人間はコトバを持っている。
『言語』という分野でわけてしまうと
国や地域によって話されているコトバは異なるけれど
基本的に、“人間が話している”ということは変わらない。
だから、話すコトバが違うからって意思疎通がまったくできないわけではないし
本当は壁をつくる必要もない。
カタコトでも、心と心の通うコミュニケーションは可能だ。
通じた!という時の喜びは、自分だけじゃなく相手も同じように感じている。
なのに壁をつくってしまうのは何故か。
おそらく
“言葉がわからないと意思疎通できない”
という刷り込みだ。
もちろん、わかったら楽しさの領域は広がる。
それはもちろんだ。
でもそれなら、同じ言語を話す人同士――たとえば日本人同士――なら
何の問題もなくコミュニケーションがとれることになる。
確かに、日本人同士だったら“言葉”の壁は、ない。
でもじゃあ、きちんと意思疎通してコミュニケーションが通るかというと
悲しいかな…そうでもなかったりする。
人がそれぞれ、人間関係に悩むのもだからこそだ。
ねえ、聞いてる?
さっき言ったこと、聞いてた?
勝手に解釈しないで。
言ってることが違うじゃない!
たぶん誰もが経験している。
夫婦の間で、恋人との間で、友達との間で、親子間で、兄弟間で、上司と部下の間で―――
言葉は人と人をつなぐツールだ。
でも
言葉さえ堪能だったらコミュニケーションに何の問題もないかというと
そうとは言い切れない。
それはコトバが、
コミュニケーションツールのひとつでしかないから。
本当に、人と人を繋いでいるのは
本気で向き合っている心と心。
それがあれば、コトバの壁は低くなる。
壁があっても、伝わる。通じる。
逆になかったら
言葉の壁がなくても、残念ながらコトバは通じない。
たとえそれが、日本人同士であっても
愛し合っている者同士であっても―――