からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -80ページ目

宅配屋と喫茶店(17)

年中無休の販売店があるならば、年中無休の宅配便、従来なら独り身の祐平など、真っ先に正月休み返上候補なのだが、今回は違った。元日から三連休だ。これは12月終盤、クリスマス以降無休で働いたことによる。
マスター夫婦とは、兄と再会したあの日以来会っていない。忘年の挨拶はできなかった。

祐平は元日は家にひきこもり、これはマスター家族への気遣いと意を決せなかったことと泥沼に横たわるように惰眠をむさぼったことによる、2日の午後、初詣へと出かけたマスター夫婦が帰ってきて喫茶店内に入っていったのを確認すると、意を決して喫茶店のドアを開けた。
カランコロン。鈴の音は乾いた空気のなか静かに静寂を切り裂いた。



「お前ほんとに知らないのか?」
「知らないけど」
兄は、はあ、とため息をついた。
「ふうん、へんてこりんな偶然もあるもんだ」
兄はベッドに腰掛けると、マスター夫婦のことを語り始めた。

「あのころは、まだお前が幼稚園行ったか行ってないかぐらいのころか、おれはもう小学生になってたからな。はっきり覚えてる。お前さ、うちの工場の隣に居酒屋があったこと覚えてないか?」
「今、床屋になってる方でしょ?。写真でみたような」
「まあ、それが原口さんの店だったんだけど」
「あ、やっぱり。なんつうか、あっさり言うね」
祐平は兄の手前感情を押し殺しているが、相応のショックを受けていた。
「飲食店って出た時点で隠しきれないだろ」
「まあ」
「おれはかわいがってもらってさ、ちょくちょく何か食わせてもらったり、おやつにチキンライス作ってもらったりしてたんだけど、ああおれ“達”にな。それがおれが小学生のころ、原口さん引っ越して、というか、実家に、ここに帰ってな。原口さんの親父さんが亡くなったと聞いたな」
「ああ」
祐平はじっとしていられず、兄のために粗茶でも出そうと、キッチンに引っ込んだ。引っ込んだといっても、間仕切りはないので、引っ込めてはいないが。
「…………」
「で?、そんで?」
「いや、まあそれだけっちゃそれだけかな」
「…あっそう」
「お前ほんとに知らなかったのか?、聞いてない?」
「うーん、原口さんの方はどうなのさ?」
「お前がお前だということは知ってたよ」
「…そう。聞いてないけど」
「そうか」
「うーん、やけにかわいがってくれるなとは感じていだけど。そういうことだったのか」
「…ところでよ。お前正月どうすんだ?」
この話題は嫌だなと祐平は思った。
「仕事だよ。たぶん」
祐平はコーヒーに砂糖をたっぷりいれて兄に渡した。
「ふうん、仕事か」
そう言って兄はコーヒーに口をつけると、アチ、と言った。草津湯揉みのようにスプーンでコーヒーの温度を下げると、飲み、
「甘いな。砂糖いれただろ」
と言った。
「えっ、いれるでしょ?」
祐平の記憶では、兄はブラックコーヒーが飲めなかったはずだ。
「月日は流れてるんだよ。今はもっぱらブラックだ」
「へえ」
「月日が流れてると言えばよ。お前たまには家に顔出せよ」
「…………」
「嫌か?、まあ嫌だろうけど」
「別に、嫌ってわけじゃないけど」
「まあ、とりあえず落ち着けよ。少なくともおれは今日はじめてお前の大家さんが原口さんだと知ったし、それを二親から聞いたこともない。たぶん、知らない。いや知らなかったと思う。ま、今はもう後の祭りだけどな」
「…そう」
「月日が流れるといやあさ、親父もだいぶ変わったよ。お前が出てったときとは随分違う」
そんなことあるわけないだろう、と、祐平は思った。三つ子の魂百まで、あの人の嫌いな部分はあの人の根っこの部分だ。
「仕事の方も、あのころは、お前が知ってるかどうか知らねえが、潰れるかどうかの瀬戸際だったが」
「知ってるよ」
「そうか。今はまあ、半分隠居したような具合に、忙しくもなくかといって潰れるようなこともなく、安定してるようだ」
これ以上聞きたくないなと、祐平は思った。
「ふうん」
「なあ、たまには帰れよ。あれなんだよ。親戚とかと会ってお前の話題がでると雰囲気悪くなんだよ。はは」
「まあそりゃね」
「おっと、まあ言いたいことはそれだけだ。じゃあ、行くわ」
「そう」
「考えとけよ。ああ、しばらくは引っ越すなよ」
「……」
「おいおい、なんだその沈黙は。また逃げるのか?」
「早く仕事に戻りなよ。おれだって月日が流れて、それなりに成長してんだよ」
「そうか。悪いな。ごちそうさん。ああ、原口さんとこ寄ってくけど、お前は、ま、来なくていいぞ。おれにはおれの積もる話があるからな」
「わかった」
「なんか伝えておくことはあるか?」
「誰に?」
「誰にでもだ」
「特にない」
「そうか。じゃあな。もう病院に運ばれるなんて心配かけんじゃねえぞ」
「これはしかし」
「はは、じゃあな。おれにはたまに電話しろよな」
「わかった」

兄が帰り、ひとり部屋に残った祐平は、ひとりになってようやく親父の呪縛から逃れサンクチュアリを築いたのに、まるで観音様の手のひらの上で滑稽に踊る孫悟空のような、聖域だと思っていたこの地が実は監視カメラ付きの呪縛が続く牢獄であった“事実”に、情けなくなり、またやり場のない怒りを感じ、祐平の無機質とさえいえるペンペン草一本生えていない厭世的な精神は静かに瓦解の兆しを残した。
それなりに成長したと祐平は言ったが、すぐにこの場から逃げ出して、カンガルーだったならばすぐさま母カンガルーの袋の中にとじこもりたいところだが、母カンガルーにあたる実家が問題なのだからそれはできない。

カランコロンカラン。鈴の音は来訪者を主に告げる。
「よう、久しぶりだな」
「こんにちは。あっと、旧年中は多大なる」
「いいんだよ、そんなかしこまったのは。正月だ新年だと世間は言ってるが、んなもんお前、数字の問題でよ。お天道様は365日変わりなく大地を照らしてるってのに、初日の出だなんだってまったく」
「ちょっとあんた、新年早々話がくどいよ」
「はは」
祐平は不安をひた隠し、精一杯普段通りの表情をつくっている。
「そんで、なんだい?。どうした?」
マスターはいつになく、会話がぎこちなかった。
「どうしたじゃないでしょ。そうだ、お雑煮食べていきなよ。食べてないでしょ?」
「はい。あっでも、ひょっとして、また辛いんですか?」
「ははあ、あんなもん年明けから食わされたら大凶もんだな」
「あんた!」
「はは」
奥さんは小さな体を独楽鼠のようにパタパタとフル回転させ、初詣から帰ってきた荷物を下げ、雑煮の温め直しにかかった。祐平は、アツアツで出されたら辛いな、と思った。

「忙しそうだな」
「あ、はい。ちょっと去年の終わりに同僚が体調を崩しましてね。休みがなくなっちゃって。その分明日も休みなんですけど」
嘘だった。クリスマス以降の休みのだった2日を、普段通りに朝早く部屋をでて、リストラされたサラリーマンのように公園でボーっとしてたりして時間を潰していた。マスター達に会いたくなかったからだ。金はそこそこ持っているのだから何らかの遊びに講じればいいものだが、いかんせん祐平は変なところでリンショク家だ。中学高校時代に友達とゲームセンターに行っても、ただ友達のプレイしている画面を見ているだけだった。ゲームセンターのゲームに金をつぎ込む価値はないと判断していたからだ。そんな祐平だから、未知の、楽しいか楽しくないかわからない遊びに金をつぎ込むことはしなかった。つまらない男だ。思えば、女性とデートをしたときも、知らず知らずなるべく金を使わない方向に持っていく。そうして、いつしか会話もなくなり、つまらない男だとふられる。祐平の乗っているビッグスクーターにしても、朝迎えに行くことがあるからこれにしたんだと、克明に決して少なくない金を出させている。器の小さいおちょこだ、もとい、誰も電話にで…もとい、男だ。
「そいつぁ災難だな」
「まあ、仕事自体は楽でしたから」
しばしの沈黙が三人の間に流れた。祐平は会話をネコとタチ、すなわち攻めと受けに分けると、受けで、相手の話したことから話を広げていくタイプだった。そしてマスター夫妻は職業柄か、攻めを担当していたが、この日はどうやらそうもいかない事情があるらしい。言うまでもなく、祐平が自分達をどう思っているのか、だ。
「あれ?、娘さんは帰っちゃったんですか?」
祐平は追い詰められた鼠のように、話し出した。
「ああ、あいつは帰ってきやしないよ。息子もあれよ。正月旅行だってんで友達とどっか行きやがってな。ったく、正月ぐれえは親に顔みせろってんだ」
「ちょっとあんた」
「おっ」
気まずい雰囲気がより一層気まずくなり、祐平は笑うしかなかった。
奥さんが温め直した雑煮は、もちろん江戸風の鶏とほうれん草とかまぼこ、そして餅が入った醤油ダシのものだった。味は祐平の実家の雑煮と同じだった。
アツアツの雑煮を少しずつワインのテイスティングのように口のなかで転がし、冷ましながら食す。熱さ、は口内において主に舌の先端部で感知している。そこにあてないよう転がすのだ。行儀が悪いが、当然、それを表に出さず祐平はやってのける。
「うまいか?」
「はい、相変わらずおいしいです」
「相変わらずってのは、言うねまったく」
「はは」
「そうだな」
「は?」
「子供が正月に帰ってこないといや、祐平君は帰らねえのかい?」
「ちょっと」
奥さんが口を出したが、祐平とマスターが同時に奥さんを軽く手で制した。
「今年は帰る予定ないですね」
「そうか、ま、祐平君はおれ達が…まあ親父さんと知り合いだってのはもう知ってるんだろ?」
「ああ、はい。びっくりしましたよ。言ってくれりゃいいのに」
と言って、祐平は、なぜマスターはそのことを言わなかったのかを考え、それは自分が親と折り合いが悪いことをマスターが知っていたからだと考え至った。知らなかったのは自分だけだ。バカみたいじゃないか、アホ面こいて間者ふたりの世話になっていたなんて。祐平はイライラが湧いてきてることに気がついた。どうも最近、自分らしくなく、イライラする。
「いつから知ってたんですか?、僕が昔隣にいた子供だと」
「不動産会社の紹介で、初めて会った時は気がつかなかったな。まさか、だろ?。こんな偶然ないぜ。不動産会社からもらった資料の住所も、知ってる住所と違うっつうしな」
「はあ、ここに来る前に一回他を挟みましたからね」
「でもよ、実際会って、話してると、なんだか懐かしいんだよな。子供のころに会ったような」
「なるほど」
「違うよ。祐平君のことしゃないよ」
「あんた」
「いいんだいいんだ。別に隠すことじゃねえ。今までは訊かれなかっただけで、訊かれたら全部話すと決めてたんだから」
「はあ」
祐平はマスターの口振りに、ひどく不安になった。相変わらずイライラをつのらせながら。
「あれよ。最初に気づいたのは祐平君があのときの子供だってんじゃなくて、いっちゃん、つまり親父さんと、姿形はまるで違うんだが、雰囲気というか癖ていか、そういうのが親父さんとそっくりだったからだよ」
「親父と、僕がですか!?」
ダン、と祐平はテーブルを叩いた。叩いてから祐平は、しまった、と思ったが、覆水は盆にかえらない。
「そっくりだよ。あいつとの付き合いはガキのころからになるが」
「ガキ…の…」
「おう、幼なじみってやつなんだよいっちゃんとは。まあ、違いがあるとすりゃ動と静というやつか。でも心の内ってやつあほんとそっくりだ。そういうとこもなあ。自分の思い通りにいかないことがあると、あいつもイライラしてきてな、そうなる」
祐平は泣きたくなった。あれほど忌み嫌っていた父親と自分が、幼なじみの確かな目により、そっくりだと断じられたのだから。それは自分でも、父親の呪縛から距離をおいたことにより薄々感づいていたことだが、今までそれを感じる度に必死に否定して、父親とは違う性格にならなければと、つくろってきたことだった。
受け入れ難い現実は、祐平のほころびかけた精神に大きくハサミをいれた。
祐平は熱くなる頬を感じながら、狂ってしまう、と思った。




へんけい

ほんとさ、どうかしてるよ。
ニュースみちゃうとおれはダメになる。まったく、やってられないよ。
殺人事件なんか特にダメだ。だってさ、いつもいつも、それはおれがやったんじゃないかって思っちゃってさ、自分が起こしたわけはないのにね、それを理解はしてるけど、でもどうしても、つらい。不安にさいなまれる。犯人はおれなんじゃないか犯人はおれなんじゃないか犯人はおれなんじゃないか。不安になって、グルグルになって、ダメになる。
整形野郎の事件なんかどんぴしゃで頭グルグルにハマった過去がある。某野郎は実はおれなんじゃないかってさ。おれがやったんじゃないかって、ばかみたいだよ。町を歩けば不必要にビクビクしてさ。逃げなきゃって、ばかだよ。おれじゃないってNHKのニュースでもやってるのに。NHKのニュースでさ。おれじゃないのに、おれがやったんじゃないかって、思っちゃってさ。だからなるべくニュースは、特に殺人事件のニュースはみないようにしてるんだけど、


すごいよね、デブ女さん。容姿を逆手に取りましたよね。盲点つかれましたって感じ。さすがにあれはおれじゃない。おれは安心してテレビをつけて、AVをみるんだ。ていうかおれのテレビはもとからAV専用モニターなんだ。

うん、ちょっと楽になった気がするよ。楽になるってことは、気分がよくなるってことなんだ。

宅配屋と喫茶店(16)

町にクリスマスがやってきた。街では小便臭いミニスカサンタが疲れた人々に一夜の現実を金にかえているが、どれもこれも、祐平には関係ない。
「今日はクリスマスっつうもんじゃらほい、もんじゃけわっせ」
そんな、下町のクリスマス。
とはいえ、Dでは、土地が都内では比較的安いため、若者夫婦が多く、外面は結構な盛り上がりを見せている。街路樹を彩るイルミネーションも、ある。ピカピカと青白く光ってきれいだ。
祐平はただ、いくつかある、プレゼントをミニスカサンタの代わりに人々へ届けるのみ、そういうクリスマス。プレゼントの受け取りにはハンコかサインが必須だ。クリスマスだからといって、特に何かあるわけではない祐平。振り返れば高窪祐平は、クリスマスパーティーというものに参加したことがない。子供のころからずっとだ。強いて言えば、今日の特製サンドイッチの具が、昨夜の帰り道で、多少酒に酔った際の戯れに買った、生クリームとミカンの缶詰めであるということだけだ。それを作りながら祐平は、「胃がイガイガしそうだな」、と、しょうもないことを思った。

朝、克明をひろった時は、特に普段と違う会話をしなかったが、昨日会った沖田とは昨日のことを話した。それもお互い時間に追われながらのわずかな一時だが。

「昨日はすいませんでした」
「いや、楽しかったよ。それより、そっちは山下ジュディと何を話したの?」
「何っていう何かを話したわけじゃないんですけど」
「大体さ、ジュディはなんでおれ達をつけまわしてるんだろうか?」
井戸端会議に花を咲かせるわけにはいかないので、祐平は次々と沖田に質問を浴びせた。沖田の返答から何か考えるのは、今でなくていい。
「それは、後学のため、とかなんとか言ってましたよ」
「おれの悪口言ってなかった?」
「はは、いえ、特に」
「梨田君は元気だった?」
「梨田?」
「ほら、ジュディにひっついてる老け顔の」
そう言いながら祐平は、このかわいい顔した沖田とあの梨田が同い年だと今わかり、ちょっと吹き出したが、沖田はそれを変な咳をする人だと思った。
「ごめん、梨田君ってほら」
「いや、梨田なんて人はいませんでしたよ」
「へえ」
まあそんなこともあるよな、と祐平はシンプルに思った。
「それどころか、ふたりきりでしたから」
「えっ」
祐平はそれを聞いて驚いたが、まあそんなこともあるよな、とシンプルに受け止めた。
「それもそうなんですが、ちょっと僕風邪気味になっちゃって。ほら、僕、昨日髪の毛乾ききってないままに外に出たから」
祐平と沖田の間では珍しく、沖田が会話の舵をきった。
「ああ、大丈夫?。ごめんね、おれがちょっかい出しに行ったばかりに」
「いえ、高窪さんのせいだなんてそんな」
「はは」
「強いて言って、誰かのせいにするというなら、僕はひとり適任者を知っていますし」
「土居さんなあ。あの人はほんと、よく言えば裏表ないよなあ」
柳に風、といった思考状態では、それた話の道筋を正すことなどできない。
「そうですね。…悪く言うとなんですかね?」
この時ふたりは、宅配物を整理するカゴの陰に隠れて会話を盗み聞きしている克明に気がついた。
「…人間の屑かな」
「おい!」
ここぞとばかりに克明が物陰からでてきた。
「人が聞いてないと思ってムチャクチャ言いやがって。おまえらの精神を疑うわ」
「人の話を盗み聞きしてたあんたに言われたくないですよ」
祐平はニヤリとして言った。
「言うにことかいて人間の屑とはなんだ屑とは」
「屑とは、まあ平たく言やあ、ゴミのことですね」
「そうそう、ゴミね。ちょっと粋な店だとゴミ箱の名札に“美を護る”と書いて護美箱だと書かれていたりってコラ。屑の説明はいいんだよ」
「うわあ、おれ、一般人がノリツッコミしてるとこ初めて見ましたよ」
「えっ、そう?」
「はい、残念です」
「初めての経験がおれだから!?」
「とても残念です」
「そう、ごめんね。なんかごめん」
「ほんと克明さんって人の役に立たない屑だなあ」
「おいおい、人のことを指して屑とはなんだ屑とは」
「屑っていうのは、まあ平たく言えば」
同じやりとりを延々と五回ほど繰り返していたら、気がついた時には時間が差し迫っていた。
こんなことをしている場合ではない。気がついた三人はいそいそと作業に戻った。

途中から克明がわいて出たこともあり、いまいち、祐平にはジュディの行動理念がわからないままだ。キスの件にしても、祐平はジュディに“させられた”と思うようになっていた。

クリスマスイブ頃にもなれば、宅配物の総量は繁忙期の最盛期よりもグンと減る。それでも普段よりは多いのだが、もうさばききれないといったことはない。
こうなってくると、祐平達には臨時ドライバー達より少し早く、若干、時間的余裕ができる。宅配個数がバイト代に繋がる臨時ドライバー達のために、自分の宅配物を減らして向こうに、宅配個数が減らないよう、多く任せるからだ。
クリスマスが終わると、在宅率が格段に上がるということもあり、繁忙期の嵐のような忙しない日常が通り過ぎ、一気に暇とも言える状況になる。具体的に言えば、昼食を車内で取らなくても大丈夫な状況になる。
以降の日々は、29日まで契約しているバイト達に宅配物を工面するのがやっととなるほどだ。
そういった事情からくる祐平の油断からか、この日、最後の山場に、ほんの些細な事件が起こった。

午後7時、ついに本格的に始まった日時と時間が指定された色とりどりの包装にくるまれた宅配物を祐平が慎重に配っていると、沖田から電話がかかってきた。

「すいません。おそらくですが、バッテリーあがりました」
「OK、わかった」

これはしようがないことなので、サンタとしての意気を折られはしたがもちろん祐平は怒らない。すぐさま沖田のもとに向かう。沖田は中央ハイツの駐車場にいた。
「よし、じゃあ今日はエンジンを切らないでね。なんかあったら連絡して」
軽バンの後部にあるバッテリーを復活させた祐平は、その鼻に、ほのかに香るキンとする香ばしい匂いを感じていた。
(一体この匂いはなんだろう。)
気にはなったが、頭にその匂いのもとが思い浮かばなかった。
沖田が頭を下げながら車を発進させようとして、すぐにまた車から降りた。降りてきた沖田は、さっきの申し訳ないといった表情よりも、青い顔をしていた。
「どうした?、動かない?」
祐平が沖田に訊くと、沖田は、
「動きます。でも、車内が異様に酒臭いです」
と、答えた。
祐平はさっき鼻に感じた匂いのもとに納得がいくと同時に、車内で何が起こっているのかもすぐにわかった。
車内で宅配物である酒瓶が割れているのだ。
その酒瓶は移動の際の負荷によるものか、缶ジュースがたっぷり詰まったお歳暮と床の間に挟まっていて、濡れていた。
「うわあ、やっちゃってんなこりゃ」
「すいませんすいません」
この世の終わりみたいな表情で平謝りに頭を下げる沖田。沖田がこのバイトを始めてから初めての宅配物欠損だった。しかし、祐平にとってみれば、さすがに酒瓶が割れることは初めてだったが、物にならないほどの欠損自体はよくあることだった。
その中身が漏れている宅配物を取り出し、周りの宅配物に被害という被害がないことを確認すると、祐平は沖田に、
「酒臭いなあ。飲酒運転になんのかなこれ」
と、軽口を言った。沖田はただ、すいません、と応えるのみだったが。
「不幸中の幸いだよ。ほら、これカタログギフトのやつだ。よかったじゃん。これがクリスマスに飲む大切なシャンパンだなんだってなってたらめんどくさかったけどね。これならどうとでもなるから」
「すいません」
「いいよいいよ」
「これはその、どうなるんですか?」
「ああ、これはね、お客さんに後日同じ商品をお届けする、まあ言っちゃえばそれだけだから」
「すいません」
「いいよいいよ。よくあることなんだから。去年のバイトさんなんか車の屋根に荷物置いたまま発進しちゃってさ。交差点で荷物飛ばしちゃってそれが散歩中の犬にぶつかってね。でもバイトさんはそれに気がつかないで行っちゃって、警察沙汰になったんだから。それに比べたらこんなもの、気にするこたないよ。沖田君は気にせずにさ、いつも通りに仕事を続けて。あ、エンジンは切らないでね」
「はい、すいません」
「あ、あと、寒いだろうけど、酒の匂いがなくなるまでは一応窓を開けといてね」
「はい、お手数おかけして、すいませんでした」
「いいっていいって、ああそうだ、一旦あっちに戻るから、いくつか荷物引き受けてくれない?」
「そんなことでしたらいくらでも」
「はは、受け取りの扱いはそっち持ちでいいからさ」
「すいません。ありがとうございます」
「じゃあ、がんばってね」
「はい、すいません」

といった、後日談もない本当に些細な事件だった。そして、この日はこれだけだ。他に何かあったかと云えば、例の指名手配犯“らしき”家に、あの日以来再度訪れ、何食わぬ顔をしてサインをもらっただけだ。だけだ。

イブからクリスマスになるその瞬間、祐平は営業所にいた。沖田達バイトはもう帰っている。
残務を処理していると所長からクリスマスケーキの差し入れがあった。こんなことは初めてだ。わけを訊けば、やはりジュディの差し金だった。
その時、ジュディから祐平にと、祐平は所長から手紙を渡された。
内容は杓子定規の、決まりきったお礼状だった。
その薄い撫子色の便箋に書かれた文字は、ニコチンにやられたミミズみたくのたうち回った解読にコツを要する字で、祐平は苦笑いを浮かべた。

沖田の契約最終日、祐平はセンター長に言われた通り、沖田に「この仕事を続けるつもりはないか」と訊いた。
沖田は、「すいません、それは考えていません」と、それをはっきり拒み、祐平は苦笑いを浮かべた。
天皇誕生日の休み以来、喫茶店が正月休みになったこともあり、マスター夫婦とはすれ違いの日々だった。祐平はそれを少し嬉しく思っていたが、正月に会わないわけにはいかなかった。





宅配屋と喫茶店(15)

「え?、なにそれ、どういうこと?」
祐平はふたりに、素直に疑問をぶつけた。答えたのは克明だった。
「それがさ、なあ、こいつ、あのおばちゃん好きになっちゃって」
適当に、祐平と沖田、どちらもからかおうとして克明は胸に失敗の二文字を刻んだ。
ついつい無意識に克明は祐平とジュディの関係を揶揄してしまったと思ったからだ。
「そんなことあるわけないじゃないですか」
沖田が克明を小突いた。
祐平は克明が思っているような気持ちにはなっていない。克明に秘め事の現場を見られていたなんて思いもしなかったからだ。なので、ひとりてんてこまいの克明だ。
「まあ、そりゃそうだ。なんせおばちゃんだしな。熟熟じゃねえか。それに所長のお姉さんだし、まったく」
克明は取りつくろうとしてジュディを卑下したが、それは、克明の中では、祐平をバカにしていることと同じだった。ちらりと祐平を見ると、祐平はうっすらと自虐的な笑みを浮かべているように、克明は見えた。
「とまあ、だけど、ちんちくりんだし、髪の毛赤いし、年の割にはきれいなんじゃないかな。才能も、あるんだろ?、おれは知らねえが、うん。才色兼備の美、美熟女ってところか。それになんせ金を持ってる。働かなくていいし、結婚して離婚した暁には財産分与でがっぽりだぜ」
克明は自分でも何を言っているのかてんやわんやだ。
「確かに逆玉ではあるけど、土居さん、さっきからなんか変ですね」
祐平にそう言われ、克明は、てめえが言うんじゃねえ、と思った。
「土居さん、ひょっとして、あの人のことが」
沖田が祐平に同調した。
「バ、バカ言ってんじゃねえ」おれは祐平を思って………。
「なるほど道理で土居さんに女っ気がないわけだ。僕らとは見ている世界が違ったんだな。ホモではなく熟専だったわけだ」
「なるほど、高窪さん。長年の疑問が晴れた気がします」
「おいお前ら、やめろ。違うわ。ババア抱くぐらいなら若い男抱くわって違うよ!違う!断じて違う!」
「バイ、か」
「バイ、ですね」
「違うよ!やめろ!」
「あれかな、おれが思うに土居さんは、精神の本質では女なんだけど、そこんところがレズなんじゃないかな」
「ああ、オナベのホモみたいな感じですか」
「そうそう、ほんとは精神と体が一致してないんだけど、不一致なんだけど、たまたまもうひとつ不一致があって、うまい具合に性の歯車がからからと小気味よい音をたてて回り、その結果バイだと」
「高窪さん、では土居さんはどっちなんですかね?」
「ああ、ボルトとナットのことでしょ?、凸と凹の関係ね。ナットだったら、嫌だなあ」
「ひきますねそれは」
「勝手なことで盛り上がってんじゃねえ!。なんだよお前はナットだって!。納得いかねえよ!」
「うわ出た。土居“ナット”克明のナットギャグ」
「ははは」
「ナットギャグってなんだよ!。つい言っちゃった事故だよ!」
「他にはどんなナットギャグがあるんですか?」
「他に!?、…………抜き差しならない状況で♪ボルトでぐるぐるぐるぐるかき回されて♪ネバネバネバネバボルトとナットが糸をひく♪これはおれのナットの話じゃなくて納豆の話だぜ♪」
……………。
「………調子に乗りやがったこいつ」
「調子に乗ったってお前!お前がやらせたんだろ!」
「土居さんって簡単に生き恥をさらすんですね」
「生き恥ってお前な!。好きでやったんじゃねえよおれは!」
「好きでやったんじゃない。では、好きでやったらどうなるんですか?」
「それはね、ナットナットってお前!。好きでやらないよ!おれ好きでナットギャグなんかやらないよ!。つうかナットギャグってなんだよ!」
「怖い。怖いわ。土居“バカ”克明」
「もはや通り名がバカになっちゃったよね!?」
「土居“土居克明”土居」
「沖田お前のは意味わかんねえよ!。土居って三回言ってるしな!。土居で挟むなよ!。ひっくり返っちゃうだろオセロみたく」
「また調子に乗った」
「なんかごめんね!。今のは確かに調子に乗ったわ」
「うわ、今沖田君の聞いて土居さんの顔の真ん中から蝉が羽化するような光景が目に浮かんだわ」
「開かない!、ぱっくり開かないよ俺の顔は!」
「下半身はぱっくり開くのに!?」
「開くのに!?じゃねえよ!。開かないし!。おれはマトモだ!。あ、マトモっていうと本職の人に申し訳ないけども」
「なにその気づかい」
「やっぱり土居さんはそっちの住人なんですね」
「うるせえな!。沖田お前は早く行けよ!」
「ああ、そうでした。では高窪さん、失礼します。では」
「おれには!?、おれには別れの挨拶ないの!?」
「ああ」
「ああじゃねえよ!」
「では、えっと、汁男優さん、ゴチになりました」
「汁男優ってお前な!。…まあ払うよおれが」
「あ、じゃあ僕のも」
「お前は自分で払えよ!」
「えっ、体では払えませんよ?」
「当たり前だろ!、沖田ほんとに帰っちゃったし」
「はぁあ」
「はぁあ」


「あ、つい訊きそびれましたけど、沖田君って、あの、あのこと知ってるんですか?」
祐平は山下ジュディの謎をひけらかさないように慎重を期してそう言ったのだが、克明にはキス事件のことが思い浮かんだ。
「し、知るわけないだろ」
「えっ?、じゃあなんで沖田君はあの人と会うんですか?」
祐平の頭の中には大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
「なんでだって?」
克明の頭の中には祐平のマニアックな性癖が浮かんだ。
「お前、そんなのが好きなの?」
「は?」
「へ?」
「なんですか?」
「いや、その、スワップ的な」
「はあ?」
「ああ、いやいやいやいや、知らないんですけど」
「はあ?、あの、何を言ってるのかさっぱりなんですけど」
「え?」
「………あの人の正体を沖田君が知っているのかってことですよ?」
「あ!、ああ、そっちね」
「そっち?」
「いやいや、なんでもない。おれがどうかしてた。あの人があの山下ジュディかどう」
「バカ!」
「ふたりきりの時にバカって言うな!。ごめんごめん。あの人があの人かどうかってことね」
「はい」
「さあ、知らねえ」
「……一回殴っていいですか?」
「冗談だよ。もちろん知ってるよ。びっくりしてたけどな」
「へえ、なんで沖田君が呼ばれたんですかね?」
「それはおれにもわかんない。あいつもわかんないって」
「自分で言うのもなんですけど、僕ならまだわかる話ですよね」
「まああんな仲になればな」
「あんな仲?」
「いや、一日中一緒にいたわけだし、今日休みだしさ。な。沖田はジュディに」
「バカか?」
「すまん。なんでも沖田はジュディが所長に頼んで今日休みになったって話だぜ」
「ああ、なるほど。だからか」
「はた迷惑な話だよな」
「大体ジュディはなんで」
「おい」
「へ?、大体ジュディは」
「おい!」
「は?、大体ジュディは」
「バカヤロー!」
「バカって言うなバカって!」
「お前、人のこと散々バカって言っておいてなんだそれは」
「だから大体ジュディは」
「バカヤロー!」
「バカって言うな!」
「なんなんだよもう」
「大体山下ジュディはどうして」
「もう山下ジュディって普通に言っちゃってるしさ。さっきまでのおれはなんだったんだよ」
「ああ、土居さんの顔を見てたらついついバカって口から漏れちゃって」
「そんな根本的な問題だったの!?。おれ指摘の類だと思ってたけど!?」
「どうしてジュディは僕らんとこに来たんですかね」
「いや、知らないけど」
「使えねえ奴だなあ」
「おかしい。おかしいよ。この短時間でおれのポジションがおかしくなっちゃったよ。大体っつうなら、お前はなんで今日ここにいるんだよ」
「ああ、せっかくの逢い引きの邪魔を」
「もうめんどくせえよ」
「言ったじゃないですか。暇だったからですよ。あ、これからどうします?」
「…これから?」
「大の男がこのままここでずっとこうしてるわけにはいかんでしょう」
「そっちな」
「そっち?」
「い、いや、なんでもない。じゃあこのあとどうする?」
「そっちってまさか、そんな恋人同士じゃないんですから」
「ホテル事情じゃねえよ!。めんどくせえ、めんどくせえよ!」
「これからの話もいいですけど、とりあえずここの会計は土居さん持ちですよね?」
「ああもうわかったよ、めんどくせえな」
「やった!。すいませーん!。チョコレートサンデーください!」
「女!。ステレオタイプの女のノリか!」


ふたりはそのあと、カラオケに行って、場の盛り上がりに気を遣うことなく、日頃のストレスを吐き出すように、思い思いの歌をがなりたててうたった。
夜が本格的に始まる前に、明日のことを思い、ふたりは解散に至った。

帰り際、恐る恐るマスター宅の玄関に目をやると、普段祐平が使う不在票と祐平の書き置きがドアに挟まったまま残っていた。日頃のクセで電気メーターの円盤の動きを目で追う。時間の割にゆっくり回る電気メーターは、やはり不在を意味していた。
祐平は書き置きを抜き取り、階段を昇った。
部屋の前に着き、ポッケから鍵を取りだそうと目線を下にずらすと、一枚のメモがドアの前に落ちていることに気がついた。
メモには奥さんの達筆で、今日は出かけるのでごめんなさい、との旨が書かれていた。どうやら朝に、きっと自分と同じように、ドアに挟んでいたらしい。
宅配屋である自分がそれに気がつかないとは、祐平は自虐的に笑った。





特にない

これが終わったらどうしよう、という不安感がある。一応、いつでも終わらせられる。でも、気がつけゃだらだらとまあ、長く長くなってる。

そもそもが、微笑シリーズから逃げるようにして始めたこれだ。長く長くしなきゃ意味がなかったのかもしれない。もう少し続いてしまう可能性がある。今はまるで微笑シリーズが思いつかないから。

ということは、あれは人気がまるでないので、当初予定していた「特になにもない」という基本方針のプロットにテコを入れなきゃなるまい。

テコ入れといや、バトルだ(!)。バトル。バトルは書いてて楽しいからね。ふたりのレスラーは出した。そして主人公は格闘技の経験も興味もないただの宅配屋だ。そしてそして、黒幕的な人物も、いる。あいつとあいつを裏切らせ、あいつとあいつがちょっとした宿命の対決を断崖絶壁でしている間、主人公は喫茶店でコーヒーを飲んでる。興味ないから。……………。


だらだら続けて来たけど、暇つぶしだから、もう少しで終わりそうなんだよね。終わったらどうしよう。