あるがまま今を生きてみる。 -2ページ目

決断

 朝、なんかひらめいたと言うか、頭の中に何故か浮かんできたので忘れないうちに書いておこうと思います。別に目新しいはなしではないですが。


 欲しい現実があればまず決める事。
 すると宇宙が動き出す。


 そしたら、今なんでもいいから決めた事柄にかんして今出来ることで行動すること。
車を買うと決めたら、お金がなかったとしても、カタログを見るとか。

 
 ハワイ旅行に行くと決めたら、パンフレットを見るとか。


 そこに行き着く方法は宇宙におまかせ。


 決めるということは、目的地に向かう車に乗り込んで、エンジンをかける事になる。何か行動をすることは、アクセルを踏む事。


 あとは自動運転で目的地に車が向かった行くのだ。


 色々決めても目的地に着かないのは、途中で自分が決めた事柄が、変わったり、せっかく自動運転で進んでいる車のハンドルを別の方向にきって目的地を変えるから。


 または無理だと思って、自分でブレーキを踏んでしまうから。


 簡単きめたら、ゆっくりでもいいから、アクセルを踏み続けて、行く先をかえなければいつか必ずたどり着く。


 このことがなんでか朝から頭をはなれない。

 
 さぁ決めたらアクセルを踏み込んで目的地に自動運転。


 学生の時、バイクに乗りたくて、アルバイトして免許を取りに行った。免許を取るだけでお金はなくなったが、いつか必ずバイクを買うとは決めていた。


 バイク屋さんの近くを通るとバイクを見て回っていた。お金もないのに。
しばらくしたら、安くバイクを譲ってくれる人があらわれた。僕の全然知らない人だったが人の紹介で。


 そのバイクに僕はそれから5年間乗り続けた。


 その時はラッキーぐらいにしか思ってなかったけど、今思えば、宇宙が手配してくれていたんだなぁと思う。
 思い起こすとそんなことが人生にいっぱいある。そうやって思い起こすと宇宙に感謝したくなる。

 決めたら宇宙は動き出す。
 色々決めよう。




ごまかせない。

 僕たちがいつも考えている事。
それは言葉や態度にださなければ人にしれれることがない。
そう思って、本音と建前をうまく使い分けながら僕たちは生きている。


 それは時には人間関係を円滑に運ぶ事でもあるし
仕事を上手く運ぶために必用なこともあるかもしれないし
本音と建前を否定するものでもない。


 しかしその人の生き方
 考え方は言葉の端に
 行動の節々に必ず現れる。


 結局、自分自身の心はどこかで表に表れて
 人目に触れる事になる。


 だからこそ、日ごろの行い。
 特に人のいないところでの行いや
 一人でいるときの自分の考えには注意する必要がある。


 その責任は全て自分がとるわけだから。
 

 そして自分自身にはウソはつけないのである。

時代の変換

もうそろそろ今の資本主義の時代は限界にきているのではないか?
そんな風に考えている人結構多いように思います。


これまで経済を支えてきたのが大量生産、大量消費。
多くの物を所有することが最大の価値観であり最高の幸せであるという前提で時代が進んできた。


しかし今は
少なくとも今の日本は物はそんなに必要ないように思う。
すでに必用なものはもうある。


今家の中のものを見回してみてこれがないと生きていけないなんてものがいくつあるだろうか?
大半のものが必要ないものではないだろうか?


断舎利なんてことがはやり、やり始める人が増えていることからも時代は変わってきているのだ。


大量生産、大量消費の時代から
必用な物だけをつくり必用な物だけを消費していく時代。


大切に大切にものを扱う時代。
物的豊かさを求め続ける事から
心の豊かさを求める時代。


時代は移り変わっていく。
今の先進国と言われている国々が変わらなければ
中国やインド、ブラジルなどの大国が今の日米欧のような国になれば地球がもたないだろう。


そんな事は冷静に考えればすぐわかる。
僕たちを生かしてくれる地球をいためる事はもうやめにしなければ
地球さんだっていい加減怒るよでしょ。


この大きな価値観の変化の中心にそして率先して行動できるのは日本人じゃないのかなぁ。


どんな物にも命があり魂があると思えば大切にできるし、生き方も変わる。
物が豊になっても
心が満たされないのはもう証明されている。


これからは本当の心の豊かさを負う時代にかわったのだ。


とりとめのないひとりごとです。

分かち合い

奪え会えば足らぬ、分け合えば余る。


誰の言葉かは忘れましたがとても真実をついた言葉なように思いますね。


僕たちはこの世に色んなことを学びそして経験するためにやってきているとおもうのですがその中でもこの分かち合う事を学ぶってとっても大切なように思うのです。


確かに、この資本主義の競争社会の中で分かち合うなんて生ぬるい事言っていたら勝ち残れないし生きていけない。
そんなご意見もあるかもしれません。


実際、今仕事に出かければ、利益を求め、効率をもとめ、分かち合うというようり、いかに奪うかを考えて生活しているように感じることも多々あります。


経営者はいかに安い労働力を確保するのか、これんなか朝の遅刻のタイムカードには厳しいが帰りの帰社時間のタイムカードには見てみぬふりをするようなことが出来上がっている会社を見ればよく解るし、働く側もいかに楽して儲けようかなんて気持ちが見え隠れすることもよくある話じゃないでしょうか?


これはまさに奪い合いの社会で心にはいつも不足感を感じている
そんな日常に陥るかもしれません。


そんな会社
仕事こそが分かち合うということを学ぶ絶好の場所ではないでしょうか?


なにかを奪う事ではなく、何かを分かち合う事をいつも心においてみたらどうだろうか?


分かち合うといっても商品やサービスばかりではない。


笑顔や思いやり、感謝の気持ち
これなら今すぐ分かち合える。


会社にいって全員が笑顔や思いやりを分かち合おうとしている会社って入っただけで波動はきっと違うだろう。


誰だってそんなところから商品やサービス買いたいっておもわないだろうか?


商売って分かち合いじゃないか?


商売っていうか人生分かち合い。


分かち合えるものはどんどん分かち合えばいい。


僕たちはもともと愛なんだから
分かち合ったってなんいも減りはしない。
愛は無限なのだ。
笑顔、思いやり、やさしさまさに
スマイルゼロ円なんだ。


奪い合えば足らぬ
分かち合えば余る。


よく味わってみたい。




愛を学ぶために

僕たちはこの日本を撰んで生まれてきた。
何故に日本を選んだのだろうか?


この日本の中で比べるなら、豊かであるとか貧しいとかあるのかもしれない。
しかし世界中でみたらどうだろうか?


今日食べるものがあり、住む家があり。テレビや冷蔵庫、洗濯機や車を所有し暑ければ冷房、寒ければ暖房をつけ快適に暮らしている。
こんな恵まれた暮らしをしていながら殆どの人が満足をしていない。
満足どころかもっともっと暮らしやすく快適にということをめざす。


周りの人とお金や物、権力を比較して争そい続ける。
その結果が幸せを感じきれない生活。
年間3万人にも登る自殺者なのかもしれない。


僕たちは物を追い求めなくてもいいように始めから豊かなこの国を選んで生まれてきたのではないかと思うようになった。


物質的な豊かさではなく心の豊かさや平和、調和というものをより深く学ぶためにこの日本を選んで生まれてきたのではないか?


本当に心豊かに生きることを学ぶためにうまれてきたのではないだろうか?


もうそろそろ、比べたり争ったり物やお金を所有する事が全ての世の中から愛や調和といった事を心から学ぶようにする時期ではないだろうか?


ただ愛であるために生まれてきた。・・・


受けとる事の大切さ

 与える事。
 これはとても大切なことだ。
 自分が与えたものが自分が受け取るもの。


 こんな事が、精神世界の本や自己啓発の本を読めば言葉を変えながら繰り返し繰り返し説かれている。これは真実であるしとても大切な事であるのは言うまでもない。


 それと同時に受け取ることもとても大切な事で、与える事も受けとる事も、無意識に行えるようになるまでにはとても意識しながら生活しなければならないように思う。


 つい先日だが、敬老の日ということもあり、祖父母に会いに行った。
 ちょっとしたてみやげと一緒に食事に行ったのだがとても喜んでくれる。

 帰るときには、あれももっていけこれももって行けと色々な物をくれようとする。
 

 自分もこんないい歳になってそんなの受けとれないしともう気を使わないでと断ってしまったのだが、今思うと受けとれば良かったと思った。
 そのほうがきっと祖父母や喜んだだろう。


 その時はなんか気を使わせて気の毒に思ってしまったのだが、受けとる事が祖父母を喜ばせる事でありそんなことちょっと考えればわかることであるが、その場は断ってしまう自分がいる。


 思い起こせば自分は昔から遠慮がちで受け取ることが下手糞だ。
 

 与えることや受けとる事


 なんでも実践していくことって難しいですね。


煮るなり焼くなり好きにして

 人生いい時もあれば悪い時もあります。
あまりにも、悪い時追い込まれてどうしょうもない時こんなことになったことありませんか?
 無い方はとっても幸せな人生ですね。


 私なんか追い込まれてばっかりの人生です。(笑)


 もうどうしようもないと思った時
 もうお手上げ、手のうちようがない。
 
 煮るなり焼くなり好きにしてって状態になった時


 不思議と事態が好転してしていってなんとかなる。
 そんな経験誰しもあるんじゃないでしょうか?

 この時の意識の状態って、執着を手放して
 ある意味神さまに委ねている状態。

 
 だから事態が好転するのかも。


 どうやったって起こることは起こる。
 それにどんな意味をつけるかは自分しだい。


 神様にゆだねてみるのもいいかも。


 そう自分に言っています。
(*^▽^*)
 
 

感謝のワーク

去年の10月ぐらいから

朝起きてからノートに感謝の言葉を書いている。
そんなことをやっているといいことがあるかもしれないなんてよこしまな思いも多いにありながら今でも続けている。

もちろん書けない日もあったりもするけどほぼ毎日書いてきた

毎日やってるから変化が自分のなかで起こっているかどうか正直、気がつかなかったんだけど。

今日は自分でもびっくりする事が起きた。

ただ毎日書いている感謝が
本当に心のそこからわきでるような感覚につつまれた。

ありがとうって言葉ではなく感覚。

こんな感覚正直あじわったことなかったかもしれない。

人生は全て素晴らしい

そんな感じだった。

ありがとうって気持ちが次から次に溢れてきて
本当に全てに感謝できる。

気持ちよかった。

しばらくすると

いつもの状態にもどったけど

この感覚わすれずにいたい。

感謝。



俺がお前らぐらいの頃は

 若者を批判する時によく聞くセリフ。

「俺がお前らぐらいの頃は」

その後には自分が相手よりどれだけ凄いか、頑張ったのかどれだけ努力をしたのか延々と自慢が続く。


最近の若いもんはなんてセリフも何千年も前から言われているせりふだ。


僕も若い時、働いていた会社の上司からよくいわれたなぁ


俺がお前ぐらいの時は
このぐらい売り上げて
このぐらいはやってたぞ


その時、僕が聞いて思っていたのは今はどうなの?


言われていても早くおわらないかなぁぐらいにしか思っていなかった。
しかし月日が流れ
自分が、上司といわれる立場になった時
同じような事いってたなぁ


自分がやられたようにやるんだよねぇ
まあそれに気が付いたから良かったんですけどね。



これを読み心に刻み込みたい


老子24章 
自らを矜るものは長からず

背伸びして爪先でたとうとすれば、かえって足元が定まらない。
自分を是とすれば、かえって無視される。
自分を誇示すれば、かえって排斥される。
自分の功績を誇れば、かえって非難にさらされる。
自分の才能を鼻にかければ、かえって足をひっぱられる。
こんな生きかたは、すべて「道」から外れている。
一般の人さえ見向きもしないのだから、まして「道」を体得した人物とは関係が無い。





国境なんて

こんな映像をみるとやっぱり感動する。

地球に国境なんてなくて

日本人も韓国人もなくて

同じ地球人として

暮らしていける日も

いつかくるな

そんな感じがします。

是非ご覧下さい。