昨年、とある席で初老の男性とお会いした。
彼は仕事の関係で、数年間上海で暮らしていたという。
中国語の“ちゅ”もわからない状態で渡った上海。
必死に現地の人とコミュニケーションをとっていくうちに
中国語が身についていったという。
前述した通訳さんと、経験の仕方としては似ている。
でもだんだん会社から中国語を学んだ日本人が来るようになって
彼は言われるようになったという。
「お前の中国語はおかしい」
例えば『日本』という中国語。
ピンイン表記すると『ri ben』となる。(わぁ!四声の記号が出ない!)
彼はこれを「リューベン」と発音していた。
中国人が言っているのがそう聞こえるから、と。
でも日本で中国語を学んだ同僚は
「それは間違っている。『リーベン』だ」 と言うというのだ。
(はっきり言って、これは文字に書くといささかニュアンスが伝わりにくい。
まぁその辺りは、ちょっと大目に見ていただいて。)
これ、どっちが正しいのか。
というより、そもそも日本人の耳の基準を持ってして「正しい」「正しくない」と論議することに
一体何の意味があるのか。
彼の耳にそう聞こえていたなら、それでいいのではないだろうか。
それが中国人に伝わっているのだし。
日本人が日本で学んだ中国語は、下手すると英語でいう「カタカナ英語」になりかねない。
いわば「カタカナ中国語」といったところか。
言葉は相手に通じたらとりあえず「よっしゃ!」だ。
テキスト通りに言っても通じなければ、ナチュラルな言葉とは何かが違うということになる。
彼の中国語は、中国の人たちに通じていた。
それがすべてだ。
そもそも言葉は、まずはじめに音がある。
文字というのは、それを伝えるツールのひとつだ。
中国語を例に出すと、確かにピンインというものは存在している。
でも例えば台湾で使われている中国語は、大陸で使用されているピンインは用いていない。
もっと不思議な、記号が用いられているのだ。
そしてピンインのみに注目したとしても
今回の「r」のみならず、そこにある「b」とか「p」とかに惑わされて発音が混乱することは多い。
みんな自国の言語の感覚で読むからね。
例えば「b」だけ見てみても、日本語の「b」と中国語の「b」は表す音が異なっている。
さらにそこにロシア語やらドイツ語やらを加えると、
どの言語も似ているようで微妙に表す音は異なっている。
それが「お前の中国語はおかしい」に繋がるのではないだろうか。
これはとても残念なことだ。
ちなみにこの男性は、同僚の心無いその言葉で自信を失ってしまったという。
「だから“正しい中国語”を学ばなくちゃと思って」
でもそれっておかしいよね?
それではまるで、上海で話されている中国語は正しくなくて
北京で話されている中国語のみが正しいと言われているみたい。
それはつまり、東京で話されている日本語が正しくて
北海道で話されている日本語は正しくない、と言われているのと同じことだ。
地域によって方言やイントネーションは異なる。
でもそれと、「正しい」「正しくない」は、まったく別の次元の話。
たぶん『日本』は、中国語で、『リーベン』でも『リューベン』でもなく
『日本』なのだ。