そういえばスウェーデンの大学生に
“街にゴミが落ちていないこと”を褒められたとき
これも視点の違いによるオモシロさだな~と思ったものがある。
私はヨーロッパの街並みが大好き。
街全体に一体感がある。
街や歴史と共存していると強く感じる。
常に“全体”を捉え、その景観と受け継がれてきている歴史を尊重しながら
個々の生活を営んでいるからだ。
高校生のとき、地理の授業で
ヨーロッパの都市計画に関するビデオを見た。
そのあまりの美しさに感動し、
それが発端で私は空間デザインに興味を持った。
そのビデオの中で、
東京の航空写真を見せられたヨーロッパの都市計画家が言っていた。
「なんだい?このゴミみたいな街は」
確かに…
まったくもってその通り。
そうか…私はゴミのような街で暮らしているのか。
その後私は、いくつかのヨーロッパの国々を訪れて
改めて彼のひとことを深く思い知った。
日本も、江戸時代までは街並みに統一感があった。
(あるいは今でも京都や金沢や萩など一部の街には
日本らしい美しい街並みが現存しているけれど。)
でも、文明開化と共に西洋の文化が入ってきた後、
どうも自国文化と他国からもたらされる文化を共存させるのが
とても下手だったように思える。
あの都市計画家に『ゴミ』と一蹴されたように
街全体を見ないまま、その場その場でツギハギを繰り返してきたような…
鎖国という極端な政策から一転、
体制の整わないままの文化共存も、極端に美しくないものを生んだように思える。
『場』とか『みんな』とかいった言葉が日本人は大好きなわりに
街を造るときは“自分の家”といったような『個』の建物しか見ていないのが
なんともオカシイ。
そんな私から発せられた
「スウェーデンは街並みがキレイ(街全体に統一感がある)」
という言葉に対し、スウェーデンの大学生は
「日本は街がキレイ(ゴミが全然落ちていない!)」
という言葉をくれた。
オモシロイ!
できることなら、『ゴミの落ちていないキレイな街並みの街』がいいよねv