あるがまま今を生きてみる。 -5ページ目

人生とは学校


生きがいの創造2という本を読んでいて中にこんなくだりがありました。


人生とは死、病気、人間関係など様々な試練や経験を通して学び、成長する為の学校(修行の機会)であり自分自身で計画した問題集である。


したがって、人生で直面する全ての事柄に意味や価値があり、全ての体験は予定どおり順調な学びの過程である。


この考えを受け入れるには魂は永遠であるとか、人は生まれ変わるというような事を受け入れる事が前提ではある。


そんな事を受け入れてなければこの考えは全く入って来ないだろう。


しかし一旦受け入れてしまうと、辛く苦しい場面に出会っても、自分の為に順調な学びが起きていると前向きな捉え方が出来る。


別段目新しい考え方ではないが、最近苦しい場面が多い僕にとっては、タイムリーに心に届いた。


苦しい出来事や嫌な人に
お~順調だ~と言うことが出来るなら心はだいぶ楽になる。


必要な時に必用な文章が飛び込んでくる。


神さまありがとうございます(^^)


苦しい時

苦しい時、困難な事に出会った時、僕達はどうやって過ごしているだろう?


自分の事を振り返ってみた。
まず自分が苦しい事柄や、苦しめる原因を作っている人を責める。


こんな事が起きなけれは、あんな人間がいなければみたいな、思考が頭をめぐる。


そして、自分のまわりに対していかに自分が正しくて、間違っていないか、そしていかに自分がかわいそうなのかそんな自分を演じはじめ、周りからそうだねと共感してもらうと安心し、批判されれば、自己防御に入り、相手を攻撃したりもする。


現象は一時的な物だから、長さの違いはあれ、いずれ過ぎ去っていく。


この苦しみや困難は自分自身の心または魂が起こしているんじゃないかと僕は思っている。


その経験を通じて、心、魂を磨き上げ自身が永遠に生きる霊としての成長の為、今、自分自身に必要な事を引き寄せているように思えてならない。


苦しみや困難を事や人のせいにして可哀想な自分を演じているうちは、同じような事や同じように自分を苦しめる人をまた引き寄せていく。


今、起きている事がらを自分の心の鏡としてとらえ、嫌な人を自分自身を見せてくれている、まさに自分なんだと言う事に気がつくと、その体験を卒業できる。


人生は自分の内面をさぐり気づき、その繰り返しの中から、感謝や愛を学び自分自身が愛そのものである事を思い出す旅のようなものかもしれない。


困難な事も結局は自分自身が愛である事を思い出す重要な経験であり、自分の魂を磨き上げる大きなチャンスなのだ!


僕自身も苦しい事を体験したおかげで、色んな気づきをえた。


今も、苦しい事があると、エゴが顔をだし、人を攻め始めたり、そんな心と自分の内面を探求する心を行ったり、来たりしながら、毎日生きている。
そうやって少しずつ誰だって成長していく。


どんな事柄だってすべては良きことの為にある(^-^)

友人

学生時代の友人が家に遊びに来た。

家に来客がある事自体久しぶりで、いつもより念入りに掃除したり
テーブルの配置を変えてみたり、料理やおつまみを買いに行ったり
昔はめんどくさいと思っていた事が以外に楽しかった。


そんな準備を楽しめる自分がいることが新しい発見だった。


遊びに来たのは大学時代の友人で
今でも会うと昔のままだ。

大学時代10代から20代
大人に成りきっていない青春時代
あの時、今の年齢の自分は創造もつかなかった。(ちなみに今年で40歳です)


しかしなってみれば
中身はなんも変わりない。
昔のまま

大学時代とからというより
子供の頃から変わっていない。


変わったのは
体、見た目
周りの環境だ。


自分自身はずっと同じ自分


考えている事も殆ど一緒


ただ、自分の限界を感じたり
衰えていく体を感じたり


色んな体験から
自分なりの決めつけ
あきらめのようなものが
体に染みついているのかもしれない


朝、目が覚めて
ご飯を食べて
仕事をして
夜眠る


当たり前にように過ぎていく
この日々は実は

当り前ではなく
朝起きて


おはようっていう相手がいる事は
本当は当り前ではなく
奇跡みたいなことで


こんな奇跡の繰返しを
日々体験していることに対する
感謝もないまま
日々過ごしてる。


人と会い
笑い、怒り、泣く


そんな奇跡の体験の連続が人生なのかもしれない
こんな奇跡を毎日体験しながら
それに気がつかずに
ただ過ごすのももったいない


この今この瞬間をかみしめて
生きてみよう
そしたら今と言う時に
自分自身にきっと感謝できる

自分に心から感謝出来たら
幸せじゃないかなぁ


なんか支離滅裂になりましたが
そんな気分


あなたの命に出会えてありがとう


人を動かすなんて

最近、体験した事がある。
仕事の中で、人の行いが自分の仕事に大きく影響を受ける場面で、その人の行いに苛立ち、不満がつのり、頭の中はいつもその事で一杯で、心休まる時がなかった。なんできちんとしないんだ!


どうやったら、その相手をかえれるのか?もっと動くようにできるのか?
その事で頭が一杯だった。


その思考は、いつしか相手に対する怒り、不満という感情にかわっていく。


そうすると関係はますます悪くなり、仕事は余計に進まなくなる一方だった。


自分自身も仕事や人間関係が気になりすぎて、食欲もなくなり、毎日が嫌で暗いものにおちていった。


僕はよく本をよむのだが、ある日
本を読んでいたその時、インスピレーションのようなものを感じた。


苦しみは思い通りにぬらない事を思い通りにしようとする、心が起こす。


今、目の前の事に全力を尽くして後は神にゆだねればいい。


目の前が明るくなった気がした。
僕は相手を変えようとしてくるしんでいた。


相手に対して、話すべき事は話し、言うべき事は言う。


後は自分かやるべき事をやり、結果は神にゆだねよう。


自分が与えれるものを惜しみなく、誰にでもあたよう。気にいる人、気に入らない人、関係なく。僕は愛を無限にもっている。


そう思った瞬間に相手に対する嫌な気持ちも何処かに飛んでいった。
自分が手伝える事を考えていた。


僕は相手から受け取る事ばかりを考えていたのかもしれない。


この苦しみはただ僕の思考や感情がこしらえていた。


これから、その仕事が上手くいくかどうかはわからない。


ただわかる事は、僕がそれに全力を尽くすだけ。


嫌な思い、苦しみを手放すと、安らぎがのこる。


相手は変えれないかもしれない。
しかし自分の思いはかえれる。


思いがかわるとこんなに楽になるなんて、本の中でしか知らなかった。


感情を味わって手放すと、次の学びに進めるのかもしれない。


僕の人生。
苦しむより楽しむ。
そう生きよう(^^)








iPhoneからの投稿

マニフェスト

HOLSTEEという会社のマニフェストだそうです。
こんなマニフェスト作れる会社素晴らしいと思います。
人生の参考になると思うのですここに紹介します。



これはあなたの人生だ。
大好きな事をすればいい。
好きなだけ。

何か気に入らない点があるなら、変えればいい。
今の仕事が好きじゃないなら、辞めればいい。
時間が足りないのなら、テレビを見るのを辞めよう。

人生をかけて愛するものを見つけたければ立ち止まれ。
彼らは待っていてくれる。
あなたがあなたの好きなことを始めるのを。

考えすぎるな人生はシンプルだ。

あらゆる感情は美しい。
食事の時はしっかり味わえ。ひとかみごとに。

始めての物事と人々に心を、両手を、感情を開け、私たちは互いの違いによって結びつけられるのだから。

次に出会う人に、何に情熱を傾けているか聞こう。
そして、聞いた夢を彼らと共有しよう。

旅をしろ何度でも。
道に迷うたび新しい自分が見つかるだろう。

一度きりしかこないチャンスもある。必ずつかめ。

およそ人生とは、あなたが出会った人たち、そして彼らと一緒に創り上げたもののことだ。
だから外に出て何かを生み出しはじめよう。

人生は短い。

情熱を身にまとい、自分の夢を生きよう。


素晴らしいマニフェストです。
人類は進歩している。
そう感じます。

今日も自分の人生を精一杯楽しんで行きましょう。



与えること

与える事は受け取ること
よく聞くフレーズです。

しかし、いくら与えても、何もうけとれない。
そんな風に、感じたことありませんか?
じつは僕もよく感じます。


しかし行動してるとき、する事になんの見返りも求めてない。
相手からありがとうの言葉や、笑顔とか?

もし、求めているなら、相手は迷惑かもしれない。

シルバーバーチは、何のために生きているんですか?という問に、人の為と何度もも答えています。

もし、今誰かに笑顔を投げかけたり、道路のゴミを拾ったり、誰かを手伝えたりできるなら

そこになんの見返りも求めなけれは、心の安らぎだけが残る。

何かを求めると、不足の心が残る。

朝起きて、何かを与えれる自分に感謝してありがとうって言えば、きっと心穏やかに幸せに過ごせる。

何かを与える事で幸せを感じれる。
今、この瞬間に幸せを感じること以上に必要なことはあるだろうか?

今日、何かを与える事ができる、誰かを手伝える自分自身にありがとう。




感情のたかなり

仕事を始めたばかりのこと。

営業をしていて、始めて契約が取れそうになった時、ワクワク、ドキドキして胸の鼓動がたかなっていた。

まるで遠足の前日の子供の頃のように。

その頃って知識もテクニックもなく、ただガムシャラで一生懸命だった。

仕事に慣れてくると、いつの間にか、あのワクワクする胸の高鳴りがなくなってくる。

失敗した経験や、出来事から物事を慎重に行うようになる。

そして、あのワクワク、ドキドキする胸のたかなりがあることすらを忘れている。

あの胸のたかなりをまた感じたい。
ワクワク、ドキドキしながら暮らしたい。そんな気持ちになる。

日々、自分自身がどう在るのか。
今、この瞬間どのように過ごすのか?

子供の頃の遠足の日のように、楽しい感情で今在りたい。

あなたの命に出会えてありがとう。





iPhoneからの投稿

起こる出来事

当たり前の事だか、日々何かが起こり、それに対する感情が起こり、思考が起こる。

なんでこんな事が起こる!

人に対して、なんでこんな事言う!

なんでこんな事しない!

なんでこんな事できない!

考え出すと、感情に押しつぶされそうになる事も少なくない。

次から次へと沸いて来る、
不安、怒り、悲しみの感情。思考。
頭、心をぐるぐるとまわり、感情や思考が自分自身をしめつけて苦しめる。

今スグ何処かへ逃げ出したい。
楽になりたい。

心のそこからそう思う。

でも逃げれない。

逃げても現実は追っかけてくる。

それは、自分の思考、感情、想いが創りだしてるから。

あっそうなん

気づく事から、心が変わり出す。

目の前の嫌な人は自分の鏡。

お互いが見せ合いそして磨きあう。

一つ一つ学ぶんでいこう。

今という二度と戻らない時間を大切に。

あなたの命に出会えてありがとう。


iPhoneからの投稿

全てはつながっている

命は一つである。

魂はつながっている。

精神世界の本などでよく書かれている事です。

私も人も動物も植物もみなつながっていると思っています。

しかし実際ピンとこないの現実です。

そこで野口嘉則さんのフェイスブックでとっても成るほどと思うお話があったので引用させて頂きます。
(野口さんは鏡の法則等の著者の方です)


一月のある寒い昼下がり、一輪の梅の花が開きました。その花の名は“太郎”。

開花したばかりの太郎は、あたりを見回しました。
「おっ、まわりはまだツボミばかりだ。どうやら最初に咲いたのは俺みたいだな」

しかし、後ろのほうを見ていたら、1メートルくらい離れたところに、もう一輪、咲いたばかりと思われる花がキョロキョロしていました。その花の名は“一郎”。

太郎 「おまえ、咲いたばかりなんだろ。最初に咲いたのは俺だからな」
一郎 「おまえだって咲いたばかりだろ。一番に咲いたのは俺だ」
太郎 「証拠でもあるのか?」
一郎 「おまえのほうだって証拠はあるのか?」
太郎 「証拠はないが、俺が一番だ」
一郎 「いや、俺が一番だ」

太郎と一郎が言い争っていたら、近くにあった別にツボミが開きました。とても大きな花びらをもった立派な花です。その花の名は“華夫”・

華夫 「君たち、さっきから何を言い争っているんだ? どっちが先に咲いたって、そんなことはどうでもいい。花は大きさがすべてだよ。僕を見てごらん。僕が一番大きくて立派な花さ。君たちは貧弱だ」
太郎 「大きいだけなんてつまらない。早く咲いたほうが偉いんだ」
一郎 「一番早く咲いたのは俺だぞ」
華夫 「花の価値は大きさで決まるんだ」

この言い争いをさっきから見ていた人間が、太郎と一郎と華夫に言いました。
「君たちはみな、同じ一本の梅の木に咲いた花なんだよ。同じ命なんだよ」

それを聞いて、太郎と一郎と華夫は自分たちの愚かさに気づき、恥ずかしさに顔をあからめました。
野口さんの著書心眼力からの抜粋です。

私もこの本は読んでいたにも関わらずこのお話は全く覚えていませんでした。

もし意見が合わなかったり、嫌だなと思う人がいた時僕たちは同じ一本の木にさいた花何だという事を思い出せば、攻撃したりすることは、自分自身を攻撃することと同じことだと気づくはずですね。

全てが自分に帰ってくるのは全てがつながっているのであれば当然なのかもしれません。

みな同じ一本の木に咲いている花だと思えば愛おしい気になりませんか?

理想的な指導者

 世の中が混沌としてくると強烈なリーダーシップをもった指導者が現れないかと期待される。

 今の日本にしても野田さんではだめでもっと指導力のある人なんてことが色んなところで言われる。日常の会社や家庭でもリーダーがいるだろうしそのような立場の人間はどうすればよいのか悩むところだろう。

 
 老子のだ17章にはこうある。

最も理想的な指導者は、部下から存在することさえ認識されない。部下から敬愛される指導者はそれより一段劣る。これよりさらに劣るのは、部下から恐れられる指導者。最低なのは部下からばかにされる指導者だ。
約束を守らないし指導者は、部下の信頼を得ることができない。
立派な指導者は、弁解も宣伝もしない。
素晴らしい業績を上げてもそれが彼の働きだとは認識されない。
そんなあり方が最も理想的なのである。


存在すら認識されない指導者が率いている組織というのがいま一つイメージがわかないが、人物像でいうと自らのエゴを完全に手放している人であるように思う。


そんな人であれば自らの存在を気付かせる事もなく、自分の働きを人の手柄にさりげなくできるのかもしれない。


話は少し違うかもしれないが、自らが引き下がれば引き下がるほど持ち上げられる経験をしたこともある。
おれがおれがというよりはこっちの方が上手くいくのかもしれない。

理想的な指導者とはエゴを手放して周りと上手く調和しているような人物なのかもしれませんね。