宅配屋と喫茶店(13)
「あの人達のこと知ってんの?」
祐平はなぜか心の奥の方からドキドキした。
「知ってるもなにも、お前は知っててここに住んでんじゃないのか?、ていうかまさか、聞いてないのか?」
兄の言う言葉の意味を、祐平は理解できなかった。
梨田がふたりの間に再び加わると、喧嘩のことなどまるでなかったかのように、車内は無邪気な雰囲気になった。祐平とジュディは心の底にさっきまでの喧嘩による澱みを携えて、明るく会話をした。この澱みが、表面上装う明るい会話と時間とにあてられ、熟成されて、その香ばしい澱みを吐き出す道はキスしかないということに相成った次第だ。
「いやはや、勘弁してくださいよ、はは」
帰ってきた梨田は半分冗談半分本気でそう言った。
「すいませんでした。ちょっとドタバタしてて、忘れちゃいました」
「何時間待ったと思ってんですか、財布も電話もないし、殺されるかと思いましたよ」
「大袈裟だねえ、殺されやしないよ」
ジュディが静かに言った。
「だけど先生、ここって治安が悪いんでしょう?」
ああ、
と、祐平とジュディは思った。
「もう怖くて怖くて、段々日が落ちてくるし。あ、知ってます?、今日の夕日なんか妙に紫色だったんですよ空が。まるで世紀末のような色だったんですよこの世の終わりみたいな」
いきせき切って話しを続ける梨田にジュディが、
「少し落ち着きなよ」
と、言った。すると、
「これが落ち着いてられますか!?」
梨田が素頓狂な声を出して言った。梨田の胸の内は紫色の夕日のように昼と夜と夕暮れをない交ぜにしたような、愛憎の入り交じりを呈していた。
「ほんとすいませんでした」
祐平が運転しながら何度目かの謝罪をした。しかし表情はにやけている。
「何度か梨田さんの前を通ったはずなんですけど、すっかり忘れてしまって」
「すっかりって高窪さん。6時間ですよ?。6時間待たされたことありますか?。半日ですよ半日。お腹痛いし、金もないし、土地勘もないし、やることないから何回トイレに入ったと思ってんですか」
梨田は興奮が冷めてくると段々涙目になってきた。
「知らないよそんなことは」
ジュディが静かに言った。
「先生、16回ですよ16回。出るもんも出ない苦しみを14回も繰り返したんですよ」
「そもそもあんたが賞味期限の切れたゆで卵を泥棒したのがいけないんじゃなくて?」
そう言われて梨田は返す言葉を失った。
「こっちはあんたがいない分働き詰めだったんだよ。体よくサボりやがって」
「そんな先生、そんな風に言わなくても。ていうか僕のことなんてすっかり忘れていたなら、この仕事に僕なんて必要なかったんじゃないですか」
「うるさいねえ、若い男がいつまでもうだうだ言ってんじゃないよ。女の腐ったような男だねえ」
「はは」
祐平は愛想笑いをひとつくれてやった。
再び営業所に戻り、宅配物を詰め込み直す。
「さすがに荷物は減るんだねえ」
思えば梨田を捨てたあとに一度戻ったとき、所長も誰も、梨田に気がつかなかった。
せっせと三人で積み荷を整理していると、所長がニコニコした顔で祐平に近づいてきた。
「どう?、問題ない?」
所長はそっと祐平に耳打ちした。
一瞬犯罪者の顔やジュディの怒り顔がスライドショーみたく頭をよぎった祐平だったが、
「なにもありません」
と、答えた。
ジュディが、喧嘩のことはさておき、自分が指名手配犯を見逃したことを所長に告げ口したら、いや、エッセイかなにかに書いたら、一体おれはどうなるのだろう。
そう考えて祐平は多少不安になったが、忙しさの前に不安など対岸の火事だった。
再度担当エリアに行き、最後の勝負が始まった。
一筆書きクイズをさらさらと解くみたく、祐平はいつものようにエリアを回った。
8時過ぎにちょっとした事件が起こった。
「怒られちゃったよ」
宅配からトラックに戻ったジュディがぽつりと言った。
「どうしたんですか?」
祐平は覗き込むようにしてジュディに訊いた。ジュディの心配をしているのではない。なにか問題があれば、自分が尻を吹かなければならないからだ。
「今持ってった荷物さ、今日じゃない日に日時指定されてたんだよ」
「ああ、すいません。見逃してしまいました」
「いいんだけどさ」
「先方はなんと?」
「いやね、それがまたその指定日がクリスマスイブでさ」
「ああ、プレゼントか」
「そうなのよ。こんなに早く持ってきてもらっても困るってさ。こっちはちゃんと指定したぞと。ま、受け取ったこた受け取ったんだけどね。あたし初めて言ったよ。すいませんバイトなもんでって」
「えっと、時田さんか。猛烈に怒ってました?」
「どうだろねえ、クレームくるかも。そうしたらどうなるの?」
「所長か僕か他のドライバーが謝りに行きます」
「悪いねえ」
「いえ、よくあることですし、僕が凡ミスしなければ良かった話ですから。ま、次行きましょう」
「しかし、クリスマスの荷物って大変ね。緊張するでしょ」
「ええ、特に時間指定された荷物は普段の荷物に増して緊張しますね。またイブの日の夜中って時間指定宅配が多いんですよ。お歳暮とかは減ってるんですけど。間違えたら先方の思い出作り失敗に繋がりますからね。烈火のごとく怒られます」
「怒られますっていうことは、よく間に合わないんだ」
「ここだけの話、必ずと言っていいほどあぶれます」
「へえ、ケーキとかもあんの?」
「ああ、もう最悪ですね。さすがに他より優先しますから遅配はしませんけど」
祐平とジュディがトラックの外で話していると、梨田が突然、
「あ、高窪さん大変です!」
とトラックから声を張り上げた。
びっくりして駆けつけると、
「高窪さん。カニが、カニが動きません!」
と、梨田が発泡スチロールの箱を抱え、耳を当てながら言った。
「は?」
祐平は梨田が言う事態が飲み込めなかった。
「カニが、さっきまでガサゴソ動いていたカニが死にました」
梨田はひとり慌てふためいていた。
「カニ、ですか」
「さっきまではガサゴソと音を出していたカニが、カニのトリノが。あ、このカニのことをトリノと名付けて可愛がっていたんですが、動きを止めました!」
「あの、梨田さん」
「はい?」
そう言って梨田は発泡スチロールの箱を振った。
「あ、振らないでください」
「しかし、生きたまま運ばなくては」
「あの、梨田さん。カニは、カニはたぶん紐でがんじがらめにされてて、もとから動くはずがないと思うのですが」
祐平は未だ事態が飲み込めなかった。
「しかし、高窪さん。先生!」
「なによ。あたしはあんたの母親じゃないんだよ」
「カニが」
「聞いてたよ。あんた麻薬かなんかやってんの?」
「幻聴じゃないですよ!」
そう言ってまた梨田は箱を振った。
「だから振らないでくださいって」
「高窪さんが、活きガニを冷蔵庫に入れなかったからですよ!」
「は!?僕のせい!?」
突然わいた責任論に祐平は驚いた。
「大丈夫だって、冬だから荷台に置いといても大丈夫だって」
冬の場合、要冷蔵荷物を一般の宅配物同様にして荷台に置くことなどいつものことだ。その結果客から文句を言われたことなどない。そもそも梨田は冷蔵庫と言ったが、冷凍庫だ。
「落ち着いてください梨田さん、仮に死んでたとしても、まあ大丈夫ですよ」
「僕の言ってることはそんなことじゃないんですよ!」
(ええ!?、情緒不安定かお前。)
「ちょっとあんた、さっきから聞いてりゃ意味の通らないこと言って」
ジュディが説教を始めようとしたとき、また振ろうとして手を滑らした梨田がカニ箱を落とした。
「あ、梨田さんいい加減に」
祐平はようやく叱ろうとしたが、その前に梨田が、
「あ、ああ、トリノの箱に、穴が」
と言ったからそれどころではなくなった。
祐平は梨田から箱を奪いとると、穴をチェックした。穴は発泡スチロールの性質からして、ハサミを刺したような細く小さな穴だったが、その穴の内側からなにか尖ったものが出っ張っていた。カニの爪の先端だ。祐平は引っ込めようとしたが、発泡スチロールの性質からしてなかなか中に引っ込めることはできなかった。
梨田がなにかわめいている横で、なかったことにしようと穴を揉んでいると、発泡スチロールが傷んだのかトリノが死に物狂いの力を発揮したのか、ずばっと、爪のハサミを露出させた。
「げ」
「生きてた!、ほら、グーパーしてるトリノ!」
「あんた!」
情緒不安定の梨田の頬をジュディが思いきり殴りつけた。グーで一発、返す刀でパーの二連撃だ。いみじくも、グーパー。人は聞き流してしまいそうな言葉ほど、それに支配されるものだ。
毛蟹のトリノが爪でせき止めてこそいるが、この穴の大きさならば中のおがくずが漏れだしてくるには充分だった。
しょうがない。
爪が折れていないことを確認するとその様子をデジカメにおさめ、なんとか爪を内側に引っ込めた祐平は養生テープでカニ箱を一回りさせた。
「ごめんなさい」
ジュディに殴られ放心状態の梨田をよそにして、ジュディが頭を下げた。
「はは」
祐平はとりあえず笑うと冷静さを取り戻し、
「大丈夫ですよ。ほら、カニの脚が自由になってたでしょ?。これは僕らのミスではなくて、配送元のミスですから。ま、ここのお客さんは優しいし、そのことを説明して謝れば問題にはなりませんよ、たぶん」
祐平の言った通り特に問題はなく、ジュディに殴られて梨田も理性を取り戻した、10時前、電話攻勢と最後に不在宅をうかがう。その頃にはもうジュディは、不在かどうかを確かめるため、他人の家電気メーターやポストを確認するのが使命感が罪悪感を上回り、板に付いてきた。
10時を過ぎれば、ようやっと長い1日も終わりだ。
疲れと安堵からくる乾いた車内の空気。
営業所に着き、ジュディは今日の宅配件数を提出して、所長と話をしだした。祐平にはまだ残務処理や明日のための荷分け、祐平は次の日休みだが勿論やる、等やることは色々あるが、この時間は少しまったりとする。遅い夕飯も食べる。
ジュディが帰る段になったとき、別れの挨拶を済ますと、祐平はジュディに呼び出された。そこは誰もいない、営業所の便所の裏だった。
「今日は色々と迷惑をかけました」
ぺこりとジュディは頭を下げた。
慌てて祐平が「こちらこそ申し訳ありませんでした」と土下座をする勢いで頭を下げた。
顔を上げたジュディは小さく笑うと、
「なんだかんだ、今日は楽しかったわ」
「はあ」
祐平がそう言うと、ふたりはただ見つめ合った。
ジュディが祐平に握手を求めると、なぜかふたりの体は密着した。そして再び見つめあうと、ふたりは何も考えず、口を寄せた。
ジュディの唇は寒い冬のきらきら星が瞬く夜空を背景に人工の光が差す便所裏のもと、とろけるように柔らかく熱かったが、いかんせんアンモニア臭いのと、タバコと唾液の匂いと加齢臭がきつかった。
ふたりが離れると、唇と唇の間に糸が引き、白色灯の中それは地獄を照らす極楽浄土の光のように一筋きらきらと輝いた。
そしてふたりは無言のまま別れた。
ちなみに、この様子を便所のガラス越しに克明がばっちりと目撃していたが、克明は、祐平をおちょくるには荷が重すぎるこの「家政婦は見」てしまった衝撃的な状況に、友の秘密を終生、公にすることなく、墓場まで持っていくと決め、ひとりうなずいた。なかなか男気のあるやつなのだ土居克明という男は。
続
祐平はなぜか心の奥の方からドキドキした。
「知ってるもなにも、お前は知っててここに住んでんじゃないのか?、ていうかまさか、聞いてないのか?」
兄の言う言葉の意味を、祐平は理解できなかった。
梨田がふたりの間に再び加わると、喧嘩のことなどまるでなかったかのように、車内は無邪気な雰囲気になった。祐平とジュディは心の底にさっきまでの喧嘩による澱みを携えて、明るく会話をした。この澱みが、表面上装う明るい会話と時間とにあてられ、熟成されて、その香ばしい澱みを吐き出す道はキスしかないということに相成った次第だ。
「いやはや、勘弁してくださいよ、はは」
帰ってきた梨田は半分冗談半分本気でそう言った。
「すいませんでした。ちょっとドタバタしてて、忘れちゃいました」
「何時間待ったと思ってんですか、財布も電話もないし、殺されるかと思いましたよ」
「大袈裟だねえ、殺されやしないよ」
ジュディが静かに言った。
「だけど先生、ここって治安が悪いんでしょう?」
ああ、
と、祐平とジュディは思った。
「もう怖くて怖くて、段々日が落ちてくるし。あ、知ってます?、今日の夕日なんか妙に紫色だったんですよ空が。まるで世紀末のような色だったんですよこの世の終わりみたいな」
いきせき切って話しを続ける梨田にジュディが、
「少し落ち着きなよ」
と、言った。すると、
「これが落ち着いてられますか!?」
梨田が素頓狂な声を出して言った。梨田の胸の内は紫色の夕日のように昼と夜と夕暮れをない交ぜにしたような、愛憎の入り交じりを呈していた。
「ほんとすいませんでした」
祐平が運転しながら何度目かの謝罪をした。しかし表情はにやけている。
「何度か梨田さんの前を通ったはずなんですけど、すっかり忘れてしまって」
「すっかりって高窪さん。6時間ですよ?。6時間待たされたことありますか?。半日ですよ半日。お腹痛いし、金もないし、土地勘もないし、やることないから何回トイレに入ったと思ってんですか」
梨田は興奮が冷めてくると段々涙目になってきた。
「知らないよそんなことは」
ジュディが静かに言った。
「先生、16回ですよ16回。出るもんも出ない苦しみを14回も繰り返したんですよ」
「そもそもあんたが賞味期限の切れたゆで卵を泥棒したのがいけないんじゃなくて?」
そう言われて梨田は返す言葉を失った。
「こっちはあんたがいない分働き詰めだったんだよ。体よくサボりやがって」
「そんな先生、そんな風に言わなくても。ていうか僕のことなんてすっかり忘れていたなら、この仕事に僕なんて必要なかったんじゃないですか」
「うるさいねえ、若い男がいつまでもうだうだ言ってんじゃないよ。女の腐ったような男だねえ」
「はは」
祐平は愛想笑いをひとつくれてやった。
再び営業所に戻り、宅配物を詰め込み直す。
「さすがに荷物は減るんだねえ」
思えば梨田を捨てたあとに一度戻ったとき、所長も誰も、梨田に気がつかなかった。
せっせと三人で積み荷を整理していると、所長がニコニコした顔で祐平に近づいてきた。
「どう?、問題ない?」
所長はそっと祐平に耳打ちした。
一瞬犯罪者の顔やジュディの怒り顔がスライドショーみたく頭をよぎった祐平だったが、
「なにもありません」
と、答えた。
ジュディが、喧嘩のことはさておき、自分が指名手配犯を見逃したことを所長に告げ口したら、いや、エッセイかなにかに書いたら、一体おれはどうなるのだろう。
そう考えて祐平は多少不安になったが、忙しさの前に不安など対岸の火事だった。
再度担当エリアに行き、最後の勝負が始まった。
一筆書きクイズをさらさらと解くみたく、祐平はいつものようにエリアを回った。
8時過ぎにちょっとした事件が起こった。
「怒られちゃったよ」
宅配からトラックに戻ったジュディがぽつりと言った。
「どうしたんですか?」
祐平は覗き込むようにしてジュディに訊いた。ジュディの心配をしているのではない。なにか問題があれば、自分が尻を吹かなければならないからだ。
「今持ってった荷物さ、今日じゃない日に日時指定されてたんだよ」
「ああ、すいません。見逃してしまいました」
「いいんだけどさ」
「先方はなんと?」
「いやね、それがまたその指定日がクリスマスイブでさ」
「ああ、プレゼントか」
「そうなのよ。こんなに早く持ってきてもらっても困るってさ。こっちはちゃんと指定したぞと。ま、受け取ったこた受け取ったんだけどね。あたし初めて言ったよ。すいませんバイトなもんでって」
「えっと、時田さんか。猛烈に怒ってました?」
「どうだろねえ、クレームくるかも。そうしたらどうなるの?」
「所長か僕か他のドライバーが謝りに行きます」
「悪いねえ」
「いえ、よくあることですし、僕が凡ミスしなければ良かった話ですから。ま、次行きましょう」
「しかし、クリスマスの荷物って大変ね。緊張するでしょ」
「ええ、特に時間指定された荷物は普段の荷物に増して緊張しますね。またイブの日の夜中って時間指定宅配が多いんですよ。お歳暮とかは減ってるんですけど。間違えたら先方の思い出作り失敗に繋がりますからね。烈火のごとく怒られます」
「怒られますっていうことは、よく間に合わないんだ」
「ここだけの話、必ずと言っていいほどあぶれます」
「へえ、ケーキとかもあんの?」
「ああ、もう最悪ですね。さすがに他より優先しますから遅配はしませんけど」
祐平とジュディがトラックの外で話していると、梨田が突然、
「あ、高窪さん大変です!」
とトラックから声を張り上げた。
びっくりして駆けつけると、
「高窪さん。カニが、カニが動きません!」
と、梨田が発泡スチロールの箱を抱え、耳を当てながら言った。
「は?」
祐平は梨田が言う事態が飲み込めなかった。
「カニが、さっきまでガサゴソ動いていたカニが死にました」
梨田はひとり慌てふためいていた。
「カニ、ですか」
「さっきまではガサゴソと音を出していたカニが、カニのトリノが。あ、このカニのことをトリノと名付けて可愛がっていたんですが、動きを止めました!」
「あの、梨田さん」
「はい?」
そう言って梨田は発泡スチロールの箱を振った。
「あ、振らないでください」
「しかし、生きたまま運ばなくては」
「あの、梨田さん。カニは、カニはたぶん紐でがんじがらめにされてて、もとから動くはずがないと思うのですが」
祐平は未だ事態が飲み込めなかった。
「しかし、高窪さん。先生!」
「なによ。あたしはあんたの母親じゃないんだよ」
「カニが」
「聞いてたよ。あんた麻薬かなんかやってんの?」
「幻聴じゃないですよ!」
そう言ってまた梨田は箱を振った。
「だから振らないでくださいって」
「高窪さんが、活きガニを冷蔵庫に入れなかったからですよ!」
「は!?僕のせい!?」
突然わいた責任論に祐平は驚いた。
「大丈夫だって、冬だから荷台に置いといても大丈夫だって」
冬の場合、要冷蔵荷物を一般の宅配物同様にして荷台に置くことなどいつものことだ。その結果客から文句を言われたことなどない。そもそも梨田は冷蔵庫と言ったが、冷凍庫だ。
「落ち着いてください梨田さん、仮に死んでたとしても、まあ大丈夫ですよ」
「僕の言ってることはそんなことじゃないんですよ!」
(ええ!?、情緒不安定かお前。)
「ちょっとあんた、さっきから聞いてりゃ意味の通らないこと言って」
ジュディが説教を始めようとしたとき、また振ろうとして手を滑らした梨田がカニ箱を落とした。
「あ、梨田さんいい加減に」
祐平はようやく叱ろうとしたが、その前に梨田が、
「あ、ああ、トリノの箱に、穴が」
と言ったからそれどころではなくなった。
祐平は梨田から箱を奪いとると、穴をチェックした。穴は発泡スチロールの性質からして、ハサミを刺したような細く小さな穴だったが、その穴の内側からなにか尖ったものが出っ張っていた。カニの爪の先端だ。祐平は引っ込めようとしたが、発泡スチロールの性質からしてなかなか中に引っ込めることはできなかった。
梨田がなにかわめいている横で、なかったことにしようと穴を揉んでいると、発泡スチロールが傷んだのかトリノが死に物狂いの力を発揮したのか、ずばっと、爪のハサミを露出させた。
「げ」
「生きてた!、ほら、グーパーしてるトリノ!」
「あんた!」
情緒不安定の梨田の頬をジュディが思いきり殴りつけた。グーで一発、返す刀でパーの二連撃だ。いみじくも、グーパー。人は聞き流してしまいそうな言葉ほど、それに支配されるものだ。
毛蟹のトリノが爪でせき止めてこそいるが、この穴の大きさならば中のおがくずが漏れだしてくるには充分だった。
しょうがない。
爪が折れていないことを確認するとその様子をデジカメにおさめ、なんとか爪を内側に引っ込めた祐平は養生テープでカニ箱を一回りさせた。
「ごめんなさい」
ジュディに殴られ放心状態の梨田をよそにして、ジュディが頭を下げた。
「はは」
祐平はとりあえず笑うと冷静さを取り戻し、
「大丈夫ですよ。ほら、カニの脚が自由になってたでしょ?。これは僕らのミスではなくて、配送元のミスですから。ま、ここのお客さんは優しいし、そのことを説明して謝れば問題にはなりませんよ、たぶん」
祐平の言った通り特に問題はなく、ジュディに殴られて梨田も理性を取り戻した、10時前、電話攻勢と最後に不在宅をうかがう。その頃にはもうジュディは、不在かどうかを確かめるため、他人の家電気メーターやポストを確認するのが使命感が罪悪感を上回り、板に付いてきた。
10時を過ぎれば、ようやっと長い1日も終わりだ。
疲れと安堵からくる乾いた車内の空気。
営業所に着き、ジュディは今日の宅配件数を提出して、所長と話をしだした。祐平にはまだ残務処理や明日のための荷分け、祐平は次の日休みだが勿論やる、等やることは色々あるが、この時間は少しまったりとする。遅い夕飯も食べる。
ジュディが帰る段になったとき、別れの挨拶を済ますと、祐平はジュディに呼び出された。そこは誰もいない、営業所の便所の裏だった。
「今日は色々と迷惑をかけました」
ぺこりとジュディは頭を下げた。
慌てて祐平が「こちらこそ申し訳ありませんでした」と土下座をする勢いで頭を下げた。
顔を上げたジュディは小さく笑うと、
「なんだかんだ、今日は楽しかったわ」
「はあ」
祐平がそう言うと、ふたりはただ見つめ合った。
ジュディが祐平に握手を求めると、なぜかふたりの体は密着した。そして再び見つめあうと、ふたりは何も考えず、口を寄せた。
ジュディの唇は寒い冬のきらきら星が瞬く夜空を背景に人工の光が差す便所裏のもと、とろけるように柔らかく熱かったが、いかんせんアンモニア臭いのと、タバコと唾液の匂いと加齢臭がきつかった。
ふたりが離れると、唇と唇の間に糸が引き、白色灯の中それは地獄を照らす極楽浄土の光のように一筋きらきらと輝いた。
そしてふたりは無言のまま別れた。
ちなみに、この様子を便所のガラス越しに克明がばっちりと目撃していたが、克明は、祐平をおちょくるには荷が重すぎるこの「家政婦は見」てしまった衝撃的な状況に、友の秘密を終生、公にすることなく、墓場まで持っていくと決め、ひとりうなずいた。なかなか男気のあるやつなのだ土居克明という男は。
続