平家物語の漢文学・中国故事を素材にした直喩 | この世は舞台、人生は登場

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古代ローマの共通語

   古代ローマにおいては、出世するための必須条件はギリシア語に堪能であることでした。なぜならば、ギリシア語はヨーロッパ中の共通語で、ローマ文化はギリシアの模倣であったと言っても過言ではないからです。そのことは、ホラティウスの「征服されしギリシアは強暴な征服者を征服して、野卑なラティウムに学芸を持ち込んだ」(原文は添付①)という言葉が証明しています。また、新約聖書がギリシア語で書かれたのも、最も多くの人たちが読むことができたためだと考えられています。さらに、ユーリウス・カエサルもいろいろな場面でギリシア語を使っていたと言われています。シィクスピアの演劇『ジュリアス・シーザー (Julius Caesar)』の中でブルートゥスによって殺害される場面が余りにも有名なので、私たちはカエサルが「お前もか、ブルータスよ(et tu, Brute)」とラテン語で叫んだと信じ込んでいます。しかし、実際にはギリシア語で「息子よ、お前もか」(原文は添付②)と叫んだというのが真実のようです。また、カエサルの言葉として最も有名な「賽は投げられた」(原文は添付③)もラテン語で号令をかけたと言われていますが、実際にはやはりギリシア語であったと言われています。ラテン語の文章では、受動態完了形なので、カエサルは「賽は投げられてしまったところだ」という完了した動作だけを伝えたことになります。ところが、ギリシア語の方は、「受動態命令法アオリスト(単純過去のような時制)三人称単数」というかなり複雑な文法です。強いて直訳すれば「賽は投げられたとして行動せよ」いう意味になります。おそらくギリシア語の方がカエサルの叫び声であったので、後にラテン語に翻訳するとき、ギリシア語の意味に近づけるために、願望命令を表す接続法を使って〈jacta sit alea〉としているものもあります。

   もう一つ、古代ローマにおいてギリシア語が重要(公用語)であったことを証明しているエピソードを紹介しておきましょう。

   ダンテは、『神曲』の中で、煉獄の管理人の役割を共和制ローマの高名な政治家マルクス・ポルキウス・カトー (Marcus Porcius Cato:前95~46)に与えています。そのカトーは、彼の曾祖父とは同姓同名なので、その曾祖父を「大カトー」と呼ぶのに対して曾孫を「小カトー」と呼んでいます。その大カトー(前234~149)は、第二次ポエニ戦争(前219~201)の英雄スキピオと対立した高官で、カルタゴに勝利した後も、「カルタゴは消滅すべし(原文は添付④)」と滅亡論を主張すると同時に、勢力が衰えたにも関わらずローマを属国のように扱うギリシア(プトレマイオス朝、セレウコス朝、アンティゴノス朝のヘレニズム三国)に対しても反感を抱いていました。それゆえに、大カトーは、ギリシア文化に傾倒する当時の風潮に逆らって、ギリシア語を習得することを拒否していました。しかし、カルタゴ滅亡論は貫徹しましたが、ギリシア語能力の欠乏だけは政治活動に支障をきたしたようで、晩年にはその習得に努めたと言われています。

 

添付①:『書簡集(Epistolae)』2-1、156~157)

添付②: 「ブルータス、お前もか」

添付③: 「賽は投げられた」

添付④: 「カルタゴは滅ぶべし」

中世ヨーロッパの共通語

   中世からルネサンスにかけては、ローマ帝国の国語であったラテン語がヨーロッパの共通語になりました。ただし、中世時代の初期には、ラテン語の方言化が進み、後に「ロマンス諸語」と呼ばれるイタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語などに分化していきました。それゆえに、ヨーロッパ共通語としての古典ラテン語の復活と確立が知識人たちにとって急務になってきました。そして、キリスト教がローマ帝国の国教に認知されるとラテン語はあらゆる公的機関の公用語になりました。その結果、中世も末期になると、ラテン語を習得して古代ローマの書物を読むことが、教養人の必須の条件になっていました。それはちょうど、古代ローマ人たちがギリシア文学・哲学を吸収したように、中世の教養人は率先にてラテン語文学を読破しました。さらに、ルネサンスに入るとギリシア文学も原典で読むことのできる知識人も増えてきました。シェイクスピアのような大文豪でさえ、同時代の詩人ベン・ジョンソン(Ben Jonson, 1564~1637)から「ラテン語は少しできるが、ギリシアは全く知らない (small Latin and less Greek)」と揶揄されましたが、それは、教養人ならばギリシア語を知っていて当然だ、ということを意味しているのでしょう。しかし矢張り、ルネサンス期でも、大半の教養人は‘large Latin, less Greek’でした。ラテン語の法諺に「ギリシア語は読まれない (Graeca non leguntur)」という文言があります。「ギリシア語で書いても読まれないので、使わないように」という意味でしょう。また、英語にも‘It’s Greek to me’という慣用句があります。字義通りでは「それは私にはギリシア語同然だ」という意味ですが、実際には「私にはさっぱり分かりません」という意味で使われています。もともとは、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の第1幕第2場(279~285)で、カエサル暗殺を共謀するキャシアス(カシウス)とキャスカ(カスカ)の対話の中で使われた言葉です。キケロとカエサルが対話している場にいたキャスカに対して、キャシアスがその会話内容を知りたいと思っている「キケロは何か喋ったか (Did Cicero say any thing?)」と尋ねました。すると、キャスカは「彼はギリシア語を喋っていた」と答えると、さらに「どんな趣旨のことだった (To what effect?)」と、キャシアスは問い詰めました。そして、その答えは、「俺にとっては、ギリシア語だったよ (for mine own part, it was Greek to me)」でした。その場面は、キケロとカエサルはギリシア語で会話していたが、キャスカたちにはそれが理解できなかった、という意味でしょう。実際には、キャシアスもキャスカもローマの重鎮であったので、ギリシア語を理解できたはずです。まさしく、その場面の対話は、古代ローマ人の語学力の基準ではなく、シェイクスピア個人の語学力‘small Latin, less Greek’を露呈したものかも知れません。すなわち、ルネサンスの教養人にとっても、ギリシア語は慣れない言語であったかもしれません。しかし、ラテン語は、ヨーロッパの共通語であったので官職に就く者や教養人にとっては必須の言語でした。ミルトンがイギリス清教徒革命においてクロムウェルのラテン語秘書として重要なポストにいたのは、革命の理念をヨーロッパ各国に伝える手段としてラテン語が必要であったからです。

 

   以上のように、古代ローマの詩人たちは、ギリシア文学から直喩の素材を採り、中世・ルネサンスの詩人たちは、古代ローマ文学からその素材を採って、彼ら独自の表現法を作り出してきました。とくに、その方法で才能を発揮したのが英国詩人ミルトンでした。ミルトンのローマ詩人ウェルギリウスをはじめ、過去の文献から素材を採った直喩には傑作が多いのは、彼がラテン語やイタリア語は言うまでもなくギリシア語やヘブライ語にも精通していて、多くの書物を読破したからです。

 

中世日本と漢文

   では、我が国に目を向けましょう。古代ローマの教養人にとってギリシア語が、また中世・ルネサンスの教養人にとってはラテン語能力が絶対必要な条件でした。それと同様に、日本においても、平安時代から江戸時代に掛けて、官職に就くためには漢文を修得していることが必須の条件でした。西洋の古典叙事詩の詩人たちがギリシア・ローマ神話や聖書から直喩の素材を採る姿勢は、日本の詩人たちが仏教故事から素材を採る姿勢と共通するものがありました。それと同じ様に、西洋の叙事詩人たちが先輩詩人たち、たとえばウェルギリウスがホメロスから、ダンテやミルトンがそのウェルギリウスから直喩の素材を採る姿勢は、平家作者が漢文や中国故事からその素材を採るのと相通ずるものがあります。

 

中国故事からの素材

   『平家物語』には、漢文学や中国故事から素材を採った直喩が作品中に点在しています。次ぎに紹介する「蓬萊山の直喩」は、その種類の中で最も優れたものです。

   蓬萊山は、中国の遙か彼方の海上にあって、不老不死の神仙が住むと信じられていた伝説上の山で、古来より中国の書物にはしばしば登場した理想郷です。蓬萊山の他に、早くから我が国にも知られていた中国の理想郷には、陶淵明(とうえんめい)の作り出した「桃源郷」があります。しかし、湖上に浮かぶ竹生島を喩える素材としては蓬萊山が最適です。しかも、直喩表現自体、本筋の部分の鮮麗な情景描写と完璧なまでに調和を保っています。この直喩だけを見ても、『平家物語』の作者の素材選択がいかに正確であり、詩的表現能力に卓越していたかが理解できることでしょう。また、これと同じ情景は、語り本(平曲)『平家物語』の創作と平行して読み本として創作された『源平盛衰記』にも、次のように表現されています。

   『平家物語』と『源平盛衰記』の同じ情景を描いた箇所を読み比べると、アリストテレスが『修辞学』(Ⅲ-1,1403b 15~6)で述べた「言わなければならないことを持っているだけでは十分ではない。必要なのは、それをどの様に言うかということである」という学説の正しさが実感されます。『平家物語』の表現は、本筋の部分と直喩の部分とが絶妙なバランスを保っていて、その芸術性も西洋古典叙事詩の水準にまで到達しています。一方、『源平盛衰記』の表現では、「竹生島」を喩えているのは「茫々たる天水」ということになってしまいます。確かに、その作者は、本筋の部分は念入りに描いていますが、直喩の部分には重要性を感じていなかったことがわかります。むしろ、直喩の体を成していないので、直喩という修辞法の存在自体を理解していなかったかも知れません。『平家物語』と『源平盛衰記』は、信濃前司行長の原作といわれる「原平家」を源泉とする同じ流れの中で創作されましたが、流れ着いた結果はかなり異なった作品になってしまいました。やはり、西洋古典叙事詩の直喩法は、平家作者だけが巧みに操ることのできた修辞法であったことが分かります。

 

超人気詩人白楽天

   字を白楽天という唐の詩人白居易は、平安時代の初期から日本人の間で最も愛読されてきました。その詩人の死去(846年)の前年に生まれた菅原道真などは、すでに彼の詩の熱烈な信奉者であったと言われています。その後も、白居易は日本の文学者たちに絶大な影響を与え続けてきました。そして、日本の中世時代の教養人にとっては、『白氏文集』は必読の書であり、また必須の知識でもありました。そのことを証明する紫式部と清少納言の女の確執を紹介しておきましょう。

 

   紫式部が清少納言を嫌っていたことは有名な事なので、いまさら説明するまでもないと思いますが、そのあらましを見ておきましょう。二人の天才女流作家の確執の発端は『枕草子』の中でも最も有名な「香炉峰の雪」の章段でした。或る雪の日、清少納言が仕えていた中宮藤原定子が女房たちと閑話を楽しんでいました。すると中宮が「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」と尋ねました。ただちに清少納言は、他の女房に命じて「御格子上げさせて、御簾を高く上げさせ」ました。すると中宮は感心して微笑みました。同席していた女房たちは「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ」と言って少納言を褒めました。ここで話題になっている「香炉峰の雪」は、白居易の詩句「香炉峰の雪は簾を撥(あ)げて看る(香炉峰雪撥簾看)」ですが、もはやその詩句は、女房たちの誰もが「さることは知り、歌などにさへ歌」うほど有名なものでした。まさしく、白居易は、平安の昔から教養人の間では知らない者がいなかったということです。さらに、白居易の詩を修得することが平安の人々の間で常識化していたことを、紫式部が『紫日記』の中で、次のように証言しています。

 

    「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

  (現代語訳:清少納言は、得意顔がはなはだしい人。あれほどかしこぶって、漢字(真名)を書き散らしているけど、よく見ると間違いが多くて能力不足である)」

 

   上の紫式部の文言は、「香炉峰の雪」と関連付けて解釈されることがあります。すなわち、白居易の「香炉峰の雪は簾を上げてみる」という詩句を知っていて、すぐに行動に移すことができたことを、清少納言は自慢して書いています。しかし、白居易の漢詩は誰もが知っている常識なので、それを知っていることを自慢げに書いている清少納言は教養の無さを露呈している、と紫式部は小馬鹿にしているのです。まさしく、二人の天才女流作家のエピソードは、すでに平安時代において白居易が、すべての教養人の間では常識化していたことを証明しています。

 

「白氏文集」から採った素材

   漢文学であろうと仏教経典であろうと、過去の書物に書かれた既成の表現や知識を直喩の素材にすることは、優れた文人・詩人にとって決して困難な技術ではありません。ところが、そのような素材から独創性に富んだ直喩表現を作り出すためには、高度な詩的技巧と優れた詩的才能が要求されます。まさしくそれは、「言わなければならないことを持っているだけでは十分ではない。必要なのは、それをどの様に言うかということである。(『修辞学』Ⅲ-1,1403b 15~6)」というアリストテレスの言葉通りなのです。それゆえに、表現能力すなわち「どの様に言うか」という資質に乏しい作者が既製の表現を乱用すれば、知識の誇示には役立つかも知れませんが、その結果は、原典の表現を凌ぐことはできないでしょう。むしろ、作品全体にまで悪影響を及ぼして、最悪の場合は、その作品を台無しにしてしまうことになりかねません。過去に書かれた表現を基盤にして、そこから独創的でしかもより高度な表現を作り出して初めて、直喩は価値を持つようになります。そして、その作品の本体と有機的な結合を持つようになるのです。すなわち、それが「古典主義文学の真髄」というものなのです。その観点から『平家物語』を考察すると、その作者が、いかに卓越した才能の持ち主であったかを裏付けることができます。

    まず、『平家物語』を見る前に、直喩の技法においては極めて貧弱であった『平治物語』に目を通しておきましょう。その叙事詩にも白居易の『長恨歌』の一節を素材にした直喩が存在しています。それは、平治の乱で源義朝が殺害された後、平清盛の前に引き出された時の常葉御前の美しさを喩えた次の直喩箇所です。

   ある知識というものが常識になっている時は、実際にその書物を読まなくても人の話から知ることができるようになります。それゆえに、上の詩句の直喩からだけでは、平治物語作者が白居易の原詩を実際に読んでいたかどうかを判断することはできません。しかし、直接であれ間接であれ、白居易の『長恨歌』第7句目にある楊貴妃の美しさを描いた「廻眸一笑百媚生(眸を廻らして一たび笑めば百の媚を生じる)」という一句を素材にした直喩であることは確かなことです。ただ問題になることは、その一節が直喩の外にはみ出していて、直喩本体との一体感を失っているということです。そのために、表現自体も不自然になっていて、人名の羅列が長い直喩だと錯覚させていますが、機能としては短い直喩とかわりはありません。すなわち、そこで用いられている楊貴妃の喩えは、まるで功を奏していないのです。その直喩法から判断すれば、おそらく『平治物語』の作者は、長い直喩を操るだけの技能も創造力も備わっていなかったかもしれません。

   それでは次に、年代的には前後しますが、『平家物語』よりも先に『太平記』を見ておきましょう。その叙事詩にも『長恨歌』から素材を採った描写が多数存在しています。例えば、「巻第三十七」の「畠山入道道誓謀叛事付揚国忠事」に描かれた畠山道誓は、足利尊氏に従って鎌倉倒幕に軍を進め、またその後、南朝征伐を試みましたが失敗に終わりました。その畠山の敗北と失脚の「たとえ話」として、唐の玄宗の后楊貴妃の威を借りて権勢を振るった兄揚国忠の敗北と戦死を語っています。その「たとえ話」の中で、楊貴妃を讃える『長恨歌』(99節と100節)の詩文「玉容寂寞涙欄干たり。只梨花一枝春帯雨如し」が、そのまま使われています。因みに原文は次のようです。

   上の『太平記』「巻第三十七」の詩文は『長恨歌』を引用したものなので、作者の創造と独創によるものではありません。しかし、次に紹介する「巻第四」の「備後三郎高徳事付呉越軍事」の中で使われている直喩は、前述のものよりも僅かに独創性を感じることができます。その理由は、本来楊貴妃に使われた直喩を西施(せいし)に使っているからです。その箇所は、我が国の南北朝戦争を中国の呉越戦争に喩えた逸話の中で越王勾践(こうせん)の后西施の美しさを喩えて、次のように表現しています。

   楊貴妃に使われた直喩表現を西施という別の美人に使ったことは、多少の工夫の跡は認められますが、やはりこの箇所もまた、前回のブログで言及した「紅葉の直喩」と同様に「漢詩の模造品」という『太平記』の欠点が露呈しています。

 

   以上のような白居易から素材を採った『平治物語』と『太平記』の直喩と、『平家物語』の同じ素材のものを比較してみましょう。懐妊したのち容体が悪化した中宮(清盛の娘徳子)の容姿の美しさを、次のように喩えています。

   この直喩は二段重ねの構造で成り立っています。第一段目の構造は『平治物語』と同じ『長恨歌』第7句目の「廻眸一笑百媚生」で、第二段目は『太平記』と同じ『長恨歌』第100句目の「梨花一枝春帯雨」から素材を採っています。しかも、どちらの構造にも漢文訓読体が用いられていることは前者二つの叙事詩と変わりはありません。ただ異なっている点は、『平家物語』の作者が他の叙事詩人のように既製の表現をそのまま借用することだけでは飽き足らず、さらにそこから豊かな想像力でイメージを発展させているということです。しかし、その詩作法の相違は、極めて重大な結果となって現れています。まず第一段目構造では、中宮徳子を李夫人に喩えています。その直喩表現の中の「照陽殿の病の床」の素材は白居易の漢詩『李夫人』の第20句目「照陽寝病時(照陽殿に病で寝せし時に)」に依拠しています。しかし「一度笑めば百の媚ありけん」は『長恨歌』の中で楊貴妃に付けられた形容句でした。ということは、平家作者は白居易の詩句を借用するときも、独自に改変しているのです。そして、第二段目では、中宮を楊貴妃に喩えています。その直喩では、白居易の原詩にある「梨花」を中心に、『長恨歌』では「美」の象徴として「芙蓉如面柳如眉(訳:芙蓉は楊貴妃の顔のよう、柳は彼女の眉のよう)」と使われている「芙蓉」に加え、日本では女性の美しさを象徴する「女郎花」にまで花のイメージを拡大させています。それゆえに、『平治物語』や『太平記』の直喩が、白居易の詩文のままの使い古されたイメージしか持つことができなかったのに対して、『平家物語』の直喩は、表現自体に多様性を備え、作品独自の新鮮なイメージを作り出すことができているのです。そして、そのような創作上の特徴は、『平家物語』が日本文学の中で他の追随を許さない傑出した叙事詩であることを証明するものなのです。

 

まとめ:『平家物語』の西洋古典的直喩

   ここまで、日本文学の範疇の中で『平家物語』の直喩の特徴と文学性を考えてきましたが、これからは世界文学の中で、それらの要素を考察してみましょう。

   『平家物語』には書物から得た知識・学識を素材にした直喩が多く存在しています。しかも、それらが日本の他のいかなる叙事詩にも見られない独創性と高度な文学性を備えたことは、ここまで例証した通りです。さらに、『平家物語』だけに備わっていたそのような特徴は、平家作者の文学的資質を西洋古典叙事詩の範疇の中で評価するための重要な決め手になるのです。

   読書体験すなわち知的体験から素材を採った直喩は、西洋の叙事詩でも頻繁に使われています。西洋において、日本の仏教的な直喩に相当するものは、ギリシア・ローマ神話や聖書から素材を採った直喩です。さらに、古代ローマ詩人ウェルギリウスが古代ギリシア文学から、またイタリア詩人ダンテやイギリス詩人ミルトンが古代ギリシア・ローマ文学から直喩の素材を採っているのは、日本の叙事詩が漢文学からその素材を採っているのと同じ現象です。ただ異なっている点は、西洋のあらゆる古典叙事詩人たちは学術的直喩を使いこなすことができたのに対して、それを使う技量の持ち主は日本では平家作者だけであったということです。