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ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

ロシアの女の子がホームステイにやってきた夜、
お風呂の説明をしていたとき、日本語のドッキリ感に遭遇した。

「こっちがお水でこっちがお湯ね」
「これがシャンプー、これがボディソープね」

うんうんと頷きながら、彼女がこう答える。


「わかります」


その瞬間、私はドキッとした。


 あ…そうよね。

 わかるよね。

 わざわざ言うほどのことでもなかったか…

 ゴメンナサイ。


気分はこんな感じ。

「わかります!」と言い切られてしまうと
“分かっているのにわざわざ説明されている”ということを
相手から伝えられている感がする。

でもよくよく考えると、そんな皮肉めいたことを
日本語を学び始めて2年のロシア人の女の子が言うはずはない。

その時、ふと気づいた。


知らなかった何かを説明されて理解や納得をしたとき
私たち日本人はこんな風に答える。

「あ~!わかった」

「わかりました!」


でも、例えば英語ならどうか。

「I see!」


この違い。


この違いは何なのか。

考えてみると答えはカンタン。
日本語は過去形なのに対し、英語は現在形なのだ。
(実際のところ文法上、この日本語を『過去形』と言うかはわからないけれど)

ロシア語がどうなのかは、残念ながらあの時の彼女との会話では
完全に掴みきれなかったのだけれど
彼女が「I see」のつもりで「わかります」を使っていたのだとしたら
本当に、まったくもって他意はなかったというわけだ。

もちろん、本当に彼女に他意はなかったのだけれど(笑)

でも生粋の日本人の私は
相手がネイティブジャパニーズではないとはわかっていても
その言葉にドキッとさせられたのだ。

そうか、そうか。

言語によって、こんなところにも違いが出るものなのか!


その後、彼女に
「日本語だと『わかりました』って答えるよ」
ということを伝え、あっという間にそれを理解してくれた彼女は
その後普通に「わかりました」を使ってくれていた。

おかげでその後、私たちはドキッとさせられることもなく
穏やかに時は過ぎていったのだった。
「『ありがとう』と言われたらどう返す?」
と問われたら、どう答えるだろう?

「『どうしたしまして』だよ」

うん、間違ってはいない。

間違ってはいないのだけれど…

普段使ってますか?



日常生活において、「ありがとう」と言われたら私はなんと答えているか…

「いいえ」
「はーい」
「いえいえー」
「だいじょぶよ~」
「ほーい」
「こちらこそ~」

こんな言葉が多い気がする。

北海道の友人なら
「なんもだよ~」
なんていう言葉が返ってきたりもする。 かわいいv(笑)

『どういたしまして』って、普段はあまり使っていない。

でももちろん、まったく使っていないわけではない。
ではどういうときに使っているのか。

大きく3つのパターンがあるような気がする。


【パターン1】
 子どもに対するとき

「ありがとうは?」と、子どもに話しかけたことのある方は多いだろう。
何かをしてもらったり、モノをいただいたりしたら 「ありがとう」。

そして、子どもが「ありがとう」を言ってくれたら
それを受け取った大人はきっと、こう返す。

「どういたしまして」

まるで「『どうもありがとう』『どういたしまして』はセットなんだよ」と
教えているかのように。

“まるで”
…そう、『どういたしまして』は、あまり子どもに強要しない。

少なくとも、「どういたしましては?」と子どもに言っている大人を私は見たことがない。
「ありがとうは?」は、たくさんあるけれど。

『ありがとう』は、言う側も言われる側も、とても気持ちがいい。

でも子どもとの間に
「ありがとう」と共に「どういたしまして」が存在しているときもまた、
私はその2人の間にとても優しい空気が流れるのを感じる。


【パターン2】
 外国人に対するとき

例えば日本人に道を聞かれたとき
「ありがとうございます」と言われても「どういたしまして」と返すことは少ない。

「いいえ」とか 「お気をつけて」とか
そういう言葉は返すけれど。

でも外国人に道を聞かれて、カタコトの日本語で「ありがとう」と言われたら
私は間違いなく「どういたしまして」と返している。

これは、パターン1にも書いた“「『ありがとう』と『どういたしまして』はセット”
ということと関係があるように思う。

日本に慣れていない外国人旅行者でも
せめて「ありがとう」と「すみません」は言えるようにしておこう
と準備してくる方は多い。

逆の立場だったときは私もやっぱり、そういう準備をしていた。

そんな彼らがガイドブックなり日本語会話集なりで勉強するとき
その本に載っている「ありがとう」の返答は、
9割9分『どういたしまして』だ。

だからそこで「いいえー」とか「いえいえー」とか返しても
彼らには伝わらない。
『あなたが言ってくれた「ありがとう」はちゃんと受け取ったよ』
という気持ちが、伝わらないと思うのだ。

だからこそ、私は彼らには「どうしたしまして」を返す。


【パターン3】
 改まったとき

では普通の日本人同士…大人同士の間では
まったく「どういたしまして」と言わないかというと、そんなことはない。

何か改まって 「本当にどうもありがとう」という言葉をもらったとき
その時に応じて 「どういたしまして」と返す。

これは年齢の上下と関係があるわけではない。

「あなたのおかげで本当に助かりました。 どうもありがとう」
こんな気持ちを伝えたとき。

「どういたしまして」と返している。

そう思いませんか?



『ありがとう』に対する言葉は『どういたしまして』。

それは間違っていはいないけれど。

よくよく考えるとこんな世界が広がっている。

「どういたしまして」って、興味深いコトバね。
そういえばスウェーデンの大学生に
“街にゴミが落ちていないこと”を褒められたとき
これも視点の違いによるオモシロさだな~と思ったものがある。

私はヨーロッパの街並みが大好き。

街全体に一体感がある。
街や歴史と共存していると強く感じる。

常に“全体”を捉え、その景観と受け継がれてきている歴史を尊重しながら
個々の生活を営んでいるからだ。


高校生のとき、地理の授業で
ヨーロッパの都市計画に関するビデオを見た。

そのあまりの美しさに感動し、
それが発端で私は空間デザインに興味を持った。

そのビデオの中で、
東京の航空写真を見せられたヨーロッパの都市計画家が言っていた。

「なんだい?このゴミみたいな街は」


 確かに…

 まったくもってその通り。

 そうか…私はゴミのような街で暮らしているのか。


その後私は、いくつかのヨーロッパの国々を訪れて
改めて彼のひとことを深く思い知った。


日本も、江戸時代までは街並みに統一感があった。
(あるいは今でも京都や金沢や萩など一部の街には
 日本らしい美しい街並みが現存しているけれど。)

でも、文明開化と共に西洋の文化が入ってきた後、
どうも自国文化と他国からもたらされる文化を共存させるのが
とても下手だったように思える。

あの都市計画家に『ゴミ』と一蹴されたように
街全体を見ないまま、その場その場でツギハギを繰り返してきたような…

鎖国という極端な政策から一転、
体制の整わないままの文化共存も、極端に美しくないものを生んだように思える。

『場』とか『みんな』とかいった言葉が日本人は大好きなわりに
街を造るときは“自分の家”といったような『個』の建物しか見ていないのが
なんともオカシイ。


そんな私から発せられた

「スウェーデンは街並みがキレイ(街全体に統一感がある)」

という言葉に対し、スウェーデンの大学生は

「日本は街がキレイ(ゴミが全然落ちていない!)」

という言葉をくれた。


オモシロイ!


できることなら、『ゴミの落ちていないキレイな街並みの街』がいいよねv
今日もスウェーデンと日本のお話♪
…といっても、内容はスウェーデンと日本に限ったことではないけれど^^


日本人が好きな国の話をするとき、
その国のいいところを褒めると同時に自国を否定するところがある。

「スウェーデンは体験重視の教育ですばらしい。
 それに比べて日本は机上のものばかり…」

「スウェーデンは福祉が盛ん。 でも日本の体制は…」

また、すべてを知っているわけではないのに
その国の政策や在り方が完璧だと思い込んでしまいがち。

逆に、日本のいいところは見えなくなっている。
自分達にとってはすでに、当たり前になってしまっているからだ。

だから彼らに
「地下鉄できちんと並んでいる日本人。アメージング!」
とか
「街にゴミが落ちていない。すばらしい!」
なんて言われたりして、初めて自国のすばらしさに気づいたりする。

これって、自分と他人を変に比較してしまったり
自分のできることは当たり前と思って自分のことを認められなかったりする
“人間そのもの”によく似ている。

わざと見ようとしないわけではないけれど、
自分のことになった途端、目が曇りやすくなるのかな?

内側にいると分からない。
気づかない。

もったいない。

もったいないけれど、だからこそ外からの目が大切だと気づかされる。

内からも外からも見て初めて見えてくるものがある。

言葉も、文化も、料理も、歴史も、国も、人間そのものも。

おもしろい。
北欧というと、教育や福祉が進んでいるというイメージがある。
…というか、そういうイメージを持っている人が多い。

「生徒であったとしても、スウェーデンでは先生と意見が違ったり
 先生の意見がおかしいと思ったら遠慮なく言います。
 みんながきちんと自己主張をするのです」
とはスウェーデン大使の言葉だ。

ヨーロッパの話をすると、こういったことをよく耳にする。

おもしろかったのは、その後スウェーデンから来ている大学生と話したとき。
彼らは同じことをこう表現した。

「日本人は相手のことをすごくリスペクトする。
 すばらしいと思う。
 先生のこともちゃんと敬っている。
 スウェーデンにはそれがない」

まったく同じことを言っているのに、立場や年齢、見方によって
こうまで表現の仕方が異なるのかと思った。

すごくおもしろい。

ひとつのことを表現するコトバはひとつではない、ということだ。

どこの国でもどんな立場でも、そうなんだなー…
2018年はスウェーデンと日本の国交が始まって150年。
記念イヤーだそうだ。

それに向けて、日本大使館とスウェーデン大使館では
準備が始まっているらしい。

5年後、どんなことができるのか
どんなアクションを起こしたらいいか
大使を交えてそんな話をした。


例えば一部の人や専門家が、何かしらのイベントを行ったとする。

でもそれは、対象が一部の人でしかない時点で
そこに関わりを持つ権利がない人にとっては関係ないものになってしまう。

たとえスウェーデンに興味があったとしても
日本とスウェーデン国交150年のお祭りだったとしても。

「興味はあるけど、私たちには関係ないよね」

関係なければ関われない。

だから私は、もっと普通の…
一般レベルで関われる“人と人”との交流があると嬉しい。

例えば、青少年などの年齢制限をつけない、
すべての人を対象としたホームステイ交流とかね。

スウェーデンの民族楽器“ニッケルハルパ”を学びながら
1週間~10日のホームステイとか、いいな♪

そういうチャンスがあったら、私は行きたい。


そんなことを大使に伝えた。
すると大使は、「それおもしろいですね!」と
思いのほか大きくうなずいてくださった。

ありがたい。



国と国とか、政治的な絡みとか、
そういうものは私はわからないし関われない。

でも結局は、日本人もスウェーデン人も『人と人』だと思うのだ。

それ以上でも、以下でもない。

『人と人』として関われば、
言語の違いも文化の違いもハードルはグッと下がる。

『日本人とスウェーデン人』ではなく、『同じ“人間と人間”』として。

それには生活を共に…同じ時間を共有することが大きな意味を持ってくる。


私は学生時代から10年ほど、キャンプカウンセラーをしていた。
簡単に言うと、長期休みなどに子ども達をキャンプに連れて行く活動だ。

ほんの2泊3日なり4泊5日なりのキャンプ生活であっても
寝食を共にすると、参加者もカウンセラー(指導者)も
驚くほど人間同士の距離が近くなる。

『同じ釜の飯』という言葉があるけれど
その力の大きさを嫌というほど痛感することになるのだ。

国の違いとか言葉の違いとか、そんな小さなことは関係なく
お互いが人と人として関われたとき―――
世界は狭く、深く、豊かになるように思う。



うなずきながら聞いていらした大使が、最後に仰った言葉が印象的だった。

「人と人がしっかり繋がるためには
 国と国がしっかり繋がっていなければならない」

なるほど。

それが、大使はじめその立場にいる人たちの役目というわけだ。

そのあたりは、よろしくお願いします^^
つい先日、在日スウェーデン大使にお会いした。
お会いした途端、「こんにちは!」ととてもフレンドリーに言われ
私は最初、相手が大使だとは気づかなかった^^;

スウェーデン人は概してみんな、英語が堪能だ。
でも国内で英語を話す機会はほとんどないという。

機会がないのに英語が堪能なのは一体何故?

疑問に思い尋ねてみると、大使は自身のご経験を交えて話してくださった。


大使は学生時代に1年ほど日本語を勉強して初めて来日されたのだという。
でもそのとき、日本語はまったく話せなかったのだそうだ。

今は驚くほど堪能なのだけれど。

来日後、約1年ほどで話せるようになったと仰る。
その間大切だったのは、とにかく実践、体験だった。

特に毎朝、下宿先のおばあさんに「お出かけですか?」と聞かれるから
まず1日の予定を伝える必要があったこと
そして帰宅したら1日何があったかを必ず報告していたことが一番いい経験だったそう。

今に活きていると仰っていた。

やっぱりね。

言葉は、どんなに読み書きを勉強しても話せるようにはならない。

結局は実際に耳で聞いて口に出すという
生きたインプットとアウトプットが必要だ。


では国内で英語を話す機会がないはずのスウェーデン人の英語力は?


そこで次に、スウェーデンの英語事情を話してくださった。

まず、スウェーデンでは英語の映画やドラマがたくさんテレビ放映されているらしい。
吹き替えではなく、字幕スーパーで。

だから日常的に英語で会話をする機会はさほど多くなくても
英語を耳にする機会が多い。

それ故に耳が慣れていく。

さらにイギリスが近いから、学生時代は毎年3~4週間ほど
イギリスを旅して生きた英語に触れる時間を作る人が多いのだそうだ。

大使自身もそんな体験をなさっている。

それが当たり前のこととしてスウェーデンには根付いている。

スウェーデンの学校教育が、日本のそれとは違い
体験重視であることとも繋がっている風習だと私は思った。

確かに、日本の勉強はとにかく机上のものが多い。
体験学習という言葉も耳にするようにはなったけれど、それでもまだまだ少ない。

そもそも、『体験学習』という言葉を使わなければならないということ自体、
“体験から学ぶ”ということが根付いていない証拠だ。

それが、日本人を苦しめている『言葉の壁』の存在とも繋がってくるのだと
『スウェーデン人にとっての当たり前』を知って、改めて思ったのだった。


やっぱり体験て、大事よね。
前回のつづきで、今度は日本人にとっての外国語について。

こんなことを耳にしたことはあるかしら?


◆日本人にとってスペイン語はわかりやすい。
  → 母音が同じだから。

◆日本人にとってイタリア語はわかりやすい。
  → 母音が同じだから。
◆日本人にとって中国語はわかりやすい。
  → 漢字へのハードルが他の国の人より低いから。
    漢字を見れば大体の意味が掴めるから。

◆日本人にとって韓国語はわかりやすい。
  → 文法が同じだから。
    似ている音もあるから。

これを聞いて、みなさんはどう思いますか?


確かに、一理ある…というか、なくも、ない…かもしれない(笑)

他の言語と比べたら――その比較対象の言語によっては――そうかもしれない。


たぶんこれは『学習』という視点に立ったときに出てきた言葉だ。
『勉強する=文字と文法から学んでいく』という方程式が成り立つのなら
最初の壁は低い方が入っていきやすい。
すぐに挫折…とはなりにくい。

例えばまったく同じゼロ地点からのスタートだとして。

「文字も音もまったく違うフランス語よりは、
 音だけでも聞き取りやすいスペイン語やイタリア語の方が勉強しやすいよ」
と言われれば
「はぁ~…なるほどね~」
と思うかもしれないよね。

「英語と語順は一緒だし、漢字だから意味は理解できるから
 中国語は勉強しやすいよ」
と言われれば、やっぱり
「そうだよね~」
と思ってしまう。

そして
「文法がまったく一緒だから韓国語はわかりやすいよ」
と言われれば、英語の文法で散々苦労を味わわされてきた私たちには
ひどく魅力的に聞こえる。

“その言語の専門家”の先生方は、
そこを強調してその言語の学習者を増やそうとなさったり
学習者の意欲向上へとつなげようとなさったりする。

それ自体は、べつにおかしいことではない。


でも私は、ちょっと気になる。


それは“自分自身が日本をを習得してきた過程にたって外国語を見ようとしたとき”。

前回述べたように、スペイン語圏の人にとってのイタリア語とか
ドイツ語圏の人にとっての英語とは
日本人にとっての○○語は、なんとなく違うように思うわけだ。

そもそも、『本来人間は言語を自然に習得してきた』という立場に立って見ると
その言語によって習得のしやすさに差があること自体、私は不思議に感じる。

これはやっぱり『勉強』という視点から見ているからなのか…

『自然習得』という視点から見たら、言語習得のしやすさに
本来は、差があったらおかしい。

本来人間は、その環境の中で育てばどんな言語も
「身につけやすい」「身につけにくい」なんて関係なく、自然に身につけられる生き物だ。

だから私たち日本人は日本語を自然に身につけられたのだし
イギリス人やアメリカ人やオーストラリア人や…は英語を自然習得したのだし
フランス人はフランス語を
スペイン人やメキシコ人はスペイン語を
中国人は中国語を自然に身につけてきたのだから。

だから
「日本語は難しいから日本人は頭がいい」とか
「ひらがなとカタカナと漢字を使い分けるから日本人は頭がいい」とか
そういう説も、私にとっては「???」となる。


『習得しやすい外国語』という視点で他言語を見たとき
『勉強』や『学習』で身につけるのか
『自然習得』で身につけるのかで、見え方が180度違ってくるというのがおもしろい。

はっきり言って私は勉強が好き。

でも『語学』に関しては、徹底的に苦手。

それはやっぱり不自然さを感じるからなのかなぁ…

だから私は断然、『自然習得』派なのデス☆
オーストラリアでのキャンプツアー参加中、
たくさんのドイツ人と知り合いになった。

ドイツ人は英語が堪能な人が多い。
そしてとっても友好的。
何かと世話を焼いてくれ、話す時間も長かったおかげでいろいろな話ができた。

『ドイツ語は英語と似ている。 でもドイツ語の方が難しい。』

とは、その頃聞いたことだ。

確かにね。
似ている音はあるし、言語学的に分ければ同じゲルマン語族。

さらにドイツ語に存在する名詞の性は英語には存在しないし
人称に合わせた動詞の変化などは、英語とは比べ物にならないくらい複雑だ。

それと比べれば、楽…なのかもしれない。


ただ、この

『英語と似ているけれどドイツ語の方が難しいからドイツ人にとって英語は楽』

という説はやっぱり当時からずっと疑問だった。


すべてのドイツ人がそう思うのなら、本当にそうなのかもしれない。
そして確かに、日本人にとっての英語よりは楽なのかもしれない。

 でもどうして?

 英語は彼女達にとって母国語ではないじゃない。

 あくまで母国語はドイツ語でしょ?
 だったら英語が苦手な人だって存在するんじゃないの?

 むしろ、いて当たり前だと思うんだけど…

不思議で不思議で仕方がなかった私。


そんな旅の途中、あるドイツ人の女の子に会った。

「英語は苦手なの~」と言う彼女。

その言葉は、私をホッとさせてくれた。


ただ、今になって――そう、多言語に触れるようになって
見えてきたことがある。
それは、近い言語同士は重なり合っているということ。

イタリア語とスペイン語とポルトガル語とフランス語と…
例えばラテン語圏の言葉。

もとが同じ言語だから、単語や文法が似ている。
音が同じだから何を言っているかわかったり、
音は違っても文字にして読めば理解できたりする。

母国語が違っても共通点が多いということは
そのベースがもともとない人よりは、ある人の方が
その言語に親しみを持ちやすいし理解も早い。

さらにやはり、身近な環境で耳にする機会がある言語ほど
そりゃあ自分の中には入りやすい。

そういう視点から見れば、

『日本人よりドイツ人の方が英語に抵抗を持ちにくい』
  ↓
『結果として、話せる人の率が上がる』

ということなら言えるかな、と思う。



ではこれが、日本人にとっての外国語の場合はどうなのかな~?

ということで、②につづく。
オーストラリアには『ラウンド』と呼ばれる言葉がある。
簡単に言うと、オーストラリア一周、バックパックの旅。

ワーキングホリデーで渡豪中の日本人や、
長めののホリデーや社会制度で旅する外国の方々が
大きなバックパックひとつ背負って旅をしている。

そういう人たちを対象にしたキャンプツアーも豊富に存在する。

臆病者の私も、自分より大きなバックパックを背負って
ドキドキしながらぐるりとまわったものだった。

ここでの出会いは、自然と異文化交流になって面白い。



私は基本的に英語環境の中にいたかったのと
1人で旅をしていたこともあって、よくこの手のツアーに参加した。

ツアーには、たまに日本人や韓国人もいるが
圧倒的にヨーロッパ勢が多い。

特によく出会ったのはイギリス、ドイツからの旅人。
他にもアメリカ、オランダ、ノルウェー、シンガポール…
国籍は多岐に渡る。

イギリス人やアメリカ人などは、それはそれは旅しやすいだろうと思う。
だって母国語なわけだから。

コミュニケーションにも、手続きにも何も困らない。
トラブルが起きてもいち早く現状を把握できるし、
支持をすぐに理解することもできれば、意見もできる。

でも私はそうはいかない。

必死だ。

そしてイギリス人やアメリカ人じゃなくても、
ヨーロッパの人たちは、英語が母国語じゃなくても堪能な人が多い。

 どうしてだろう?

 何が違うんだろう??

その頃の私は、まだ

『ヨーロッパは陸続きだから言語が混在している』
『母国語じゃない言語も普通に飛び交っている』

という今となっては当たり前と思える事実に気づいていなかった。
まぁ気づいていたところで英語力が飛躍的に伸びるわけではないのだけれど。

とにかく私は必死だった。

面白いもので、アジアの小さな女の子が
どう見てもヨーロピアンとは一線を画する英語で必死にしゃべっていると、
自然とみんな手を差し伸べてくれる。

「ひろみたいに英語が話せる日本人に初めてあったよ!」

なんて嬉しい言葉をくれた人も1人や2人ではなくて
おかげで私は彼らと共に、とても楽しい時間を過ごすことができた。


そんなある時、参加したツアーにノルウェー人が数人いた。

彼らの母国語はノルウェー語。

ちなみにノルウェーはスカンディナビア半島の端にある。
隣りはスウェーデン、一部フィンランド。
北のほうで若干ロシアと国境を接している。

ヨーロッパといっても北欧は、言語的にはそれぞれの国が独自のものを持っているし
ドイツなどのように多国家が混在している大陸の環境とは若干異なる。
日常で英語を必要とすることも、そうそうないはず。

なのに彼らは英語が堪能だった。

見事なまでに、堪能だった。


 何故?


たまらず私は聞いてみた。


「どうしてそんなに英語が話せるの?」


それに対してくれた彼女たちの答えは
私に、日本の現状を語らせることを拒ませた。


「だって私たち、5年も英語を勉強してるのよ!」


5年…『も』?!


 言えない…

 とても言えない…

 日本は基本的に最低でも6年勉強してるだなんて。

 その上で英語を話せる人なんてほどんどいないだなんて。

 ヘタしたら8年とか10年とか、
 勉強しても話せない人が山のようにいるのよ、だなんて…



言えなかった… あの頃の私には。

あまりにも、恥ずかしくて。

私が学生だった時代よりずっと以前から、
日本の英語教育は疑問視され続けてきている。

それでも

あの時ほどそれについて愕然としたことはなかった。。。



あれから10年。

もしかしたら、今の私なら言えるかもしれない。

この現状を、淡々と。

別に何かが改善されたわけではないのだけれどね(笑)