平家物語の仏教故事を素材にした直喩 | この世は舞台、人生は登場

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   前回のブログ「平家物語の直喩の形体」では、『平家物語』が日本の叙事詩の直喩法に貢献した形体論的役割を中心にして見てきました。今回のブログでは直喩の素材に目を向けて、その詩的効果を具体的について見てみましょう。

 

仏教故事からの素材

 

   前回のブログで取り上げた「紅葉の直喩」は、平安の昔から人々の日常生活の中で親しまれてきた「竜田川の紅葉」という身近な自然を素材にしているものです。しかし、その景色は、平家作者が実際に肉眼で見たものとは限らなのです。それは、在原業平(ありわら の なりひら)の和歌「千早振る神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」の一句から素材を採った可能性が極めて高いからです。その和歌は、『古今和歌集』(成立900年頃)に収められ、『小倉百人一首』(成立1200年前半)にも選ばれているので、平家物語の発酵と熟成期(1210年頃から1370年頃)の教養人ならば知っていて当然であったはずです。一方、ホメロスなどの西洋古典叙事詩人たちの直喩の素材は、もっぱら自然界から採られています。しかし、『平家物語』に使われている直喩は、ほとんどが書物などから得た知的経験を素材にしています。そして、当時の読書範囲を勘案すれば、その知識がどのような種類であったかは容易に推測することができます。

 

釈迦を素材にした直喩

 

   直喩の知的素材としては、漢文学から採用されたものと並んで多いものに仏教の故事伝説があります。その種の直喩で最も優れたものは、木曽義仲に敗れて都落ちした平維盛が熊野沖で入水したとき、忠誠な舎人の武里(たけさと)が主人の死を悲しむ有様を、釈迦の入山に喩えた次の箇所です。

   日本が原則的には仏教国であり、しかも『平家物語』全体を浄土教思想が支配していることを考え合わせれば、この種の直喩が多いのは当然だと言えます。しかし、私の推測が正しければ、仏教故事を直喩の素材として積極的に用いたのは、『平家物語』が最初かも知れません。『保元』・『平治』の両作品には、短い直喩にさえ仏教的素材が用いられてはいないようです。また『太平記』には、仏教的素材を用いた表現を見ることができます。たとえば、下に添付する箇所は、上で見た釈迦の入山と同じ素材を用いています。

      上の『太平記』の描写の中で言及されている「本院」とは、朝廷が北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)に分断された時の北朝初代天皇であった光巌上皇を指しています。また、「新院」は、光巌の弟で北朝の第2代天皇であった光明上皇を指しています。この二人の上皇は、南朝が優位であった時期に天皇位を廃されて上皇になりました。そして、もともと臨済宗の高僧夢窓国師(むそうこくし:夢窓疎石(むそうそせき)ともいう)の弟子であったので、両上皇とも髪を落として出家しました。上の描写は、両者の出家の時の模様を悉達太子と善施太子の入山に喩えています。ただし、上の描写では二人の「太子」が別人であるかのごとく表現されていますが、実は同一人物で、ともに「釈迦」を指しています。すなわち、「善施太子」とは、釈迦が前世で施しを行っていた時の名前で、「悉達太子」は、現世で釈迦が悟りを開く前の梵語名「シッタルタ(Siddhārtha)」の音訳です。上の『太平記』の文言を読む限り、作者がその事柄を知っていたがどうかを判断することはできません。ただし、太平記作者がそのことを知っていたかどうかは重要ではありません。問題なのは、その作者が直喩法を使う技量に劣っていた、ということです。上の表現法を強いて文学の修辞法で分類するならば、「直喩」ではなく、「寓喩」と呼ぶべきものかも知れません。それは、ギリシア語では「パラボレー(parabole)」、英語では「パラブル(parable)」と呼びますが、一般的には「アレゴリー(allegory)」と呼べば分かりやすいかも知れません。直喩法で表現していないために、「喩えるもの」と「喩えられるもの」との間のつながりにぎこちなさが感じられます。

『太平記』には、その他にも仏教的故事を素材にした多くの直喩はありますが、『平家物語』に比べると表現自体に未熟さを感じさせられます。たとえば、次の直喩は、インド(天竺)の波羅奈国にいた僧侶が悟りを得たときの様子を釈迦に喩えたものです。

   この原文を現代文で要約すれば、「一国の天子を教えるほどの師範となる高僧を四海(世の中)が頼りにする有様は、あたかも釈尊が世俗を離れて(出生)悟りを開いた(成道)ときのようであった」となります。その叙述の直喩の部分にあたる「恰大聖世尊の出生成道の如」だけでは、釈迦が実際に何を行ったのか分かりません。本筋(喩えられる部分)で描かれた天竺の波羅奈国の高僧が行った行為の部分を読まなければ、釈迦のどの行為とどの偉業を喩えているのか分からないのです。すなわち、その直喩は、喩える部分「釈迦の悟り」と、喩えられている部分「高僧が世間の者から頼られている」との間に、漠然としたつながりしか提示できていないのです。

 

 

地獄(≦冥途)を素材にした直喩

 

   日本の叙事詩は戦記物語の要素が大きいので、必然的に戦いの悲惨さを地獄に喩える直喩も多くなります。確たる証拠も統計もあるわけではありませんが、抒情詩的要素の多い『平家物語』に較べて『太平記』は戦記的要素が強いので、地獄を素材にした直喩が多いようです。しかも、その地獄を素材にした直喩には優れたものが多いようにも感じられます。まずここで、地獄を素材した代表的な直喩を紹介しておきましょう。

   後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の呼び掛けに応えた楠木正成は、僅か千人ほどの兵で千早城という山城に立て籠もり、百万の幕府軍をゲリラ戦によって打ち破りました。それを「千早城の戦い」と言います。幕府軍が城を攻略するために長梯子を掛けて登ろうとしたとき、楠木軍は火のついた松明を城壁の下へ投げて、その上に水鉄砲で油をまきました。すると幕府軍は、梯子が焼け落ちて火の海へ落ちて行きました。その時の有様を、次のように描写しています。

 

千早城合戦図(湊川神社所蔵、歌川芳員画)

   上の直喩は、『太平記』の中の直喩としては優れたものであると評価できます。しかし、やはり太平記作者の欠点が露呈されています。すなわち、喩えられる本筋の部分よりも喩える直喩の部分の方が叙述内容が貧弱であると言うことです。地獄の中の最下層に設定されていて、剣樹や刀山や熱鉄山が存在していると言われている「阿鼻・無間地獄」を想定して、作者は「八大地獄」と呼んでいるのでしょう。しかし、直喩の中の表現よりも、兵士たちが焼け死ぬ本筋の情景描写の方が鮮明で精巧であるとことは否定できません。

 

   もう一つ『太平記』に使われている地獄を素材にした直喩を見ておきましょう。前述の楠木正成と同様に、後醍醐天皇に味方して、鎌倉幕府倒幕運動に加わった日野俊基(としもと)を描いた箇所にも地獄の直喩が使われています。日野俊基は、倒幕のために諸国を廻って賛同者を集めました。しかし、そのことで六波羅探題に捕らえられますが、その時は刑を免れました。ところが、さらに討幕運動を進めましたので、その時ばかりは捕らえられて鎌倉に送られ、葛原岡(現在は鎌倉市梶原に日野俊基を祀る「葛原岡神社」がある)で処刑されます。その処刑前には諏訪左衛門の館に監禁されましたが、その時の様子を次のように描いています。

   上の直喩表現の中で、「地獄の罪人」が「十王の庁」に渡される、と叙述されています。ということは、太平記作者は「地獄」と「十王の庁」を同一視していることになります。「十王」とは、下に添付した図表に示すように、死後の世界の十法廷を裁く十人の法王のことです。この世で悟りを開いてしまった聖人以外は、すべての死者が行かなければならない場所ですから、「冥途」とは、西洋風に「冥界」と呼ぶべき世界です。それゆえに、「地獄」は「十王の庁」の先に存在する世界で、両者を併せたものが「冥途」と呼ぶべきなのです。ということは、地獄と冥途の関係は「地獄≦冥途」ということになります。(私のブログ『あの世の話』を参照)

       しかし、太平記作者も使っているように、日本の仏教では「地獄」と「冥界」の区別が曖昧なようです。日野俊基が諏訪左衛門の屋敷に幽閉されて、拷問を受けながら尋問される有様を、法廷王の前で生前の罪業を取り調べられる死者に喩えているのは適切な素材選択だといえます。しかし、直喩表現自体は、場景描写が「紋切り型」になっていることは否定できません。

   では、ここで最後に、『平家物語』の冥途を素材にした直喩を見ておきましょう。その直喩が使われている箇所は、藤原成親が平家打倒の陰謀事件「鹿ヶ谷事件」に加わっていたために、平清盛の逆鱗に触れて拷問される場面で、次のように描写されています。

   死者は、冥途に行くと、この世(娑婆世界)で犯した善悪の軽重を量る秤に掛けられ、また閻魔庁では、生前の所業をありのままに映し出す浄頗梨(浄瑠璃とも書く)と呼ぶ水晶の鏡に対面させられます。そして、この世で犯した罪を洗いざらい白状させられ、その罪業の軽重に応じて拷問が加えられます。前述したように、日本の仏教では「冥途」と「地獄」の概念が曖昧です。一般的な仏教思想では、死んだその時から七つの関門を七日ずつかけて死出の旅をします。その関門ではそれぞれの法王が娑婆世界の罪業を調べます。時には威喝や拷問によって白状させられることもあるでしょう。そして、四十九日の旅を終え、第七法廷で泰山王によって、「浄土行き」、「人間に生まれ変わり」、「修羅場行き」、「畜生に生まれ変わり」、「餓鬼になる」そして「地獄行き」のどれかを宣告されます。ただし、それでも行き先が決定されない亡者は、百日目に「平等王法廷」で裁かれますが、なおまだ決まらない亡者は、一年目に「都市王法廷」に立ちます。それでも、決定されない亡者は二年目の「五道転輪王法廷」に立つことになります。それゆえに、冥途の法廷でいかに責め苦を受けようとも、それは罪業を自白させるための拷問ですから、地獄の責め苦ほど激しいものではないということになります。すなわち、極悪人でもない限り、死んで四十九日の旅の間は、地獄の責め苦ほど激しいものではないと考えることができます。

   前述の藤原成親が受けた拷問は、実際のところは、冥途の亡者たちが阿防羅刹から受けるような厳しいものではなかったかも知れません。藤原成親という人物は平家転覆の陰謀に荷担しましたので、清盛は成親に対して怒り心頭に発していました。しかし、平清盛の嫡孫維盛の正妻建春門院新大納言は成親の娘にあたるため、清盛の嫡男重盛と成親は義理の兄弟にあたります。それゆえに、藤原成親は重盛と維盛にとっては濃い姻戚になるので、二人そろって、兵は連れず側近だけを若干名連れて、監禁の館まで命乞いに来ています。そのような関係によって、成親は処刑を免れましたが、拷問は受けることになりました。その仕置き役には、瀬尾太郎兼康と難波次郎経遠が選ばれましたが、両者とも、重盛・維盛親子に遠慮して、手心を加えました。入道清盛が経遠・兼康両家臣に「あの男取って庭へ引落とせ」と命じると、彼らは「小松殿の御気色いかが候はんずらん(=重盛殿のお気持はいかがなものでございましょうか)」と答えました。しかしそれでも、清盛が「よしよし、己らは内府が命をば重うして、入道が仰を輕うじけるごさんなれ(=もうよいわ、お主らは内大臣重盛の命令を重んじて、入道の言いつけは軽んじるのか)」と言われたので、その二人の家来は、しぶしぶ成親を庭へ引き出しました。しかし、拷問を加える前に、成親の耳元で「如何様にも御聲の出づべう候(=何なりと、声を出しなさいませ)」とささやいて、拷問を加えました。入道清盛の面前なので仕置きをしないわけにはいかなかったのですが、手加減は加えていたはずです。しかし、清盛の目には、拷問の様子が直喩で表現されているように見えていたということです。仕置する者と仕置される者との演技によって、冥途において阿防羅刹の鬼たちが呵責するように見えたのではないでしょうか。