遊具に登った私は降りられなくなって泣いたらしい。
もちろん助けてくれたのもお兄ちゃん達。
11月のブリュッセル。
寒いベルギーという地での、心温まるひとコマだ。
そんなある日、知り合いの家へ行くことになった。
この家がベルギーにあったのか、フランスにあったのか、定かではない。
でもとにかくフランス語を話すおうちに遊びに行った。
そこには私たち(4歳の私と2歳の妹)と似たような年齢の男の子が2人いた。
もちろん初対面。
しかも相手はフランス語。
私たちは、それはそれは楽しく遊んだ。
指差したりジェスチャーをしたりして、何とか意志を伝えて。
新聞紙で兜を折ったりチャンバラをしたり。
とても楽しかった。
そう、とても楽しかったのだ。
言葉が通じないことは、子どもにとっては何の障害にもならない。
(じゃあいつ頃からそれが障害と感じてしまうようになるのだろう…?)
楽しかった。
でも、私はその時、母にこう伝えた。
「言葉がわかればもっとおもしろかったのに!!」
これが、私が初めて『フランス語を話したい!』と心から思った瞬間だ。
日本語以外の言語が話せたらもっと面白い!と思った瞬間。
だからこそ、母は帰国後私を英会話スクールに通わせてくれたのかもしれない。
それにしてもこの時、私は
「あの子たちが日本語を話せたらよかったのに」
とは思わなかった。
そしてこの気持ちは、今も私の中に息づいている。
世界共通語と言われている英語もいいけれど、
できればその国の言葉で、その国の人とお話したい。
「日本語を話せるようになって!」とはあまり思わないのだ。
前の記事に続き、ベルギーでのお話。
ブリュッセルの公園で、地元のお兄ちゃん達と遊んでいる写真が私のアルバムに残っている。
その記録によると、お兄ちゃんたちの真似をして遊具に登った私は降りられなくなって泣いたらしい。
もちろん助けてくれたのもお兄ちゃん達。
11月のブリュッセル。
寒いベルギーという地での、心温まるひとコマだ。
そんなある日、知り合いの家へ行くことになった。
この家がベルギーにあったのか、フランスにあったのか、定かではない。
でもとにかくフランス語を話すおうちに遊びに行った。
そこには私たち(4歳の私と2歳の妹)と似たような年齢の男の子が2人いた。
もちろん初対面。
しかも相手はフランス語。
私たちは、それはそれは楽しく遊んだ。
指差したりジェスチャーをしたりして、何とか意志を伝えて。
新聞紙で兜を折ったりチャンバラをしたり。
とても楽しかった。
そう、とても楽しかったのだ。
言葉が通じないことは、子どもにとっては何の障害にもならない。
(じゃあいつ頃からそれが障害と感じてしまうようになるのだろう…?)
楽しかった。
でも、私はその時、母にこう伝えた。
「言葉がわかればもっとおもしろかったのに!!」
これが、私が初めて『フランス語を話したい!』と心から思った瞬間だ。
日本語以外の言語が話せたらもっと面白い!と思った瞬間。
だからこそ、母は帰国後私を英会話スクールに通わせてくれたのかもしれない。
それにしてもこの時、私は
「あの子たちが日本語を話せたらよかったのに」
とは思わなかった。
そしてこの気持ちは、今も私の中に息づいている。
世界共通語と言われている英語もいいけれど、
できればその国の言葉で、その国の人とお話したい。
「日本語を話せるようになって!」とはあまり思わないのだ。
私が日本語以外の言語に興味を持ったのは4歳のときだ。
父の仕事の関係で、1ヶ月ほどベルギーに行くことになった。
一足先に旅立った父を見送った後の1ヶ月、
母は“サンジョウの部屋”に篭って英語の勉強をしていた。
テープを聴いてはリピートしていた光景は、今も脳裏に焼きついている。
ちなみにサンジョウの部屋とは、当時我家にあった3畳ほどの父の書斎だ。
部屋が一部斜めだったため、それを三角形と勘違いした私は、
だから“サンジョウ”と呼ばれているのだと思っていた。
でも実際は『サンジョウ=3畳』だった。
これに気づいたのはずいぶん大きくなってからだったけれど。
音から入ると、人は時に面白いほど大きな勘違いをしたまま突き進む。
さて、母は毎日英語のテープを聞いていたけれど、
ベルギーの公用語はフランス語とフラマン語(オランダ語系)だ。
なのに彼女は英語の勉強をしている。
それが当時の私には不思議で不思議でたまらなかった。
だって英語よりフランス語の方が簡単なのに!
現地に行ってからも、困ったとき、母は必ずこう言って声をかけていた。
「Can you speak English?」
どうして?
どうして英語を話そうとするの?
フランス語の国だし、フランス語の方が簡単なのに!!
不思議でたまらなかった私は、母が英語を話すたびに問いかけた。
そしてその都度、母は答えてくれた。
「お母さんにとっては英語の方が簡単なの」
ふーん…
ちなみに、当時私が話せたフランス語は
「Bonjour,mademoiselle!(ボンジュール マドモアゼール!)」
「s'il vous plait.(シルヴプレ)」
「Merci Beaucoup.(メルシーボークー)」
「Je vous en prie.(ジュヴザンプリ)」
の4つだ。
4歳の私は、これで自信満々。
フランス語はかんたーん!!と思っていたというわけ。
さて、これをどう見ますか?
「何言ってるの。ただの子どもの自己満足じゃん」
と見るのか
「そこからコミュニケーションが広がっていくことを子どもは無意識にわかっている」
と見るのか。
私はここに、コミュニケーションの原点があると思っている。
そして言語の育つ原点も、あると思っている。
父の仕事の関係で、1ヶ月ほどベルギーに行くことになった。
一足先に旅立った父を見送った後の1ヶ月、
母は“サンジョウの部屋”に篭って英語の勉強をしていた。
テープを聴いてはリピートしていた光景は、今も脳裏に焼きついている。
ちなみにサンジョウの部屋とは、当時我家にあった3畳ほどの父の書斎だ。
部屋が一部斜めだったため、それを三角形と勘違いした私は、
だから“サンジョウ”と呼ばれているのだと思っていた。
でも実際は『サンジョウ=3畳』だった。
これに気づいたのはずいぶん大きくなってからだったけれど。
音から入ると、人は時に面白いほど大きな勘違いをしたまま突き進む。
さて、母は毎日英語のテープを聞いていたけれど、
ベルギーの公用語はフランス語とフラマン語(オランダ語系)だ。
なのに彼女は英語の勉強をしている。
それが当時の私には不思議で不思議でたまらなかった。
だって英語よりフランス語の方が簡単なのに!
現地に行ってからも、困ったとき、母は必ずこう言って声をかけていた。
「Can you speak English?」
どうして?
どうして英語を話そうとするの?
フランス語の国だし、フランス語の方が簡単なのに!!
不思議でたまらなかった私は、母が英語を話すたびに問いかけた。
そしてその都度、母は答えてくれた。
「お母さんにとっては英語の方が簡単なの」
ふーん…
ちなみに、当時私が話せたフランス語は
「Bonjour,mademoiselle!(ボンジュール マドモアゼール!)」
「s'il vous plait.(シルヴプレ)」
「Merci Beaucoup.(メルシーボークー)」
「Je vous en prie.(ジュヴザンプリ)」
の4つだ。
4歳の私は、これで自信満々。
フランス語はかんたーん!!と思っていたというわけ。
さて、これをどう見ますか?
「何言ってるの。ただの子どもの自己満足じゃん」
と見るのか
「そこからコミュニケーションが広がっていくことを子どもは無意識にわかっている」
と見るのか。
私はここに、コミュニケーションの原点があると思っている。
そして言語の育つ原点も、あると思っている。
「楽しい思い出をたくさん作りましょう!」
私はこの言葉に、昔からすごい違和感を覚えていた。
何かをやっている時の「いい思い出になるね」も
「思い出いっぱいの旅行にしようね」も、
私は気持ち悪さを感じてしまう。
それは、“思い出を作るために” それをするみたいだから。
でも思い出って、本来そういうものじゃない。
体中でその場を感じて、相手と心で向き合って
本当に楽しい時間を過ごして――またはいろんな思いをして
結果としてそれが思い出になる。
(そこで過ごす時間は楽しいばかりじゃないかもしれないけれど、
もちろんそれはそれでOKだ。)
思い出というのは結果としてもたらされるものであって、
思い出を作るために何かをするものではない。
と、私は思っている。
それはまるで、海外旅行に行って観光スポットで
「あったあった、あれあれ!写真撮ろう!はい、チーズ♪はい、じゃあ移動しよう~」
という、アレだ。
そういう旅行が好きな方はいらっしゃるだろうし、
それが良くないとはもちろん言わない。
でもそれはまるで、そこに行ったという証拠写真を残すためだけの行為だ。
イコール、思い出(?)を残している…ということ??と、予想している。
でもそこにあるものを自分の五感をフル活用して感じないで、
そこに行くことに意味はあるのか。
少なくとも、私にとっては、ない。
まぁそれは、個人差のあることだろうから議論するつもりはないのだけれど。
さて。
昨年の夏、ロシアからの学生が我家にホームステイに来た。
対面式で、日本側の挨拶を担当されたお偉いさん(?)が
「たくさん思い出を作ってください」と仰った。
それに対して、ロシア人通訳さんはとても困ったという。
何故か。
「ロシア語に『思い出をつくる』という言葉はないんですよ。
だって、思い出って作るものじゃないでしょう?
結果として思い出になるものだから」
ほら、やっぱりーーーっ!!
何とか伝えようと訳したけど、難しかった…と彼は話してくれた。
私の疑問が、ロシア語によって認められた瞬間だった。
私はこの言葉に、昔からすごい違和感を覚えていた。
何かをやっている時の「いい思い出になるね」も
「思い出いっぱいの旅行にしようね」も、
私は気持ち悪さを感じてしまう。
それは、“思い出を作るために” それをするみたいだから。
でも思い出って、本来そういうものじゃない。
体中でその場を感じて、相手と心で向き合って
本当に楽しい時間を過ごして――またはいろんな思いをして
結果としてそれが思い出になる。
(そこで過ごす時間は楽しいばかりじゃないかもしれないけれど、
もちろんそれはそれでOKだ。)
思い出というのは結果としてもたらされるものであって、
思い出を作るために何かをするものではない。
と、私は思っている。
それはまるで、海外旅行に行って観光スポットで
「あったあった、あれあれ!写真撮ろう!はい、チーズ♪はい、じゃあ移動しよう~」
という、アレだ。
そういう旅行が好きな方はいらっしゃるだろうし、
それが良くないとはもちろん言わない。
でもそれはまるで、そこに行ったという証拠写真を残すためだけの行為だ。
イコール、思い出(?)を残している…ということ??と、予想している。
でもそこにあるものを自分の五感をフル活用して感じないで、
そこに行くことに意味はあるのか。
少なくとも、私にとっては、ない。
まぁそれは、個人差のあることだろうから議論するつもりはないのだけれど。
さて。
昨年の夏、ロシアからの学生が我家にホームステイに来た。
対面式で、日本側の挨拶を担当されたお偉いさん(?)が
「たくさん思い出を作ってください」と仰った。
それに対して、ロシア人通訳さんはとても困ったという。
何故か。
「ロシア語に『思い出をつくる』という言葉はないんですよ。
だって、思い出って作るものじゃないでしょう?
結果として思い出になるものだから」
ほら、やっぱりーーーっ!!
何とか伝えようと訳したけど、難しかった…と彼は話してくれた。
私の疑問が、ロシア語によって認められた瞬間だった。
カウンセリングやら セラピーやら コーチングやら NLPやら
今、巷にはコミュニケーションにまつわるテクニックの本が溢れています。
本を読まなくても、そういう勉強をしている方も多いでしょう。
私自身、セラピストやコーチという仕事を通して、また長い闘病期間を通して
自分との向き合い方、人との向き合い方、クライアントさんとの向き合い方など
いろいろ学びました。
そこにはいろいろ、名前のついたテクニック的な『やり方』があります。
本当に大切なのは「やり方」ではなくて「あり方」なのだと実感していますが
確かに、「やり方」も知っていて損はありません。
ただ、「あり方」が明確じゃないままテクニックのみに走ると、
相手には『偽者の会話』という不快感を感じさせてしまいますが。
さて。
そこで述べられる「やり方」は、実は子どもに対しては
私達は意外と無意識にやっていたりするものなのです。
セッションをしていく中で大切なのはクライアントさんの言葉に対して
否定も肯定もしないこと。
ただ、ありのまま受け取ること。
そんなときに使えるのが『おうむ返し』です。
「もう嫌なんです」
「嫌なんですね」
「こんなことを言われたんです」
「そんなことを言われたんですか」
とかね。
これ、変に意識しすぎると不自然な言い回しになったりする場合があるのですが
そんなに難しく考えなくても私達は生活の中で自然にこれをやっているときがあるのです。
それが子どもと向き合っているとき。
「楽しかった~!!」
「そう。楽しかったの。よかったね!」
「痛い~!!」
「うんうん。痛いね。痛いの痛いの飛んでけ~!」
とかね。
心当たり、あるでしょう?
大人は自然に、子どもが伝えてくることを一度受け取っています。
そしてそれをそのまま返してる。
受け取ってからそのまま返すことで、子どもたちの中にも
『ありのままを受け取ってもらって認めてもらえた』
という感覚が生まれます。
そうやって育つ子は、感情を抑圧する必要もなくなるし
自分をオープンにしていられます。
結果、のびのび自主性が育っていくから
自分で選んで自分で決めて、行動することができる子になります。
これはもちろん、大人にも有効です。
それが、カウンセリングなどのテクニックでいう『おうむ返し』です。
これって、カウンセリング、コーチング、セラピーなどのセッションに限らず
ましてや対子どものみならず
日常のコミュニケーションにおいて有効だし、大切なポイントだと思うのです☆
今、巷にはコミュニケーションにまつわるテクニックの本が溢れています。
本を読まなくても、そういう勉強をしている方も多いでしょう。
私自身、セラピストやコーチという仕事を通して、また長い闘病期間を通して
自分との向き合い方、人との向き合い方、クライアントさんとの向き合い方など
いろいろ学びました。
そこにはいろいろ、名前のついたテクニック的な『やり方』があります。
本当に大切なのは「やり方」ではなくて「あり方」なのだと実感していますが
確かに、「やり方」も知っていて損はありません。
ただ、「あり方」が明確じゃないままテクニックのみに走ると、
相手には『偽者の会話』という不快感を感じさせてしまいますが。
さて。
そこで述べられる「やり方」は、実は子どもに対しては
私達は意外と無意識にやっていたりするものなのです。
セッションをしていく中で大切なのはクライアントさんの言葉に対して
否定も肯定もしないこと。
ただ、ありのまま受け取ること。
そんなときに使えるのが『おうむ返し』です。
「もう嫌なんです」
「嫌なんですね」
「こんなことを言われたんです」
「そんなことを言われたんですか」
とかね。
これ、変に意識しすぎると不自然な言い回しになったりする場合があるのですが
そんなに難しく考えなくても私達は生活の中で自然にこれをやっているときがあるのです。
それが子どもと向き合っているとき。
「楽しかった~!!」
「そう。楽しかったの。よかったね!」
「痛い~!!」
「うんうん。痛いね。痛いの痛いの飛んでけ~!」
とかね。
心当たり、あるでしょう?
大人は自然に、子どもが伝えてくることを一度受け取っています。
そしてそれをそのまま返してる。
受け取ってからそのまま返すことで、子どもたちの中にも
『ありのままを受け取ってもらって認めてもらえた』
という感覚が生まれます。
そうやって育つ子は、感情を抑圧する必要もなくなるし
自分をオープンにしていられます。
結果、のびのび自主性が育っていくから
自分で選んで自分で決めて、行動することができる子になります。
これはもちろん、大人にも有効です。
それが、カウンセリングなどのテクニックでいう『おうむ返し』です。
これって、カウンセリング、コーチング、セラピーなどのセッションに限らず
ましてや対子どものみならず
日常のコミュニケーションにおいて有効だし、大切なポイントだと思うのです☆