からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -4ページ目

勇者と段々崩壊していく世界

「馬をやめてからこの数日、悪くはなかった」
「おー、私の袋にしては殊勝なことを言うようになったもんだ」
「腹が膨れて動けない状態で、兵やポリスマンを相手にするのも、ずいぶん慣れたさ」
「そうだろうそうだろう。何事も慣れるものだ」
「真に命の危険を感じることはなかった数日だったといえる。だが、なぜ、おれはいま、雪山の中パンツ一丁でいるのだ?」
「人里を離れた、から?」
「回答になってねえぞクソババア!、家に帰ると同時に服を脱ぐタイプの人間でも、雪山の中で野営地についたら即半裸になるか!」
「服が欲しければ、私から奪え。動かなければこごえて死ぬが、無駄に汗をかいても服を着なければこごえて死ぬぞ」
「生きる選択肢を用意することを要求する!」
「しょうがないなあ。サービスだぞ。ほら」
「これ、は?」
「皮の手袋と、バタフライマスクだ」
ああ、危うく私たちも着けさせられるところをマリネが、姫のみ着けるほうがよりかっこいいのではないか、と機転をきかして回避したあれか。と、火を起こす用意をしながらカムラは思った。
「なにがサービスだこら!」
「さっそく装備しておいてなにを言う」
「くそ、せめて目出し帽なら力が湧いてくるものを」
「バカみたいなかっこでなにを言っているのだお前は」
「ちくしょう、さらばおれ!、死ねえ!」
遅い、と言いながら師匠は、襲いかかってきたマリネの足を払い、倒れさせると腹を踏みつけた。
「弱いなあ。国と戦うには足りないぞ」
「うるせえ。逃げればいい!、逃げながら戦う!」
腹に乗る師匠の足を、体を回転させてマリネは払いのけ、立ち上がった。
「半端な力しかもたないお前になにができる?、なにが逃げながら戦うだ。魔王にしてもお嬢の妹にしても、逃げる相手を追いつめるのが得意なことも察せないか?、フナムシはトッツクポーリから逃げられず、お前らは妹から逃がされたのだぞ。話にならん」
再び襲いきたマリネを、師匠は横に避けた。横に避けながら、腹に一撃を食らわしていたようだ。マリネはそのままの勢いでカムラの前まで歩を進めると、膝をついた。
同時に、師匠が空手を振った。振り終えた手には、ナイフが掴まれていた。
「それだ。お嬢は話がわかる」
「この怪人は」
「せめて変態といってくれ盗賊。そっちのほうが冗談で済むから」
「…私が守ります」
「…ありがとう。盗賊」
そうちいさく言うと、マリネは身を起こし、薪をみた。
「それでは私が火を起こすことにしましょう」
「いや、戦えよ」
カムラはマリネの背中をナイフで斬りつけた。
「うん?、なぜだか背中があったかい」
マリネはすでに寒さにより痛覚を失いはじめていた。
「血?、ナイフ?、…なにしやがるてめえ!、おれを斬るな!、守れよ!、言った言葉に責任をもて!」
「血止め草でも貼っておけバカ!、戦うぞ!」
「はあ、もう嫌になっちゃう」
マリネは袋の中から薬草を取り出し、ペタペタと背中に貼りつけた。
「ふふ、そうだ。お前らが逃げられぬほどの強い敵と戦えば、いくら守りをかためてもいずれ死ぬだけだ。マリネを先頭に立たせれば、お前らはなにもできずに負ける。時にはあえて、お嬢が捨て石にならなければならない」
「女に守られるのは癪だ」
「なにを今更。お前をずっと守ってきてやった女がここにいるじゃないか」
「てめえはどの口でそんなこと言えるんだ!、それにお前は女じゃねえ、人でもねえ、得体の知れない悪魔かなにかだ!」
「ほう、楽しくなってきたな。悪魔がどのように人を嬲るか、おしえてやろう」
「カムラ、攻撃の手を休めるな、しかばねはひろってやる」


「勇者殿、あなたには力がある。技はなくとも、力任せに剣をふれば、相手はひとたまりもないだろう」
「はい」
「ひとりで剣をふるっていたのだろう。斬撃のそれがいささか等身大の相手に向けられている癖があるが、それはたいしたことではない。如何せん、隙が多すぎるのだ。それでは剣があたらんし、反撃を受けてしまう。まずは足。足の運びを知ることだ。今のように、崩れた体勢を立て直すために二手をかけて間を開けていたら、反撃できませんぞ」
「はい」
「たとえば」
ギライアは片足を前に出すと、くるりと後ろを向いた。
「と、このように、後ろを向く動き。これをかかってくる相手の目の前で行えば、勇者殿、上段からふりおろす形で向かってきてくだされ。本気でかまいませんぞ」
「はい」
ウルシは言われた通り、向かっていった。
ギライアが片足をウルシの足下に踏み込むと、ウルシの視界から姿が消えた。
「と、こう、一手で相手の後ろを取ることができる。もちろん後ろを振り向く動きをそのままやれば出来るというものではないが、原理は同じです。足の運びと体重移動。以下に無駄な動きをなくし素早く動けるか。武芸の基本です。深く言うと、相手の足の動きや重心を見極めることができれば、相手がどう動こうとしているかわかるものです。強い者のなかには、それを嫌ってゆったりとして余裕がある服を好んで身に着ける者もいます。勇者殿にはまだ早い話であるが」
「はい」
「それでは勇者殿、荒い稽古ではありますが、時間がない。私が木剣をふるので、勇者殿は、私に触れることなく、この円の中から出ることなく、避け続けてくだされ。みかわしの足さえ身につければ、あとはどうとでもなるなるでしょう」
「はい」
「では、いざ」
ギライアは横薙ぎにひのきのぼうをふるった。
ウルシはしゃがんで避けたが、即座に蹴倒された。
「攻防一体の動きをしろとはいいません。避け続ける動きをしなされ。私がその気なら、死んでいますぞ!」
「はい」
私は、死ねない。ウルシは声にすることができない代わりに、心の中でさけんだ。
「距離を取ればいいとおもうな!、灯台下暗し!、相手の視界を考慮するのだ!」
「はい」
私は、自分をゆるせない。死んでもいい。どうせ死ぬのなら、私は、最後に、私を…。


「ああ、まあその三人組かどうかはわからねえが、女二人に男一人の客なら食ってったよ」
「はあ、また…」
ミムラはため息を漏らした。
「その者たちがどちらへ向かったかご存知?」
「ねえちゃん、ここは飯屋だぜ?」
店主が含みを持たせた笑みを浮かべると、ミムラの顔色が変わった。
「酒場にしろ飯処にしろ、どうしてあなたたちは判を押すように同じことを言うのです!、それを言わなければならぬ決まりでもあるのですか!、そんな法がありますか!」
「えっと、まあ」
「金ですか!?、金が目的なのでしょう!?」
「そう、だけども」
「だったらはじめから金をねだればいいのです!、私が今日一日だけで何軒回ってきたと思っているのですか!」
「そんなことはしらねえよお」
「立ち寄ったら何かを食わなければならない決まりがあるのですか!?、店に来る配達人は常連客ですか!?、なんて世知辛い世の中だ!、こんな世界など勝手に滅べばいい!」
「物騒なこというなあ」
「あなたのせいです!、あなたの!」
「ちょっとした冗談じゃねえかよお。悪かったから落ち着きなよ」
「…よろしい。それで、その者らは?」
「しらん」
「は?」
「どこに行ったか知ってるかだろ?、だから、知らない、と」
「貴様は」
「いや、ほんと、しらねえもんよ。客全員と話すわけじゃねえしよお。そこそこ忙しかったし」
「つまらぬ冗談を口にした罪で余生を牢で過ごしたくなければ、知っていることを吐きなさい」
「とんだ重罪だなそりゃ。知っていることっつっても、なんも…ああ、そう言えば」
「なんですか」
「定食を頼んだ男のほうのメシをおまけで大盛りにしてやったら、涙を流して喜んでたな」
「私がそんなことを知りたいと?」
「知ってること言えって言ったじゃねえかよお」
「なんでもとは言っていません!」
「めんどくせえねえちゃんだ。まあでも、山にはいるかもしれねえな」
「…なぜそう言えるのです」
「裏の山の奥に温泉が沸いてるんだ。知る人ぞ知るってなもんで、なかなか人気なんだぜ。山奥っつっても道はあるし、旅慣れたもんならまず遭難なんかしないだろうし」
「観光ガイドを頼んでるんじゃありません」
「ああ、食事を運んだ時、あの客が広げてた地図がちらっと見えたんだ。温泉のあるあたりに丸をつけてたぜ」
「はあ。はじめからそれを言えばいいでしょうに。では失礼」
「おう、今度はなんか食ってけよ」
ミムラは店の扉を思い切り閉めて、店をでた。
歩きながらミムラは思案した。
姉たちは第二隊を狙うつもりだろうか。
だとしたら、第二隊に報せて、討伐に向かわせようか。
それとも第二隊は放っておくか。どこかに留めておびき出すエサにするか。
少し早いが、ウルシをぶつけるか。
はたまた自分が出向くか。ともかく相手の戦力ぐらい知っておかなくては。
そんなことを考えているとミムラは、楽しくてたまらなかった。
姉たちがなにをしようと、この状況をミムラは、勝ちの決まったゲームだと思っている。結末の変わらないゲームを如何に楽しむか。ミムラはその工夫をする。工夫を思案する時間、ミムラはとても楽しい。
「世界を取るか、想い人を取るか」
そんな独り言をついついつぶやいてしまうのは、孤独に生きてきた故だろう。
ねえさん、あなたは知っているのかしら。私を倒せば世界がどうなるか。
私が世界を…。


「ダメだカムラ!、目でみて動こうとするな!、勘で動け!」
「それは、わかって、いる」
「このぐらいじゃまだ喋る余裕がある、か」
師匠は拳足の連打をやめ、距離をとった。
「次は、当てにいく」
言うが早いか、師匠はカムラに一足飛びに接近した。肩で息をしていたカムラはなにも反応できなかった。
「ちっ」
マリネがカムラの後ろから前蹴りをくりだす。師匠は伸びてきた蹴り足をこともなげにひっつかむと、マリネのすねに手刀を放ち、あたる直前でとめた。
「これがお前らの攻撃か?、そうじゃないだろ?」
ふん、と鼻を鳴らして、師匠は足を手離した。
「さて、このぐらいにしておかないとゆっくり湯にもつかれんな。荷物をまとめろ」
カムラはばたりとその場に腰を落とした。しどけない姿、その服の乱れひとつひとつが必殺の拳足にさらされた跡だ。
「大丈夫かカムラ」
「大丈夫なわけがないだろう」
マリネの問いかけに答えたのはカムラではなく、師匠だった。
「当たれば死ぬ、かといって体ごと避ける余裕はなく、捌き続けなければならない。そんな攻撃にさらされ続けて大丈夫なはずがあるまい。お前とは違うんだお前とは」
そう言うと師匠はカムラの目線まで腰を落と、
「お嬢はなかなか筋がいい。多少歳は食っているが、どうだ、私の弟子にならないか?」
と、語りかけた。
「それは、勘弁してください」
師匠の言葉は、カムラにこの日一番の戦慄をもたらした。
「ははっ、それがいい」
師匠はにこりと笑って、カムラの手を取り立ち上がらせた。
「いまの攻撃がどのように間違っていたか、お前たち、特にバカよ、わかっているな?」
「師匠。バカとは、どちらの、ことでしょう」
「ふむ。自覚がないのは恐ろしい。お嬢よ。どうだ?」
「はい。身を以て知りました」
カムラはうなだれた。
「ふむ。こちらはわかっているな。なに、気にするな。やったことがないからわからんが、私とて迷うだろうさ」
「ありがとうございます」
「ところで師匠、私はいつまで半裸で?」
「聞いてどうする」
「はっ、とっとと温泉にむかいましょう。早く行きましょう。そうだ、一足先に私が向かい、湯を掃除しておくことにしましょう!、うんそれがいい。では、ごゆっくり」
「阿呆。犬は主人のあとについて来るものだ。早くむかいたいならとっとと荷をまとめろ」
「ちくしょう。馬と犬ではどちらが上なのだ」
「そこかい?」
「カムラはどう思うっていうんだ」
「考えたくもない」
一行は荷をまとめると、さっさとその場をあとにした。
「あれは」
道中、半裸のマリネがあるものを発見した。
「師匠、あれを!」
「聞いてどうする」
「ちくしょう。気づいていながら無視していたとは。神からのギフトが悪魔によって受け取り拒否ときやがった」
道端に落ちていたものはぼろぼろの靴だった。
無事温泉の湧く地までたどり着くと、そそくさと傍の山小屋の中に入ろうとしたマリネの首根っこを掴み、師匠は湯の清掃を命じた。
「では、師匠が?」
「感謝しろ。お嬢のためだ」
「ありがとうございます。お気をつけて」
「そうだな。まあ大丈夫だろうよ」
ぎゃあぎゃあといつものように騒ぎながら、ふたりがひそひそとかわした会話は、カムラの耳に届くことはなかった。
師匠とカムラが山小屋にはいると、師匠は袋の中身をなにやらまとめだしながら、
「ただ待つのもあれだ。ちょっと夕飯のおかずをとってくる。うさぎの足跡をみたんだ。先に入ってていいぞ」
と、カムラに言い残して師匠は山小屋を出ていった。
入れ替わるように、マリネが山小屋に入ってきた。
「きれいなもんだった。師匠は?」
「うさぎを狩ってくるらしい。気を遣わせたかねえ」
「どうかな。あの人は狩りが好きなんだ」
「じゃあ、はいるか」
「ああ。そうしよう。生きてるのが不思議なぐらい寒い」
「本当に寒くなると、あっつくなるときいているが」
「凍死の薄着、か。おれにはパンツぐらいしか脱ぐものがねえ」
「いつまで仮面をつけてんだい?」
「顔から取れねえんだ。呪われているに違いない」
「凍ってひっついてるだけだろ。さあ行くか」
「おい、サイフと服ぐらい持っていけ」
「…そうだね。盗賊らしくない」
「さて、さっきから探していたが、どうやらおれの服はここにない」
「ああ、袋の中身をいじってるなと思ったら」
「笑えよカムラ。おれを笑え」
「あなたはよく、生きてこれましたね」
「憐れむな!、くそ、心配したおれがバカだった」
「なんだい、心配してくれてたのかい?」
「…まあ、な」
「裸じゃ外はさむいのだろう?」
「しょうがねえな」



「お前が盗賊の妹ってことか」
「…気づかれているかもしれないとは思いましたが」
「だったら逃げりゃよかった。私に勝てるか?」
「それはわかりませんが、まさか私が後ろを取られるまで気がつかないと思いませんでした」
「狩りは得意だ」
「それは私もおなじこと。なにか質問がおありで?」
「よく言う。いつでも逃げられると?」
「彼から聞いていませんか?、私は倒せません」
「堅いだけなら倒せると思うけどなあ」
立ち並ぶ枯れ木が凍りつくあたりに、より冷たい殺気が吹いた。どちらが先に発したものか、当人たちもわからない。
「試し」
「たとえば」
ミムラの言葉を遮り、師匠が正拳突きを打った。空気を震わせるほどの一撃だったが、ミムラは微動だにしない。
「それがなにか?」
「髪はまだしも服すら動かぬとなると、やはり堅いあいだはろくに動けぬようだな。口をきくので精いっぱいといったところか。肺が動いていないのに喋るとは不思議なものだ」
「…そうですね」
「動かないなら、このまま連続して突いていたらどうなる?」
「徒労に終わるかと」
「私が本気で突きを出せば、大地が震えるぞ」
「効かぬと言っています」
「大地がふるえれば、いずれ雪崩がおきよう。この辺りの雪なら確実に起こる。私は雪崩に飲み込まれても脱出できるが、お前はどうだ?、春の訪れを雪に埋れて待つことになるのかな?」
「あなたたちお得意のはったりは聞き飽きました」
「試してみるか?」
ふたりを取り巻く緊張が一気に高まった。
糸を切ったのはミムラだった。
「負けましたよ、今回は」
ミムラの敗北宣言を師匠は鼻で笑うと、
「逃がしてやるから、どう逃げるかを見せてくれ」
と言った。
「いいでしょう」
言い終わるやいなや、師匠の目の前に氷の塊が出現した。氷は次第につららのように尖りだした。一方面だけではない。鳥のトサカのようにいくつも尖り、師匠の体全体を捉えている。
「疾いですよ。その矢は」
「んー」
氷が射出されるのと、ミムラが振り向いたのは同時だった。ミムラが見たのは、いままで見ていた景色とあまり変わらなかった。
「いい動きをする」
後ろから聞こえてきた声に反応し、ミムラは前方に飛びながら、身を返した。
「やはりいい。弟子に欲しいくらいだ」
師匠は何事もなかったかのようにただ立っていた。
「おそろしいすばやさですね」
「一歩前に進んだだけだ。すばやさじゃない」
「本気で私を逃がすと?」
「ああ、私が倒したら本末転倒だ」
「ねえさんが私に勝てると思いますか?」
ミムラは右手の手のひらを空に向けた。手のひらの上に、ゴム毬程度の火の玉がうまれ、すぐに人を飲み込んでもまだ余るほど大きくなった。
「んー」
ミムラがあげていた手を師匠に向けると、火の大玉は矢のように一直線に飛んできた。
師匠は、大玉に回し蹴りを食らわした。大玉は直角に進路を変え、枯れ木にあたると火柱をあげた。
「あいつらが倒すのは厳しいかなあ。めちゃくちゃ熱かったぞ。想像していた以上にとんでもないやつだ」
「皮肉にしか聞こえませんね」
「本音だ」
そう言うと、師匠は横に大きく動いた。
「…よく、かわしましたね。見える類の攻撃ではないはずですが」
「幹がサングラスかけてるとこをみるに、食らったら目を塞がれるんだろうなあ」
「様子を探りに来てよかった。バケモノだあなたは」
「いいや、私は姫で、未来の王だ」
「ふざけたことを」
「私も様子を見に来てよかった。なめていたよ」
「それでは、そろそろ失礼するとします」
「ほう。ああ、靴はちゃんと持ち帰れよ。どうせろくなもんじゃないのだろう?」
「ご心配なく。いまはただの靴ですよ」
ミムラの体がふわりと浮きあがった。
「おいお前、はじめてお前をうらやましいと思ったぞ。空を飛んでみたかったんだ」
「…先ほどの靴を履けば飛べましたのに」
「なんだと!?、そういうことは先に言え!」
「ふふ、では失礼」
ミムラはあっという間に空へ吸い込まれて行った。
「ちっ」
あれが移動術で、好きな場所に行けるというなら…。
ふたりが危ない。
目にも留まらぬ韋駄天を飛ばし、地を蹴り木を蹴り、前を塞ぐ枝を切り払い、最短距離でふたりを目指した。




「なあカムラ」
「ん?」
「守ってくれるか?」
「ああ、守りたい」
「師匠の言ってた意味わかるか?」
「わかる」
「いいのか?」
「どっちの意味で?」
「余裕あるなお前」
湯に浸かりながら向かい合い、ぷかりぷかりとゆっくりふたりはまぐわっていた。
「あんたは、それでいいのかい?」
「あの戦法を使うときまったわけじゃないだろ」
「あんたねえ」
「わかったよ!、わかった。怖いんだおれは。お前を殺してしまう。おれが弱いからだ」
「あたしの方が弱いし怖いさ。だから守る。あたしがそう決めた。そりゃ状況が状況だし、師匠さんからも言われてるし、そうしなきゃいけないって必要に迫られてる。だけど、私が決めたんだよ。状況なんて関係ない。私が守りたい。強がりじゃないさ」
「そうか」
「そう」
「さすが三十路なだけあって、いたい、閉じた傷口を開きにかからないでください」
「はあ」
「おれも、なにかお前のために動きたい。守るのはお前にまかせる」
「いいねえ」
「おれは、お前を」
「うん」
「そうだ。おれはお前を、救いたい。救いたくてたまらない。だから、安心しておれを守って死ね」
「ひどいねえ…ありが」
「息を切らして来てみればなにをイチャイチャイチャイチャ」
カムラが声のした方、上方を見上げると、師匠がいた。言葉の通り、息を荒げている。マリネは背後に目もくれようとしない。
「心配してましたよ師匠」
「これが、人を心配している者が行う行為か?」
「心配?」
カムラは山小屋でのマリネの言葉を思い出した。
「師匠、あなたが、自ら、気を遣ってくれたんだ。気配を消して近づくのはどうだろうか。合図ぐらいするのがマナーではないだろうか。ガキじゃあるまいに」
「離れろとは言ってないだろうが。続けてろ」
「そういうことじゃねえ!」
マリネが抜いて、師匠の方にふりむくと、待っていたのは師匠のつま先だった。マリネはカムラの小ぶりな胸に後頭部を預けざるをえなくなった。
「悪いな。確かに悪いと思う。だが、無性にムカついた。私は悪くない」
「どっちだ!」
「師匠さん、心配とは?」
マリネは嫌な予感がし、カムラから離れようとしたが、すでに首を抱き込まれていた。
「いまさっきお前の妹と戦ってきた」
「なるほど。マリネ、あんた流れであたしを心配したね?、というか心配してなかったね?」
「カムラさん、私たちは少なくとも稽古の時から見られていたのです。その気配の消しようから相応の実力者だと判断していました。師匠が途中から私に愛ある制裁を加えなくなったのはそのためです。愛ある制裁とは、半殺しのことです。私の脚も無事でした。正直に言いまして、当時の私はカムラさんの心情まで気を遣うことができていませんでした。その件につきましては、誠に申し訳ありませんでした。しかし、かような儀により、本件には十分、情状酌量の余地がある、と私は訴えます」
「お嬢、確かにこいつの言う通りだ。だが、とりあえず極刑をもって判決とするがいい」
「証人兼弁護人がなぜ被告の極刑を仰ぐのかね!?、あまりに不当だ!、裁判長!、私は正当な権利をもって、判決の延期を要求します!」
「はあ、もういいよ」
「我、無罪を勝ち得たり!」
「…執行猶予付きの有罪だバカ。そんなことより、師匠さん。妹と戦ったのですか?」
「ああ、そのことは風呂に浸かりながらでも話そう。ところでお前ら、このサイフと服はなんだ?」
「師匠、なんだと言われてもサイフと服ですが」
「服はわかるが、なぜサイフを?、なぜ荷物をあの山小屋に?、お嬢の服、これ着替えだよな?、あれは別に脱衣所というわけではないだろう?、まさかあそこで着替えてここまで来たのか?、晴れているのに?、なぜだ?、荷物を置いておくのは百歩譲ったとして、今必要なのは冬山装備じゃないのか?、平和ボケしたか?」
確かに脱衣所だと勘違いしていた、とふたりは気恥ずかしくなった。同時に、師匠が静かに怒り続けていたことを知った。

勇者と段々崩壊していく世界

ピーピッピッピッ。
静かな街道に甲高い笛の音が響いた。
ふっ、ふっ、ふっ、と、テンポのいい呼吸のリズムは鳴りやまない。
「こらこら、にいちゃん。あなたですよ。止まりなさい」
「はあ、なんでしょうかお巡りさん」
走りながら、にいちゃんと呼ばれた男が答えた。
「いやいや、止まりなさいって」
そう言うと、警官はまた笛をふいた。
「よい、止まれ」
箱馬車の中から女の声がすると、従者は止まった。
女の声がした時点で警官は憂鬱な気分になったが、ちらりと箱の中を覗いた時に見た女の豪奢な服装から、憂鬱は後悔にかわった。
「だめだよにいちゃん、車道を人が走っちゃ」
警官は、とりあえず、なにも気づいていないという対応をした。
「ひと?、私は喋る馬です」
「は?」
「なにか?」
「ああいや、いやいや、だめだから。うん。いや、走るのはいいんだよ。脇をはしってくれれば」
「しかし、馬は車道を走らねば、この街道では違法です」
「いやまあ、それはそうなんだが。にいちゃん、人だよね?」
「ひと?、私は喋る馬です」
「いや、それはいいから。あの、ところで乗せている人はどちらさん?」
「私は姫様を乗せる馬車を曳く馬です」
「馬なのはわかったから。そうかあ、姫様かあ。まあ本物のお姫様ではないにしても」
警官は心の中で、どこかのお偉いさんだよなあ、と続けた。
「脇を走って欲しいだけなんだが」
「ははっ、おもしろいことを言うお巡りさんだ。法を破れと促すとは」
そんな珍問答が繰り返されていると、車体から、ぎりぎりという異音がしはじめた。
そして箱の中からバタフライマスクをつけた貴婦人が降りてきた。
「馬よ、重かったであろう。軽くしてやる。装置を外すから横につけ」
喋る馬はそそくさと、貴婦人とは反対側の車体についた。
「警官殿はあぶないのでさがっておくがよい」
「いったいなにを」
「さがらぬのなら、自分の身は自分で守りなされ」
「姫様、準備整いました」
箱の中から別の女の声がした。
「こちらも大丈夫です」
喋る馬の調子はかわらない。
「では思いきり押せ。壊れても構わん」
「はい」
喋る馬が車体下部を足で押し始めるとすぐに、下部にあったものがどんと音を立てて落ちた。
すると、びょう、と音がなり、何かが空気を切り裂く音が続いた。
「姫様、いまのは?」
喋る馬が怒気を孕んだ声で言う。
「なに、もともと二三発が耐久の限度だったのだ」
「答えになっておりません!」
「うるさいなあ。お前の引く力が強すぎたんだろう、ギアが壊れてしまっていた」
「いままでずっとか?、あれからいままでずっとこの状態だったのか?、一時間は走ったぞ?」
「気がついたのは数分前だ」
「てめえ、未必の故意って知ってるか?」
警官は、仮面の女が鞭を手にする姿を見た。ほぼ同時に、パンと渇いた音がした。
「私の馬は、そんな言葉知らない」
「はい、私は喋る馬です」
「引き続き車を曳け、車体重量を軽くしてやったことに感謝しながらな」
「はい、ありがとうございます、ありがとうございます」
「では警官殿、ごきげんよう。お気をつけて」
「あ、はい。さようなら」
ぼーっとしながら警官は、トコトコと離れゆく馬車に乗る貴婦人に小さく手を振った。
「お嬢、火炎瓶を」
「はい、どうぞ」
手を振る代わりに師匠は、火のついた火炎瓶を放り、捨てられたものがあったあたりは火に包まれた。
「うん?、なんだあいつは。せっかく注意してやったのに、足に火がついてやがる。どうして私の話をきいておかない」
わかるわけないんだよなあ、とカムラは思った。
「ふむ、多少揺れが響くようになったか。馬に…まあいいだろう」
「急ごしらえの割に、車体とのバランスが合致していたようですね」
「バランスか、走る車輪のバランスなんて数十グラムで狂いだすからなあ。私を褒めようとしてくれるのは嬉しいが、なにただ重量の問題だ。バネが固いのだろう」
「そうですか。いつまでこの道を走りますか?」
「図らずもこの道を行く勇者たちをまとめて倒してしまったから、このまままっすぐ進んでも、することがないと言えばない。それと、車体にだいぶガタがきてるようだ」
「やはりどこかで西へ?」
「そうしないと、暇だよなあ。期待していたより兵の動きが鈍い。そうなるとマリネの奴を鍛えられん」
「先ほどからあなたが、官民問わず馬が近づくたびに鞭を鳴らして追い返していたからではないですか?」
「あいつらふたりが私のもとを去ってから、気軽に殺せる相手がいなかったのだ。それどころか丁寧に扱わないといけないものができた。私もたまには羽を伸ばしたいのさ。鞭もなかなかおもしろい」
「その鞭、お子さんへのいいお土産になりますねえ」
「ははっ、言うじゃないか。おっと悠長に話している暇はないのだった、お嬢、協力してくれ」
「え?」
「しばらく馬車に乗っていると思って、こんなに菓子を買ってしまった。食い尽くさねばもったいない」
「出立してから一心不乱に菓子をほおばっていると思っていたら、そんな理由が。非常食かと思っていましたが」
「それは道々で買おうと思ってる。野営中、なるべくいろんな土地のものを食いたいと思っているんだ。荷物持ちはいるのだから安心しとけ」
「なるほど…豪華…ですね」
「菓子を食い終わったら、馬車を捨てよう。大きくみれば緩やかな下り坂とはいえ、この先は小さなアップダウンとカーブが続く。いつ壊れるかわからん」
「マリネにそのことは?」
「これまで通り、あいつに私らの考えを教える必要はない。自分で知ることが肝心だ。そうでもしないとあいつはすぐに目的を見失う。フナムシがどうの、お嬢がどうの、世界がどうの、ああすればよかった、こうすればよかった、こうしたらよくなる、ああしたらよくなる、そんな考えは全て虚像だ。これから来るであろう生きるか死ぬかの局面ごとにいちいちそんなことで悩んでいたら、生き残れない」
「虚像ですか?」
「ああ、姿は確かに見えるが、掴もうとしてもつかめないものだ。そんな虚像を追い続けるのも間違いではないのだが、そうだな、商店経営でたとえれば、時流の先を読み利益を確保しようと苦心する、ことに似るだろうか。一昔前に、商店が人件費の安い大陸南部に食料品から工業製品の生産拠点を置くことがやたら流行ったが、その結果どうなった?」
「そうですね。端的に言えば、町に職を求める労働者が溢れました。その結果、賃金が下がり、人件費と輸送費のバランスが崩れると、今度は輸送費を削るために生産拠点を国内に戻しましたが、すでに安いものをより安くするように求められるようになっていているし、設備投資した金は回収できないしで、商店は利益をとるのが難しくなったといった具合です。倒れた大手商店も少なくありませんでした」
「そうだ。そりゃ経営主も当時は、先行きの見えぬ当時の状況を危惧したりだとか、抱えている使用人の生活を守るための苦肉の策だとか、それをしなければ看板を畳むしかないだとか、ジリ貧になるぐらいならうって出るだとか、他の経営主の成功例を見たりだとか、えらい学者に話を持ちかけられただとか、いろいろ名分はあったんだろうが、時流にのった大半の経営主の本音をつきつめるなら、時代の先端を行くおれかっこいい、程度の考えなのだろうと思うよ。右に倣え、だ」
「さすがにそれは。悩んだ末の判断かと」
「まあたとえ話の極端な物言いだから、真剣に聞いてもらっては困る。それに悪いことではないさ。むしろ私はそんな、困難に立ち向かうと決めた意思による前向きな行動が好きだ。たとえそれが欲や過信によってえらばれた間違った選択でもだ。人の野心が好きだ。希望が好きだ。そこにつけいろうとする奴の野心も好きだ。私には、あまりないものだから」
「師匠さんがやろうと思えばたいがいのことは叶いますからね。師匠さんの顔が表にも裏にも知られていないということは、そういうことなのでしょう」
「人を見ているのは好きだが、必要以上に接するのは嫌いなんだよ。なにせ物心ついた頃には山中にひとりで生きていたからなあ」
「そんなバカな」
「ああ、ひとりは言い過ぎた。保護者がひとりいた。私の師だ」
「だいたいの生活環境は察せました」
「思い返せば、ひどいものだったぞ。マリネたちなどかわいいものだ。私が食糧を調達できるようになったら、調味料すら渡されなくなったのだからな。焼いた肉に土をかけて食っていたな」
「よく生きていましたね」
「土といっても、味のある方の土だぞ?」
「私はその話についていけません」
「残念だ。ところで何の話をしていたか。こう菓子を食い続けていると、他のことがどうでもよくなっていかん」
「虚像がなんやらと」
「ふむ。人ひとりの力など無力に等しい」
「あなたがそう言いますか?」
「人ひとりが生涯に高いレベルで修められる力や技、知識など、せいぜいひとつかふたつぐらいだ。万能な奴などそうはいない」
「あなたがそう言います?」
「優れた経営主になるのにいくつの能力が必要かはわからないが、理想の経営主、を想像してみると、いくつもの能力が理想の姿で修められるているだろう。商人として基礎となる部分はさておくと、カリスマ性だったり、指揮能力だったり、ひらめきだったり、熱意だったり、父性や母性的感情だったり、先見性だったり、行動力だったり、現状を維持する能力だったり、実務方面で言えば、まあ言いはじめれば尽きることはない。ただ、人が他人より優れることができるのは、その中のひとつかふたつだ。そのひとつふたつを武器に、商店を発展させていくことになる。させていったはずだ。しかし立場が大きくなったり、そうさな、大きな責任というやつを背負い込むと、人は万能感に浸り、何事にも余裕を持って迎えがちになる。理想の経営主、に自分を当てはめてたくなる。そうでもしないと、人ひとりの心に大きな責任を背負うことはできないのだろう。責任者となれば孤独なものだからな。有名な経営主がやたら寛大であったりそうかと思えばとんでもなく卑屈に見えたり」
「姫様!、横道から馬車一台接近!、民間のものと思われます!」
「威嚇しておい返せ!、私の食事を邪魔させるな!」
「はっ!」
マリネは雄たけびをあげた。
「と、なんであったか。ともかく、そうした虚像を周りに浮かべて、虚像を追おうとすれば、これはいうなれば、短剣術の達人が長剣術の達人を相手するのに長剣をもって打ち倒そうとするような事態を招きかねなくなる。本来は、長剣術を使用する者に短剣を持たせることでのしあがってきた人物であるはずのところを、慣れぬ長剣を手にしてしまい負けてしまう。ともすれば」
「師匠さん」
「なんだ?」
「なんとなく仰りたいことは理解しました。ですので、食べながらに適した話をしましょう。さきほどから手が口もとまでいこうとしては下がっております」
「…そうだな。まあ、自分に嘘をつくと死ぬ、という話だ」
「そんな呪いのような話でしたか?」
「嘘は嘘のままであるから嘘なのだ。私は姫でもなければ、さきほど燃やした弩砲は前方にしか矢を飛ばさない。これを勘違いして、私が本当に姫になろうとしようものなら、どうなる。後方にも矢を飛ばせるようにしてどうする。矢の方はちょっとみてみたいが」
「マリネが自分についている嘘にとらわれていると?」
「そうだ。お嬢もだ」
「私も、ですか」
「復讐に殉ずる覚悟があるのか、それとも色恋に殉じてもいい覚悟があるのか、という話ではないよ」
「ええ、なんとなくですが」
「なまじ少し強いばかりに変な格好をつけたがる。フナムシの冒険の書や、そこに浮き出た復活の呪文とやらがお前らの意思を決めるのか?、決めたのか?、違うだろ。そんな他人の意思なんてまじめに追うな。てきとうに考えておけ」
「では、私たちは何を追えば?」
「それはお前たちが決めることだが、強いて言うなら、楽しみ、だ」
「は?」
「私は楽しいぞ。兵を相手に暴れることができて楽しい。そこの馬に聞けば、お前の妹は攻撃の効かぬ変な体になるらしいな。私の攻撃が効くか試してみたい。お前らが戦った魔物とも戦えるだろう。道中で食べる食事も楽しみだ。魔王や世界がどうなるのかも楽しみだ。途中でお前らが死んだら楽しみが半減だ。だからお前たちが強くなるまで守ってやる。復讐でもなんでも勝手にすればいい」
「ははっ、そうか、楽しみか」
「お嬢はあの馬といると楽しそうにしているな。だったらお嬢があの馬を守れ。守りながら死ぬまで戦え」
「それは、だいぶ無茶ですね。あ、お茶をどうぞ」
「ありがとう。そうすりゃ誰にも負けないと思うんだけどなあ」
「そんなもんですかねえ」
「はあ、お茶はうまいなあ。お腹いっぱいだなあ」
「ずっと喋りながら食べてましたからね」
「喋りながら食えんのかといわれたようで、ちょっとムッとしてなあ」
「ああ、はい」
「まああれさ。勝つときもあれば負けるときもあるから気楽に死にな、ってね」
「そうしますはい」
「はあ、残りは?」
「まだ、結構な量あります」
「残りは馬に食わそう」
のちにカムラはマリネに、師匠はたいがい話の途中で話相手を気絶させるので話が長くなるとまとまりがなくなる、と教えられるのだった。



その日の夜、城に、舞い戻った、ミムラは城内の私室で兵から朝に起こった事のあらましを聞いていた。
「…とのことです。軍務長殿は如何様に?」
「私から問うておいて言うのもおかしいですが、如何様に、と申されましても、私は自室謹慎中の身ですから。できる仕事に限りがあります」
「はっ、失礼いたしました」
「その賊の最新情報は?」
「およそ三時間前、中央街道をしばらく南下したのち、パドル町付近で西にそれ、馬車を燃やして姿をくらましたとのことです」
「西ですか」
「何か思い当たることでも?」
「いえ、思案してみましたが特には。あなたたちの持ち物はうばわれなかったのですね?」
「はっ、アッキナー、コウシブサ両隊隊員中、サイフをうばわれた者が何名かいますが、それだけです。私ともうひとりの兵の持ち物に消えたものは私物を含めなにも」
「…他になにか報告はありますか?」
「ありません」
「痛む体でご苦労さまでした。しばらく療養してください。後日でも良いので必ず医務室に赴いてくださいね。そうだ、手紙を書くのでしばらくお待ちを。婦長殿はいい人なのですが、相手の身分によって使う薬の価値をきめる癖があるのですよ。私からの手紙をみせればよくしてくれるはずです」
「そこまでしていただかなくとも」
「このぐらいのことしかできないものですので」
ミムラは机に座り、手早く書面を起こした。

ザツエキヘイニアラズ
ラッカンセズ
キヲツカウベシ

軍務長印の封をし、ミムラは兵士に渡した。
「それではお元気で」
「はっ、失礼いたします」
ひとりになったミムラは、茶葉などの嗜好品をいくつか手に取ると、ベランダに出た。
ミムラがぽつりと何かをつぶやくと、ミムラの体がふわりと浮き上がった。するとすぐに矢よりも疾く空へと飛び上がり、あっという間に漆黒の闇夜の彼方へ消えていった。
その光景を目にした者は、有名なほら吹きの熊五郎だけだった。


「おかえりなさいませミムラ様。おや、へんげの術はもう良いので?」
アエロジーヌ隊最初の経由地である村の入口で、同じパーティの一員である元兵士長ギライアがミムラを出迎えた。
「実は、あれを使っている間は他の呪文を使えぬのです。力まで同じになってしまう。使いつづけると疲れてしまいますし、あまり便利なものでもないのですよ。惜しかったですねギライア殿。私を殺せたのですよ?」
「滅相もない!、私はミムラ様のために剣をふるいます!、覚悟はとうにきめております!」
「そうですか。期待しておきましょう」
「はっ、お任せください」
「そうかしこまらないでください。仲間なのですから」
「は、はあ」
「先ほど、へんげはあまり便利ではないと言いましたが、誰にでもなれるというわけでもないですし、数にも限りがあります」
「そうなのですか?」
「ええ、条件がありまして」
「ほう、どのような?」
「私が直接殺した相手でなくては変われぬのです」
「なんと…」
「たとえば…」
ミムラがぽつりと何かを言うと、ミムラの姿が男に変わった。
「な!?」
ニヤリと男が笑うと、後ろを向き、また前に戻る間に、男はミムラにもどった。
「父であるとか」
そう言いのけ、くすりと笑うミムラに、ギライアは言葉をなくした。
「不思議ですねギライア殿」
「なにが、でしょうか」
「私が望んで親をこの手にかけたというのに、あなたたちの用意した策を少しだけですが利用したというのに、私は父を愚弄したあなたが憎い」
ミムラの口角がつり上がり、目はぎらりとギライアをにらんだ。
気がつくとギライアは、反射的に、剣を抜きミムラに斬りかかっていた。
剣はミムラの体にあたり、弾かれた。その際に起こった斬撃の音は、降りつもる雪に容易く吸い込まれるほどちいさかった。
「ギライア殿、私は憎いと言っただけです。私が口にしなかっただけで、あなたは私に憎まれているとずっと思ってきたのでしょう?、なら、たいして変わらないではありませんか」
いままでとこれからとで変わる変わらぬどころの差ではないが、ギライアが剣を抜いた理由は、ミムラの得体の知れぬ殺気によるものだ。もちろんギライアは、毅然と剣をふるったのではない。幾度かくぐり抜けた修羅場では経験したことのない種の殺気にあてられ、臆病風に吹かれながら剣をふるったのだ。
「私を殺さない、私のために剣をふるう、のではなかったのですかギライア殿。死ぬところでしたよ?」
「申し訳ございません!」
ギライアは膝をついた。自分がなにをしたのか理解したからだ。
「残喘にさらされている覚悟もできていたはずでは?」
「はっ、申し訳ございません。私はいつでも死にます。ですがどうか、何卒私めにミムラ様の役に立つ機会を与えてください。必ず役に立ちます」
「殺しかけておいてなにをいってるのですかあなたは。すぐさま前言を翻した男を信用しろと?」
「なれば、これにて我が忠誠と代えさせていただきたい。御免」
ギライアは、自害を試みた。
「良いでしょう」
ミムラはギライアの傷口に手をあて、ぽつりと何かをつぶやいた。みるみるうちに傷口が塞がった。
「ミムラ…さま?」
「あなたもですが、服がダメになりました。こんな赤い模様をつけて道を歩けますか?、まったく、面倒なことばかりしてくださるひとですね」
「申し訳ございません!」
「勇者を鍛えなさい」
「はっ」
「段々強くなってきていますが、まだ力をうまく使えていません。そのあとは…まあそのときに」
「はっ」
「頼みました。私も忙しくなりますが、ぬかりなきよう」
「身命に賭しまして、必ずや」

勇者と段々崩壊していく世界

「ふむ。全部含めて、この日までにできるか?」
「ああ問題ねえ。ちょうど入れ替え時だったんだ。金さえくれりゃ、渡りに船たあこのことよ」
「わかった。じゃあ当日取りにくる」
「それでもいいけど、途中でたしかめなくてもいいのかい?」
「無茶を頼んでるんだ。注文だしといて悪いが、簡単に壊れなきゃそれでいい」
「わかったよ。全体をみての丈夫さを優先するけどよ、何度も言うがこの作り自体じゃまず回れないからな?」
「いいんだ。ただの遊びさ。それで頼む。じゃあよろしく」
ふたりの男女のやりとりを通りから眺めているのもふたりの男女、マリネとカムラだ。
「師匠さんは何を考えているのかねえ」
「わかってるくせに言うな。いまは考えたくない。考えただけで吐いてしまう」
マリネの腹は、尋常ならざるほど膨れていた。
「まさか師匠さんが、大食らいではなかったとは思わなかった。少し食べてはあなたにパス。毎回ほぼ二人前」
「次からはお前も食え。頼むから食え」
「嫌だよ。なんだかんだ私も何か一品食べてるんだ。取り分けてるけど」
「 ちくしょう。なんでこんな目に。おれに力があったなら。おれに、くそ、力がほしい」
「ふうん」
「おれに何を食べても即消化するだけの力が欲しい」
「まあ、師匠に歯向かうよりそっちの方が現実的かしらないねえ」
「あの野郎が次にどこ行くか、当ててやろうか?」
「そんなのわかる。武器屋だ」
「ああそうだ。武器屋だ」
ふたりが待っていた場所まで師匠がやってくる。師匠は、
「待たせた。じゃあ武器屋に行こうか」
と言った。
マリネは閉口して、吐くのを我慢するだけで精一杯だった。吐いたら、きっと吐いたゲロを食わされる。


「では、勇気ある者たちよ、いざ行かん。出立の時は今!」
大臣の号令が城の中庭に轟くと、間を開けずにひとりの兵士が続く。
「勇気ある者第一隊、アッキナー隊、進め!」
「おれに乗りこなせねえ修羅場はねえ!」
こういう声の張り合いは変に間があくと、白けてしまう。リズムがなにより大事だ。
城門が開き、ファンファーレが鳴り響く。
集まった見送りの人の数は、前回と比べて格段に減ったが、それは期待の度合いというよりも季節と天気のせいだろう。この日の天気は、こごえる吹雪だ。
「コウシブサ隊、進め!」
「おれが歴史を作り出すぜ!」
「勇気ある者第二隊、ケイコリ隊、進め!」
「勝てない相手はもういないんだ!」
「ヤワタニ隊、進め!」
「いつでも金が勝利の証だ!」
「勇気ある者第三隊、ポタハリ隊、進め!」
「おれが勝つことは決まってるってのに、イライラするぜ!」
「アエロジーヌ隊、進め!」
ふたりの仲間を連れて、ウルシは言葉なく進んだ。はい、か、いいえ、としか言葉が喋れないのだからしょうがない。兵士たちが冷めた目でウルシを見るが、彼女は気にしない。
「民に手ぐらい振ったらどうですか?、せっかく集まってくれているのです」
城門を出るとウルシの後ろに続く女が言う。
「ねえ、ギライア殿」
「そうですな」
女の後ろの兵士長だった男が、
「なんせあなたは、本物の勇者なのだから」
と、応えた。
「はい」
渋々、ウルシは言われた通りに愛想よく手を振った。
ウルシ一行が城門を出て、第三隊の経由地である東を目指し歩いていると、すぐに城門前が騒がしくなった。
ウルシが振り返ると、箱馬車の上に人が立っているのが見えた。肉眼で見るには遠くであることと、人垣ができてしまったことで、それ以外、何が起こっているのかわからない。ただ時折、悲鳴にまじり女の笑い声が聴こえてくる。
「ミムラ様、あれは一体」
「さて。見る限り、ただのバカかと」
「ふむ。そうですな。あれは、仮面に鞭、ですか。おっと、表通りに行ってしまいました」
「面倒に巻き込まれないうちに進んでしまいましょう。最初の経由地まで行けば、いつでも戻れますし。いいですか勇者」
「はい」
「では、行きましょう」
勇者一行は、再び歩き出した。


「従者よ!、転んでも手だけは離すなよ!、曳いてるものに轢かれるぞ!」
そう言うと走る箱馬車の上に立って鞭を振るう、さすがに寒さから素肌こそ露出してないものの、ボールガウンにバタフライマスクという、仮面舞踏会丸出しの格好をした女は笑い声をあげた。
「姫様!、案の定、前方を塞がれました!」
「塞がれたならぶち破るのが醍醐味よ!」
馬車というよりは、箱馬車型の人力車と呼ぶにふさわしい。なぜなら、動力が人力だし、二輪だし。
「無茶を言うな!、車体がひっくりかえ、りますぞ!」
「ちっ、従者はわかってないなあ」
「がっかりしてんじゃねえ!」
「仕方ない。減速のち後方に回れ!」
「了解!、いけるか盗賊!」
「なんであたしだけ変わってないんだ?」
「雇い主にバカをやらせるわけにはいかないのと、城に監禁されていた姫を盗みだしてくれた設定がいい、とかなんとか」
「ああ…。可変ロック解除!、注意しな!」
「了解!、伸びろかじ棒!」
案外、従者ことマリネも満更ではないらしい。そして言葉通り、減速していたマリネが一時的に走る速度を上げると、かじ棒が伸びた。
「可変ロック確認!、回転軸開放及び結合確認!、いけ従者!」
カムラが格好をつけているのは、単に姫こと師匠の気を悪くしないためだ。
「姫様!、飛びます!」
「よしこい!」
大きく減速したマリネが、思いきり地を蹴り、かじ棒とともに宙へ舞った。
「掴め従者!」
師匠の伸ばした鞭を、マリネはひっつかんだ。途端にかじ棒はくるりと半回転し、マリネの曳く車の前後が逆になった。相当な力で地面に叩きつけられたマリネだったが、そこはさすが、ダメージもなくうまく着地した。師匠、マリネ、カムラ、三者三様の役割を正確に果たすことにより可能となる、妙技であった。
「バカみたいだが、やるじゃねえか!」
「ああ、バカみたいだが、よくやったよ」
「本気でやってたらバカだよな」
「ああ、後ろに取っ手でもつけときゃいいだけだからな。駆動部の脆弱性を高めてまであんな壊れやすそうなギミックつける意味がわからん。轍を逆走しても意味ないだろうし」
「いや、きっと何か意味があるんだ。試されているんだおれたちは」
その時、どよめく周囲の野次馬と兵士たちに、戦慄が走った。
「目標ゼロ距離!、打てます!」
「よし!、楔を打ち込め!」
「発射!」
~師匠、こんなものまで必要ですか?
~なに、先日、国から見捨てられた子連れの暗殺者が、乳母車の下部に仕掛けを作って、こう、何かを、バババっと敵に打ち込む、そんな夢を見てな。ぜひ試してみたいと。
~そう…ですか。
~きっと楽しいぞ。発射口は三つ、一度に六発か、もっとこう、バババというイメージなのだが、構造上こんなものだろうか。
~…お気に召すままに。
「…スコーピオンだ…スコーピオンを積んでやがる!」
「街中で弩砲なんて使うんじゃねえバカ!」
「範囲が広い!、巻き添えを食うぞ!」
沿道の野次馬は、蜘蛛の子を散らす騒ぎとなった。
人力車から放たれた矢は、前方の兵士たちや、バリケードとなっていた幌馬車を貫いた。阿鼻叫喚だ。
「二射用意します!、射角調整!、かじ棒ロック解除!」
「了解!」
「ロック!、引け従者!」
マリネが一度引っ込めたかじ棒を、気合いの声とと共に全力で引くと、ガチンと、乾いた音が鳴り響いた。
「発射!」
ぼう、という音を立て、矢は放たれた。退避した兵士たちに被害はなかったが、幌馬車を揺るがした。
「従者よ!、前に!」
「了解!」
先ほどと同じ過程を経て、マリネはもといた位置に戻った。
「発射用意!」
師匠の高笑いがこだまする。
「まさか後方にも!?」
鞭で牽制されていた後方の兵は二の足を踏まざるをえなかった。
「横に回れ!」
「しかし、民が!」
「くそ!、避難させるまでおれたちが壁になるしかないのか…」
「悪魔め!」
馬車上の女に向かって悪魔と叫んだ兵の目の前に鞭がとんで、空気を破裂させる音が響いた。
「悪魔ではない!、姫だ!、見てわからぬか!」
「ちくしょう、こんな姫がいるか!」
「いる!、認めろ!、認めぬなら撃つ!」
「なんだそのふざけた要求は!、なにがしたいんだお前らは!」
「なにがしたいかだと?」
そう言うと、女は黙った。
「…この場で考えるんじゃねえ!」
「阿呆め!、せっかくならばと機会を図っていたまでよ!」
「機会だあ?、奇遇だな!」
「阿呆!、姫たるものが要もなく民草を傷つけるか!、端から撃つ気などない!」
「こっちはある!、弓隊構えい!」
後列の弓隊が一斉に弓を引き絞った。
「機会を待ったと言っただろうに、どうして話を聞かないのだ」
女はため息をついて、かぶりを振った。
「10秒の間、投降するチャンスをやる!、動いたら撃つ!」
「撃ったら当たりかねんぞ」
「なにを今更!、こっちは重傷者をだしている!、容赦はしない!」
「姫にではない!」
「自分で自分のことを姫というな!」
「お前らのだいじなものに、だ。後方をよく見よ」
「なに?、あ、あれは」
「さすがは勇者と呼ばれるものたち。揉め事に首をつっこむのが性分、か」
「第一隊か!」
マリネ側では、バリケードになっている幌馬車の隙間からぞろぞろとアッキナー隊、コウシブサ隊の面々が現れてきていた。
「これで姫が伏せようものなら、弓は当たらん。頭上の兵に撃たせるか?、彼らにこの吹雪の中で姫一行を無力化できるとは思えないが。動いたら撃つぞ。バカと侮り後手に回るからこうなるのだ」
「くそ、第一隊の皆々!」
「黙れ!」
女の鞭が空気を斬り裂き、言葉を交わしていた兵の胸元を打った。鉄の鎧が割れたが、立っているところを見るとダメージはないらしい。
「そいつらに用があるのはこちらだ。なにがしたいか教えてやろう。下々の者よ!、勇者たちよ!、姫の言葉である!、耳を揃えてよく聞け!」
女はくるりと身をひるがえした。
「そなたらが勇者か!、ずいぶんとまぬけな面をしておる!」
「なんだと!」
「お前のまぬけ面を絵に描かせ後世に残し、永遠に伝布してやろう!」
「この妖艶なマスクがまぬけだと!?、殺す!」
びゅんと振るわれた師匠の鞭が、いきり立ち襲いかかろうとしたコウシブサの顔面を捉えるのを見たマリネは、同じこと言い返しただけなのになあ、と、顔面に肉のバラが咲いた彼に同情するとともに、おれが同じことを言った時は鞭を持ってない師匠でよかった、と安堵した。
「貴様!」
勇者たちが臨戦態勢をとった。彼らに向かい師匠は、
「兵士が動けぬこの状況で、なぜ貴様たちはぞろぞろと足並み揃えて姿を現した!、なぜ真っ向から仕掛けてくる!、人質がおると考えもしないのか!?、安い挑発に乗りおって、私がその気なら何人も死んでいたぞ!、たとえ勇気があろうがそれなりに強かろうが、こんなまぬけどもに魔王を倒せるものか!、大事な民を守れるものか!、姫は落胆したぞ!」
と、一喝した。安い挑発に乗ったのはお前もだ、とマリネは思った。
「確かに、まぬけだな」
「ああ、無策だ」
「敵陣中の分かれ道で近くの立て札に、左に落とし穴!、と書かれていたら、右に行ってすとんと落とし穴に落ちちまいそうだ」
「なるほど、まぬけか」
「ああ、だな」
「期待薄だなこりゃ」
「うるせえ!」
軒先や家屋の窓を開け、戦況を眺める野次馬たちを、アッキナーが黙らせた。続けてアッキナーが、
「黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって、だいたいてめえは何者だ!、魔王の使いか!?」
と言うと、当たらずも遠からず、とマリネは思った。
「魔王の使い、は女だと聞いたな」
「誰に聞いたんだよ」
「ほら、八百屋の熊五郎だ」
「ほらじゃないよ。熊五郎っつったら有名なほら吹きじゃないか、ええ?。こないだなんか、屋根の上を飛びまわる子連れの忍者を見たなんてほら吹いてた男だよ。だいたい姫様だと言っているんだから」
「姫様っつっても、うちのところの姫様はあんなに恐ろしくないだろう」
「じゃあどこの姫様だっていうんだい?」
「そりゃあんなに姫が恐ろしいんだから、きっと国はもっと恐ろしいんだろう」
「恐ろしい国ってえと、トッツクポーリか」
「するってえと、あの姫様は魔王の娘さんかい?、なるほど、変な格好してるしなあ、そう言われれば、ぴんとくらあ」
「黙って聞いてりゃ町人風情が勝手にぴんときてんじゃねえぞコラ!、鞭が届かないからって私がなにもできないと思うな!」
「姫というより、こりゃ女王はう」
師匠は町人に石を投げた。町人は倒れた。
「おい、大丈夫かお前!、意識が…おい!、ここがどこだかわかるか!?」
「ここ、は、城下町、です。ここ、は、城下町、です。ここは、城下町、です」
「町人が、壊れたレコードのように…あの野郎、大事な民じゃなかったのか!?」
マリネは、魔王の娘も当たらずも遠からず、と思った。
「…さて、勇者たちよ。私はこの国の王が若き頃産ませた妾腹の子。誰も知らぬ遠くの城に監禁されていたが、ひょんなことから盗みに入った盗賊に助け出され、ここにいる」
師匠が始めた一気の説明を邪魔する者はいなかった。邪魔をすればどうなるか、見て知った。
「世間に出てみれば、王の治世が揺らいでおる。その元凶がこの道の先にいるらしい。ならば姫は行って倒さねばならん。王の治世が揺らぐだけならいいが、王の権威まで揺らいだら姫としては迷惑この上ない」
「お前は味方、なのか?」
師匠の後方から、兵のひとりが声をかけた。
「味方とはぞんざいな物言いだ。お前らは近い将来、私の兵となるのだから」
「は?」
「魔王の首級を獲り!、民を平和に導き!、救国の英雄となりて人心を掌握した妾腹の姫は!、民の期待を一身に受け!、老いぼれた王に引導を渡す!、そうして姫は、この国の王となるのだ!」
「国家転覆を狙うバカだったか!」
「正統な王位継承だ!、この身に流れる血がそうさせるのだ!、そこなる兵士、いまからでも遅くはない。私を崇めろ。さすれば私が王位継承を果たしたのち、兵士長にとってつかわす」
「バカに仕える気はない!」
「盗賊、好きな時に撃て」
「やめろ!」
「ところで勇者たちよ。私のはかりごとにお前らが邪魔だというのがわかったか?」
「わかるかバカが」
「英雄は、ひとりいればいい。泣いて謝れば半殺しで許してやるから、勇者の名を返上して退場しろ。どのみち弱いお前らでは、いま退くかあとで退くかの違いに過ぎないが」
「どうやら魔王の前に倒さなきゃいけない奴がいるらしいな」
「よろしい。姫に逆らえばどうなるか、私自らこの国の隅々まで行き届かせる見せしめの贄にしてやろう。従者よ。代われ」
マリネが馬車の上に駆け上ると、師匠は鞭をマリネに渡して、飛び降りた。
「鞭が獲物じゃないのか?」
抜剣しながら、アッキナーが言う。他の5名の勇者もそれぞれ獲物を抜いたり、構えをとった。隊についてる兵士が二名、姿を隠しているが、幌馬車の影で覗き込んでいる者がそうなのだろう。
「買ったばかりでな、汚したくないんだ。それに、よく覚えておけ。私は姫で」
勇者たちの視界から、対峙していたはずの女の姿が消えると、
「武道家だ」
近くで女の声がして、アッキナーが音もなく倒れた。倒れ方からみるに、腹に一撃を食らったらしい。
一方マリネは、
「とりあえず姫様は、トッツクポーリに向かい、勇者と同じ働きをします。そして姫様はご覧の通りとても強いです。好きにやらせておけば、きっとあなたがたの力になります。先ほど姫様はああ言いましたが、この国の王は大変慕われております。また聡明です。あのような姫様に王位継承などさせるはずがないではありませんか。私どもはただ、魔王退治に協力したいだけなのです。姫様は少々世間知らずなだけなのです。迷惑をかけたことは謝ります。しかしどうか、どうか、我々がトッツクポーリに着くまで、車をとめようなどとはしないでいただきたい。どうか、どうかお願い致します」
と、兵に嘆願していた。あの師匠のことだ。きっとこのまま、自分はトッツクポーリに着くまで数日間走らされる。そこは、覚悟次第の範疇だ。だが、敵がいたら、休めない。眠れない。地獄だ。マリネは、生き残るために必死だった。師匠に隠れて交渉できるのは今しかない。
「貴様は、あの時の武道家!?」
兵たちの中の誰かが、驚きながらも的確に事実を告げた。
「すると、盗賊とは、あの盗賊か!、要人を暗殺しようとした重罪人ではないか!、くそ、本気で国家を覆す気だったか!」
マリネの必死は、マリネは必死になった。
「ちくしょう。てめえらは、おれのだいじなものを奪っていった!」
「なにを言うか重罪人め!」
「わたしの命です。はっ!?、なにを言ってんだおれは!、こうなったらひとりでも数を減らしてやる!」
「うわあ、男が暴れだしやがった!」
「落ち着け!、チャンスだ!、お前らは弩砲の射線上で相手をしろ!、撃たせるな!、おれたちは馬車の制圧にかかる!」
「無駄だ」
降りかかる剣を避けながら、相手の喉を手刀で突き、兵たちの合間から伸びてくる槍を叩き落とし、身動きを封じようと体ごと向かってくる相手の顎に膝を入れる。マリネを囲む兵たちがどんなに手を尽くしても、マリネの体にダメージを与えることはできなかった。しかし、マリネは確かに、そこにいた。マリネを相手に奮闘する兵たちは、決して長い時が流れたわけではないのに、馬車の制圧を今か今かと待ちわびた。
「なにをやってるんだお前は。やることはやった。早く走らせろ。使わないんなら鞭を返せ」
その女の声を聞いて、兵たちはやっと、馬車制圧に向かった者たちが全員地に伏しているのに気がついた。
マリネは後退しざまに、鞭を声のした方へ投げた。鞭が馬車上の女の手に渡ると、びゅんとしなりをあげ、マリネと向かい合っていた兵を二、三、なぎ倒した。マリネは前方に向かい、かじ棒を握った。
バリケードの幌馬車は横にどかされていた。勇者たちはことごとく倒れていた。
「さあ曳け従者よ!、これでお前も立派な家畜だな!」
高笑いをあげる女を乗せて、車は段々と加速していった。
あとを追う兵士はなく、足の止まった兵たちは、前方で時折女の鞭が振るわれては、同士がたおれていく光景を見ていることしかできなかった。
「弓ならば」
後方に位置していた兵の誰かがつぶやいた。
「さっきからひっきりなしに飛ばしているようだが」
前方の兵士が答えた。
「隊長!、馬をだしておいましょう!、各地に連絡を!」
若い兵が言った。
「だめだ!、いや、連絡の早馬は出せ!、だが追うな!、陛下を守らなければ!、他に仲間がいたらどうする!」
若い兵士に戦慄が走った。追おうとした相手が国家転覆を謀り、要人の暗殺も辞さないことを忘れていた。
「はっ!」

「いやあ、すごかったなあの姫っ様は、一回の攻撃でふたりをたおしていくんだから」
「しかもどちらも必殺の一撃とくりゃ、たまったもんじゃない」
「むちゃくちゃ言ってたが、本気で乗っ取られるかもなこの国は」
「そういや、そんなこと言ってたねえ。やれ見せしめだ、生贄がどうのとも」
「魔王より質がわりいなこりゃ」
「するってえと、あいつらが魔王と戦う気なら、魔王対魔王になる」
「トッツクポーリが落ちなかったらどうなるかわからねえが、姫様が勝ったらこの国が代替わりするだけってことがわかってんなら、こっちの方がすっきりしてるな」
「おめえ、あんなのが王になったら、演説なんかさせてみろ、そのたんびに何人やられるかわかったもんじゃないよ」
「いやあ、案外やさしいところもあると、おれは見たぜ。見ろよ、寝っ転がってる奴ら、みんなおっちんでるわけじゃねえみてえだ。みんながみんな、まあ半殺しってところか」
「ギリギリの奴らもいたけどなあ」
「トッツクポーリが落ちないとどうにもならねえ、トッツクポーリが落ちたら、どうせ三国でああだこうだ揉めるんだろ。どう転がっても悪い方にしかいかねえなら、おれはあの姫様に期待するぜ」
「まあ、あの姫様が王になれば弱い国にはならないだろうねえ」
「ま、下でぷるぷる震えている兵士にどやされないうちに、餅でも焼いて食うとするかな」
「だな」



勇者と段々崩壊していく世界

「おや、もう目を開けられるのですか」
目の前に女がいた。私を覗き込んでいる。ということは、私は寝ている。
「治癒の方は、軽く、で止めておいたのですが、使い慣れないと加減がわかりませんね」
この女は、盗賊だ。私はまだ死ねない。私はまだ死ねない。私はまだ死ねない。
「そのようにぐもぐもと口を動かすと、喉の傷が開いてしまいますよ」
よく見ると女は盗賊ではなかった。軍務長だ。姉妹らしく、よく似ている。紛らわしい。
「落ち着きましたか。ここがどこだかわかりますか?」
目だけ動かして辺りを見ると、点滴だとか、少し遠くに中年の白衣の天使を見つけた。点滴はさておき、中年の白衣の天使はまず医療施設にしかいない。それがリアルというものだ。
「ばいいえ」
かすれるように出た私の言葉は、病院、という言葉をそう代えた。
不思議と痛みもなかったので、もう一度声に出しても結果は同じだった。さらにもう一度試してみた。同じ言葉が繰り返されただけだった。
「傷はふさがっているみたいですね。となるともう無駄ですか。軽くしすぎたのか。強すぎたのか。それとも傷を塞ぐことともとに戻すことは違うのか。やはり加減がいまいちです」
軍務長は何かを思案すると、傍にいた看護婦を呼び、何かをもってこさせた。婦長と呼ばれた中年は、そのまま部屋を後にした。
「ここは城の医務室で、これは、さえずりのみつ、と呼ばれる喉の薬です。とても希少で高価なものなのですよ。体を起こしますので、焦らずゆっくり飲み込んでください」
ベッドの角度が調節され、上半身が起こされると、私が拘束帯で縛り付けられていることを知った。
さえずりのみつはとても甘かった。だけど、さっぱりしていて、飲み込むのに苦労はしなかった。
軍務長にうながされ、私はここがもう城の医務室だと知っていながらも、病院、と言わなければならなくなった。
「はいいえ」
声のかすれが消えた。さすが、とても希少で高価な薬だ。耳に聞こえる感覚も、以前の私の声となんらかわらない。ほんとに大した薬だ。
「あいうえお、と言ってみてください」
「はいいええ」
「いうえおあ」
「いいええは」
「ばびぶべぼ」
「はいいええ」
「びぶべぼば」
「ばいいええ」
「おもしろい」
「ええいえい」
「失礼。今のは私の感想です」
ふざけてるんじゃねえよこのクソアマが。
「ふむ、はい、と、いいえ、なら言えますか」
「はい、いいえ」
「十分ですね。今からいくつか質問をします。急ではありますが、時間が惜しいので答えてください」
「はい」
「あなたは、死にたいですか?」
「いいえ」
「私に協力しますか?」
「いいえ」
「死にたいのですか?」
「いいえ」
「なら、私に協力しますか?」
「いいえ」
「私の力にならなければ、あなたは牢屋に入れられ、その間に私が殺しますよ。それでいいですか?」
「いいえ」
「死にたいのですか?」
「いいえ」
「力になってくれますね?」
「いいえ」
「いま殺されたいですか?」
「いいえ」
「協力してくれますね?」
「…はい」
「それでは以後よろしくお願いします」
「はい」
どうやら最初から、私に選択肢はなかった。死ねないのだから、しょうがない。
「悪いようにはしません。悪いどころか、すばらしい力を与えます」
「はい」
「その力があればねえさんを、あなたを刺した女を容易く殺せるでしょう」
「はい」
「嬉しくはないですか?」
「いいえ」
「へえ。そうですか」
自分でも気味が悪いほど、私に盗賊を恨む気持ちはない。
「あなたもあの女にだいじなものを奪われたのではなくて?」
軍務長のその質問に私は、はい、とも、いいえ、とも答えられなかった。奪われたわけではない。盗まれたわけではない。私のものでもない。盗賊を恨んではいない。憎んでもいない。むしろ感謝したい。感謝している。
「だんまりですか。まあいいでしょう。どのみちあなたが生きていれば、彼女に狙われるのですから」
「はい」
盗賊は、勇気のない私を、引き返すことのできない道に進ませてくれたのだから。この道の先には、絶対に、マリネがいる。この道の先に。


「おや、もう目を覚ましたか。強くなったなあ」
マリネはその声を耳にして死んだふりをしたが、無残にも師匠の拳が腹に刺さる結果となった。
「おはようございます師匠。やあ、かわいい坊ちゃんだ。名前はなんていうのかな?」
腹部の激痛を堪えながらマリネは作戦を変更した。間髪入れず少年をダシにして自分の身の安全を確保しようとしたのだ。
「はい。忍者です」
「は?」
「6歳です」
「え?」
マリネは混乱した頭でひとつの答えを導きだした。
「師匠」
「なんだ」
「いくら師匠といえど、子供をさらってエリート部隊をつくろうとするのはいかがなものかと」
「マリネよ」
「はっ」
「この子は私の息子だが?」
「しかし私の記憶が確かならば、師匠のお子様が6歳であるはずは」
「上の娘は別にいるが?」
「は?、二人目だと?、あの村はまたいけにえを捧げたのか」
「どうして貴様らは死に急ぐのか、私にはわからないまま今生の別れになりそうだ」
「忍者君、兄弟子に力を貸す気はないか?」
「おい武道、いや、マリネ。ちなみにこの子は忍者が好きなだけで、もちろん名前じゃない。六つの子の言うことを真に受けるな」
「なんだと!?。なんと紛らわしい。ならば盗賊、やれるだけのことをやってから一緒に死のう」
「バカ言うんじゃないよ」
「ふふ。冗談だよマリネ坊。久しぶりなものだから、懐かしくなっただけさ。子供の前で人に暴力などふるわない」
「堂々と嘘つくなクソババア!、ついさっきおれは死にかけたぞ!」
「あれは暴力ではない。家畜のしつけ方を実践したまでだ」
ああ、家畜扱いは正しかったのか。と、カムラは納得した。
「いいかい息子よ。半殺しは一日一回までだ。じゃないとあんな風なバカになる」
「てめえのせいだろが」
「ほう。バカとの自覚はあったか」
「いつまでもてめえの方が強いと思うなよ」
「それなら黙って仕掛けてこい。まあお前が強くなったのも事実だし、私が弱くなったのも事実だ。それでも負けないが」
「いいだろう。今日こそ積年の恨みを晴らしてやる。見ててくれフナムシ。そしておれに力を」
「そうか」
そう言うと師匠は、対面にいたカムラの首を掴んだ。
「お前が少しでも動いたら、この娘の首を折る」
「てめえ、そんなに弱くなったのか?、真正面からの戦いならおれに負けると?」
「いや、それなら勝つ」
「じゃあなんで」
「息子をとられたら、そんなことを実際にしたらお前は殺すが、まず勝てない」
「は?」
「私もそうだが、お前も弱くなった」
師匠はカムラの首から手を外した。力は込めてなかったらしく、カムラは痛がる素振りもない。
「お前が寝ているあいだに、どうせこんなことになるだろうなと思って、この娘に協力してもらった。安心しておけ」
「おれが弱くなっただと?」
「ああ、強くなったが弱くもなった。私も同じだ」
「…盗賊のせいだとか言うなよ」
「まさしくその通りだ」
「なにが言いたい」
「私は、ふたりの子供が何よりも大事だ。こいつらの為なら世界を敵にまわしてもいい。もしこいつらの命を狙う奴がいれば仏でも鬼でも叩き斬る。こいつらを守る為ならどこまでだって強くなれる。それほど大事だ」
「嘘つけ。お前はそんな人として大事な感情など持っていない」
「よし、殺す」
「師匠さんおちついて下さい!、マリネも黙って聞け。話が進まないんだよ!」
「いいかマリネ。世界を敵にまわしてもいい、ということは、世界がどうなってもいい、ということだ。こいつらの命と他の全人類の命、私が天秤にかけたら、こいつらの命の方が重くなる。変な話だが、世界を滅ぼすことのできるスイッチを持つ者とこいつらの命を奪うスイッチを持つ者が並んでいたとして、私がどちらか一名のみにしか攻撃できない状況ならば、私は迷わず後者を選択する」
「だからなんだってんだよ」
「私は弱くなった。こいつらを守る為なら誰にだって勝ってみせるが、私の天秤を利用されたらいつでも負けるぞ。まあ実際は助けるし殺すが」
「どっちなんだよ!」
「お前はどうなんだマリネ坊。この盗賊と国どっちが大事かの選択、お前はすでに選んだのだぞ。お前だけじゃない。盗賊もそうだ」
「戦う術を教えてくれたのはあんただ」
「国をなめるな。数をなめるな。人をなめるな。弱者をなめるな。おごるなよマリネ。今のまま戦うなら負けるぞ。必ずだ」
「負ける前に逃げ切ってみせる」
「聞けばトッツクポーリに向かうらしいが、フナムシは逃げられなかったと聞いたぞ」
「師匠はおれをどうしたいんだ。今さらおれを絶望させてなんになる」
「なに、かんたんなことだ。私が盗賊を守ってやる」
「は?」
「どこまでかはわからないが、しばらく同行するといっている」
「いやです師匠、おれの身が持ちません」
「世の中が荒れては困る。あの子たちには半殺しで済む世界に生きてほしい」
「物騒なのかそうじゃねえのかわからねえよ」
「弱みが消えるんだ。お前も強くなるし、相手も驚くだろう。私は顔を隠していれば問題ない」
「おれが寝ているあいだに、なにが起きたんだ盗賊!」
「契約は成立しました」
「金か!」
「上の娘の出来がよくてな。早いうちに都の私学に放り込みたいと思っていたんだが、ちょうどいい」
「バイト感覚で反逆者になってんじゃねえ」
「子供たちのことなら心配するな。すでにそれぞれひとりでも生きてゆける」
「してないけど、早すぎだろ。忍者君はそれでいいのか!?」
「問題ない。姉はできた人物だ」
「師匠の声で応えるんじゃねえ。声帯模写かそれ」
「父親もできた人物だ」
「父親がいるのか忍者君!?」
「息子よ。今宵からしばしの別れだ。その前に母の強さをしかと目に焼きつけておけ」
「子供の前で暴力はふるわないんじゃなかったか!」
「息子にはこう教えてある。上官に逆らう者は見せしめに利用せよ。実践せねば、信用すまい」
「やっぱりこいつ幼少から鍛えたアサシン集団を作ろうとしてるだろ!、おれに近づくんじゃねえ!、お前の弱点は知っている!、この忍者君がどうなって、すでに消えている、だと?」
「戯れに、私の隙をつけたらおもちゃを買ってやる、と言っていたら、気配を消す技が異様に伸びたのだ」
「くそ、適者生存の理か」
「お別れだなマリネ坊。生きていたらまた会おう」
「てめえの加減次第だろそれ!」
薄れゆく意識の中、マリネは確かに見た。親友フナムシが、おれを巻き込むなとばかり、保身に走る真面目くさった顔を。

「おや、もう目を覚ましたか。朝に強くなったなあ」
マリネはこの既視感が夢でみたものならばよかったのにと心の底から思ったが、現実は非常だった。
「おはようございます師匠。気持ちのいい朝ですね」
「どうして貴様らの余計な一言は、私の気をこうも荒立てるのだろうか」
「師匠、一日の始まりは気持ちのいい挨拶からはじまると教えてくれたのはあなたじゃないですか。それに、挨拶のたびに私の意識を飛ばされていたら、おはようからおやすみまで私は寝たきりになります。あ、これは盗賊さん。おはようございます。良い朝ですね」
コーヒーを運んできたカムラに気がついたマリネは、間抜けになっていることも気がつかず、挨拶をした。
師匠は寝ずに私と今後のことを話しあっていた、とカムラはあきれながら伝えた。
「ところで、部屋がだいぶ様変わりしているようですが」
「私がとっていた宿まで移動した。使わないことには、前払いした金がもったいない」
籐で編まれた椅子に腰かけている師匠がコーヒーカップに口をつけた。
「いささか危険ではありますまいか。忍者君はどちらに?」
「息子なら姉とともに父親のもとへ行った。父親はこちらに生活基盤を置いている」
「ほう。それなのに師匠が宿をとっているとなると」
「朝飯前に殺されたいのか?」
「いえ、滅相もない」
「もともと今回の招集やトッツクポーリには個人的に興味があった。参加する気などないが、ある程度探りを入れようとしていたのだ。そんなわけで宿は偽名でとっている。それだけでは不安か?」
「師匠がすることです。不安など」
「それにこの宿の朝食は美味いらしいと評判が立っていた」
「は?」
「評判が良いのは朝食のみならず、中でも目の前で焼いてくれるクレープシュゼットなるものは、大変甘美なものであるらしいと」
「師匠?」
「宿泊者は一泊につき三枚までそのクレープシュゼットなるものを無料で頼むことができる。これは実質的な食べ放題であり」
「師匠!」
「なんだ。お前にはやらんぞ。とはいえ安心しろ。私がしっかりと味を覚えて再現してやる。私の料理の腕前を忘れたわけではあるまい。子供たちにも食べさせねばならんのだ」
「安心しました師匠。違う。なにを考えているんだあんたは!、無料ならちょっとぐらい食わせろよ!、いやこれも違う」
「朝からうるさい奴だなあ。ちなみに今日の分はさっきそこのお嬢と食べてきた」
「三枚ともか?、三枚ともなのか?」
「ああ、実質的な食べ放題などとしているから名物に美味いものなしと訝しんでいたが、とてもうまかったぞ」
「貴様らはなんということを」
「別に食いたければ自分で頼めばよかろう。おっと、文無しには無理か」
「いいだろう。今日この日、この場所を貴様の墓標とし、墓の前でそのクレープなんとかを頬張るおれを地獄からよだれを垂らしてみてるがいい」
「仕掛けてくるなら黙って仕掛けてこいと何度も言ってきただろう。だから勝てないのだお前は」
毅然と襲いかかったマリネは、カムラがカップに入れた小さじ一杯の砂糖が溶けきるまえに、沈黙した。
「お嬢はこのまま休むといい。こいつとふたりきりにしてほしいなら」
「師匠さん、お気遣いなく。見ていて飽きませんし。なんだか少し、幸せな気分なのです」
「国とやろうという割に、のんきなことだ」
「ふたりを見ているとなんだか不思議なのです。私は家族をなくしましたから」
「こんな家族がいてたまるか。拾ってやったのに恩返しもしない。それどころか今しがた私の命を狙ってきたぞ」
「恩を返されることを、あなたは望んでいますか?」
「望むもなにも、こいつらは自分勝手に死んでいく。生きろと教えたはずが死に場所を見つけることに精をだしやがって。だいたいこいつらは私の言うことを聞かないんだ」
「ふふっ、確かに聞いていませんね」
「さあ、そんなことより休めるうちに休んでおくんだ。体調を整えておかねば、食べ歩きもできん。買い物もしたいし、名所も見て回りたいんだ」
「え?、出歩くのですか?」
「なにをびびっておるのだか。話を聞けば、事が動き出すのは勇気ある者が出立して以降だろうに。今から逃げ隠れしてどうする」
「しかし」
「お嬢は誰に守られていると思っている。むしろ兵や警官隊に囲まれると都合がいいんだが」
「はあ」
「どうやらマリネは稽古をさぼっていたようだ。肉体は成長したが、技の方はなまくらだ。敵前に放り込めば、嫌でも研ぎ澄まされていくだろう。もちろん荷物持ちとしての役割にも期待している。忙しくなるぞ。なんせこっちは年に一回しか街にこれないんだ。持ってきた金を使い切らなければもったいない。ともかくお嬢は早く休め。私の腹が減ったら起こすから」
「ああ、はい」
カムラはマリネが師匠の話を聞かない理由がわかった気がした。
「起きろマリネ、飯だ」
「…はっ」
「ほら、朝食をとっといてやったんだぞ。食え」
「これ、は?」
「バターだ」
「朝食は?」
「気がついたらひとかけのバターしか卓上に残っていなかった」
「思い返せば、貴様から渡される食事は調味料のみだったな」
「料理もできずに生き残れるか。調味料を用意してやった優しさがわからないか」
「保存食が尽きた冬のある日、目の前で甘いうまいとチョコレートをほおばむお前の影でおれたちが食べた土の味がわかるか?」
「そんなものを食べて、よく生きていたなお前は」
「お前のせいだろ!」
「ちゃんと準備しなかったお前らが悪いだろう。注意喚起ぐらいはしたはずだ。それより少し静かにしろ。お嬢が寝ている」
マリネがベッドを見ると、くうくうと寝息をたてるカムラがいた。
「ちっ」
マリネが舌打ちをすると、しばしの静寂が訪れた。だが、すぐに、
「お嬢を襲いたくなったら言えよ、黙って見ててやるから」
「いや、そんときは出てけよ」
「今さら恥ずかしいものでもあるまい」
「熊の時とは違うだろ。そもそもなぜ師匠はおれたちの前に?」
「そう言えばお前には言ってなかったか。今の事態に個人的な興味があったと言ったな?」
「ああ」
「娘の進学やら家族旅行やら、冬支度が一通り済んだこの時期に街まで出てくることは決まっていたのだ。まあ、そのついでに私も羽を伸ばそうと」
「いや、育児の息抜きで反逆者に加担するなよ」
「加担すると決めたのは昨夜だ。あわよくば参加者のひとりとして城に忍び込んでやろうとも思っていたが」
「だいたい同じだろ」
「どんな奴が来るのかと見ていたら、お前がひとりで城に入り、そう、あれは、少し堪えた。招集の刻限いっぱいまで待っていたのだが、案の定、フナムシはこなかった。フナムシより弱く、それゆえフナムシよりも慎重なお前が、あんなわけのわからないものに自分から応じるはずがない。理由を確かめなければと思った。そうしないと不安は解消されない」
「不安、ですか」
「仮にも師だ。知ったなら、弟子の心配ぐらいする」
「はい」
「何かが起こるなら日が落ちてからだろう、何も起こらなければお前の寝床に行けばいい、と思って、そのあと私はふたりの子供を抱え、近所のデパ地下に足を運び試食したおし、話題の新店の行列に並び昼を済ませ、進学相談があったのでパンケーキがうまいと評判の喫茶店で待ち合わせていた父親に娘を託し、ここまで来たのだからと温泉街に顔をだし、温泉饅頭を頬張りながら足湯に浸かり、射的で落とした駄菓子を食い、地酒のひとつでも買っておくかと」
「満喫してんじゃねえよ。食ってばっかじゃねえか」
「と、思案していたら、日が暮れて、ああそういえばと、お前のことを思い出してな」
「もう忘れたままでよかったのに」
「まあ、そのあとは、城から出てきたお前らを尾行して、対面するに至った次第だ」
「ちっ、食が絡まねえとあっさりしてやがる。しかし、子連れに尾行されていたとは、不覚だ」
「それなりに大変だったぞ。息子にお前らがなぜ一度通った道を戻るのか、などいちいち説明し、実践せねばならなかったからな」
「なんかもうやる気がなくなっていくよ師匠」
「それでこのあとの予定なのだが」
「はい」
「まず、今日は、この辺りのラーメン店を制覇したいと思っている」
「そんなことだろうと思ってました」
「安心しろ。この辺りにラーメン専門店はそう多くない」
「私はそんな言葉に踊らされたりはしません」
「ほう。ラーメンとラーメンの合間にいくつか銘菓を食おうと思っていたが、見破られたか」
「私は弟子でありますゆえ」
「弟子よ、私の哲学は知っているな?」
「はい。大地の恵みは残さず使い切れ、です」
「そうだ。金も大地が生みだす恵みのひとつだ。持ってる金は腐る前に使い切らなければいけない。喜べマリネ坊、おごってやろう」
「いいえ。食い物を残したらどうなるか知っている身としては、喜べません」
「飯も食えずに震えていたガキが生意気を言うようになったじゃないか」
「師匠、飯というものは少なくては死にますが、多すぎても死ぬものです」
「私の誘いを断ると?」
「はい。おひとりでどうか」
「お前は、死にたいか?」
「いいえ」
「じゃあ答えはひとつだ」
「しかし師匠の飯につきあったら生きている保証がありません」
「そんなものは今死ぬかあとで死ぬかの違いだ。違うか?」
「いいえ」
「いま死ぬか?」
「いいえ」
「私からお嬢を連れて逃げることが可能だと思うか?」
「いいえ」
「つきあうな?」
「…はい」
「それで良いのだ。ところで、ラーメン店の範疇にラーメンを出すレストランをいれるかどうかなのだが」
ふたりの話は再開し、終わることなく続いた。
ふたりの抑えた話し声を子守唄にして、カムラはすやすやと眠り続けた。

勇者と段々崩壊していく世界

「軍務長殿、ご無事で!?」
「ええ、隊長殿。この度の私の失態、あなた方に如何様な言葉で詫びればよいか」
「軍務長殿がご無事であるならば、私どもは何も望みません」
「必ず、この度の非は私のみが負います。ところで、倒れていた女がいたはずですが」
「はっ、すでに事切れておりましたゆえ、そのままに」
「重要な証人です。簡単に死んでしまっては困ります。処置をすればまだ助かるかもしれません。医者の手配を。今は私が診ましょう」
軍務長は急いだ様子で、仰向けに倒れている女のもとへ駆け寄った。
ウルシは虚空を一点に見つめて、動く気配はない。少し小さく見える。誰が見ても、死んでいた。しかし、軍務長は誰とはなしに、ぽつりとつぶやいた。
「窒息ですね。まだ、間に合います」
ウルシの体位を横にし、口腔にたまっている血を流すと、何度か背中を叩いた。その場にいた誰もが無意味な行為だと思った。蘇生することは不可能だと思ったし、そのような蘇生法では用をなさないと。
だが、軍務長が何度目か背中を叩いた拍子に、女が口内から血を、吐き出した。自発的に血を吐いた。そんなバカな、と、どよめく周囲に、軍務長は、
「医者はまだか!」
と一喝した。
「やはりすばらしい」
誰からも見えぬようにウルシをさする己の手が、青白く光る淡い燐光を帯ているのを見ながら、軍務長は闇より他に聞くもののない感嘆の声を漏らした。続けて、
「城にいては楽しめぬやも。ねえ、ねえさん」
とつぶやく軍務長の顔がどのようなものだったか、知る者は、本人を含めて、いない。


垢だらけの顔をにんまり歪ませて、汚い手をした乞食の爺さんが、私に懐から取り出した乾パンをくれる。何回か見たことがあるけど、別に親しかったわけじゃない、ああ一度助けたことがあったっけ。
乞食になりたての私は、とても嬉しくなって、その汚らしい乾パンを口にする。
「うまいだろ盗賊」
私は何も答えることができない。
「盗賊、おいしいかい?、寒くてたまらないよ、盗賊」
私が盗賊になるのはまだ先なのになあ、カムラは思った。
「盗賊、この前はありがとう助かったよ」
きっと私が、この人の記憶を思い出したから、この人はこんなことを言ったのだろう。こんなヘンテコで都合のいい過去の光景は、あれしかない。ほら、段々、あたりがぼやけてきた。
「盗賊、盗賊、盗賊」
誰かの声が聴こえる。もうすぐ視覚も取り戻すんだろう。
私は、乞食のころ、よく倒れた。たまに腹いっぱい飯を詰め込んだり、風呂に入ったり、酒を飲んだりすると、途端に気持ち悪くなって、血の気を失い、気がつくと誰かに介抱されていたりした。気がつく時には必ず、走馬灯を見る。たぶん一度リセットされた脳が再起動するにあたり、過去と現在得られる情報をすり合わせて、寝ている時に見る夢よりも強引に整理しているんだろう。
「盗賊」
武道家の声だ。まだ、私の目は視覚情報を正しく私に伝えず、ちかちかと、明滅して、まるでモザイク模様だ。
「盗賊」
段々クリアになっていく視界のなかに、マリネの姿が見えた。私を覗きこんでいる。
「やあ、武道家」
何度目かは知らないが、武道家の呼ぶ声に私は明るく応えた。
「大丈夫そうだな」
「大丈夫さ」
そう言って立ち上がろうとした私を、マリネが抑えた。
「顔に血の気がねえ。まだ横になっていろ」
私はおとなしくマリネの言う通りにした。安全な隠れ家までたどり着いたまでは記憶がある。直後に倒れたんだろう。だとしたらまだ安全が確認されたわけではない。いつでも動ける状態を保っていなくてはならない。マリネの言う通り、体にうまく力が入らない。気分も悪い。意識も、ぼんやりとしている。回復に集中しなくてはならない。
「夢をみていたよ」
なんとはなしに、私がそう言うと、
「そういやおれも、フナムシや師匠に意識をかりとられた時はよくみていたな。段々夢と現実がごちゃ混ぜになっていって、ありゃなかなかおもしろいもんだ」
マリネはにこりと笑った。
「なあ、武道家」
床の上で寝転びながら、私は何気なく言ったのだ。
「これで終わりでもいい。このまま逃げたっていいんだ」
マリネはそれを聞くと、
「おれとフナムシが師匠、師匠は今でもなんだかよくわからない武道家だったんだが、その人に一番初めに教わったことは、死んだふり、と、適切な怯え方、だ。がっかりしたぜ。強くなれると意気込んで弟子入りを頼んだのに、まさか演技指導されるとはおもわなかった」
そう言って、はにかんだ。
「まあでも修行が始まったら地獄すら生ぬるい日々だった。初日から、演技を渋るおれらに師匠は激怒してな。実際にわからせてやると言って、おれらを半殺しにし、瀕死のおれらが怯えて震えているのを見て、それだ、なんて言ったり。何が、それだ、だよ。やりすぎだあの野郎は。その日は、そのまま山を延々と走らされて、気がついたら布団の中にいて、フナムシが先に起きていたっけな。痛む体で昨日は何が起きたのか話し合っていると、部屋の中に師匠が入ってきて、師匠の顔を見て血の気がひいたおれられの顔を見てまた、それだ、なんて言いやがった。笑えなかったなあ。おれらが適切な怯え方を身につけるまでこんな風にひとつひとつ指導されるのかと思うと、心底生きた心地がしなかった」
「大変だねそれは」
「ああ。当たり前だが、次の日には師匠から逃げようとしたんだが、すぐに見破られて、逃げ方がなっていない、と始まった。逃走に失敗したら死ぬんだぞ、そう言って師匠はおれたちを半殺しにし」
「ふふ、半殺しにされてばかりじゃないか」
「慣れとは恐ろしい。八年ほど師匠のもとにいたが、その間に半殺しにされた回数を数えるより、無事だった日を数えた方がはるかに楽だ。無事だった日はよく覚えている。師匠から逃げきった日、おれとフナムシが街に出てきたその日だけだから」
「悪いけど、バカみたいだ」
「言うな盗賊。やるせなくなる」
ふたりはしばし笑った。
「自分ひとりだけなら逃げられるって場面は何度もあったんだ。あの野郎はおれたちを買い出しなんかに行かせる時には、必ずひとりを人質にしてやがったからな。ああいや、別におれたち三人は人里離れて暮らしていたわけじゃないぞ。山にこもることも多かったが、師匠はよく村の酒場に酒を飲みにいったり、収穫期には畑仕事を手伝ったり、畑を荒らす害獣用の罠を作ったり、退治したり、そもそも確かありゃ開拓や農法指導のために招かれてきていたはず。なのに結構なあいだ山にこもっていたが、何者なんだあいつは。強いしよぉ」
「そんなこと知らないよ」
「悪い。思い出したらムカついてきただけだ。でだ、何度も自分ひとりだけなら逃げられるって状況は互いにあった。まあ当時に気づいてさえいればふたりして逃げられる機会もあったのだが、それはいいとして、でもおれたちはひとりでは逃げなかった。なぜか。友情だとかそんなウェットなもんじゃなくて、単純な話だ。逃げることは生き残るための、最も大事な戦いなんだ。ミスは許されない。要は当時のおれたちにはひとりであの師匠の魔の手から逃げのびる算段がどうしてもつかなかった」
「魔の手とは、言うね」
「逃走に失敗したら死ぬ。師匠なら、やる」
「それは、かわいそうに」
「だからなんだ、今もそうなんだということだ」
「ん?」
「この状況からいま逃げるにしても、いざとなったら逃げるにしても、ひとりじゃ厳しい」
「でも、あたしは、弱い。こうして倒れもする」
「お前ひとりならおれが運べる。足りない部分は補いあって行こうぜ。おれなんか今の状況で何か物や金を工面しようとしたら強盗でもするかしか思いつかねえんだから」
「ふふ、盗賊に向かってそれをいうかい?」
「正直に言うと」
「なんだい?」
「暴れたりねえ」
「はあ、これだから武道家ってやつはいやなんだよ」
カムラは、くっと笑った。
「おれだって的確な指示がなきゃ、ひょんなことで捕まっちまうもんなんだよ。フナムシとふたりで戦いに行く時は役割を決めて行ったもんだ。おれが生き残るために、暴れるためには、お前が必要だ」
「血生臭いプロポーズをどうも」
「ところで、体は大丈夫か?」
気恥ずかしくなったのか、マリネは話題をかえた。
「ま、問題ないだろ。昔はよくあった。疲れただけだろうさ」
「ならいいんだ」
「ところで、その師匠とやらから逃げだしてこれたのは、ふたりが師匠より強くなったということかい?」
「いや、それはわからないが、師匠もおれたちに構ってる暇はないだろう」
「うん?、話が噛み合わないね」
「ああ、なんだ。さすがの師匠も産まれたばかりの我が子を連れてまでおれたちを追ってくるような真似はしなかっただろうし、さすがにもうおれに興味はないよ」
「あんたたち、どんなタイミングで逃げだしたんだい?」
「どんなタイミングって、まっとうなキャンパスライフというものへの憧れが若いおれたちを日々強くし」
「動機はどうでもいい。逃げだした時の状況よ」
「ああ、師匠にようやく陣痛が始まって」
「は!?」
「え?」
「女、だったの?、師匠」
「オスメスで言うならメスだが、人か鬼かというなら鬼だ」
「ああ、そう。そうか。うん」
「それでまあ、まだ安心はできないと」
「それはお産ではなく、あなたたちの逃走のことで?」
「うん。だからおれたちは必死に準備なりを手伝って、神経をすり減らしながらも長い時間を演じ抜き、おぎゃあ、という産声を合図に、逃げた。さすがに産まれたての我が子をおいてまで追って」
「どんだけ慎重なんだお前らは!」
「お前は師匠の恐ろしさを知らねえからそんな悠長なことがいえるんだ!、前日まで半殺しの日々が続いてたんだぞ!、当時のおれたちでもふたりがかりなら今のおれが相手したら無傷じゃすまねえ覚悟がいるのにだ!」
「嘘、嘘でしょ?」
「あんな奴のためにこんな嘘つくか!」
「そんな女がいるなんて信じられるか!」
「いたんだからしょうがねえだろ!」
「だいたいそんな女を相手する男が」
「ああ、それなんだけどな」
「まさか、その子の父親は」
「信じてないんじゃなかったのかよ。そんな目で見るな」
「じゃあ」
「フナムシでもねえ。ありえない。いやあ、当時おれらも疑ったのよ。意識のないあいだに搾取されたのでは?、と」
「ひどい言われよう」
「そんなことをふたりでひそひそと話していたら、師匠にバレて」
「バカだね」
「殺されるのかなあ、と思ったら、そこはいつも通りで済んだんだが」
「ずいぶんのんきに半殺しされるね」
「そのあと村の家畜小屋に連れてかれてさ。延々と豚や牛の精液を搾らされた。師曰く、お前らこんなことして楽しいか?、だそうだ。おれたちは家畜扱いだったんだと思い知った」
「その人が伝えたかったのはそこなのか?」
「次の日、師匠の夜の相手はこの辺りじゃ野生の熊ぐらいしか務まらないだろう、なんてことをフナムシと話していたら」
「嫌な予感しかしない」
「まあ、バレて半殺しにされるんだが」
「さっきから聞いてりゃ、半殺しにされる理由がお前らのバカさにしかない」
「意識を失って気がついたら、目の前に檻に入った大きな熊がいて」
「師匠の調達力も並じゃないね」
「師匠が言うんだ。メスの毛皮も用意した」
「師匠の調達力!」
「そこから先は覚えていない」
「悲しい、話だねえ」
「まあ、師匠の相手が誰なのか知らないが、あんな女を相手にしたんじゃきっともう生きてはいない。ああ、そうか。墓を掘り起こして子種を調達したのかもしれ」
「どうしてお前はそう死にたがりなんだ?」
マリネが軽口を飛ばした瞬間、雑居ビルの一室にある、広くも狭くも廊下もないがらんどうとした隠れ家のドアの向こうから、誰がどう聞いても怒気をはらんだ女の声がした。
カムラは、声の主が追っ手だと、少しも考えなかった。マリネが死んだ魚の目をしながら茫然としていたからだ。
「逃げたら捕まえて殺す。開けなきゃ鍵をぶち壊して殺す。おとなしく姿を見せて殺される。あまり音を立てたくはないだろう。そのくせ大きな声で人の悪口をお前は。…久方ぶりに弟子と会うのだ。私としては、最後の案をおすすめする」
「あなたが、敵じゃないという証拠がない」
それでもマリネは立ち直り、カムラに、動くな、と指示した。動いても無駄なことだと知っている。
「そんなものあるか。要求しているのはこっちだ。動く気配がないということは、鍵をぶち壊して入ってこいということだな。ちなみに、さっき私が言った順番は、そのまま苦しむ時間の長さの順でもある。まあ真ん中なら、どちらが長いか短いか言う必要はないだろうよ」
「わかった、開ける。おれが開ける」
「待っててやるから早くしろ」
マリネは観念して、ゆっくりと扉に近づき、鍵を開けた。カムラは、一応、逃げの体勢をとり、隠れ家にはつきものの、抜け道、に駆け込めるようにしている。
扉を開けたマリネがみたのは、ひとりの少年だった。
「はじめまして」
少年は師匠の声でそう言うと、マリネの背後を指さした。同時にマリネの耳にごとっという音が聞こえた。
指と音に釣られてマリネが後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。いるはずのカムラが消えていた。
慌ててマリネが前を向くと、今度は少年が消えていた。
まずいとばかりに、扉を閉め、後ろを振り向くと、先ほどその姿を消したカムラがいた。ぽかんとしている。
マリネはたとえ罠だと知っていても、カムラのもとに駆け寄らざるをえなかった。
「無事か」
しかし、マリネの予想に反して、罠という罠はなく、
「速すぎる」
とだけカムラはこたえた。
「マリネよ、私が敵じゃないという証拠を示してやったぞ。これでいいか?」
最初と同じように、隠れ家のドアの向こうから、師匠の声がした。マリネをどっと安堵が包みこむ。決して警戒を解いたわけではないのだが、先ほどの襲撃で受けた緊張並びにその襲撃を可能とする師匠が少なくとも今は敵じゃない、という事実に、安堵しないことは誰をもっても不可能だ。
「鍵はあいています」
「そうか。入るぞ」
開いたドアから入ってきた子連れの女は、正確な年齢を知る者はいないが、年相応にやつれているものの、顔と体格は十分に美人と判断される範疇の人物で、
「何回やられれば治るんだてめえらのバカは。棺桶の中で家畜の精液を搾りとりながら熊にてめえのケツを掘らせればいいのか?、どんな地獄絵図だそりゃ!」
と言いながら、油断して師匠に挨拶をしようと不用意に近づいたマリネの首を片手で掴み、体ごと持ち上げて宙に浮かせ、空いた片手でマリネの腹に何発も何発も、終わることなく突きをたたき込む姿など、その容姿からは想像もできない。
マリネは糸の切れた操り人形、いや、〆られたタコのように、だらりと力無く師匠の腕に支えられては垂れ下がり、おそらく、死んだ。