からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -81ページ目

宅配屋と喫茶店(14)

「どういうこと?」
祐平は、なにやら居心地悪そうに座る場所を探す兄に言った。
「ふむ。まあしかし、男のひとり暮らしとは思えねえぐらいきれいにしてるな。ほんとにお前の部屋かここ?」
きれいにしてる、と兄は述べたが、正確に言えば何もない部屋だ。八畳1Kの部屋のなかには、ベッドと壊れかけのテレビ、あとはちゃぶ台と座椅子があるだけで、他にはなにもない。もはや生活必需品と化したパソコンすらない。物を買わないので、ろくに掃除はしないが、ちゃんとゴミをゴミ箱に入れるという極々基本的な作法さえ守っていれば汚くなりようがなかった。
極々基本的な作法と書いたが、祐平は、幼いころ一度は教師に言われよう「教室を自分の部屋だと思いなさい」を真に受けて、ゴミをポイッと教室内に捨てることになんら罪悪感を抱かないような子だった。自分の部屋なぞなかった祐平にとって、ポイ捨てしたゴミが学校から帰ってくるとゴミ箱に収まっていることが普通だった。
ゴミ箱にゴミを入れれば部屋はきれいなままだ、これは祐平が物を買わないこともあるが、ひとり暮らしをしてはじめて身につけた生活の知恵だった。
「どういうことよ?」
祐平は再度兄に言った。
兄は祐平の質問をはぐらかしながら、何をどう喋るべきか考えているようだった。
「うーん、お前が覚えてないのもうなずけるが、あのころ、お前幼稚園に、行ったか行ってないかぐらいだったもんな」
「顔見知りなわけ?、原口さんは、兄ちゃんやおれのこと」
「そりゃまあ、顔見知りだな。お前ほんとに知らないのか?」



天皇誕生日は休日であるからして、祐平は休みだった。
通常業務に戻った月曜火曜に、特に問題はなかった。月曜に出勤した折、所長は「よくやってくれた」と、ジュディの件をねぎらった。そう言われ、色々と後ろめたい祐平は苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。
この休日、祐平は朝から出かけることにした。前日にマスター達にはその旨を置き手紙に記して不在票のように玄関のドアにはさんでおいた。外出は、休日に外出するなどさして珍しいことではないが、マスター達に余計な手間をとらせないため、もあるが、顔を合わせづらいからであるということは、張り巡らせた言い訳だらけの置き手紙から誰もが察せた。なにも辛いカレーを食って病院に運ばれたことを根に持っての行動ではないことは言わずもがなだ。
別段趣味もなく、友達という友達もいない祐平の休日は、とりあえず上野山をのぼることから始まった。
動物園は天皇誕生日ということもあり混雑していて、あきらめた。
踵を返し美術館に行こうとしたが、特別展示中の何かがあるらしく、人でごった返しになっていて、列ぶほど興味がないのであきらめた。
山をあとにし、わけもなくアメ横をぶらつき、服でも買おうかと思ったが、この冬どこかに出かけるあてもないなと、やめた。メシを食おうと思ったが、さして腹も減ってないなとやめた。祐平には少し、リンショクの気がある。
やることなすことうまくいかないと、時間とは膨大に余る。携帯電話を取り出した祐平は克明に電話をかけた。出なかった。同じく休みの彼氏はまだ寝ているのだろう。
目的もなかった祐平は克明の家まで歩くことにした。どうせ克明も暇な休日を過ごす予定なのだろうとたかをくくっている。
克明の家まで歩く途中、ふと祐平は浅草のレスリング道場の前を通ることにした。理由という理由もないが、強いて言えば、外から元プロレスラーでタレントをやっている道場主でも目に入れてみようとミーハーなことを思わなかったわけではない。
道場にさしかかり、横目ながら中を覗き込む気満々のカニ歩きをしてると、横目についたのは見覚えのある自転車だった。このときようやく祐平はプロレスラーを目指している克明がこの道場に通っていることを思い出した。格闘技と克明の夢にに対しあまり興味がないこともあり、道場に向かっている時には、克明の家に行く、克明は家で寝てる、と行動理念にすりこまれていてそんなこと忘れていたが、自分のスマートな行動にとても納得がいった。
入るか入らざるかを悩み、もう一度克明の携帯電話に電話をしたが、やはりでない。見覚えのある自転車をより詳しくチェックすると、やはり克明の自転車だったので、祐平は意を決して、道場の中に入った。
祐平が半地下のレスリング場に現れると、道場の中にいた男達の視線が一斉に祐平に注がれた。
その向かい合った汗を流す屈強な男達数人の中に祐平はふたりの知った顔をみつけた。
ひとりは当然克明で、
もうひとりは元プロレスラーの主人ではなく、
沖田だった。
スパッツによれよれのTシャツという、ラッシュガード全盛の時代に、ふたりは前時代的なスタイルで取っ組み合っていた。

「え?、なんで沖田君がここに?」
「なんでお前がここに?」
祐平と克明は同時に声を出した。しかし、質問の内容に食い違いがあり、ややこしい。応答権が三者三様にある。
誰がいの一番に発言するか、しばし沈黙のあと、
「いやあ、克明さんちに」
「いやあ、沖田は」
「いやあ、土居さんに」
一斉に三者三様に答えたものだから、せっかくの沈黙というタイミング図りが無駄になった。

もう上がるから、とりあえず待ってろ。
克明がそのようなことを言い、祐平はおとなしく外で待つことにした。

ほどなく三人は合流した。短髪の克明は問題なかったが、長髪の沖田はシャワーでも浴びたのだろう、晴れているとはいえ冬空の下、髪がずぶ濡れだった。それを後ろでひとまとめにくくっている。色白でかわいい顔をして、体格さえ細ければ下手なオカマよりいい女だ。沖田は原チャリできていた。徒歩とチャリンコと原チャリ、まったくもってバラバラだ。

メシがまだだということで、三人は近くのファミレスに足を運んだ。

「いやな、隠してたわけじゃないんだが、ていうか昨日はじめて気がついたんだが、こいつおれの高校レスリング部の後輩なんだよ」
「はあ、でも年齢があいませんよね?」
克明と沖田は5つ年齢が違う。
「ああ、うちの部は人数が少なくてな。おれが大学のころよく手伝ってたんだよ。スパーとかね。といってもしょっちゅう会ってたわけじゃなかったし、あのころはこいつ坊主だったからわかんなかった」
「へえ、でなんで沖田君が」
「そりゃまあ、久しぶりってんでスパーでも」
「いやいや、沖田君今日休みじゃないでしょ?」
沖田は、
「ええ、定休日じゃないですが、ちょっと」
と、言葉を濁した。天皇誕生日にイレギュラーで休むなぞ如何にもな状況に、大人の事情を鑑みた祐平はそれ以上追求することをやめた。
「お前はなんだよ」
「克明さんちに遊びに行こうかなあと思いましてね。そういやあそこにいるかもななんて思ったら見覚えのあるチャリンコが停まってまして」
「へえ、仲良しですね」
沖田が、きっと悪意なく言った。
仲良しだと言われ、ふたりの男は歯がゆくなった。
「そんな仲良くないよ」
「そんな仲良くねえよ」
ハミングが店内にこだました。

「土居さんって、強いの?」
仲良くメシを食いながら祐平は沖田に訊いた。
「色々と伝説が残ってます」
沖田がそう答えると、苦笑いを浮かべて、
「やめろよ」
と克明が話を遮ろうとしたが、それは、話せよ、ということだ。
「僕が先輩から聞いた話だと」
「誰?」
「あ、渡辺さんです」
「ナベかよ。あいつ、あいつこそ最悪だったじゃねえかよ」
ふたりの身内話に祐平は多少イライラした。
「土居さん、高校最後の試合、まだ半年もレスリングしたことない一年生にきれいに投げられてフォール負けしたんですよね?」
「おい、思い出させるなよ」
「その一年生って強かったの?」
「可もなく不可もなくだったらしいですよ。僕がやってた頃にはもう部活辞めちゃってました」
「え?、辞めちゃったのかよ。もったいないな、若くしておれを倒した男ってんなら将来オリンピックも夢じゃ」
「土居さん、弱かったんですね」
「バカ、強いわ。最強だよ」
「なんか実績あるんですか?」
「それを言うか?」
「どうなの沖田君」
「特にないです」
「おい」
「僕がレスリング部に入って、はじめて土居さんとスパーしたときも勝ちました」
「おい、てめえ、あれはお前、おれがお前の先輩達とくたくたになるまでスパーしたあとの話だろ。そのあとはおれがやっつけただろ」
「すぐに勝てるようになりました」
「言うかそれを」
「土居さん中学まで柔道やってて、その癖が抜けないのか強引に投げを狙って自滅するんですよね」
「うるせえ」
「体だけは立派なのに」
「うるせえよ。後輩だろうが」
「今も僕の方が強かったですからね」
「おい、おれは最近総合しかやってねえんだ」
「何を言ってるんですか。土居さんアマレスのスパーだっていうのに関節狙ってましたよね?。完封しましたけど」
「お前、それは言わない、言わない約束でしょ」
「ははは」
祐平は克明がだいぶ後輩の沖田にやり込まれているのが愉快だった。
「ほかにも、土居さんが大会前にマット菌にかかってみんなに伝染させて大会を辞退するはめに」
「それはしょうがないだろ」
「マット菌ってなんですか?」
「なんかマットの上にいる水虫とかの菌」
「へえ」
「試合の日に遅刻したり」
「あれは、お前」
「ホモ疑惑が」
「濡れ衣だ」
そう言えば、自身もそうだが、克明から女の話を聞いたことがないなと思い、祐平はぞっとした。
「ロッカーに土居さんが書いた記念の落書きが、大掃除のどさくさで顧問の先生に消されたり」
「あれはちょっと先生の心を疑ったな」
「あ、他校の不良に絡まれてボコボコに」
「それは違うよ。本当に違う。他校の不良に絡まれたんじゃなくて、他校のレスリング部の先輩がかなりの不良で、その人がおふざけでおれを、道を走る黒塗りベンツのボンネットにぶん投げたんだよ」
「ほんとですかそりゃ。ヤバいじゃないですか」
「ヤバいよそりゃ」
「どうしたんですかそれ」
「後ろ振り返ったらみんな走って逃げててさ、おれはあれよ、乗ってた怖い人に捕まって、ボコボコよ」
「うわあ、被害者なのにさらに被害をこうむったんですか」
「そう、最悪だよ」
「ていうことは、土居さんは高校のころいじめられてたと」
「いじめられてねえよ!。ハッピーな学生生活満喫してたわ!」
「どうなの沖田君」
「まあ、いじめどうこうは本人の主観によるものですから土居さんが否定してるなら」
「おい、ほんとにいじめられてねえよ!。いじめられてたら部活の手伝いになんて行くか」
「でも土居さん、確か二階の教室から落とされて、下の木に突き刺さったんですよね?」
「ほんと?、はは、それウケる」
「女子高生みたく笑ってんじゃねえよ!。あれはただの事故だよ!。おれじゃなきゃ死んでたぜ」
「突き刺さったって言うのは?」
「ああ、下の木、というか小さめのもみの木みたいな木あるだろ?」
「お、そう言えばクリスマス近いな。沖田君はクリスマスの予定あんの?」
「なに言ってるんですか高窪さん。仕事です」
「そりゃそうだ。おれもだしなあ」
「その小さめのもみの木のてっぺんに突き刺さるようにおっこってな。まあそれがクッションになって助かったと」
「高窪さんは彼女などは」
「浮いた話のひとつもないよ。沖田君は?」
「僕ですか!?」
「お、その反応、いると受け取っていいのかな」
「いやいや、残念ながら」
「落ちたときにはじめて気がついたんだけど、その木の下に小さな穴があってな。ウロというか、ちょうど人ひとり入れるような穴が。おれは吸い寄せられるようにその穴に入ったんだ。ほの暗い穴を進むと、その先には不思議な世界が広がってっておい!。もっとおれに興味もてよ!。おいてけぼり食らっていつしか話がワンダーでファンタジックなものにすり替えられてますよ!?」
「あ、すいません高窪さん。僕もう時間です。お先に失礼します」
「おれに言えよそういうことは!」
「へえ用事?」
「ええ」
「あ、お前知らないんだ」
「なんですか」
「沖田はあれだよ。今日所長のお姉さんと会うんだよ、な」
「はい」




宅配屋と喫茶店(13)

「あの人達のこと知ってんの?」
祐平はなぜか心の奥の方からドキドキした。
「知ってるもなにも、お前は知っててここに住んでんじゃないのか?、ていうかまさか、聞いてないのか?」
兄の言う言葉の意味を、祐平は理解できなかった。



梨田がふたりの間に再び加わると、喧嘩のことなどまるでなかったかのように、車内は無邪気な雰囲気になった。祐平とジュディは心の底にさっきまでの喧嘩による澱みを携えて、明るく会話をした。この澱みが、表面上装う明るい会話と時間とにあてられ、熟成されて、その香ばしい澱みを吐き出す道はキスしかないということに相成った次第だ。

「いやはや、勘弁してくださいよ、はは」
帰ってきた梨田は半分冗談半分本気でそう言った。
「すいませんでした。ちょっとドタバタしてて、忘れちゃいました」
「何時間待ったと思ってんですか、財布も電話もないし、殺されるかと思いましたよ」
「大袈裟だねえ、殺されやしないよ」
ジュディが静かに言った。
「だけど先生、ここって治安が悪いんでしょう?」
ああ、
と、祐平とジュディは思った。
「もう怖くて怖くて、段々日が落ちてくるし。あ、知ってます?、今日の夕日なんか妙に紫色だったんですよ空が。まるで世紀末のような色だったんですよこの世の終わりみたいな」
いきせき切って話しを続ける梨田にジュディが、
「少し落ち着きなよ」
と、言った。すると、
「これが落ち着いてられますか!?」
梨田が素頓狂な声を出して言った。梨田の胸の内は紫色の夕日のように昼と夜と夕暮れをない交ぜにしたような、愛憎の入り交じりを呈していた。
「ほんとすいませんでした」
祐平が運転しながら何度目かの謝罪をした。しかし表情はにやけている。
「何度か梨田さんの前を通ったはずなんですけど、すっかり忘れてしまって」
「すっかりって高窪さん。6時間ですよ?。6時間待たされたことありますか?。半日ですよ半日。お腹痛いし、金もないし、土地勘もないし、やることないから何回トイレに入ったと思ってんですか」
梨田は興奮が冷めてくると段々涙目になってきた。
「知らないよそんなことは」
ジュディが静かに言った。
「先生、16回ですよ16回。出るもんも出ない苦しみを14回も繰り返したんですよ」
「そもそもあんたが賞味期限の切れたゆで卵を泥棒したのがいけないんじゃなくて?」
そう言われて梨田は返す言葉を失った。
「こっちはあんたがいない分働き詰めだったんだよ。体よくサボりやがって」
「そんな先生、そんな風に言わなくても。ていうか僕のことなんてすっかり忘れていたなら、この仕事に僕なんて必要なかったんじゃないですか」
「うるさいねえ、若い男がいつまでもうだうだ言ってんじゃないよ。女の腐ったような男だねえ」
「はは」
祐平は愛想笑いをひとつくれてやった。

再び営業所に戻り、宅配物を詰め込み直す。
「さすがに荷物は減るんだねえ」
思えば梨田を捨てたあとに一度戻ったとき、所長も誰も、梨田に気がつかなかった。
せっせと三人で積み荷を整理していると、所長がニコニコした顔で祐平に近づいてきた。
「どう?、問題ない?」
所長はそっと祐平に耳打ちした。
一瞬犯罪者の顔やジュディの怒り顔がスライドショーみたく頭をよぎった祐平だったが、
「なにもありません」
と、答えた。
ジュディが、喧嘩のことはさておき、自分が指名手配犯を見逃したことを所長に告げ口したら、いや、エッセイかなにかに書いたら、一体おれはどうなるのだろう。
そう考えて祐平は多少不安になったが、忙しさの前に不安など対岸の火事だった。

再度担当エリアに行き、最後の勝負が始まった。
一筆書きクイズをさらさらと解くみたく、祐平はいつものようにエリアを回った。
8時過ぎにちょっとした事件が起こった。
「怒られちゃったよ」
宅配からトラックに戻ったジュディがぽつりと言った。
「どうしたんですか?」
祐平は覗き込むようにしてジュディに訊いた。ジュディの心配をしているのではない。なにか問題があれば、自分が尻を吹かなければならないからだ。
「今持ってった荷物さ、今日じゃない日に日時指定されてたんだよ」
「ああ、すいません。見逃してしまいました」
「いいんだけどさ」
「先方はなんと?」
「いやね、それがまたその指定日がクリスマスイブでさ」
「ああ、プレゼントか」
「そうなのよ。こんなに早く持ってきてもらっても困るってさ。こっちはちゃんと指定したぞと。ま、受け取ったこた受け取ったんだけどね。あたし初めて言ったよ。すいませんバイトなもんでって」
「えっと、時田さんか。猛烈に怒ってました?」
「どうだろねえ、クレームくるかも。そうしたらどうなるの?」
「所長か僕か他のドライバーが謝りに行きます」
「悪いねえ」
「いえ、よくあることですし、僕が凡ミスしなければ良かった話ですから。ま、次行きましょう」
「しかし、クリスマスの荷物って大変ね。緊張するでしょ」
「ええ、特に時間指定された荷物は普段の荷物に増して緊張しますね。またイブの日の夜中って時間指定宅配が多いんですよ。お歳暮とかは減ってるんですけど。間違えたら先方の思い出作り失敗に繋がりますからね。烈火のごとく怒られます」
「怒られますっていうことは、よく間に合わないんだ」
「ここだけの話、必ずと言っていいほどあぶれます」
「へえ、ケーキとかもあんの?」
「ああ、もう最悪ですね。さすがに他より優先しますから遅配はしませんけど」
祐平とジュディがトラックの外で話していると、梨田が突然、
「あ、高窪さん大変です!」
とトラックから声を張り上げた。
びっくりして駆けつけると、
「高窪さん。カニが、カニが動きません!」
と、梨田が発泡スチロールの箱を抱え、耳を当てながら言った。
「は?」
祐平は梨田が言う事態が飲み込めなかった。
「カニが、さっきまでガサゴソ動いていたカニが死にました」
梨田はひとり慌てふためいていた。
「カニ、ですか」
「さっきまではガサゴソと音を出していたカニが、カニのトリノが。あ、このカニのことをトリノと名付けて可愛がっていたんですが、動きを止めました!」
「あの、梨田さん」
「はい?」
そう言って梨田は発泡スチロールの箱を振った。
「あ、振らないでください」
「しかし、生きたまま運ばなくては」
「あの、梨田さん。カニは、カニはたぶん紐でがんじがらめにされてて、もとから動くはずがないと思うのですが」
祐平は未だ事態が飲み込めなかった。
「しかし、高窪さん。先生!」
「なによ。あたしはあんたの母親じゃないんだよ」
「カニが」
「聞いてたよ。あんた麻薬かなんかやってんの?」
「幻聴じゃないですよ!」
そう言ってまた梨田は箱を振った。
「だから振らないでくださいって」
「高窪さんが、活きガニを冷蔵庫に入れなかったからですよ!」
「は!?僕のせい!?」
突然わいた責任論に祐平は驚いた。
「大丈夫だって、冬だから荷台に置いといても大丈夫だって」
冬の場合、要冷蔵荷物を一般の宅配物同様にして荷台に置くことなどいつものことだ。その結果客から文句を言われたことなどない。そもそも梨田は冷蔵庫と言ったが、冷凍庫だ。
「落ち着いてください梨田さん、仮に死んでたとしても、まあ大丈夫ですよ」
「僕の言ってることはそんなことじゃないんですよ!」
(ええ!?、情緒不安定かお前。)
「ちょっとあんた、さっきから聞いてりゃ意味の通らないこと言って」
ジュディが説教を始めようとしたとき、また振ろうとして手を滑らした梨田がカニ箱を落とした。
「あ、梨田さんいい加減に」
祐平はようやく叱ろうとしたが、その前に梨田が、
「あ、ああ、トリノの箱に、穴が」
と言ったからそれどころではなくなった。
祐平は梨田から箱を奪いとると、穴をチェックした。穴は発泡スチロールの性質からして、ハサミを刺したような細く小さな穴だったが、その穴の内側からなにか尖ったものが出っ張っていた。カニの爪の先端だ。祐平は引っ込めようとしたが、発泡スチロールの性質からしてなかなか中に引っ込めることはできなかった。
梨田がなにかわめいている横で、なかったことにしようと穴を揉んでいると、発泡スチロールが傷んだのかトリノが死に物狂いの力を発揮したのか、ずばっと、爪のハサミを露出させた。
「げ」
「生きてた!、ほら、グーパーしてるトリノ!」
「あんた!」
情緒不安定の梨田の頬をジュディが思いきり殴りつけた。グーで一発、返す刀でパーの二連撃だ。いみじくも、グーパー。人は聞き流してしまいそうな言葉ほど、それに支配されるものだ。
毛蟹のトリノが爪でせき止めてこそいるが、この穴の大きさならば中のおがくずが漏れだしてくるには充分だった。
しょうがない。
爪が折れていないことを確認するとその様子をデジカメにおさめ、なんとか爪を内側に引っ込めた祐平は養生テープでカニ箱を一回りさせた。
「ごめんなさい」
ジュディに殴られ放心状態の梨田をよそにして、ジュディが頭を下げた。
「はは」
祐平はとりあえず笑うと冷静さを取り戻し、
「大丈夫ですよ。ほら、カニの脚が自由になってたでしょ?。これは僕らのミスではなくて、配送元のミスですから。ま、ここのお客さんは優しいし、そのことを説明して謝れば問題にはなりませんよ、たぶん」

祐平の言った通り特に問題はなく、ジュディに殴られて梨田も理性を取り戻した、10時前、電話攻勢と最後に不在宅をうかがう。その頃にはもうジュディは、不在かどうかを確かめるため、他人の家電気メーターやポストを確認するのが使命感が罪悪感を上回り、板に付いてきた。
10時を過ぎれば、ようやっと長い1日も終わりだ。
疲れと安堵からくる乾いた車内の空気。
営業所に着き、ジュディは今日の宅配件数を提出して、所長と話をしだした。祐平にはまだ残務処理や明日のための荷分け、祐平は次の日休みだが勿論やる、等やることは色々あるが、この時間は少しまったりとする。遅い夕飯も食べる。

ジュディが帰る段になったとき、別れの挨拶を済ますと、祐平はジュディに呼び出された。そこは誰もいない、営業所の便所の裏だった。

「今日は色々と迷惑をかけました」
ぺこりとジュディは頭を下げた。
慌てて祐平が「こちらこそ申し訳ありませんでした」と土下座をする勢いで頭を下げた。
顔を上げたジュディは小さく笑うと、
「なんだかんだ、今日は楽しかったわ」
「はあ」
祐平がそう言うと、ふたりはただ見つめ合った。
ジュディが祐平に握手を求めると、なぜかふたりの体は密着した。そして再び見つめあうと、ふたりは何も考えず、口を寄せた。
ジュディの唇は寒い冬のきらきら星が瞬く夜空を背景に人工の光が差す便所裏のもと、とろけるように柔らかく熱かったが、いかんせんアンモニア臭いのと、タバコと唾液の匂いと加齢臭がきつかった。
ふたりが離れると、唇と唇の間に糸が引き、白色灯の中それは地獄を照らす極楽浄土の光のように一筋きらきらと輝いた。
そしてふたりは無言のまま別れた。

ちなみに、この様子を便所のガラス越しに克明がばっちりと目撃していたが、克明は、祐平をおちょくるには荷が重すぎるこの「家政婦は見」てしまった衝撃的な状況に、友の秘密を終生、公にすることなく、墓場まで持っていくと決め、ひとりうなずいた。なかなか男気のあるやつなのだ土居克明という男は。




宅配屋と喫茶店(12)

無言の時を挟んでは、ひょんなことをきっかけにぶり返す悪言の応酬。長く、ひたすら長く、それは続いた。あたりはもう夕闇を過ぎ、夜の帳がおりてきていた。
「人を見下す前に自分のやってること考えろ」
「そうやって時代におもねって、人にこびへつらって、そのくせバカにしてよ、てめえが一番バカじゃねえか」
「養生テープでぐるぐる巻きにして、あの、得体のしれぬオブジェとして、なんだ、ゴビ砂漠に捨ててやろうかコノヤロウ」
あまり怒声を張り上げたことのない祐平は、いささか迫力にかけた。

「あんたみたいな人間が一番バカだよ。なにもできないくせして」
「いきがってんのはどっちだ、いくじなし」
「ヨウジョウテープってなに!?」
ジュディはジュディで、段々と心ここに在らずといったようになってきた。

「養生テープってのはこの緑色のなにかと頼りになる、あんたが荷物を破損させた時などに応急処置としてって、そんなこたどうでもいいんだよ!、そもそもなんであんたはここに居るんだ!。迷惑なんだよ!」
「足手まといだと言いたいの!?」
「あんたのせいでこちとら仕事が増えてんだよ!、なんでおまえはここに居るんだ!」
「それは」
信号待ちで停車すると、無言になることがいつしかルールになっていた。
ジュディが意を決したようになにか言いかけたその時、
ドンドン、と助手席側の車体を叩く音がした。
びっくりした祐平が振り向くと、びっくりしたジュディが外に目をやると、
憔悴した悲しげな瞳に、放課後の少年のような嬉しさをたたえた梨田が、ドアを叩いていた。




「さあできた。祐平君ちょっと味見してって」
祐平の前に出された、奥さんがかかりっきりになっていた新メニューとは、スープカレーだった。緑色したグリーンカレーだ。ジャガイモやニンジン、そのほか旬の野菜やキノコがごろごろと入っている。

「おいしそうですねえ」
祐平は、流行に乗るにしても後追いすぎやしないか、と思ったが、そんなことはおくびにも出してはいけない。
「ほんで、そのあとは?」
マスターが祐平に話の続きを促す。もちろん祐平は自分にとって都合の悪いことは話していない。つまり、指名手配犯のことや、ジュディとのじゃれあいのこと、すなわち、あの売れっ子作家山下ジュディを乗せ、ジュディがわがまま言って困ったという話にしていた。
「まずは食べてもらわなきゃでしょ」
と、奥さんがマスターを止めた。そしていつもの丁丁発止のやりとりが繰り広げられ、猫舌の祐平は湯気を吹くカレーを前にちょうどいい時間稼ぎができた。
止まらぬやり合いとカレーの熱の頃合いをみて、
「ではいただきます」
と、祐平はカレーを口に運んだ。
「どう?」
祐平がぶつを口に途端に、夫とのやり合いを中止して奥さんが声をかけた。
「あ、おいしいですよこれは」
もぐもぐと咀嚼しながらそう祐平が言った瞬間、奥さんのカレーはその底力を発揮した。
「……………!!」
辛い、やたらめったらに辛い、全身が凍てつくように辛い、痛い。祐平のスプーンを運ぶ腕の動きが止まったのをみて、奥さんはニヤリと笑った。
「どう?、辛いでしょ」
「はひ、からいでひ」
もともとあまり辛いのが得意ではない祐平だが、これは辛すぎる、人間の食べるものではない。
一瞬にして祐平の額から鼻から頬から脇からすねから、全身から汗が噴き出してきた。マスターと奥さんの手間、じっと耐えてはいるが、誰もいなかったらのた打ち回るであろうほどの辛さだった。
「おい、おまえはこんなもんを売り出す気か」
マスターが奥さんに言った。
「ただの新メニューじゃ目新しさがないでしょ」
「だからっておまえこれは」
「ほら、斬新なものってどっちかに突き抜けてるでしょ。辛さマニアっていうの?、中途半端なもん作っても意味ないからね。振り子の針をどっちかに振り切らなきゃさ。必ず当たるわこれは」
息も絶え絶えに、
「これは、ひぃ、何倍の辛さなんでしか」
と、祐平が言った。
奥さんは、
「さあ、何倍になるのかしら。ほらこれみてよ」
奥さんはエプロンのポッケから小瓶を取り出して祐平に見せた。その小瓶には大きくドクロマークが印刷されていた。
「これはねえ、去年娘がメキシコに行った際のおみやげなんだけど、世界一辛い調味料なんだってさ。これを目一杯ふりかけてみたの」
それを聞いた瞬間、祐平の体は限界に達した。冗談ではなく、死、が脳裏をよぎった。知らぬが仏というやつだ。
がくがくと祐平は震えだし、脳裏に昨日起こった光景が走馬灯のように巡る。懸案していた助手バイトが山下ジュディだったこと、ジュディが地元出身だったこと、今も右膝に残るやけどをつけた犯人がジュディだったこと、梨田が年下だったこと、ふたりはそこそこちゃんと働いていたこと、高橋さんが留守で結局終日に渡り留守だったこと、梨田が腹をこわしたこと、指名手配犯を見つけたこと、ジュディと喧嘩になったこと、梨田を拾ったこと、エリアを去る際に梨田の目を盗んでジュディと小さくキスをしたこと…………………。

次の瞬間祐平の見ている光景は喫茶店から病院のベッドの上に移った。

「すまん」
「ごめんなさい」
目を覚ました祐平にふたりが頭を下げた。
「ここは」
「病院なんだ。祐平君、倒れちゃって、いや、病気ではなくてな、こいつのカレーで」
自分の腕をみた祐平は、点滴をされていることに気がついた。
「…いやあ、病院のベッドなんて子供の頃にひきつけを起こした時以来ですよ。はは」
祐平は本来怒りから縁遠い人間だ。
二言三言言葉を交わすと、祐平は、
「あ、辛い、辛い、辛い」
と言い、水を所望した。出てきたのはカフェオレだった。

「食中毒で運ばれるってんならまだわかるが、辛いカレーを食った客が運ばれるなんて、これは食中毒よりことだぜ」
マスターは笑いながら言った。昼過ぎに病院へとかつぎ込まれたが、時刻は夕刻になっていた。失神を契機に睡眠をとったらしい。目覚めた祐平は心身ともに尋常じゃないくらいすっきりしていた。点滴のためか睡眠のためか、失神によるものか、おそらく、失神した結果だろう。他人から絞め落とされたりすると、体が異常にすっきりすることは学生時代に危険なゲームを講じている、いた者には周知の事実だ。おそらく、緊急事態に陥った脳みそが措置としてなくした時間を取り戻すよう活発に働き脳内麻薬を異常分泌するからであろう。ちょっとしたナチュラルハイだ。
「だけどさあんた、これは、イケる」
奥さんはまだ自信があるようだった。
「おまえなあ、キラーカーンがアクシデントでアンドレの足を折っちゃったことで逆に箔がついたって話じゃねえんだよ」
「怪我の功名ってやつね」
「あ、いいですね。失神者続出、君は生きて帰れるか!?激辛カレーデスマッチ60分一本勝負なんて売り文句で」
祐平はなんだか楽しくってしょうがない。
「でしょ!?、ね!、イケるでしょ!」
なにかをやろうとしている人は、止めようとする他人の意見を自分に都合のいい解釈を通してしか聞けないものだ。

「でよ、祐平君」
「なんですか」
「こんな時で悪いんだが」
「はあ」
「話の続きを」
マスターは嬉々とした表情を浮かべた。
「続きですか、えっと」
「編集を拾ったとこまでだったな、いやその、まあ、無理をしなくてはいいんだけどな」
気恥ずかしそうにマスターは笑った。
「っとその前に、退院した方がよろしくないですかね?」
祐平はこの話にマスターの期待が上がっていることに不安を覚えた。まさかキスをしたなんて言えない。この話は梨田を拾って、オチがつく話と想定していた。実際梨田を拾ってからは別段話になる、話にできるようなことなどなかった。しかし、こうもマスターが嬉しそうにしていると、サービス精神過剰と化した祐平は、話を作らなきゃならない。しかし、この気づいたら病院のベッドの上にいたという、大虎になった奴が気づいたらブタ箱にいたというような、ありそうでなさそうでだが確実にある稀有といえば稀有、ありふれたといえばありふれた状況に置かれては、まともに頭が働くわけもなく、時間が欲しかった。

これは自分のくたびれた体に問題があって起こった可能性が強い、と、祐平は支払いを受け持とうとしたが、おせっかい焼きのふたり相手にはどだい無理な話だった。
支払いの段になって、なぜか奥さんが自分の保険証を持っていたことに多少不信感を抱いた祐平だが、それはしょうがない、と追求をさけた。

マスターが運転する車の中で、祐平は話を考えたが、どうもうまくいかない。思考に邪魔が入る。ふってわいたようなジュディとの口づけによる和解という強烈なエピソードが思考の邪魔をする。
(ジュディは実は宇宙人だった!、何を考えてるんだおれは。
ジュディの陰部に蝶のタトゥーが!、いやいや、どう話と結びつけるんだよそんなこと。下ネタなんか話せるか。下手すりゃすぐバレる嘘だし。
梨田の陰部に蝶のタトゥーが!、だから、だからしっかりしろよおれ。
梨田が車内でクソを漏らした!、うん、今後うまいこと考えつかなかったらこれでいこう。帰りしなに車内で異臭騒ぎ、しれっとした顔の梨田、営業所に着いて、ちょっと間を置いて笑いながらトイレに行く梨田。よし。しかし、ありがちかな。話の構成力次第か。難しくなってきたなおい。
ジュディは実は宇宙人だった!、いやこれさっき出たよ。わけわかんねえし。
…………ジュディは実はニャントロ星人だった!、いや変えただけだろ宇宙人を。
ジュディはラエリアンムーブメント信奉者だった!、いや普通ラエリアンって言われても何事かわかるまい。ていうか、ありそうだし、カルト関連はまずい。下手に宗教の話をしていいことなんかない。それをきっかけに貴重な栄養源がなくなる可能性がある。
沖田、そうか沖田君がいた。沖田君がキスをしたことにすればいいんじゃないか!?………悪いな沖田君。ダシに使わせてもらうよ。)

三人を乗せた古いボルボが喫茶店に着くと、喫茶店の前に、スーツ姿の祐平の兄がいた。久しぶりに見る兄の姿に、祐平はどぎまぎした。とととっとふたりが兄に駆けつけ、気恥ずかしさから祐平はのっそりと車から降りた。

「この度は弟がご迷惑をかけました」
「こちらこそご面倒をおかけしました」

兄がこの場にいることを祐平は瞬時に察した。もちろん、マスターが祐平の実家に連絡を入れたから、だ。部屋を契約する際に実家の連絡先を書いていた。

「倒れたって聞きましたけど、どうやら問題はないみたいですね」
兄はちらりと弟に横目をやった。
「なんら問題はない」
別に兄弟仲が悪いわけではないので、祐平は気恥ずかしさを胸に押し込めてそう答えた。

「いやあ、たまたま仕事で近くにいたもんで、様子をみてこいと」
祐平は実家に自分の醜態の連絡がいったことを確信し、とても嫌な気持ちになった。
「申し訳ないね、こいつが変なもん食わせちまって」
「変なもんってなによ変なもんって」
「ははは、そうだ、ちょっとこいつと積もる話もあるので、借りますよ。あ、あと、親がよろしくと伝えておいてくれと」
気弱な兄にしてはやけに親しげにマスター達に話しかけるな、と祐平は思った。そして、作り話を話さなくてよくなるかもしれないチャンスだ、とも冷静に思った。

祐平と兄は祐平の部屋に入った。兄は部屋に上がり込むと開口一番、
「いやあ、久しぶりだなあ」
と、言った。
「一昨年にあった以来かな」
祐平がそう答えると、兄は、
「ああ、夏伯母さんの葬式か、って違うよ。お前のことじゃない」
と、言った。
「え?」
「原口さん達にだよ」
兄はマスター夫妻の名前を口にした。





やっちまったあ

ひ、膝が…右膝が…



痛い。ちょっと前例がないくらい痛い。力が入らない。


っていうだけの話。



そして、


とりあえず痛みはやんだ、というだけの話。

宅配屋と喫茶店(11)

その時、「おい!、兄ちゃん!」と呼ぶ声がして、祐平は飛び跳ねるように、体ごとびくんと脈を打った。祐平の後ろを男が追いかけてきていた。
あわわあわわ、と、言葉にするならそのように、祐平の口が震えた。ジュディは目をぱちくりさせて、その祐平を見た。
「おい、兄ちゃん、待ちなよ」
男の呼びかけに、確実に男の声が耳に届いているというのに、祐平は振り返りもせず、ジュディの隣で腰にかけていた機械を手に持ち、いじくっているふりをしていた。
「ちょっとあんた、呼んでるよ」
事情を知らぬジュディは、いや、事情を知っているジュディは祐平に声をかけた。
「へ?」
祐平は下手な嘘をついた。
「兄ちゃんってよ」
その時、男がついに祐平の肩を揺さぶった。
「は、はい。なんでしょうか」
振り返ると、祐平は男と目があった。やはり男は、あの男にそっくりだった。
「なんでしょうか、じゃねえよバカヤロウ」
そう言って男はにっこりと笑った。男は、受け取りのサインを書いたのに祐平が宅配物をそそくさと持ち帰るという、コンビニでお釣りを受け取り買ったものを持ち忘れるようなケアレスミスに対し怒っていなかったし、祐平が自分の顔に見覚えがあることなど思いもしていなかった。もっと言えば、久しぶりに面した丁寧な対応に好感さえ抱いていた。
「兄ちゃんそれそれ、おれぁハンコ押したんだよ?」
男は祐平のかたわらのゴルフバックを指した。
「え?、あ、あ!、すいません。すみませんでした。誠に申し訳ありません」
平謝りでゴルフバックを持ち、男の家まで駆け出す祐平に、「変なやつだな」と男は言った。
「まさしく」
ジュディは同調した。
えっちらおっちらと男が伊那荘に戻ると、祐平はただ頭を下げた。なるべく顔を見られたくなかった。
「わりいな何度も」
「とんでもない。こちらが悪いのですから」
「ちょっと待ってな」
「は」
経験上、この展開は、男が何か物をくれるのだろうことが祐平にはわかった。
「なんかの縁だ、これ持ってけよ」
男は祐平に缶ビールを二本差し出した。

帰り際、祐平は、
「あの、こちらに越してきてまだ日が浅い、ですよね?」
と、男に訊いた。
「そうだな」
男はシンプルに答えた。
「いやあ、新しく来た人もちゃんと覚えておかないといけませんからね」
どうして人は嘘をつくときにもっともらしい余計な言葉を吐くのだろう。
「それでは、またご用がありましたら」
祐平はダッシュしたい気持ちを抑え、ぎこちない足取りでトラックまで戻った。男は祐平のことなど気にもとめず、すでに玄関を閉めている。

トラックに戻ると、今度は意図的に助手席側に行った。
「あら、禁煙だったかしら」
ジュディはのんきにタバコを吸っていた。
「いえ」
祐平は短く答えると、缶ビールを置き、ダッシュボードを開けた。そして、中からぺら紙一枚を取り出した。
取り出した紙を怖いくらいじっと見つめた祐平を訝しみ、ジュディは紙を覗き込んだ。
「あ」
ジュディが声をあげると、祐平は、ばっ、と紙を覆い隠した。その紙にはさきほどの男が、全国指名手配犯、として、凶悪そうな表情をもって描かれていた。ニコニコと笑みをたたえた指名手配のイラストなど見たことがないが、犯人が市中に隠れている場合、あってもよいと思う。

「それ、ちょっと、あんた、高窪さん」
さすがに慌てたジュディ、しかし、その慌てぶりに祐平は逆に少し冷静になった。否、あきらめた。
「はは、そっくりでもうね」
わけのわからないことをにっこりと笑みを浮かべてささやく祐平。
「ちょっと見せなよ」
祐平から紙をひったくるように奪い取ると、ジュディはしっかとイラストを見た。
「似てる、なんてもんじゃないでしょ。あいつじゃないこれは」
「しかし、確証はなんもありませんからね」
「そんなこと言ってあんた、あんなに慌てふためいてたじゃないよ!」
祐平は静かに運転席へと回った。
「はは、そうですか?。びっくりしちゃって」
そう言うと、祐平はエンジンをかけた。
「ちょっとちょっと!、なにやってんのよ!」
ジュディがたまげたような声を出した。
「なにって、仕事ですよ」
「それどころじゃないでしょ!。なにこいつ、強盗殺人犯じゃない!。え?、まさかこいつが強盗殺人犯で連続放火魔?」
あのとき余計なことを言ったな、と祐平は後悔した。
「そうらしいですね」
「あんた、こいつこの辺りにいるって言ったじゃない!」
「いやあ、あれはちょっとした方便ってやつで」
祐平はトラックを発車できないことにイライラした。というよりも、わけがわからぬこの状況にイライラした。
「なんであんたがこんなもん持ってるのよ!、こいつがここいらにいるからあんたが持ってんじゃないの!?」
訊かれたくないことを訊かれる祐平にはジュディの質問が詰問に聞こえた。
「定期的にもらうんですよ」
祐平が喋ったわずかな合間に、ジュディはさっと祐平の置いた受取伝票を取った。
「あ、ちょっと」
時、すでに遅し。ジュディは伝票に書かれた男のサインと紙にでかでかと書かれた四文字の名前とを交互に二度見した。
「……」
祐平は黙った。まるでエロ本を、もとい、赤点のテスト用紙を母親に見つかった子供のようだった。
「これは、あんたこれは、まあまあ見事にビンゴじゃない」
「そうですかあ?」
祐平ののんきな、しかし、剣呑な空返事に、ジュディはイラっときた。
「そうですか、じゃないでしょうよ!。あんたこれどうすんのさ」
「だから、確証がない、と」
「確証ならあるでしょ!?、このサインだって」
「ありふれた名前ですからね」
「名前と顔と、おおよその年齢が一致してるよ!」
「まあ、世界には自分そっくりな人が三人いると言いますから」
「言いますからじゃないでしょう!」
「はは」
「笑ってんじゃないよ!」
「いやしかし、はは」
祐平はさっきからずっと堅い笑顔だった。
「はあ!?、笑ってんじゃないって言ってるでしょ!、なにを現実逃避なんかしてんのよ!」
「うるさいなあ」
「ああ!?」
「へ?、僕なにか言いました?」
祐平はこう言うと同時に、脳裏では心の声がついつい口を通ったことを認識した。
「うるさいってなにようるさいって!。言うにことかいてうるさいってあんた!、どの口で言った!?、この非常事態に!」
ガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミガミ。
ジュディの言う長くももっともな言葉は、祐平には朝の工事現場から発せられる雑音にしか聞こえなかった。
ガミガミと羅列される祐平を罵る言葉の数々を、ふわふわしながら微笑みを作って聞いていると、祐平は己の体内で脈打つ鼓動が段々と大きくなってきたことに気がついた。それはとても嫌な感じだった。

「いくじなしにもほどがあるでしょ!?、さあ警察に行くのよ!」
ジュディが警察という言葉を出してきたとき、祐平の高鳴る鼓動が止まった。

「うるせえって言ってんだろうが!!」
「な」
密閉されたトラックの車内をつんざく祐平の絶叫に、ジュディは驚いた。
「うるせえなあ!、黙れよバカヤロー!」
「な、あんたなんかにバカだと言われる筋合いはないよ!!」
バカだと言われ、話の筋が違ってきた。
「あたしはあんたの10倍は頭つかって働いてんだよ!」
祐平は密かに、そりゃそうだ、と思ったが、一度口から出た忌み嫌う父親譲りの言葉を引っ込めることはできない。即座に、
「作家が頭つかうのは当然だろうが!。てめえが座ったまま仕事してる間こっちはてめえの、ひゃ、10倍体つかって働いてんだバカヤロー!」
100倍は言い過ぎだな、と妙に冷静な祐平であった。
「座った、座ったままだって!?」
もう、男のことなどどうでもよくなったようだ。
「座ったまま小説が書けると思ってんのバカ!」
「ああ、思ってるよ!。そっちの職業病なんてたかだか腱鞘炎じゃねえか!。腱鞘炎で手首が痛い痛いと嘆いて、せっせと大袈裟にシップ貼って周りに見せびらかしているとき、世の中のブルーカラーは棺桶に片足突っ込みながら働いてんだよタコ!」
「な、そりゃ建設業なんかの仕事してるやつらはそうでしょうけど、宅配員なんかのバカでもできる仕事してるやつに言われたくないよマヌケ!」
「うるせえ!。てめえが書いた大層な本だっておれらがいないとどうしようもねえんだぞ!。手売りで、じゅ、100万本さばいてみろよ!。てめえのかわりにこっちは100万本届けてんだよ!だいたいてめえの小説はつまらねえんだよ!」
「あんたなんかになにがわかるってんのよ!。あんたみたいなバカに読まれるために書いてんじゃないのよ!」
「おれみたいなバカでもてめえの本はつまらねえってわかるんだよ!なにが直木賞作家だ!。調子のってんじゃねえぞバカが!」
「調子なんかのってるかバカヤロー!」

にべもない子供じみた言葉の応酬だが、それもしょうがない。三つ子の魂百まで、ふたりとも同じ川の出身で、汚い水を飲んで育ったのだから。
「髪なんか赤く染めやがって」
「髪は関係ないでしょ!」
「いい歳こいて発情中かバカヤロー!」
「発情中って、バカじゃないのあんた!」

祐平はくだらぬ言い合いをしながら、心がどんどんとすっきりしていく感覚があった。言ってやった感、というやつか。

一旦無言になった険悪な雰囲気の車内、そのとき、祐平の携帯電話がなった。沖田からだった。
「ちっ」
祐平は舌打ちをして電話にでんわ、もとい、電話に出た。
「はい、高窪です」
途端に態度をくるりと回し、丁寧な対応をする祐平、気がついてはいないが、その様は幼き日の飯時に見た嫌な父親の姿そのものだった。

「ああ、はい、中村さん、はいはい。わかった。えっと、うん、大丈夫。ちょうど今から行くよ」
それは個宅から配送の依頼だった。バイトに集荷はできないため、客から頼まれた沖田は赴くよう祐平に電話したのだ。

電話を切ると、無言のまま車は発進した。本当に、もう指名手配犯こと、山田次郎のことなど頭の片隅にもなかった。ついでにいうと、梨田のことなど宇宙の片隅にも存在しなかった。
双方機嫌悪そうにして無言のまま、トラックは進む。祐平は、実は、今のジュディに対し憎しみの感情はない。それどころか、ある種の親愛を思っていた。ファックコミュニケーションというやつである。

沖田に言われた現場に着くと、近いこともあり沖田がまだいた。

「山下さん、あの家とあっちの家に」
短くジュディに指示を出すと、ジュディは「はい」と短く応えた。

「がんばってるねえ」
トラックからおりた祐平は軽バンの後ろで宅配物の整理をしていた沖田に声をかけた。祐平は自身のテンションがいつになく高まっていることを自覚した。
「はい、なんとか。すいません、電話しちゃって」
「なにを言ってんの、それが仕事なんだから。気をやむことなんかないし、いい判断だよ。なんかあったらガンガン連絡して。そっちは大丈夫?、問題はない?」
「はい、大丈夫です」
ふたりの後ろを宅配物を抱えたジュディがかけて行った。それを見た沖田が、
「あの人は日雇いですよね?」
と、祐平に訊いた。
「そうだよ。まあ頑張ってもらってる」
この祐平の言葉に反し、ジュディは、祐平が沖田に自分の悪口を話し合ってるに違いない、と思っていた。
「まだここいら回るの?」
「はい、あと何軒か」
「じゃあ頑張って」
「はい、高窪さんも」
「はは、ありがと」

祐平が集荷から戻ると、沖田とジュディが会話をしていた。沖田は祐平を見つけるとバツが悪そうに笑みを浮かべてそそくさと立ち去った。祐平はジュディが自分の悪口を言ったに違いないと思った。いつも通りの客対応をし、多少落ち着いて思考が自分のなかだけじゃなく外にまで回ると、これから何時間もジュディとふたりきり一緒にいるのか、と気が重くなった。親愛の情は感じていても、それとこれとは別の問題だ。