ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間 -18ページ目

ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

オーストラリアのメルボルンで、無料の英会話教室に参加したことがある。

こういうのは教会が主催している場合が多くて
参加者も何故か韓国人が多い。

初めてのところがとにかく苦手な私は、
ドキドキしながら足を運んだものだった。

行ってみると 韓国の人に「韓国人?」とか聞かれちゃったりして
意外とすんなり仲間に入れるのだけれど。


ある日、隣りに座った女の子が日本語で話しかけてくれた。

それはそれは堪能な…
でもうーん…微妙におかしい。

日本人であっても、向こうで生まれ育てば母国語は英語。
だからネイティブというには若干不自然な日本語を話してもおかしくない。
また、個性的な話し方をする生粋の日本人だっていらっしゃる。

彼女はちょっと変わった人なのか(失礼!)、それとも…

いろいろ考えていると、彼女が話のきっかけを作ってくきた。


「私の日本語、どうですか?」


この質問がくる時点で日本人じゃない!
と言い切れないのが、オーストラリアだ。

私は思ったままをたずねてみた。


「うん。すごく上手だと思うけど…
 え、と…あの、日本人?」

「ううん。韓国人。日本語は勉強したの」


わぁお!

それならものっすごく上手い!!


だって本当に、ほんの少しイントネーションが違う程度なんだもの。
「日本人です」と言われても「そっかそっか!」と納得できるレベル。
“勉強した日本語”のような、不自然な波ではない。

だからこそ、私の中に戸惑いが生まれていたわけだから。

事実を知ってしまえば、
あとは彼女のあまりの流暢な日本語に感動するだけだ。


「すごい!日本人の日本語みたい」

「いえいえ。そんなことありません」

「あの…どのくらい勉強したの?」


そりゃあもう、私は興味津々。

そして彼女の答えは、それまで以上に私を驚かせた。



「1年」


 い…1年っ?!

 1年て、1年でしょ?!

 365日よね??

 そんなこと、ありえるの?!

 私、自分が韓国語を1年勉強してもあなたの日本語のようには話せない自信があるよ?!

…とはさすがに口にはしなかったけれど、本気でそう思った。



韓国語は英語とは異なり、文法的にみると日本語と語順が一緒だ。
似ている音の言葉も多々ある。

だからといって、
・英語よりカンタン
・韓国人なら誰でも1年でネイティブのような日本語が身につく
というものではない。

その言葉が飛び交う環境が身の回りにあれば別だけれど
そうではないのなら、母国語ではないという点では同じ“外国語”だ。

少なくとも、韓国語を学んでいる“すべての日本人”が
たった1年でネイティブ韓国人のように
ナチュラルな韓国語が話せるようになるとは言えない。


なのに何故、彼女は身につけることができたのか…


私は不思議でたまらなかった。



その後何年か経って…

私は専門学校で講師をしていた。
その学校にはカフェビジネス科という学科があり、
韓国、中国、台湾など、アジアからの留学生が何人か在籍していた。

当然授業は日本語で行われる。

そこで生徒の1人である韓国人男性に尋ねてみた。

「どのくらい日本語を勉強してきたの?」

それに対し、彼の答えはやはり私を驚かせるものだった。


「1年です」


 えーーーっ!!


1年しか勉強しないで、日本の普通の学校で授業が受けられるレベルになるの?
私、あなたとの会話に何にも不自然さや不自由さを感じないよ?!


 どういうことなのか…


重ねて聞いてみると、彼は英語は苦手だという。


 これはもしや、目的の違い?


確かに、それは一理あると思う。

ただ闇雲に、学校の科目として設定されているから勉強する英語と違って
彼らは『自分の意志』で日本語を学んでいた。

でも、それなら比較的英語が得意科目だった人たちは
中学高校で6年も勉強すれば、ネイティブ並みの英語力を身につけるはずだ。

でも実際はそうではない。


 なら学習法の違いなのか…


それもたぶん、一理ある。


おそらく、理由はひとつではない。

そもそも、この世の中にたったひとつの理由でどうこう語れる事象なんて
実際はそう多くない。
少なくとも、私はそう思っている。


それにしても、すごい。


「1年で!」 という彼らがいる一方で
「何年もやっているんだけど…」 という人間が多いのが現状の『語学』という分野。

思うにそれは、『やり方』の問題だけではない。

『やり方』に『あり方(向き合い方)』と『環境』が混ざり合った上で
起こったことなんだろうと思うけれど…

でもやっぱり、すごい。


彼らの中で何が起こったのか


私はそれを知りたい。
世界中でいろいろな言語が飛び交っている。

日本にいると、人によっては
日本語以外を話す必要性を感じない人も多いだろうし
コトバを増やすとしても英語で充分と思う人も多いだろうなと思う。

日本は単言語国家だ。
その国で育てば、それが当たり前だと思いがちだけれど
世界全体を見ると、単言語国家というのは約3割しかないのだという。

ではあとの7割の国の言語事情はどうなっているのか。

聞くところによると、二言語国家は約1割。

たったの!

1割!!


あとの6割は3ヶ国語以上を話す、多言語国家だという。



そんなことに関して、おもしろい実例を聞いた。

例えば二言語国家の例として、カナダやベルギーがあげられる。

カナダは英語が話されている地域と、フランス語が話されている地域がある。
しかしその両方を、ネイティブとして自在に堪能に、話す人たちはあまりいないらしい。
(学校では教えている所もあるけどね)

同様にベルギーでも、地域によってフランス語とフラマン語(オランダ語)が
話されている地域が異なるというから、旅行に行くときは注意しないとね。

またよく聞く例が、転勤で英語圏に移り住んだ日本人の話。

子どもは現地での生活において、あっという間に英語を吸収する。
そしていつの間にか、その子にとって楽な言語は日本語より英語となっていく。
それは、彼らのまわりが英語に溢れているからだ。

最初のうちは喜んでいた両親も、だんだん子どもの中から
日本語が消えていってしまうことを恐れるようになるという。

こちら側とあちら側。

英語 vs フランス語
フランス語 vs フラマン語
英語 vs 日本語

言語が2つの場合、その国なり人なりの中で“対立”が起きているということだ。



一方三言語以上の多言語国家の場合。

その国の人たちは、そこで話されているどの言語にも普通に対応するという。
フランス語を話しながら遊んでいた子たちのところに
新たに来た友達がドイツ語で挨拶すれば、
子ども達の口から出る言葉はいっせいにドイツ語に変わる。

ルクセンブルク語で子どもと話していたお父さんに英語で話しかければ
ちゃんと英語で返ってくる。

そんな具合。

どの言葉も家や学校…ひいては街中に溢れているから
みんなが自然に多言語を習得していくという。

どうも、言葉が3言語以上になった途端、“ゆらぎ”が起こるらしい。

対立せずに共存する。

1の点が 2で線になり 3で面になる感じ。

そういえば、3本足があれば、椅子は作れる。
しかもガタつかない。
二次元から三次元になれば、空間構成も可能だ。



ここで、古代から伝わる『数秘術』の視点から見てみようと思う。

数秘術って何?という方に……
簡単に言うと、『数字にはそれぞれ意味がある』ということ。

生年月日から割り出した数字をもとに
その人の持つ本質や、得意分野、人生における課題なども導き出されたりもする。
まぁ、それは今は置いておいて。


「1」とは『はじまり』の数。
 「1」という数字を見てわかるように、棒は1本では立つことができない。
 だから『支える』『自立』なんていう意味もある。
 また『唯一絶対の存在』『突き進む』なんていう意味も。

「2」は光と闇、善と悪のように、二元論を司る。
 どれもひとつが生まれたことで対極が生まれる。
 切手も切り離せず、優劣ではないが、それは『対立』を意味している。
 そして、そこから『協力』や『協調』を覚えていくのが「2」。

「3」は三位一体を表している。
 キリスト教からの言葉だけれど、無宗教の多い日本人にはあまり馴染みがない。
 分かりやすく言うと対極のものから新たなものが生まれるということ。
 “お父さんとお母さんから子どもが生まれる”と考えるとわかりやすい。
 そこから「3」には『生産性』『創造』『変化』という意味が備わってくる。


このように数字の意味を追っていくと、
単言語国家、二言語国家、三言語以上の多言語国家でそれぞれ
起こっている人間と言葉の関係が、とても納得&理解しやすい。

1、2、3。
数字の持つ意味と言語の数。

この関係性、おもしろい。
世界には、3言語以上で話されている国が約6割あるという。

単言語国家の日本で生まれ育った私は
最初その存在を知ったとき、にわかにはその意味がわからなかった。


約12年ほど前、イタリアで暮らす友人のもとを訪れた。
今にして思えばあの時が、私の『多言語』への興味の始まりだったように思える。


彼女はミラノの大学に通い、そのままイタリアで仕事をはじめた。

生活は基本イタリア語。
もちろん大学の講義もイタリア語。
今考えても、彼女のイタリア語レベルは相当なものだったのだと思う。

そんな彼女だが、ふとこんなことをこぼした。


「ヨーロッパに住んでいて英語が話せないって恥ずかしいんだ」


 え?

 そうなの??


イタリアはイタリア語の国だ。
彼女はイタリア語で何の問題もなくコミュニケーションがとれる。

なのに英語が話せないと恥ずかしい??

単言語国家の日本で生まれ育った私には、
彼女の言う言葉の意味がイマイチ理解できなかった。

日本は四方を海に囲まれている。
それ故、文化や言語が混在することなく、独自の発展を遂げてきた。
(正確に言うと、中国や韓国といった大陸の影響を少なからず受けているのだけれど
 その話はちょっと置いておいてね。今は“陸続きのヨーロッパ”と比較しているので。)

そんな国で生まれ育つ中で無意識に身につけた価値観は
『大陸』という、人間が引いた国境があるだけの、地続きの国々で暮らす人々の
混在する文化や言語を簡単にイメージし理解することには繋がらなかった。



そんな彼女がスイスに旅行したときのことを話してくれた。

「道を挟んだ向かいのアパートで話している人たちがいたんだけどね。
 片方はフランス語で話していて、もう片方がドイツ語で答えてたの」


 は?

 何それ?

 どうして全然違う言語での会話が可能なわけ??


当時の私は『多言語国家』という言葉も
『母国語として何ヶ国語も話せるのが当たり前』という国の存在も知らなかった。

だから、人間にとって母国語というものは
日本人にとっての日本語のようにたったひとつなのだと思い込んでいた。

環境さえあれば一人ひとりが何ヶ国語も自然に習得して話せるようになるなんて
まったく知らなかったし考えたこともなかった。

「スイスでは4ヶ国語話されているんだよ」と聞けば
Aさんはフランス語しか話さない(話せない)
Bさんはドイツ語のみ
Cさんはイタリア語だけ
Dさんはロマンシュ語を話す人
と、それぞれわかれているものだと思い込んでいた。

今思えば、そんなこと、あるわけないのに。

母国語が複数あるだなんて、思いもしなかったのだ。


フランス語もドイツ語もイタリア語もロマンシュ語も
すべてが不自由なく同じように話せるのなら
あの、彼女が見た光景は何ら不自然なものではない。

むしろ、日本という環境の中での価値観しか持っていなかった私が抱いた
「変なの!」という感覚こそが不自然なものだったというわけだ。

ヨーロッパの言語は似ている。

地続きだから自然と混在するという理由もあるし
もとが同じラテン語系であれば、それも理由のひとつにあげられる。

同様のことは、アジアの漢字文化圏の言語でも起こっている。

でもだからといってこれは
「日本人にとっての標準語と関西弁の違いだよ」ということではない。
それはちょっと違う。

そもそも『ヨーロッパの言語』とひとくくりにしたものと『日本語』を比べたら
言語の広がり方も、話されている規模(面積)も違いすぎるのだから
日本語に無理矢理当てはめてイメージしようとすること自体に無理がある。


だからそこで変にまとめる必要はないのだけれど

ひとつ言えるとしたら


やっぱりコトバっておもしろい!
多言語って楽しい!!


っていうことかな。

あ、ふたつ言っちゃったけど♪
韓国大学生のD君が我家にホームステイしていたとき
カタコトながら私はできる限り韓国語で話していた。

おお!私、こんなに韓国語が話せるんだ~!
なんて自分でびっくりしたりして。

コトバをやっている者にとって、
この感覚が持てるのはかなり嬉しいことだと思う。

といっても、私は今まで韓国語を“学んだ”ことはないし
今まで出会ってきた韓国人は日本語堪能な人か
共通語である英語でのコミュニケーション。

だから私から出てくる韓国語はそんなに難しいものではない。

そんな私が韓国語で彼に何かを言うとき、
1人で楽しみながらニンマリしていたことがある。

それは
「~~~、クリゴ~~~」とか
「~~~、ハジマン~~~」とか
ふたつの文をくっつけて言うというもの。

日本語でいう「それから」「でも」みたいな接続語を使っているわけだけど
何だかちょっと、長い文章が言えてかっこいい!
なんていう、非常に自己満足なものだ。

でもこれがとても楽しい!

そんなことを子どものように楽しんでいた私は、
姪っ子のKが2歳ちょっとの頃を思い出していた。


あの頃、彼女はよくふたつの言葉をくっつけて言っていた。

例えばコーヒーを飲んでいる大人に向かって
「苦いけれどもおいしい?」 とかね。

『○○だけれども△△』

これが、彼女にとっては面白くて仕方ないコトバ遊びだった。

ふたつがくっつくことによって意味が変わる!
もしくは広がる!

そりゃ、おもしろいよね!


奇しくも私は、2歳当時の彼女とまったく同じことを韓国語でしていたというわけだ。


“多言語の自然習得”という活動をしている私にとって
この『赤ちゃん(子ども)が辿ることとまったく同じことを韓国語でしている』
というのは、とても重要で嬉しい事実。

ワクワクした。


間違っていない方向性を確かに感じつつ
子どものように素直に楽しめる自分もちょっと誇りに思ったりする私。

これから私の中で韓国語がどう育つのか…
楽しみ!
昨年11月、韓国の大学生D君がホームステイにやってきた。

調査票を見ると、彼は日本語を学んだことがないという。
そして英語はTOEIC 650点。

TOEIC 650点とはどのくらいのレベルなのか。
調べてみると、企業によっては“海外出張に行かせてもらえる目安”とのこと。

なるほど。
結構それなり、ということだ。

これは英語でのやりとりになるかな~?
と予想して、当日を迎えた。


ドキドキの対面式を終え、ワクワクの2泊3日のはじまり。

日本語を学んだことはないと書いてあったが、
よくよく聞くと少し自分で勉強してきたらしい。

カタコトでも彼は日本語で一生懸命伝えようとしてくれる。

どう言ったらわからないけれど日本語で言いたい!
そんなときはその状況にピッタリの挨拶や気持ちを表す日本語は何かを聞いてくる。

その気持ちがすごく嬉しい!


例えば一緒に出かけて帰宅したとき。

 「何て?」

 「ん?あ、『ただいま』だよ」

 「ただいま!」

 「おかえり~♪」


例えばとっても楽しい時間を過ごしたとき。

 「何て?」

 「え?んーとね…(何て説明すればいいかな?)」

 「気持ち!気持ち!」

 「ああ!『楽しかった!』」

 「楽しかった!」


かわいくて仕方ない。


対して私たちも、カタコトの韓国語で話してみる。
勉強はしたことないのだけれど、自分の体に入っているありったけの韓国語で。

これがけっこう通じる!

嬉しい!!


カタコトの日本語とカタコトの韓国語で
何の問題もなく、私たちの時間は穏やかに過ぎていった。


それでも、どうしてもカタコトでは説明しきれないこともある。

そんなときは英語に登場してもらったのだが
そこで不思議な感覚が生まれた。

英語が邪魔に感じるのだ。

せっかく母国語同士であたたかく心が交わっているときに
突然、よそ者がやってくるような妙な感覚。

思いもかけないその感覚。

とても不思議なものだった。

D君にも同様な感覚が起こったかどうかはわからない。
同じ場にいた夫は感じなかったらしいから、
これは私だけが感じたものなのかもしれない。

でもとにかく、私たちの間での英語のポジショニングが
とてもとても、違和感のあるものになったのだ。

普段は共通語として『便利』と感じる英語だったはずなのに。

すごく、邪魔に感じる存在。

確かに便利ではあった。
細かいことも伝えられる。

利点は感じているにもかかわらず、あの違和感。

すごく不思議だった。
それとともに、何だかすごく嬉しかった。

だって、相手の母国語をお互いが大事にして
本気で向き合って通じていたからこそ感じた違和感だ。

そこまで相手と繋がれたこと。
韓国語が私の中から溢れ出てきたこと。

英語が邪魔と感じられたのは、その証明だったように思えるから。

次に彼と会ったとき、また同じ感覚が湧き上がってくるのか
それともまた違った何かを感じることになるのか…

どうなるかな?
語学はいつだって日本人を悩ませる。
語学はいつだって日本人をあこがれさせる。

日本に住んでいれば、日常で日本語以外を使うことはほとんどない。

それでも、どうにかして外国語を身につけたいと思う人は後を絶たない。

英語を身につけたい。
スペイン語を身につけたい。
中国語を身につけたい。
韓国語を身につけたい。
フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語…
いやいや、これからはポルトガル語でしょ!

なんてね。

そう思って今まで勉強してきた方、
これから勉強しようと思っている方、
現在進行形でがんばっている方など、
たーくさんいらっしゃる。

私だってそうだ。

だって話せたら楽しいもん。
世界が広がるもん。

もっと具体的だったり切実だったりする方々もいらっしゃるだろう。
仕事で必要だから。
就職のため。
海外で働くから。

うんうん、そうね。



スクールに通ったり サークルに入ったり
ネットで教材を買ってみたり
本屋の語学コーナーで悩んでみたり
NHKの講座を見たり聞いたり。

きっとみんな、いろいろ探して試してる。


でも私は、いつも疑問に思うのだ。

人と人が会話をしたいだけなのに
何故お金をかけなければならないんだろう?

通じ合いたいだけなのに
何故お金をかけなければならないんだろう?

しかもたくさんの!


時間がかかるのは、ある程度は仕方ないと思っている。

日本は多言語国家ではないから、
多言語を話す環境がない。

その環境があれば自然と身につくものが
日本にいると手に入らない。
創らない限り。

そして創っても、生きた多言語環境で生まれながらに育つわけではないから
やっぱり多言語国家で育つよりは時間がかかる。

だからまぁ、時間は大目に見るとする。
(ものすごく短期間で身につける人もいるけどね。)


で、そうなるとお金なわけだけれど。

ただ、人と人が会話をして意思疎通したいだけなのに
一緒に時間や空間を楽しみたいだけなのに
そのために(多額の)お金が必要なんて、なんてナンセンス!

「いやいや、無料のインターネットツールもあるよ!」

「NHKは無料じゃん!」

なんていう声が聞こえてきそうだけど、
私が言いたいのはそういうことではないの。


人と人がコトバを交わす。


ただそれだけのことがビジネスになる。

実に興味深い。
人間はコトバを持っている。

『言語』という分野でわけてしまうと
国や地域によって話されているコトバは異なるけれど
基本的に、“人間が話している”ということは変わらない。

だから、話すコトバが違うからって意思疎通がまったくできないわけではないし
本当は壁をつくる必要もない。

カタコトでも、心と心の通うコミュニケーションは可能だ。
通じた!という時の喜びは、自分だけじゃなく相手も同じように感じている。

なのに壁をつくってしまうのは何故か。

おそらく
“言葉がわからないと意思疎通できない”
という刷り込みだ。

もちろん、わかったら楽しさの領域は広がる。
それはもちろんだ。

でもそれなら、同じ言語を話す人同士――たとえば日本人同士――なら
何の問題もなくコミュニケーションがとれることになる。

確かに、日本人同士だったら“言葉”の壁は、ない。

でもじゃあ、きちんと意思疎通してコミュニケーションが通るかというと
悲しいかな…そうでもなかったりする。

人がそれぞれ、人間関係に悩むのもだからこそだ。


 ねえ、聞いてる?

 さっき言ったこと、聞いてた?

 勝手に解釈しないで。

 言ってることが違うじゃない!


たぶん誰もが経験している。
夫婦の間で、恋人との間で、友達との間で、親子間で、兄弟間で、上司と部下の間で―――

言葉は人と人をつなぐツールだ。

でも

言葉さえ堪能だったらコミュニケーションに何の問題もないかというと
そうとは言い切れない。

それはコトバが、
コミュニケーションツールのひとつでしかないから。

本当に、人と人を繋いでいるのは
本気で向き合っている心と心。

それがあれば、コトバの壁は低くなる。
壁があっても、伝わる。通じる。

逆になかったら
言葉の壁がなくても、残念ながらコトバは通じない。


たとえそれが、日本人同士であっても

愛し合っている者同士であっても―――
よく雑誌の後ろページに載っている「星占い」。
日本では「12星座」とか「星占い」とかいう言い方が主流かな?

これ、「黄道12星座」というのだけれど、
あまりこう言う人はいない。
知っている人も、少なくとも私のまわりにはほどんどいない。



学生時代、「ZODIAC」というタイトルのイラスト集があった。

何だろう?
どういう意味だろう、これ。

私は家に帰ると、すぐに調べてみた。

教科書に出てくる英単語は調べるのが苦痛なのに
こういう、自分が興味を持ったことを調べるのはまったく苦にならない。

調べてみると、黄道帯のことだった。
つまり、地球から見た太陽が通る軌道のこと。
そしてそこを12等分し、各区間につけられた名称が「黄道十二宮」。
12星座はそこにそれぞれ配している。

ほほーう。

納得。

どうしてそのイラスト集のタイトルが「ZODIAC」だったのかはわからない。
でも星座好きだったおかげもあって、「ZODIAC」という言葉は
私の中にストンと入ってきた。

以来、忘れなくなった。

教科書に出てくる英単語は一生懸命覚えようとしても覚えられないのに
自分で興味を持った単語は一生忘れない。

そういうものだ。



それから20年近く経った去年。
メキシコ人ゲストのホームステイ受け入れをした。

彼はとてもかわいい男の子で、私も主人も彼のことが大好き。
10ヶ月ほど日本に滞在していたから、
ステイ後もたまに会っては食事をしたりパーティをしたりしていた。

あるパーティのときのこと。
星占いの話になった。

彼は日本語が堪能。
でももちろん、知らない単語もたくさんある。


「zodíaco(ソディアコ)?」


「うん」

「日本語で何ていうの?」

「うーん…本当は『黄道12星座』だけど、そう言う人はあんまりいないかな。
 単に12星座とか、星占いとか言うことが多い。
 ソディアコに相当する言葉でぱっと言い表したりしないかな」

「ふーん。アリエスは?何?」

「牡羊座だよ」


そんなやりとりをした。

ちなみに「zodíaco」はスペイン語。

一緒にいた友人たちは一様に目を丸くしていた。


「ひろ、何でわかったの?」


え?


ああ、そうね。

スペイン語の単語だけれど、わかってしまった私。

でもそのことに疑問は感じなかった。

だって私、英語の「ZODIAC」を知ってるもん。
だからスペイン語なら「zodíaco」なんだなってわかったの。


英語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語
たくさんの言葉を聞いていると、数々の言葉がオーバーラップしていることに気づく。

まず、私にそのベースがあったことは大きい。

その上で

やはり私が「ZODIAC」を知っていたことが大きかった。

あの時、調べといてよかったーーー!

漫画家さん、あのタイトルつけてくれてありがとーう♪


あの時、
えへへ…(*^^*) という顔をしながら
内心、大興奮の私だった。
マンガが好きすぎるとオタク扱いされる。
親に叱られる。

そんな考え方が主流だった、私の子ども~学生時代。

私は、母がマンガを楽しむ人だったおかげで
親からの軋轢はなかったけれど。

でもマンガは侮れない。
読まないなんてもったいない。

これが仕事に役立ったり、
英語やスペイン語での会話に役立っちゃったりするのだから!



私が小学生~中学生の頃、『聖闘士星矢』が流行っていた。

はじめのうちは、男の子たちが騒いでいるのを遠巻きに眺めていた私。
でも読んでみると、これがおもしろい!

そこには星座や神々が次々と登場する。
もともと星占いやギリシャ神話が好きな私は
すっかり夢中になってコミックスを読み漁った。

その中に、主人公たちが黄金聖闘士(ゴールドセイント)と戦うシーンがある。

黄金聖闘士は12人。
星占いに登場する、12星座を司っている。

 牡羊座(アリエス)のムウ
 牡牛座(タウラス)のアルデバラン
 双子座(ジェミニ)のサガ
 蟹座(キャンサー)のデスマスク
 獅子座(レオ)のアイオリア
 乙女座(バルゴ)のシャカ
 天秤座(ライブラ)の老師
 蠍座(スコーピオン)のミロ
 射手座(サジタリアス)のアイオロス
 山羊座(カプリコーン)のシュラ
 水瓶座(アクエリアス)のカミュ
 魚座(ピスケス)のアフロディーテ

うわ… 私、覚えてる!(笑)
子どもの頃に覚えたものって忘れないんだなぁ…

…って。
いえいえ、ここで言いたいのは記憶力の話ではなくて。
「記憶に残っている」ということも、とても大切なことなのだけれど!


マンガを描くとき、漫画家さんはいろいろなことを調べ
作品内に取り入れる。

例えば上記12星座のカッコの中の言葉。
これがあるのとないのとで、かっこよさが違ってくる。
全っ然、違う!

そして読者はそれをそのまま受け入れる。
アニメ化なんてされた日には、楽しく見ているだけで
その音がそのまま体の中に入ってくる。

そして、一度入ってしまったコトバは出ていかない。
普段は奥底にしまわれていたとしても、ふとした時に出てくるものだ。


私がオーストラリアでホームステイをしていたとき。
ホストブラザー(当時30過ぎ)が友人たちを交えて、何か話していた。
よくよく聞いてみると星座の話だと言う。


「ああ、でもひろはわからないでしょ。日本人だから。
 これは西洋の文化だ」

「え?わかるよ。日本にもあるもん」

「えー?!ないと思うよ」

「いやいや、あるよ」

「じゃあひろの星座は何?」

「アクエリアス」

「えっ!?本当に?!あるんだ!」


だからあるってば(笑)


ここでもし、私が聖闘士星矢を読んでいなかったら、
「アクエリアス」と答えられなかった。

12星座の星占いがあることを伝えても、
「水瓶座って英語で何ていうかわからない~」
という状態だったら、説得力に欠けたと思う。

そしてたぶん、普通は言えないのだと思う。
12星座を英語で言おうなんて、学校ではやらないし。

そもそもこの時まで、私はあの12星座を表すかっこいいカタカナ語が
英語だとすら思っていなかった。
考えたこともなかった。

思わぬところで、思わぬものが繋がったというわけ。

まさかマンガの知識が海外で役立つとはね~!!


でも、マンガが私の人生で役立ったのは
これだけではなかったのだ。
タジキスタンからのゲストを受け入れたときのお話。

それまでホームビジットで我家でお迎えしたゲストは
わずかながらも英語が話せた。
もちろん先方はとーーーってもカタコトの英語で、ほとんど文章にはならず
ひとつ伝えるのも一苦労だったりもしたけれど、それはそれで楽しいもの。

でも、このタジキスタンのMさんは、まったくまーったく、英語が話せなかった。
彼が話せるのはタジク語とロシア語。

ちなみにこのふたつなら、私にとってはロシア語の方が馴染みがある。

といっても、当時私がきちんと“認識”していたロシア語は
ほんの数語だったのだけれど(笑)

それでも、8時間ほどのホームビジットは
あまり困ることなく楽しく過ごしていた。

さて、私が夕飯の準備をしていた時
キッチンにある整水器が彼の興味をひいた。

Mさんが主人に尋ねる。

「整水器ってロシア語で何て言うんだろう?」

困る夫。

当然よね。
私たちは当時口にしていたロシア語は数語。
事細かなロシア語の単語なんて知らない上に
「整水器なんてロシア語、知るかーーーっ!」
という状態。

ましてや、タジキスタンに整水器なんていうものがあるのかどうか…

そこで私はちょっと頭をひねった。

私は『おいしい』に相当するロシア語は知っている。
対して彼は、『水』という日本語を知っていた。



ピーーーン!



私はおもむろに整水器を指さして言った。

「フクースナー水!」

そして水道の蛇口を指さして

「ニエッ フクースナー水!」



「ああ~!」



通じた!



ロシア語と日本語の、見事なコラボレーションだった(笑)


この通じたときの嬉さは、ちょっと言葉にしがたい。
とにかく嬉しかった。

カタコトでも、“伝えよう”“わかろう”とすると
言葉の壁はグッと下がる。

まさにそれを体感した瞬間。

英語じゃなくても、何語でも、これは起こる。
学校で学んだコトバじゃなくても。