異形の直喩 ― ホメロスとダンテ | この世は舞台、人生は登場

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   私は、抒情詩に深く感銘する感性には欠けています。それゆえに、叙事詩の描き出す壮大な光景や、その登場人物の心情に感動を覚えてきました。とくに、「直喩」という修辞法には興味を持っています。なぜならば、叙事詩人は、比較的に客観的視野にたって、超現実的な英雄や非現実的な出来事を描くことが多いのですが、直喩には詩人の個人的な生活や学識など現れているからです。とくに、ホメロスを起源とする叙事詩的直喩にはその特徴が現れています。その直喩については、私のブログでは何度も繰り返して書いてきましたが、ここでもう一度見ておきましょう。では、まず叙事詩的直喩とは何か、ということから始めて、始祖ホメロスとその始祖の作品を読むことができなかったダンテの直喩法を比較してみましょう。

 

 

直喩と隠喩

   古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、『修辞学』の中で「言うべきことを持っているだけでは十分ではない。必要なのは、それをどのように言うか、ということである。(Ⅲ-1,1403b 15~16)原文は下に添付」と言っています。すなわち、自分が感じた心情、自分が見た情景、自分が置かれた情況をそのまま文章にすれば文学になるわけではないのです。大切なのは、それを効果的に表現することなのです。抽象的ですが、最も分かり易く言えば、芸術的に表現しなければならないのです。具体的な言葉で言い換えれば、修辞法を駆使して表現することです。その修辞法の重要な要素に、直喩法と隠喩法があります。その直喩法と隠喩法について簡単に説明しておきましょう。

 

 

   ある人がある女性を見て「彼女はバラです」と言ったとしましょう。その時、「バラ」のどの様相で、その女性を喩えているのでしょうか。喩えているのは、バラの持つ「美しさ」、それとも「棘がある危険性」、または「華やかさ」、それとも「花のはかなさ」、さらには「ほのかな香り」なのでしょうか。その様に、聴いた者に多種多様な想像を起こさせる喩え方を「隠喩・メタファー(metaphor)」と呼びます。ところが一方、「彼女はバラのように香しい」と言えば、その女性の視覚的な美しさを問題にしないで、彼女から漂ってくる「かぐわしい香り」を表現していることになります。その様に、想像を限定させる喩え方を「直喩・シミリ(simile)」と呼びます。隠喩という修辞法は、言葉の表面的な意味ではなく、言葉の裏に真の意味を隠しているので、読者がその意味を解明・解読しなければなりません。ところが直喩法は、表面に現れた意味のままなので、読者は与えられた言葉通りにイメージ化すれば良いわけです。それゆえに、隠喩は、じっくり読み込み、ゆっくり鑑賞して意味の多様性を楽しむ抒情詩には適していますが、一万行を越える長い詩形の叙事詩には不向きです。一方、直喩は、単調になりがちな叙事詩には最適の修辞法だと言えます。

 

日本文学の直喩法

 

直喩の「風林火山」

   隠喩法に較べれば直喩法は、喩えるものと喩えられるものが直接的なので使い勝手のよい修辞法です。古代より世界各国の文献で使われて、最も親しまれてきました。私たちがよく知っている武田信玄の旗印「風林火山」も、紀元前500年頃の孫子の『軍争篇第7』の言葉の直喩の部分を合成したものです。

 

『古事記』の直喩

   日本に現存する文学の中で最古の叙事詩と呼べる作品は『古事記』です。私がそのように主張すると、『古事記』も『日本書紀』も叙事詩ではなく「神話」だと反論する人も多いようですが、韻文または韻文調または韻文らしき韻律で書かれた物語は、すべて「叙事詩」なのです。叙事詩の語源であるギリシア語の「エポス」とは「物語」という意味であり、古代においては、物語はすべて詩で書いた(歌った)ので「叙事詩=物語」であったのです。古代ギリシアのヘシオドスが書いた『神統記』は、ギリシア神話を題材にして書いた叙事詩なのです。

   日本の神話を書いた叙事詩『古事記』にも直喩が使われています。その数は少なく、その用法は極めて単純で、すべて短い直喩法です。その中で最も注目に値する直喩箇所は次のところです。

 

ホメロスの直喩法

 

   西洋文学の始祖ホメロスが使いこなした直喩法は、世界に類を見ない高度な技法を備えています。論より証拠といいますので、まず実例を出しましょう。『イリアス』のクライマックスといえば、ギリシアの最強の英雄でこの叙事詩の主役でもあるアキレウスと、トロイアの最強の英雄ヘクトルとの一騎打ちです。この二人は、激しい死闘を長く続けましたが、ついにアキレウスの優勢が動かないものになりました。その場面の描写には、次の直喩が挿入されています。

 

   敏捷なアキレウスは、絶え間なくヘクトルを恐怖に陥れながら疾走する。ちょうど、山で犬が鹿の子を隠れ家から駆りだして、斜面や谷間を通って追い回す。たとえ(子鹿が)雑木の下に屈み込んで犬を逃れたとしても、その犬は探し出すまで絶えず跡をつけて走る。そのようにヘクトルは、足の速いペーレウスの子(アキレウス)を逃れることはできなかった。(ホメロス『イリアス』第22巻188~193、筆者訳)

〔原文解析〕

   直喩という修辞法は、最も古くから親しまれてきました。しかし、一口に直喩といっても、二種類に大別することができます。まず一つは、日本や中国など世界中で広く使われていた対句的性質を持った「短い直喩」であり、もう一つは、単一の直喩だけで独立した完全な情景を描き出す機能を持った「長い直喩」です。その二種類の直喩を西洋文学の中だけに限定して眺めてみると、前者「短い直喩」は叙事詩だけでなく抒情詩にも散文にも使われていますが、後者すなわち「長い直喩」は、直接的にせよ間接的にせよ、ホメロスの影響を受けた詩人だけが使用しているものです。それゆえに、その長い直喩は、「叙事詩的直喩(epic simile)」とか、またホメロスが最初に用いたので「ホメロス的直喩(Homeric simile)」とか、また「尾長直喩(long tail simile)」、「装飾的直喩(decorative simile)」、「拡張型直喩(extended simile)」、また否定的には「本筋離脱型直喩(digressive simile)」などといういろいろな呼び名を持っています。そして、呼び名が多いということは、研究が確立していないということですが、しかし現時点で判明していることは、直喩の用法をみれば、その作品が直接にしろ間接にしろホメロスの影響下にある「古典的叙事詩」なのか、それとも影響圏外にある「非古典的叙事詩」なのかを判断するための非常に確立の高い決め手になる、ということです。

  上にあげた直喩は、ホメロスの他のものと比べて格別に優れているものではありません。むしろこの程度の直喩であれば『イリアス』のいたる所に散在していて、とくに注意をして読まない限り見落としてしまうほど平凡なものです。しかし、それさえも古代フランス語の『ローランの歌』や古代英語の『ベオウルフ』で使われている直喩と比べれば一際優れているのです。しかも、『イリアス』のほうが『ローランの歌』などよりも1800年も前に書かれていることを考え合わせると、ホメロスの直喩がいかに優れているかが理解できます。

   西洋叙事詩に使われている「直喩法」については、私のブログで何年も繰り返し説明してきました。もし興味を持たれたならば、下にあげるタイトルにアクセスしてください。また、このブログもそれらの以前の総まとめで、コピー&ペーストの部分もかなり多くあります。

 

ホメロスの直喩  

『神曲』地獄巡り18.ダンテの直喩法

叙事詩の直喩(上)

叙事詩の直喩(下)  

平家物語の直喩形体   

平家物語の仏教故事を素材にした直喩  

平家物語の漢文学・中国故事を素材にした直喩

平家物語の二段重ねと比較級の直喩

 

ホメロス固有の連発直喩

 

   以上ここまで見てきた日本や古代フランスなどの非古典叙事詩に見られた直喩は、ホメロスの使っていたものとは異なります。私の知る限り、(ただし、私の日本文学への知識は極めて乏しいのですが)ホメロス流の直喩を使っているのは『平家物語』だけです。そのことにいち早く気付いたのは、岩野泡鳴(1873~1920)だと言うことができます。泡鳴は、彼が明治43年(1910年)、『文章世界』に発表した「叙事詩としての『平家物語』」において、西洋古典叙事詩との関連から平家論を展開しています。私の知る限り、泡鳴のその論文は、『平家物語』を西洋の四大叙事詩人(ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、ミルトン)と比較して論じた先進的なものです。彼の論文で最も注目に値する箇所は、西洋古典叙事詩に固有の「長い直喩」の存在に着目して、その重要性を指摘している次の記述です。

 

・・・ ホメーロスやミルトンの詩的生命は直喩と直情とにあったと同様に、「平家物語」の音律も亦殆ど全く直情的対句にあると云ってもいいくらいだ。して、「イリオス物語」等が直喩の連発(甚だしきは、直喩中にまたその直喩、そのまた直喩がある)によってますますその作者等の熱誠が見えると同じ様に、「平家物語」にも亦その詩人の努力が種々の対句の運用中に最もよく現れている。直喩と対句とは屡々繰り返されるとうるさいものだが、叙事詩時代には、それが却ってその詩の面白味となるところで、而もまた詩人等の生命と相添ふものになっていた。

 

   上の岩野泡鳴の直喩についての論述は、西洋叙事詩の研究が途に就いたばかりで十分ではない当時の実状を考慮すれば、先見性の高い意見だといえます。

   岩野泡鳴が「直喩の連発」と呼び、「甚だしきは、直喩中にまたその直喩、そのまた直喩がある」と呼んだ個所は、『イリアス』第2巻のアカイア(=ギリシア)の連合軍が、トロイアを陥落させるために大艦隊を組んでトロイアの海岸に押し寄せる場面です。その直喩の個所を読んでみましょう。そして、基礎的な英語文法の知識のある人なら理解できるような注釈を付けたギリシア語の原典を添付します。そしてまた、赤字で表記した個所が直喩の部分です。さらにまた、翻訳はすべて筆者によるものです。

 

   破壊をもたらす火が、山の峰々の上の果てしない森の中を荒れ狂い、その赤々とした光が遠くからも見られる時のように、接近してくる兵(つわもの)どもの恐るべき青銅の武具が発する輝く光線は、中空を通って天にまでとどいた。(455~458、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   そして雁や鶴や首の長い白鳥などの翼のある鳥たちの大群がアジアの草原の中の、カユストリオス川の流れの両岸で、ここかしこと翼を広げて楽しそうに飛び回る。そして鳴き声をあげて降り立つ時、草原じゅうその鳴き声でこだまする。ちょうどそのように、接近する兵たちの大群が船から、そして営舎からスカマンドロス川の平原の方へと押し寄せていた。一方、大地は兵らの足と軍馬の蹄の下から恐ろしい唸りを上げていた。(459~466、筆者訳)

〔原文解析〕

   スカマンドロスの花咲く草原に立っている兵士の数は、その時節になれば生い茂り花開く葉や花の数ほど多く無数であった。(467~468、筆者訳)

〔原文解析〕

   牛の乳が桶を濡らす春の季節に、家畜の群の放牧地をうろうろ群飛ぶ蝿の大群と同じほど沢山に、髪の毛を長く伸ばしたアカイア人たちは、トロイア人たちを滅亡させようと熱望して平原に立っていた。(469~473、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   そしてちょうど、いかに山羊の群が草原じゅうに散らばり混ざり合っていようとも、山羊飼いの男が散乱した山羊の群を易々と選り分けて行くように、指揮官たちは、戦いにはいるために、兵たちをあちらこちらと選り分けていた。そして、その中に、目と頭が雷光を投げるゼウスに似て、腰がアレースに似て、胸がポセイドンに似たアガメムノンがいた。(474~479、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   ある牛が、群の中で他の牛よりもひときわ秀でた姿になり、集まっている牛の中で目立つようになるが、ちょうどそのように、ゼウスは、その日、アトレウスの子を多くの者たちの間で目立たせ、他の兵士たちよりも秀でたものにした。(480~483、筆者訳)

〔原文解析〕

   上の詩文の赤文字で示しました箇所が直喩表現の部分です。全29行の中に9個の直喩が存在しています。

   最初の直喩(455~458)は、兵士たちのまとった武具の立派さを「山火事」に喩えています。第2番目(459~466)は、兵士の大軍が押し寄せる様を「鳥の群れ」に喩え、第3番目(467~468)も「季節に茂る葉と花」で軍勢の多さを喩えています。第4番目の直喩(469~473)は、トロイを滅亡させようと興奮するギリシアの兵たちを「家畜や牛乳に群がる蠅の大軍」に喩えています。第5番目(474~479)は、将軍たちが自分の家来たちを整列させる様子を「山羊と牧童」の比喩を使って描き、さらに短い直喩「ゼウス」と「アレス」と「ポセイドン」の3個を使って、総大将アガメムノンを引き立たせています。そして最後の6番目の直喩(480~483)は、アトレウスの子アガメムノンがギリシア勢の中で目立っている様子を「群れの中で秀でた牛」に喩えています。これほど長い直喩の連発法は。ホメロスの中でも珍しく、この箇所の他では、ギリシア勢とトロイア勢の大軍が正面衝突した場面(第17巻722~761)で5連発直喩が使われているぐらいです。普通は1個で、多くても2個ぐらいの連続使用です。

 

ダンテ特有の長い直喩

 

   ダンテが活躍した中世という時代は、古代ギリシア文化の影響が消滅していました。ダンテもホメロス起源の長い直喩を多用していますが、それはウェルギリウスやオウィディウスなどのローマ詩人経由のものでした。それゆえに、ダンテの直喩法にはホメロスと若干の違いがあります。次にあげる直喩法は、ホメロスの長い直喩をダンテ流に改変したものです。

 

   太陽が宝瓶宮の下で髪を和らげ、もう夜が一日の半分の長さに老いて年が若々しくなる時節、霜が地表で彼女の白い姉の姿を模写するが、彼女の筆によるテンペラ画法では束の間しか続かない頃のこと、若い村人は飼い葉が乏しくなったので、起きて田畑を見渡すと、一面白くなっているのが目に入る。そのために彼は、腰をたたいて(=残念がって)家に引き返す。そしてあちらこちらと不平をこぼして回るが、それは丁度、何をして良いのか分からない惨めな人のようである。しばらく後に立ち戻ってみると、世界が僅かばかりの間に表情を変えているのを見て望みを取りもどし、彼の杖を取り、牧草を食べさせるために子羊たちを外へ出す。(『地獄篇』第24歌1~15、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   ダンテは、ウェルギリウスに先導されて過酷で恐怖に満ちた地獄巡りを行いました。そして、第7圏谷から怪獣ゲリュオンに乗って第8圏谷へ降りました。その圏谷の第5ボルジャ(濠)で、そこの悪魔の頭目マラコーダに偽りの道を教えられたために、第6ボルジャでは道に迷いました。しかし、そこいた修道士カタラーノに正しい道を教えられたので、無事に第7ボルジャに入ることができました。上の引用詩は、その時の安堵した心境を描いたものです。

   『地獄篇』第24歌を牧歌的な序歌で書き始めているのは、連続する地獄の過酷な情景描写の中の清涼剤の役割を果たしています。地獄の巡礼者ダンテにとっても、その詩人と共に過酷な冥界を旅している私たち読者にとっても、この牧歌的序歌はひとときの安らぎになっています。しかも、その序歌には「何を行うべか分からない惨めな男のようにcome il tapino che non sa che si faccia)」という直喩まで挿入されていて、一つの完成された抒情詩の体裁をもっています。しかし、その序歌風牧歌の個所に続く詩行を読むと、それ全体が長い描写を持った一つの直喩であることが判明します。それは、次のような物語の本筋になっています。

 

   そのように師匠(ウェルギリウス)が顔を曇らせるのを見たとき、師匠は私を狼狽させた。そしてまた、そのように(師匠は)患部に膏薬を貼った。(『地獄篇』第24歌16~18、筆者訳)

 

   上の3行の本筋の部分を読んで初めて、前部の牧歌のような15行が直喩であることが判明します。すなわち、悪魔の頭目マラコーダに偽りの道を教えられたために、第6ボルジャでは道に迷ったが、修道士カタラーノに正しい道を教えられたので、無事に第7ボルジャに入ることができた、という出来事を述べただけの個所だったのです。しかし、その短い15行の牧歌的直喩の中に、読者は、地獄の最奥部の残酷な光景に出会う前のひとときの安らぎ得るのです。

   上の3行の本筋の部分を読んで初めて、前部の牧歌のような15行が直喩であることが判明します。すなわち、悪魔の頭目マラコーダに偽りの道を教えられたために、第6ボルジャでは道に迷ったが、修道士カタラーノに正しい道を教えられたので、無事に第7ボルジャに入ることができた、という出来事を述べただけの個所だったのです。しかし、その短い15行の牧歌的直喩の中に、読者は、地獄の最奥部の残酷な光景に出会う前のひとときの安らぎ得るのです。

   『神曲』には、直喩表現が歌段(カント、canto)の冒頭に置かれて序歌のような機能を果たす個所がいくつか存在します。たとえば、『地獄篇』第4歌、第22歌、第30歌、『煉獄篇』第6歌、『天国篇』第4歌、第14歌、第17歌、第23歌です。とくに赤字で示した個所の直喩は、比較的長い表現で描かれています。その中でも牧歌的雰囲気を持っている直喩は『天国篇』の第23歌だけです。しかし、どの直喩表現も、このエッセイで取り上げた『地獄篇』第24歌の冒頭の牧歌ほど優れものはではありません。