あるがまま今を生きてみる。 -3ページ目

単純作業に祈りをこめる

急にこの言葉がふっと心に浮かんだ。


かなり前に読んだ確か本田健さんの本に書いてあった一文だと記憶している。


僕は祈りとか神とかそんな言葉がきらいだった。
人生とは誰かにお願いするものではなく自分で切り開くものだと思っていたし祈ったり神さまとか言ったりする人間は弱い人間だと思っていたからだ。


昔の自分からみれば今の自分は全く弱い人間になってしまったのかもしれないが、昔見えなかったものはだいぶ見えるようになってきた。


少し話がよこにそれたが


僕たちの生活を見回してっみると
家の中であれ、仕事場であれ
単純作業といわれる繰り返し作業はとても多い。


たとえ営業のような仕事であってもだ。
仕事の内容や生活を観察してみるとよくわかる。


僕は単純作業は効率よく早くやるべきだだと思っていて
どう早く作業を終わるかを考えて行っていた。


でもこの言葉を聞いたときから
少し違うような気持ちになった。


同じ何かを作るにしても
使う人の顔を思い浮かべたり
手にしている材料がどこからここにやってきて
どこに向かって流れていくのか創造し、その出会いに感謝したり


その作業に自分の心からの想い
祈りを込めて出来上がっていく事柄は


効率よく素早く出来上がっていくものとやはり違う感じがする。


工場で作られた商品と手作りの商品の暖かみの違いなども
思いや祈りが込められているから洗われる違いかもしれないと思う。


家での料理や
掃除、洗濯そんなことだって祈りを込めて行えば
楽しくもあるし
仕上がりも当然かわってくるのかなぁ


ふとそんな事が頭によぎった


単純作業だけでなく
色んなことに心を込めて
祈りを込めてやってみたい。


あなたの命に出会えてありがとう。

苦しい事

 日々生きていると苦しい事や、辛い事はいくらでもおきる。
いくらでも起きるなんてものではなく、人生自体が苦しい事ばかりだと叫びたくなるなこともある。


 確かに中には、毎日を充実してワクワクしながら、愛や喜びに包まれて生活している人もいるし、そうするのも全て自分しだいだし、責任は全て自分自身にあることも充分いわかっている。

 
 でも今が苦しいんだ!
 今だけ出じゃない昔からずぅーと苦しんだ
 何で僕にはこんなに苦しみがつきまとうんだ~~~~!
 と叫びたくなることも少なくないなんて人も多いんじゃないのかなぁ


 なんて書いている僕もその部類の人間である。
ここ5年間ぐらいは心の平安なんてものとは正直ほど遠い生活をしてきた。


 しかし苦しみもすてたもんではないなぁと思う事も少なくない。
 
 
 まず一つ目に苦しい人の気持ちがわかるようになった。自分が苦しいからその分他の人に優しくなれる。これが苦しみをしらない、と自分自信の狭い尺度で、物事を判断して苦しい人にさらに鞭打つような、ひどい事を言ったりしたりしがちなのだ。

 実際昔の自分は、何でも人より出来ると思ってかなり傲慢であったし、人を責めたり傷つけたりすることもしばしばあった。
 その時はそのこにすら気付いていなかった。今思うと最低の部類の人間である。
 苦しみや悲しみ弱さを知る人間は一回り人間としての幹が太くなる気がする。


 次に自分自身と向き合うようになるってことがある。
 自分の心と向き合うんだ。
 今自分が何を考えて、何を感じて生きているのか?
 そしてどこに向かいたいのか?
 何がしたいのか?
 この人生はなんの為にあるのか?
 どのように生きていくのか?


 こんな事を色々考えていると
 なんでも自分でやってきたという傲慢な気持ちはいつの間にかに消えうせて僕たちは生かされているんだという事に気が付いてくる。
そして守られている事にも

 今ままであたり前だと思っていた、家があること。
 水が飲める事、空気が吸えること。
 体が動く事、物が見えること、耳が聞こえる事
 今日食べるものがあること。
 着る洋服があること

 こんなことは実は奇跡的な事ではないのか?
 そう思えてくる瞬間がある。
 そしたら
 苦しい生活の中にも
 感謝することが生まれてくる
 

 日々の当たり前の生活に感謝できる。

 
 当たり前に感謝できれば苦しみは
 いつしか喜びや愛に変わる。


 幸せしかなければそれが幸せなのかどうかわからない
 苦しみ悲しみを知る事で幸せを感じる事が出来る。
 
 だから体験したくて今生きている。


 だから体験を味わえばいい

 
 それが嫌になったら違う事を選べばいい


 僕もそろそろ喜びを選ぼう


 今日は終戦記念日
 今の僕たちの生活を守るために
 命を懸けて戦ったご先祖さまたちが
 今の日本を見て
 命を懸けて戦って良かった
 そう思えるような日本そして世界を創る責任が僕たちにはある。
 今の日本はどうだろう
 ウソやエゴに満ち溢れてないだろうか?
 


 今の僕たちを見て未来為に散っていった人たちはどうおもうだろう?


 


 

宇宙に上手に御願いする法

久しぶりに引き寄せ系の本を読みました。




宇宙に上手にお願いする法 (Successful wishing)/サンマーク出版
¥1,680
Amazon.co.jp

この引き寄せ系の本はマーフィの本から始まり、引き寄せの法則やザシークレット等かなり読みました。


書いてあることはどの本も殆ど一緒なのですが
この本はとっても理解しやすい感じで書いてあります。


他の本と比較してもとってもわかりやすいと思います。


そういえば最近宇宙に御願いしてなかったなぁと思い出し
たくさんおねがいしました。
(*^▽^*)


最近の自分の思考を思い起こすと
ネガティブなことで結構たまってたなぁと
思い起こすいい機会にもなりました。


この手の本はもいいとおもっていたのですが
たまに振り返ってよむと
新鮮でいい感じでした。




気にしない

人からなんて思われるだろう?
何て言われるだろう?


そんなこと考えずに生活した事ありますか?


殆どの人がないんじゃないかなぁ


人からどう見られるか気になるよね。


仕事がない。
仕事が上手く行かない。
人間関係が上手く行かない。
人と仲良くなれない。


こんな事とで悩んだ事
誰だってあるよね。


でもこれって
全部自分の外側で起こってる話
それを自分がどう感じているかっていう
自分自身の問題なんだ。


外で起こっていることは
自分では変えられない
変えられるのは自分の感じ方。


でも感じ方が変われば
外で起こっていることも変わるんだよね。


自分の見方が変わるんだから。


この詩ははとっても参考になる。



タオ/加島祥造
第23章

タオのほうから助けてくれるのさ


まわりの人が
君のことをあれこれ言ったって
きにしなきゃいいんだ
台風は上陸したって
半日で過ぎ去る
大雨はいくら降っても
二日とは続かない
タオにつながる大自然さえ
この程度なんだ


ましてや人間関係の騒ぎなんて
気にする事はないのさ
タオにつながる人とだったら無事だが
タオにかけた相手だったら
君は
その欠けたところとつきあったらいいんだ
相手の欠けたところを楽しめばいいんだ
信じられない人にたいしても同じことさ
こういう自然の働きにしたがえば
タオのほうでも君をたすけてくれるのさ。


あなたの命に出会えてありがとう。




みとめられたい!

人から認められたい。
そんな気持ちは誰にでもありますよねぇ。


僕も人一倍強かったです。
初めて就職したときは、同期の社員よりも一日も早く出世したかった。
それは友人や親や知り合いあらゆる人たちにやっぱすごいねぇって認めてもらいたかったからだ。


会社を興して
代表取締役の名刺を人に渡すとき、とてもほこらしかった。
この肩書きがすごいって自分で思っていたしまわもきっとそう思ってくれると思っていたからだ。


会社の上司がよく俺がお前たちぐらいのときはこんなに苦労してこうしやったもんだみたいな話をするのも認められたいからだ。


人は誰だって認めてもらいたい。
だから自分自身を誇示しようとする。
よく見せようとする。


そしてその中にウソが入ってきたりすると
さぁ大変なんてことが起こったりする。


でも本当は自分を誇示するひつよなんて全然ないんだ。
老子のこの話はとっても参考になる。


曲なればすなわち全し
第22章
曲がっているからこそ命を全うする事ができる。
屈しているからこそ伸びる事ができる。
窪んでいるからこそ水をためる事ができる。
古びているからこそ命を宿す事ができる。
所有するものがすくなければ、得る物が多く、所有するものが多ければたちまち迷いが生ずる。
だから聖人はひたすら「道」をまもることによって、理想的な指導者となるのである。
自分を是としないから、かえって人から認められて。
自分を誇示しないから、かえって人からたてられる。
自分の功績を誇らないから、かえってひとから称えられる。
自分の才能を鼻にかけない、かえって人から尊ばれる。
聖人はひとと争そわない。
だから争いをしかけるものがいないのだ。
古人も曲なれば命全しと語ったが全くその通りである。
わが身を全うして「道」にかえろうではないか。

新釈老子講義/守屋洋


僕たちは人に認められたい。
認められたいがゆえに自己を誇示して自慢してひけらかす。
逆効果ですね。


老子のいう道にそった生きかたって
素朴だけど素敵ですね。


あなたの命に出会えてありがとう。


最後の日を考える

日常の生活の中で忘れがちになる大切な事。
本来の生きる意味。
どのように生きるべきなのか?


正直この手の問いに正解は無い。
100人いたら100通りの答えがあると思う。


よくわからなくなったときよく考え
思いおこしてみる。


命が明日までだったら?
今日を今この瞬間をどう生きるだろうか?


しっかり考えたら
あと命が一年だったら
この一年間をどのように過ごすのだろうか?


会社経営をしていたときの僕なら
全てを仕事。
自分がいなくても会社が問題ないようにすることに
全力を尽くすと思う。


今の僕なら
家族、友人に会いに行ったり、自分が出来る事をなにかしようと考える。


その時、その時の立場。
人生の役割で大切に思う事も変わる。


変わらないことは
自分がどうしようというより
誰かになにかをしようと考える事。


人は誰かの笑顔を見ることが
一番の幸せなのかもしれない。


命が明日までならば
今日一日をどう過ごしますか?


できればそれと同じように
日常をを過ごしていく事が
魂の希望かもしれませんね。


最後に感動的な詩
最後だとわかっていたならを紹介します。


「最後だとわかっていたなら」
作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦

あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして私達は 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも
約束されていないのだということを

愛する人を抱きしめるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず

もし明日がこないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための 
ほんのちょっとの時間を どうして惜し んだのかと

忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうしてしてあげられなかったのかと

だから 今日 あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だと言うことをそっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を 持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

『最後だとわかっていたなら』(サンクチュアリ出版)より





徳は道から生まれる

老子第21章

大いなる徳を身につけようとするなら、「道」と一体化しなければならない。
「道」とは、かすかでおぼろな存在にすぎない。
かすかでおぼろな中に、なにやら形があり、実態がある。
奥深いその中に霊妙なエネルギーが秘められている。
そのエネルギーはたしかに実在し、疑いようがない。
「道」とは太古の昔から絶えることなく存在し、この世の万物を統括してきた。
私はなんによって万物の実態を知るのかと言えば、この「道」にのっとって知るのである。

新釈老子講義/守屋洋


僕たちの心はこのタオ、道ということを知っているのではないかと思う。


知っているのではあれば何故この世界はこんなに乱れているんのかとこんなに苦しいのかと大声で叫びたくなる。


僕たちは生きていく為にご飯を食べなくてはいけないし、家も服も必要だ。それを手に入れるために、色んな事を考え出して実行していくうちに思考というエゴの煙で心の中にあるタオ、道が見えなくなっているのかもしれない。


心を静かにしてエゴという煙を取り払いタオと一つになるときに大いなるやすらぎ、安心、大丈夫という確信が生まれるのかもしれない。


今日もエゴにまみれながらも少しずつ煙を取り払ってみたい。


あなたの命に出会えてありがとう。






歌の力

たまにはプライベートの事を書こうかなぁと思います。
僕の朝の週間です。


最近朝は5時ぐらいに目がさめます。
本当はもっと寝ていたいのですが、目が覚めるとっもう眠れないのです。


布団から起きて、すぐトイレにこもります。
トイレに座りながら、ジャンポルスキー博士のゆるしのレッスンまたは、愛とは恐れを手放す事の中の一つのレッスンを読むようにしています。


トイレから出ると、昨日、一日の事を思い出して10~15ぐらい感謝することをノートに書きます。もう一年ぐらい続けています。
これは結構楽しいです。
最初は無理せず、時間が無いときや、欠く気力が出ないときなどは書きませんでしたが、今では書かないと気持ち悪くなるぐらい構楽しくやってます。


そして次に長期的な目標と今日の目標を別のノートに書きます。


そこから一時間ぐらい犬の散歩に出かけるます。
朝、歩くというのは健康にも良いと思いますし、風を浴びたり気持ちもいいし、犬も喜ぶしいいことずくめです。


最近はその時歌を歌いながら歩いています。
それがとってもいい感じなんです。


カラオケなんかに行って思いっきり歌った後スッキリしたような感じになったことありませんか?


それを朝から感じれると一日のスタートがすごく心地良いんです。
歌って聞くより歌う方がやっぱり楽しいし、声を出す事で喉につっかえているものが外に出て行く感じもするんです。


もちろん回りに配慮が必要ですからやられる際は常識的に周りに迷惑にならないようにしてくださいね 
(^-^)/

昔はギリギリまで寝てバタバタと用意して出かけてましたので朝が嫌いでした。


今は結構朝も好きになりました。

朝を大切に過ごすと
一日が充実して過ごせる感じです。


みなさんの朝はどうですすか?

となりのトトロ

先日、録画していたとなりのトトロを見ました。
もう何回もみましたけど
何回見てもほのぼのしていい映画です。


僕たちは大人になっていく過程で
色んなことを忘れていって
その中にはとっても大切な
純粋な濁りのない心も入っているのかもしれません。


トトロや猫バスは大人には見えません。
それと同じように
僕たちも大人になって行くとき
見えなくなって行くものがとても多いのではないでしょうか?


自分が子供の時を思い返すと
はっきりと記憶しているわけではありませんが
自分のうちの植木であったり
飼っていた亀なんかと話をしていたのをなんとなく憶えています。


それが自分の頭の中の創造の声なのか
本当に聞こえてたのか
今となってはわかりませんが
直感というか
自然と一つである感覚は今とは比べ物にならないぐらい敏感だったような気がします。


たまには子供の頃の心を思い出して
そんな感覚で一日過ごしてみる。
トトロの森でワクワクしながら散歩するような
気持ちで周りを散歩してみる。


そんな事をしてみたい気持ちになりました。




人の目を気にして生きている

僕たちは人の目を気にしながら生きている。
注意深く、どのぐらい人の目を意識しながら生きているのか観察するとびっくりする。


例えば仕事をするとき、これをすると上司によくおもわれるかなぁとか、外に出かけるときこの服装はへんじゃなおかなぁとか。


このブログでも読んだ人によく思ってもらいたいという気持ちが意識していなくても多分にある。


それがいい悪いではなく僕たちはそうやって生きている。
子供の頃から回りを気にして生きてたのだ。


この根底にあるものは何だろうか?
僕の場合は人に好かれたいという思いなのかなぁと思う。


何で好かれたいのだろうか?
人に好かれた方がこの社会では生きていきやすいからかもしれない。


人の目を気にして生きる事が良いか悪いかは別にして自分の行動に大きくブレーキをかけている事は間違いないだろう。


ワクワクした気持ちに従って行動できない要因もここにあるのかもしれない。


新しい事を始めようとしようとしたとき、妻はどういうだろうか?
会社で何かを提案しようとしたとき上司や部下にに馬鹿にされるのではないか?


最近はそんな事きにすることないよって心から思えるようになってきたしそんな気持ちに賛同してくれる人も多い。
さらに自分の心のままに行動する人も増えてきたように思う。


どんなに批判されようが、けなされようが僕たちは一本の大きな木にさく一つ一つの花だから、みんなつながってるし同じものだから。


だから誰が何をしたって結局はつながっているし上手く行くように出来ている。


批判や失敗を恐れる事はなにもない。
なんにも心配せずに心から信用して一歩一歩かみ締めながら進んでいけばいい。


人の目なんか気にせずに、心からワクワクすることをやってみよう。


そんな風に生きれる時代がとうとうやってきたようだよ。


あなたの命に出会えてありがとう。