勇者と段々崩壊していく世界
笛の音がなり終わった頃、カムラはウルシの横に立つと、ナイフを取り出した。
「アエロジーヌ、あたしの側から離れるんじゃないよ」
「大丈夫、私はまだ死ねない」
「そうか。ごめんな」
「なにが?」
「ほんとはもっ」
突如として放たれた横薙ぎの一閃を、カムラはナイフで受けた。順手でナイフを握っていたことと受けた拍子に剣を突き上げる形になり、そのまま刃をくぐり抜けられたことは偶然の産物だった。ウルシに反らされた横薙ぎの勢いから体勢をたてなおす能力はなく、カムラのナイフから身を守るすべはない。だが、その自然の勢いと、カムラがナイフを順手に持っていたことにより、ナイフによる反撃の軌跡はウルシの太もも上部を刺すにとどまった。
ウルシが倒れると、カムラはそれを見やりながら、とどめをさすか否か逡巡した。
ふと視線を上げると、その先でマリネが妹に向かって距離を詰めていく姿が見えた。
もうすぐ兵たちが駆けつけてくるだろう。カムラは決めた。
立ち上がろうとしいたウルシを蹴倒すと、ついでに剣を蹴り飛ばした。それでもなお立ち上がろうとするウルシに、カムラは、
「せめて楽にしてあげようとしたんだ。一瞬、それで許してあげようって気にかわったんだ。ほんとはもっと苦しませてからさよならするはずだったのに」
と言って、馬乗りになった。
「あなたとの約束は守るよ、ここでは彼に声をかけない。だからまだ死ねないの」
抵抗することもなく、ウルシは淡々と口を動かした。
「後悔するよ?」
「まだ死ねないからしょうがないんだ。謝らなきゃいけないから。見捨てられるのはかまわないけど、死ぬわけにはいかない。あなたを捕まえないと、殺されてしまう。あなたと彼はお似合いだと思うよ。私なんかもう立ち入れないぐらい。ふたりの間に信用がみえるもの。でも、私のしたいことにあなたは関係ないんだよ」
「…バカにしてはいい覚悟だが、バカの話を聞いてるほど暇じゃないんだ」
カムラはウルシの口腔にナイフを突き刺した。
武道家を名乗るマリネにとっての武道とは、武術をつかって生き残る道を探ることを意味する。そしてマリネにとって武術とは、情報だ。元来、武術とは自分より強い者を倒すために行われる工夫、策のことで、策をなすには相手はもちろん、自身や第三者、環境に精通する知識がいる。その知識をもって、工夫をし、策となす。この一連の流れを形式化し普遍なものにしたのが術として後世に残る。情報からえられた策の末端のみが効率良く実用化されていく。しかし形式化してしまうと、術の大事な部分は工夫による変化にあることを忘れてしまいがちだ。
日夜行われる地獄のような鍛錬を経て鍛え上げられた身体と技を有する武道家がいたとする。彼とろくに運動もしたことがない素人が試合をすれば、まず間違いなく彼が勝つ。彼の放つ拳足はあっという間に相手の無防備な肉体をとらえ、一撃必殺の刃となるだろ。
では、彼の試合相手が、彼と同門で似たような実力を持つ者だとしたら、勝負はどうなるだろうか。
彼が試合で使用できる技をひとつに限定し、そのことを最初に出てきた素人に教えた場合どうなるか。その上で素人にナイフを持たせたらどうなるか。
気の遠くなるような長い鍛錬を経て、一撃必殺の威力を帯びた技も、相手に当たらなければ無用の長物だ。相手に当たったとしても、相手にあらかじめ被弾する準備をされていたなら、思い描いていた通りの必殺は途端に難しくなる。
強さ、とは絶対的なものではない。相対的なものだ。ファッションや美的センスと同じことで、はじめてのデートに一生懸命に着飾り、ばっちりキマってると男が思っても、その格好をみた相手の女がダサいと思えばそれはダサい。女の趣味趣向を知っていれば、好まれやすい服装へと工夫をすることができる。その工夫こそが術だ。十年前の流行のファッションを持ち出しても、現在におけるデートで十年前と同じ効果をえられることはない。強さも同じで、どんなに鍛え上げられた肉体と技を持つ武道家がいたとしても、人混みのなか通り魔に後ろから背中を刺されたら、運のよさがなければ死ぬ。しかし、いつ何時に背後から襲われることを知っていれば、通り魔は不意の一撃を食らい倒れるだろう。
長い年月を経て鍛えた肉体により繰り出される一撃必殺の打撃、と、誰もが手にすることのできる刃物、に強さの違いはない。どちらも急所に当たれば死ぬことに違いがないからだ。ファッションモンスターと全裸どちらが目を引くか、みたいなものだろう。むしろ刃物の方が被弾する覚悟があろうがなかろうが相手にあたりさえすれば同じダメージを与えるのだから優れている。全裸で街を歩けばもれなく警察に捕まるので、より世間の目をひく。
寝食を忘れて鍛錬し鍛え上げた素手の武道家と、手に刃物を持った格闘の素人は、どちらも人の生命活動を停止させることができるという点で、同じだけの強さを持っている。この不公平さをよしとするのが術が術たる所以だ。術に過程を求めてもしょうがない。結果が生死をわけるのだから、使えるものの正しい使い方を知らなければならない。より効率的なものの使い方を知らなければならない。仕事のやりようにこだわりを持つのはいいが、工夫次第で今までやってきた仕事を半分の時間で終わらせることができるならそれに越したことはないはず。だが時として人はこだわりを矜恃とし、工夫を受けつけないことがままある。仕事ならば、周りに取り残されるだけで済むが、生き死にのかかる争いとなれば、そのこだわりは弱点に直結し、死を招く。素手同士で戦えばまず勝てない武道家を相手にするのに、刃物を持ち闇討ちする、という選択の方がより武術的選択といっていい。同じ強さなら、精神面を考慮しなければ、事前に相手がなにをしてくるか知っていれば、必ず勝つのが道理だ。要するに、相手の想定外の攻撃、すなわち不意打ちを果たした方が勝ち、生き残る。不意打ちする為の工夫こそが武術なのだ。不意打ちを決めるには多かれ少なかれ相手の正しい情報が必要で、対戦相手が刃物を持ち出しても、相手が能動的に人を刺す覚悟がなく己よりも弱い人物と知っていたなら、構わずにまっすぐ向かっていって殴り倒せばいい。デート時におけるファッションだって、服装になんのこだわりの無く、街中を全裸で闊歩する男が好きでたまらないという特殊な女が相手だったならば、服に気を使わず全裸になればいい。刃物を持ち出した方は、相手が刃物を構わずにまっすぐ向かって殴りにくるとは想定していないだろう。まさか全裸でデートにくるとは思わないだろう。はたからこの出来事を見ていたなら刃物男を真っ向から殴り倒した男の行動を不意打ちしたとは思わないだろうが、これは立派な、不意打ち、だ。デートの件ならば、その日のデートは警察の介入により即刻中止されるだろうが、女を落とすという目的は達する。もちろん、先述の通り魔は不意打ちらしい不意打ちで、通り魔なら単なる悪だが、余人を持って代え難いほどの極悪非道なる悪の武道家に両親を虫ケラのように殺された子供が仇を討つ為にしたこととなったらどう思うだろうか。ましてやデートをや、だ。
事前の情報の多寡や真偽の判断が勝ち負けを決める。しかし術として形式化してしまうと、術は確実に寿命を縮めていく。初デートに全裸で向かうという女を必ず落とす術が普遍化したならば、街中は全裸の男で溢れ、すでに相手の弄する策を知っている女には不意打ちにならず、ただただ警察が頭を悩ますだけになる。そうなったら初デートでジャージをきてくる男がもてだし、ジャージも過ぎればファッションに気を使うようになり、全裸の術は一度死ぬ。爆発的にヒットした芸人のギャグのようなものだ。ファッションの隆盛を極め尽くした段になれば全裸の術も蘇るが、そんなことはどうでもいい。
結局なにを言いたいのかさっぱりだし整理するつもりもない、つまるところ武道家マリネは全裸の芸人なのだ。違う。マリネは常に卑怯者なのだ。自らを武道家と名乗っていることにプライドはあれど、対峙した者が、相手は武道家だから正々堂々とした素手による格闘戦になる、と判断したことを喝破したなら平気で弓矢を射かけるだろう、毒殺すら考慮する。しかし平時に弓や毒を持ち歩くわけにもいかないし、剣を持っていれば相手にそれだけで警戒される。警戒されれば無用な悪意から逃れられるが、剣をも意に介さないほどの相手はもちろん、剣を正しく怖がる相手とトラブルになったら今度は相手が不意打ちをしかけてくる。だからこその素手。フナムシと共にマリネが師から教わったことは、生き残る工夫。その為の準備。すなわち生粋の武術。不意打ち。
マリネは、連れの女を指したであろうカムラの立ち姿を視認すると同時に、軍務長へと突っ込んだ。位置的に軍務長は、カムラが起こした行動を見ている。遅れて視認した自分がその状況を見て多少なりとも混乱すると考えもするだろう。だからマリネは即座に地を蹴った。当然、不意打ちを仕掛けるチャンスだと判断したからだ。
その判断は正しかった。軍務長は迎撃に十分な体勢をとれぬまま、マリネの接近を許した。
そのままの勢いで、マリネは軍務長の首筋目がけ手刀を振りおろした。
電光石火の早業に、軍務長はなすすべもなく手刀を食らった。不意打ちにかけてきたマリネがここにきてミスをするはずもなく、その攻撃は会心の一撃だった。常人ならば死を、たとえマリネと同じレベルにある者が食らったとしてもダウンはまぬがれない一撃だった。
ところが、マリネの右腕が軍務長の首筋を動かすことはなかった。不自然なほどぴくりともしなかった。まるで太い鉄柱に打ち込んだかのようで、その通りに手がしびれる。
さすがのマリネもこれには、不意をつかれた。考えられないことだった。それでも、マリネが軍務長の反撃をかわして即座に数歩分の距離をとれたのは、偶然ではなく武術の賜物だったといえるだろう。
「無影の脚技とは、見事」
構えをとりながらマリネは軍務長に言った。先ほどまでマリネがいた位置には、羽織るマントを押し上げて伸びる軍務長の脚があった。
「せっかちな殿方は好かれませんよ」
薄ら笑いを浮かべながら、ゆっくりと軍務長は脚をおろした。
「あら、この隙にまたかかってくるものとおもったのですが」
「隙があっても、攻撃が効かないんじゃ攻めてもしょうがないだろう」
マリネはこと戦いになると、つとめて冷静だった。言葉の通り、マリネは足を開いて腰を落とすような、迎え撃つ形の構えをしていない。見ようによってはただ突っ立っているだけに見える構えだが、肩幅程度に広げた足に、重心を均等に乗せ、いつでも前後左右のいずれかに跳ぶことができる構えだ。
「あなたが私を倒すことはかないません」
「それがわかっただけでも収穫さ。すべての攻撃がきかないというわけではないのだろう?」
「さあ、わかりかねます。すべてとなると、試したことがありませんゆえ」
「そりゃそうだ。なら交差法なんかどうだ?」
怪現象を解くヒントを得ようとなど、マリネは思っていない。もうすっぱりと、ダメージを与えることをあきらめている。同時に、近づくこともやめた。あの全力を以ってしても動かすことができぬ鉄のような体から放たれた素早い蹴りが、鉄のような硬さと重さを持っていたとしたら。単純に、不可思議だが、軍務長の筋力が見た目以上に凄まじいものだとしたのなら、掴まれたら振りほどけるのか。攻略の糸口は。なにぶん面妖な出来事で、そんな情報に頭を使っていたら不意をつかれる隙を生みだしてしまう。
「試してみますか?、私がこの場から動けぬというわけではありませんよ」
そう言うと軍務長はマリネに向かって一歩足を踏みだした。その時、
「しゃがめ!」
と、カムラの声がこだました。
前回異形の者と戦ったときのように、後方の盗賊カムラがナイフを投擲したのだろう。
しかし、マリネはしゃがまなかった。軍務長から目を離すことを嫌ったからだ。前回と違い、カムラの指示はナイフが投擲されたことへの注意だということを知っている。今のカムラが工夫もしないほど愚かであるとは考えにくいが、暗くなったとはいえカムラの位置を考えると、カムラの投擲動作が軍務長に知られている可能性がある。軍務長が投擲されたナイフに対し少しも物怖じしていなかったら、しゃがんだ分だけ隙を生んでしまう。軍務長はすでに一歩踏みだしているのだ。
刹那にマリネが選択した行動は、一歩後退することだった。横に逃げるのもいいが、後ろにはカムラがいる。横に避けた結果、もはや得体の知れぬ相手となった軍務長が相手をカムラに定めて向かっていった時、足は軍務長に追いつくだろうが、追いついたとして止められるかはわからない。そもそもできれば妹の間合いに入りたくないのだ。カムラが妹の体のことを知っているのかもわからない。カムラが向かってきた妹と向きあうことなく逃げてくれればいいが、自分の戦力を期待してやりあう選択をしたら、捕まる可能性は低くない。逃げろ、と叫べば素直にカムラが逃げてくれる状況というほど、傍目から見れば絶望的な状況でもない。
だから、軍務長の動きに合わせ、一歩後退する。今はまだ待つ時間だとマリネは考えていた。
もちろんマリネはこんなことを一瞬の間で考えたわけではない。経験と普段の行い、思考から幾多のパターンの中から瞬時に導き出されたものだ。10個の数字をひとつずつ足していくのではなく、一遍に見せて瞬時に暗算するようなもので、慣れない者にとっては混乱を呼ぶが、慣れている者にすればどうということはない。
果たして投擲物は、マリネの背中上部、左の肩甲骨のあたりに刺さった。マリネは微動だにもしなかった。
「なっ」
マリネは後方の驚きに、
「ちょうど刃物が欲しかったところだ助かる!」
と返した。
「あなたは痛いでしょうに。かわいそう」
軍務長はそれだけ言うと、歩みを止めた。
同時に、兵たちがついに続々と中庭に入ってきた。
そのことに安堵したマリネに、新たに激痛が襲った。マリネは思わず、いてえ、と口に出した。
カムラが刺さっていたナイフを抜いたのだ。
「あんた、なんでよけなかったんだ。ちくしょう、別のナイフにしてりゃ」
「どのナイフでもおなじだろ?、しかもおれがナイフを使う予定だったのに、まあいい。いいから逃げるぞ。こいつ倒せないんだ。今は人質だけど。そうだろ?」
マリネは軍務長に交戦の意思がないことを確信していた。交戦の意思がないというよりも、あの不可思議な体をひけらかす気がないのだろう。これだけの目が間近になればなおさらだとも考えていた。
「ええ、そうさせていただきましょう」
軍務長がマリネに放った攻撃は、マリネに距離をとらせた一撃のみ。仕組みはわからないが、相手の攻撃がきかないなら、マリネの出方を伺うような待ちに徹する必要はないのに、自ら攻めてはこない。思い返してみても軍務長を守ろうとする兵たちや兵士長の態度に、絶対に壊れないものを壊そうとする者をあざ笑うかのような、知っていたなら隠しても隠しきれない緊張感の相違はなかった。
「倒せないって、その、物理的に?」
「ああ。攻撃がきかねえ。たぶんナイフも刺さらない」
「…バケモノめ」
とはいえ、マリネの確信はいわば勘に過ぎなかった。
「だから人質なんだ。こいつの思い通りにことが進んでいるようであんまり気乗りはしないが、まだ話すこともあるだろう」
マリネは素早く軍務長の手を後ろに回しひねりあげた。カムラも、わけがわからないが、ナイフをちらつかせ、周囲に見せつける。軍務長は抵抗する様子をみせない。
だが、マリネは細心の注意を払っている。軍務長の手を掴んだ時はもちろんのこと、ひねりあげている手がいつでも軍務長の意思で自由になると想定している。いつ軍務長が何らかの攻撃に転じても対処できるよう、カムラの位置も気にしつつ、体勢をつくっている。マリネがこれ以上、軍務長の抵抗がないと確信する、ということは、軍務長の抵抗がないと確信して油断している自分を演じることの始まりなのだ。
「ねえさん、この人いい男ね。まったく、ねえさんったらおかしいわ。また奪ってしまおうかしら」
人質を盾に近づくなと叫ぶマリネと兵たち、周囲の喧騒をよそに、妹はさも楽しそうにカムラに言う。
「そんなことより自分の心配をしたらどうだ。奪うのは私だ。これから、ずっと、お前の望みを奪い続けてやる」
カムラはもう取り乱したりしない。
「強くなったのね、ねえさん。でも、また逃げるんでしょう?、今日だって逃げるじゃない」
「ああ逃げるさ。あたしは盗賊だからね。でも気をつけな妹よ。お前からあたしらが逃げる度にお前はひとつだいじなものを奪われていくのさ。それが盗賊ってもんだ。せいぜい袋の紐はきつくしばっておくんだね」
「うれしいものだわ。またねえさんが絶望する顔が見られると思うと私はどうして楽しくならずにいられますか。愚かなねえさんにできるかしら。私に勝てるかしら。この人をとったらねえさんはどうなるかしら」
「あたしがお前のもとから逃げるのは今回を含めると二度目だな?」
「ええ、あの時はとても愉快で、とてもいい気持ちがしましたよ」
「今回はお前の余裕を奪う」
「ああ、哀れなねえさん。私はいつも一生懸命だわ。余裕なんてないのよ。それに前は何も奪われてないのだけど」
「冒険の書」
「そういえば、そんなことを言ってましたね。数字が合わなくても、私は構わないのに」
「復活の呪文は、ひとつじゃない」
「…なんのことやら」
「自分で考えな。あの時あたしが持ち出したものを、お前は知らない」
「虚勢は張ればいいというものではありませんよ」
「事実もなくはったりをかますほど、バカじゃない」
「ねえさん、私はなんだかとってもうれしい。順調すぎて退屈だったものだから」
「あたしもうれしいね。もう勝てないと思ったあんたに勝てるのだから」
「途中であきらめちゃやあよ?」
「言ってろ。逃げるよ、武道家」
カムラの合図を皮切りに、武道家と盗賊は城壁まで駆け、二人一組になってまるで蜘蛛のように音もなくするすると、あっという間にそそり立つ壁を乗り越えた。
勇者と段々崩壊していく世界
「何事にも事情があるものです。大方、私の発言に彼女が気分を害するものが含まれていたのでしょう。兵士殿、もう日が落ちてしまっているのです。他の皆様にはお休みになってもらう準備をさせてあげてください。それから兵士長殿をこちらへ」
兵士以外の人払いが済む段になって、ようやくカムラは、わずかばかりの理性を取り戻した。
「逃げろ」
ひっそりと盗賊カムラは背後のたったひとりにハンドサインで伝えた。
中庭にいるうちなら、マリネはいつでも逃げられた。城門が閉じられたら城壁をかけ登ればいいじゃないか、そんな掟破りを可能にする身体能力をマリネは有している。だがそんな常識の範疇外の能力をもっているのはマリネだけだ。城育ちの盗賊カムラなら、冷静でさえあれば、逃げだすことは可能だろうとの目立てがつくが、もうひとりの女のことを含めて逃げるとなったら、この後に至ってはもはや、相手方から見逃してもらう、ぐらいしかない。段差も乗り越えられず、鍵も開けられない女では、ちゃんとした出口から出るしかない。よしんば城外に出られたとしても、追っ手がきたなら逃げきることは不可能だ。そして現在の状況を考えれば、その女を城内から連れだす役目はカムラからマリネにうつりかわっている。そのことだけでも生なかな難易度ではないのに、カムラが冷静ではないことがマリネを緊縛する事態に拍車をかけている。まして、逃げろ、なんて言われたら、私がその隙を作る、と続いてもおかしくない話で、そんなことをされたら迷惑この植えない。いざとなったらひとりだけでも逃げきることは容易だが、そのマリネの余裕がマリネの思考と動きを鈍くする。千載一遇の脱出機会がくることに賭け、ただでさえ集団としての主導権を軍務長に奪われたマリネは様子を見ることしかできない。
カムラに対する返事は、後ろ手にして掴んでいるカムラの細腕をより強く握ることで返した。逃げるのは今ではない、というマリネの考えが伝わったかどうかわからないが、じれったいように上下しアピールするカムラの変わらぬ手の形を見たマリネは、とりあえず自身の考えが半分ほどは伝わっていると理解すると同時に、カムラがまだまだ平常の精神を取り戻してはいないことを知った。
「兵士長殿」
軍務長がそう呼びかけた男をちらりとみたマリネは、数刻前に剣と拳を交わした男の姿を認めた。
「聞き及んでいるとは思いますが、私は管理者としてこの騒ぎを大きくしたくはないのです。どうか兵士たちを通常の職務に戻していただけませんか。兵士たちとていつまでも時間を浪費していていいわけではありません。私の護衛と事の証人は、兵士長殿おひとりで十分かと」
「しかし軍務長殿、お言葉ですが」
「兵士長殿、あなたの腕前を私はよく知っています」
「…はっ。承知いたしました。場所は移さぬのですか?」
「いえ、密室は好みませんゆえ」
カムラは、マリネが思っているよりも、段々と冷静さを取り戻していた。
この女、妹は、騒ぎを大きくしようとしている。私を暴れ出させるために、ひとつ、またひとつ、と暴れやすい環境を用意している。どの程度まで装備を外せば私の持つ物理非物理双方の武器によってダメージを受けるかを確かめる作業をしている。カムラは妹からにじみ出る思惑を理解してしまったがゆえに、動きを封じられた。飛来するナイフを交わした先ほどの妹の身かわし動作を見るに、妹の単純な意味での戦闘能力は自分のそれを相変わらず上回っていると見立てるべきだった。マリネなら妹を相手にしても勝つのだろうが、それでも簡単にはいかないだろうし、乱戦が始まったらウルシは捨ておかざるをえなくなる。これ以上、連れの女を見捨てる判断をとれば、マリネからの信用が仕事上のものだけになってしまうことは、マリネの行動をみれば明らかだ。力技は使えない。
それをあざ笑うように、妹はひとつ、またひとつと自身の装備を外していく。人払いをし、しかし、大きな声を出せば不特定多数の人間に聞こえる環境を提供している。愚かな姉さんが何をしても蟷螂の斧、無力、妹はそう確信しているとカムラは思わざるをえない。
暴れ出すことはできない。しかしカムラの頭には、このままおとなしくしていたならば、きっと妹はまた私を逃がす、という妄執があった。妹に一泡吹かせるためにわざわざ城に乗り込んで来たのに、過去に負った精神的外傷をまざまざとほじくり返された挙句、傷を負った過程を再現されるなんてことは考えるだけで鳥肌がたつ。
なんとかこの妹をあっと言わせて、無視のできない存在として認知されなければならない。この女を打ち倒すことが復讐のゴールではない。この女の弄する策も野暮も、全ての考えをひとつひとつ打ち砕いて、手足の出せぬだるまにすることこそが本懐なのだ。だから、カムラはこの場をこのまま妹の思い通りにさせてはいけなかった。だが、何も思いつかない。はじめから大いに出たとこ勝負の作戦だったが、力押しでなら乗り切れるだけの勝算があった。武道家をガンガン行かせて、盗賊である自分がサポートをする。単純ながら単純なだけにハマりさえすれば安全が保証された堅い指向だった。しかし今となっては武道家と盗賊の役割が逆転してしまっている。盗賊のナイフは相手にダメージを負わすことが出来ず、武道家は守るべき者の命を大事にすることしかできない。ジリ貧だ。
「軍務長殿の慈悲に感謝し、申し開きがあるならこの場で申せ」
中庭から兵士や軍務長付きの衛士がいなくなると、兵士長がそう言った。
申せと言われても突破口の見つからないマリネとカムラは歯ぎしりをして押し黙るしかない。
すると、軍務長が、
「この中庭、今では殺風景なものですが、私が子供のころには、立派な庭園があったのですよ。ねえ兵士長殿」
と、言った。
「軍務長殿?」
突然思い出話をしはじめた軍務長に、兵士長は困ったような気の抜けた返事をした。
カムラにだけ通じる挑発なのだから、兵士長の気が抜けるのはしようのないものだ。
「大地からの熱を利用して、冬でも色鮮やかな草木や花々を愛でることができる、とても良い庭園でしたね」
「その通りです」
この場には兵士長しか相槌をうつことが許されている者がいないのだから、兵士長は上官の話に付き合うより他にない。
「あら、兵士長殿はあの頃、兵士たちの訓練に使いたいから庭園をならせと上申していたとの記録があったと思うのですが」
「はっ、その通りであります」
「私も時を経つにつれ理解が深まるのですよ。その中庭は、我が国独自の技法、地熱を利用した、それはそれは庭師に大変な手間と熟練の技術を要求する、先人の知恵と国の繁栄の歴史を象徴するものでした。何かの役に立っていたわけではありませんが、国の予算を圧迫していた記録もありません。ただ失くした今となって、非常事態にある今となって、その象徴というものが如何に必要であったか、よくわかる気がします。たとえば、兵士たちだってどうせ護る自国なら貧相な国より豊かな国の方が良いに決まっています。その豊かさの象徴があの中庭だったのです。我が国の栄光を象徴していたのです。それを証明するように中庭がなくなってから兵士たちの数は増減を繰り返しています。その結果全体の練度と士気が下がってしまったと言わざるをえません。そうですね兵士長殿」
「はっ。恥ずかしながら、当時の私、当時の軍部には、そういった考えにまで及びませんでした。痛恨の極みであります。しかし軍務長、そのような話を誰とも知れぬ輩の前では」
「良いのです兵士長殿。なにも軍の機密まで部外者に話すほど私は愚かではありません。民は、家族、なのですよ」
「はっ、失礼いたしました」
「時に兵士長殿、当時の軍部は中庭を手に入れるためにだいぶ強引な手を使ったようですね」
「軍務長殿、おやめください」
気の抜けることはあっても今まで毅然とした態度を保っていた兵士長が、明らかに狼狽した様相を呈した。カムラははらわたが煮えくりかえるような思いをしながら、じっとふたりのやりとりをにらんでいる。妹は私の精神を弄びながら、暴れ出す機会を与えていることを理解している。
「いいえやめません。私にこの話をとどめさせる権利を、あなたが、有しているとでも?」
兵士長は青くなった顔で、いいえ、とだけ言った。
「当時の軍部は中庭を手に入れるために、なんとも遠大な策を弄したのです。そんなことをしている暇があれば、城の近くの山でも切り開けばいいでしょうに。なぜあんなことを実行したのですか兵士長殿」
「それは…」
「当時は平和でしたから、そうですね、暇つぶし、といったところですか」
「決して、決してそのような…」
「そのような、なんでしょうか」
「…申し訳、ありません」
「謝ることなどないのですよ兵士長殿。大事の前の小事に過ぎません。それとも、あなたたちの計画に私の家族のことも含まれていたのなら話は別ですが」
「軍務長殿!、決して、私どもは決して、あの様なことになるとは、決して」
「どうでしょうか。結局のところ愚かな姉のしたことと納得はしているのですが、当時、大臣補佐をしていた私の父と軍部の間に良好な関係が築かれていたとは言い難いものがあったのも事実ですから」
「お願いです軍務長殿。おやめください。今はこの者たちの沙汰を。私への叱責、私への私刑ならば、いつでも、なんなりと受け入れる所存です。ですから今は」
兵士長の懇願を聞きながら、軍務長はニヤリと笑みを作った。今までに見せたことのないほどとても美しく、とてもおぞましい顔だった。
「ぐ、軍務長殿、お願いいたします」
「いいえ兵士長」
非情にも女は首を横に振ると、カムラに向かって指をさした。
「兵士長、そこな女人に見覚えはありませんか?、顔を隠したまま面接を受けたわけではないでしょうに」
カムラはぐっと奥歯を噛みしめ、冷や汗を流した。
事情を知る者にとってのカムラは、すべて妹の手引きとはいえ、両親及び庭師見習いの青年を手にかけた重罪人だ。よほど事情を知る者以外には獄死したとされているに違いないとカムラは考えている。盗賊として警察に追われることはあっても、脱獄犯として追われたことはこれまで全くなかったからだ。
カムラは自分の存在自体が、妹に対する武器のひとつだと考えていた。だがどうやら、妹にとってそんなものなどどうとでもなる些細なことのひとつに過ぎないらしい。
いくらこの場に兵士長しかカムラが生きている事情を知らざる者はいないといっても、城内からことの成り行きを覗き見る目がなくなっているわけではない。仮にカムラが自分の存在を声高に叫んだとして、そんな世迷言を皆が信じるとは思ってはいないが、妹が証言しようとしているならば話は別なはずだ。
実のところカムラにしてみれば、自分の存在が白日の下に晒されようと大きなダメージはない。しかし平常心を乱されたカムラは必死に、どうするか、を考えていた。
要するにカムラは、またしても妹に先手を打たれ、妹の思うままになるしかなくなっていた。
「教え子の顔を忘れたのですか?、忘れようにも忘れられない印象を残した教え子のひとりだと思うのですが」
「まさか、そんな」
驚きの声を漏らしながらも何か思い当たる節があるのか、兵士長はのどを鳴らして唾を飲み込んだ。
「巷では、盗賊、などと名乗っているようですね。ねえさん」
カムラのぐるぐると回る思考が答えを出せぬまま、種明かしは軍務長によってあっさりと行われた。
「聞いてくださいな、ねえさん。あれからわかったことがあるのですよ。ねえさんが恋をしたあの青年、あの人はここにいる兵士長たちが画策した中庭をめぐるくだらない権力闘争、と呼ぶに値もしない暇つぶしの為の飼い犬だったのです」
へらへらと今にも笑い出しそうに顔をにやつかせ、至極楽しげに軍務長は語り出した。
「当時父さんは軍の縮小を、縮小というよりも予算の効率化を考えていたようです。父さんは決して軍のことをないがしろにし、実質的な弱体化による予算の縮小を狙っていたわけではありません。むしろ軍の強化に力を入れてました」
「…が…な」
「そのためには限りある予算の効率化、出納の透明化が必要なことだったのです。軍部との軋轢を生まぬよう、軍の規模と人員を維持、変わらぬ予算、を約束し、より強固な軍にするために小さな変化を軍に求めたのです。そう、軍務局の設立です」
軍務長はそう言うと、くるりと体を回してカムラたちに背を向けた。
「兵士長、父は、あなたたちが行っていたお小遣い稼ぎの継続も認めていた、いえ、むしろ小さな横領なら片棒を担いでも良いと、そのようなことを約束したようですね」
「…前…な」
「それほどまでに慎重を期して、あなたたちに気を使ったことが、まさか裏目に出るとは父も思わなかったでしょう。いくら父が次の大臣を約束された立場にあって、武官が真っ向から私たちのやってきたことに文句があるのかとぶつけることが難しい相手になっていたとはいえ、あなたたちのしたことはあまりに子供染みています」
「申し訳、ありません」
振り向きなおった軍務長は、やはりにやにやとした顔をして、カムラに向かって話しかけた。
「ねえさん、あとはわかりますね?、全く、困っちまいますよ。彼らは父さんの提案に納得したのです。安堵もしたのです。だけど、あまりに父さんが優しかったせいで」
「…るな」
「彼らはつけあがっちまいましてね。嫌がらせを始めたのですよ。そりゃ自分のやってきた仕事に口を出されるのですからストレスもたまることでしょう、父さんもいっそのこと大鉈を振るい、それこそちゃんとした権力闘争を繰り広げればよかったのかもしれません」
「申し訳ない、申し訳、ありません」
「彼らは、父さんに様々な提案をしました。まともなものはひとつもありません。彼らは単に探っていたのです。父さんが一番嫌がることをです。それが中庭につながる経緯です。父さんは庭園が象徴として如何に機能しているかをわかっていたのです。単純に父さんは庭園が好きでしたしね、そうですよね、ねえさん」
「お前が、父さんを」
「彼らは庭園をつぶすことに決めました。己らの矮小なストレスのはけ口としてです。このことに無い知恵を絞るという行為自体も、浮気相手との逢引の仕方をたくらむことのように、楽しかったのではないですか、兵士長殿」
「申し訳ない…」
「父はすべてしっていたのですよ。あなたたちのいたずらも、その中身も」
「はい、補佐官殿は、わかって、いました」
「ということは、あなたたちはその後に及んでまた父に甘えたのですか。全く、困っちまいますよ。ねえ、ねえさん」
「お前が父さんを語るな」
「ねえさん、それは私のセリフではなくて?」
「離せよ、手を、離せ!」
そのカムラの言葉に、マリネは握っていた手を離したが、同時に素早く片手でカムラの腰を抱き、もう片方の手で口を塞いだ。
兵士長はこの状況の変化に動きもしない。
カムラが我を忘れた以上、受け身になるしかない。この状況で我を忘れるなと言えたものではないが。
マリネは静かに、決断した。もがもがと滑稽に動くカムラの耳元でマリネは、
「お前だけが助かればいい。だから機会を待て」
と、つぶやいた。
カムラの動きがとまった。マリネはカムラの口から手を離した。
「ねえさん、今から言うことは事実ですが、また気を悪くしちゃいやですよ」
「…言ってみろ」
カムラに冷静さが戻った。もう真実だが事実ではない言葉を喚いては妹にやり返される心配はないだろう。父さんを殺したのはお前だ、と、カムラが口に出したなら、妹はきっと待ってましたとばかりにカムラをおちょくり堕とすだろうとマリネは思っていた。そうなったら、カムラがもとに戻るのは難しいだろう。分水嶺を通り過ぎ、マリネは背後の女を見捨て、カムラと逃げる道に入った。
「父さんは、すべてのくだらない企みを看破していました。彼らは庭師を追い出そうとかんがえたのです。あの庭師のおじさんをです。かといって熟練の技法を受け継ぐ大事な人ですから、おいそれとは追い出せません。そこでこちらの意のままに動く後継者を作り、追い出しやすい環境を整えようとしたのです。そう、あの青年ですよ。なんとも時間のかかることを、全く。たまったものじゃありません。その青年は働きすぎました。父さんは」
見捨てる女がウルシだと、マリネは知らない。マリネがそのことを知っていたら?、カムラの頭にこのタイミングでそのようなくだらない考えがよぎった。
「ふっ」
「うん?」
カムラがこのタイミングでなんてことが頭の中をよぎるんだと自分の考えに対して鼻で笑うと、はじめて妹の調子が狂うのを感じた。ここしかない、カムラは動いた。何があっても全力で逃げることだけ考えればいいのだから。
「すると、なにか?。私があの男に恋をしたせいで、父さんはあの男を追い出すことができず、バカの企みに乗っからざるをえなかったと?」
「あの優しい父さんが、ねえさんたちの付き合いに猛烈に反対していたでしょう?」
「あー、なるほど、ふふふ、ふふ、はは」
「あら、狂っちまったのかしら」
「ふふふ、妹よ、安心してくれ」
「ねえさん?」
「心配するな。もとから狂ってるんだ。じゃなきゃ親を刺せるわけがないじゃないか!」
軍務長の目が大きく開かれた。妹との再会以降、はじめてカムラが打った先手だった。
「兵士長、笛を吹き鳴らしなさい」
「は?」
「早く兵を集めて重罪人を取り押さえろと言っているのです」
「武道家!」
「おう!」
「ガンガン行きな!」
「その言葉を待ってたんだ」
一足飛びで懐に飛び込んでくるマリネを見た兵士長は、応戦を諦め、笛を吹くことを優先した。甲高い笛の音が城内に響き渡ると同時に、兵士長は地に伏した。
マリネはすぐに踵を返すと、軍務長と対峙した。
「素晴らしい強さですね。私の知る限り、2番目に強い男です」
「あ?」
その時、マリネは後方で金属と金属とがぶつかる音を聞いた。
舌打ちをならすと、マリネは横に大きく飛び、視界を変えた。
女が倒れていた。その横に立っていたのは篝火に照らされ赤くきらめくナイフを持ったカムラだった。
勇者と段々崩壊していく世界
「私の仕事は机の上でおこなわれます。軍に与えられた予算や備品、そして人員。それらの限りある資源を最も効率よく整理、把握、調整、配置することが私の仕事なのです。紙の上に書かれた無機質な数字や報告に目を通し、事務的に処理していくことしかできません。先ほど私が言った男女混成部隊の設立なども、あくまで想定しうる問題に対するより効率的な事務処理の可能性という観点からの物言いなのです。紙の上では男女の違いなど、書かれている文字の違いでしかありません。記載される記号の違いでしかありません。私の立場からすれば男女の違いなどそういった大変に無機質な違いで、感情を差し挟む余地はありません。ですから、あなたが仰ることに軍務長という立場から何かを答えることはありません。しかし、この招集の管理者のひとりとしての意見を述べるならば、女人だてらに勇気ある者への招集に参じてくれた者を頼もしく思っていますよ」
「ありがたきお言葉、光栄に存じます」
一度堰を切ったカムラの憎しみは止められるわけもなく、このままおとなしくしていればいくつか想定していた脱走パターンのうちのひとつであるマリネの起こす暴動の隙を見てウルシを連れて城から逃げだす道に戻ることも可能だったろうに、やけっぱちな挑発へカムラをいざなう。
「ところで軍務長殿。前回の勇気ある者たちは結局どうなったか把握されているのですか?」
カムラの言葉に周囲の輩たちが少しざわついたが、真っ先に意味のある反応を示したのは、壇上の兵士だった。兵士は再び憤怒の形相を作り、カムラに黙るよう喚き出したが、すぐに軍務長に止められた。
「いいのですよ兵士殿。彼らには知る権利があります。私の責任を以って、私の知る限りのことをお答えいたします」
カムラを見る軍務長は相変わらず微笑んでいた。
マリネはここに至り、臨戦態勢の堅持のみに注力することにした。
「とはいえ、私が知ることは紙の上の話です。あなたの、いや、皆様のご期待に応えられるかどうか」
軍務長はそう言うと、うつむいた。
少しして顔をあげた軍務長は、微笑みを消し、
「私が最後に目にした前回の勇気ある者たちに関する報告書から、勇気ある者として魔王と称する悪と勇敢に戦った彼らの任務成功及び生存を裏付ける数字は書かれていませんでした。今回の招集に至る経緯から皆様がご推察なされるように、全滅したと判断するのが正しいかと。申し訳ありませんが、情けないことに軍務長である私にはこれ以上の仔細を知る道理はないのです。彼らの動静を紙の上の数字で判断するのが私の立場ですから」
と言った。言っていることは随分とドライ且つ中身の無い返事だが、なにぶん冗長なこととその愛らしい容姿と声のおかげで、聞いている者にひどく物悲しい印象を与えた。
「数字ですか。数字といえばやはり前後の数字が合わないとなにかと大変なのでしょうね」
カムラの言葉遣いがややカジュアルになった。茶番を切り上げようとするのを止められないのだろう。
「たとえば、前回の招集時とは違う、私たちへのまるで新兵扱いのような訓練への変更、になった原因などはあなたが目を通した数字の変化に関係があるのでは?」
またしても壇上の兵士が動きだそうとしたが、再び軍務長が、今度は視線だけで止めた。
「訓練ではなく適性検査です。そして皆様の適性を知る為の検査内容を決めたのは私ではありませんし、私の仕事ではありません。また、まだ始まってもいない内容について私から何かを言うことは私の職務権限から大きく外れます」
「数字しか知らなくても逃げた奴の数ぐらい知っているだろう。それとも逃げた奴らのことなんかは死亡扱いで数字を引かれていたのかい?」
「前回の招集は前代未聞といえ、さらに急ごしらえにならざるをえないものでした。我々の想像以上に過酷な任地であった、ことも事実であると、皆様にお伝えいたします。また、勇気ある者、は我が国が強制して集めているわけではありません」
「魔王の言いなりの招集でも?」
「この件につきましては、我が国、我が軍、私への侮辱ならばあまんじて受けさせてもらいます。ですが、あらかじめ言っておきますが、彼らは自ら進んで炭鉱のカナリアになる覚悟を持った、真に勇気ある者たちでした。我が国、いや、この大陸に生きる者にとって、彼らの勇気によりもたらされた情報の数々は安寧の嚆矢となるものです。彼らへの侮辱は控えてもらいます。たとえ彼らの一部にくじけぬ心を持たざる者が居たとしてもです」
「曲がりなりにも軍の人間だろうに、ずいぶんと甘いんだね」
「彼ら、そして皆様は軍令の下にある人間ではありません。本来であれば我々が守るべきだいじなものです」
「だいじなもの、か。軍務長、もう一度聞くよ。だいじなもの、の数字は知っているのだろう?」
「あなたが何を仰りたいのか、私にはその考えに及びませんが」
そう言うと、軍務長はきゅっとこれまでにないほど顔をほころばせ、
「あなたは私にとって民とは何者であるかわかりますか?」
と続けた。
カムラが軍務長をにらんで黙っていると、軍務長は、
「家族、ですよ」
とつぶやくように言った。
その言葉を聞いたカムラの様子を見たマリネは、計画も何も置き去りにして、カムラのもとに駆け寄った。
「家族の数を忘れることはないでしょう」
カムラのもとに来たマリネは、即座にカムラの利き手をねじりあげた。カムラの腕を覆うローブの端からナイフが土と混ざった雪の上に落ちた。それを見て色めき立った兵士がすぐに剣を抜き放つと、声も出さずにマリネたちに接近してくる。周囲にいた輩のひとりが素早く、マリネに近づいてきた。おそらく、暴漢を制止しているマリネに助力をしようとした者であろうが、マリネとその男とではカムラを制止する目的が違う。マリネにとって男のこの善意は迷惑この上ないものだった。マリネは仕方なくカムラの腕から手を離すと、素早くそして的確に、無防備に近づいていた男のみぞおちに正拳をたたきこんだ。哀れな男は前のめりに崩れ落ち、動かなくなった。と、今度はカムラが動いている。地に落ちたナイフをさすがのすばやさで疲労と、拾った姿勢そのままにアンダースローで妹に向かって投げつけていた。きっとナイフを持ち直す動作と時間さえ我慢がならなかったのだろう。飛んで行ったナイフは正確に軍務長の顔へと飛んでいったが、軍務長はナイフの速度に比べあまりにゆったりとした動きで、何事もなかったかのようにかわした。
「それ以上はおやめなさい」
軍務長の言葉は表情を失ったカムラや突如男に蹴りを見舞ったマリネにあてられたものではなく、ふたり、いやカムラと同じ格好のウルシも含めた三人を無力化せんとする兵士たちに向けたものだった。
「言いましたでしょうに。侮辱は受けさせてもらう、と。包囲までで結構です。私は我が軍の兵士の力を信用していますから」
ウルシは包囲する兵士の言う通り、両手を頭の後ろに組むことしかできない。その背後、背中合わせの距離にはカムラをしっかりと抑えるマリネがいるというのに。
マリネがカムラを制止した理由は、カムラの第一行動指針が何かあったら逃げるということから、何が何でもこの場で怨敵を討つ、に変わってしまったことを察知したからだ。もちろんそんなことをカムラが勝算を加味して取捨選択できるほど冷静ではない。ヒステリックな行為だ。はじめから逃げることを前提に乗り込んできたのだ。逆にいえば、マリネひとりが逃げることで精一杯の状況になるのだ。当初の予定通りマリネひとりであっても全力で逃げることに集中しなければならないのに、相手に向かおうとするカムラがいてはカムラを助けようにも助けられない。それならまだ、表情を失くしたカムラを気絶させて担ぎながら逃げるに賭けた方がマリネにとっては現実的な話だ。ましてや、できるならば逃がさなきゃならない相手がもうひとりいる。これにはカムラの自立が必要不可欠だった。マリネはカムラが凶行を働く前になんとか取り押さえ、穏便ではない状況の中でもできるだけ穏便な道に進み、その間にカムラに冷静さを取り戻してもらって、流れの中で隙をみて逃げるしかなかった。しかし、カムラの手からナイフが投擲されると同時に、もうマリネは場を自らの力で動かすことができなくなった。計画はもとより、こちらの持っているカードをちらつかせることによる挑発も、産まれたての赤子が産声をあげるより早い段階で水泡に帰した。カムラは暴れようとして暴れたのではない。暴れさせられたのだ。こうなっては主導権もクソもない。俎上の鯉とはこのことだ。マリネはこれから敗北の決まった戦いに身をおかなければならない。マリネが動けない間にも、騒ぎを聞きつけた城の者が次々とやってきている。それでもマリネが他人の身を案じ、自分の身を最優先させる事態だと判断していないということは、自分ひとりを逃がすだけならこの状況でもまだ可能だと無意識下でマリネの危機察知能力が断じていることの証左であり、武道家マリネの剛勇を物語っている。
勇者と段々崩壊していく世界
「軍務長殿!」
いたたまれなくなったマリネは、女の話をさえぎって声をかけた。強引に話を変えようという算段だ。カムラの手も、震えこそなくなったが、いけ、のままだ。
「ああ、申し訳ありません。そうでした。今は軽装化における資源活用の見直しを考えている場合ではないのでしたね」
他の志願者たちはこの長い独り言の間、なにをしていたかといえば、聞き惚れていたというほどではないが、真面目を装って聞いていた。中には背筋をこれ見よがしにピンとはるようにする者もいた。もちろん楽しんでそのようなことをやっている。若く美しい軍務長の登場以前の兵士の態度をから推察するに、予定通りことが進んでいたならばどうせろくなことにはならないことを皆わかっていた。彼らは、誰かと兵士が喧嘩をはじめ、野郎の汚い罵り声を耳にするよりも、見目麗しい女の声を聞いていた方が幾分有意義な時間の使い方だと結論付けたに違いない。また、こういった突発的な事態に対処できていない兵士たちの顔色などを観察するのも一興だったに違いない。
「では、あなたの仰りたかったことを、ぜひ教えてください。この場合、誇り高き我が軍とすれば考えにくいことですが、風紀の乱れ、男女のもつれから部隊が壊滅するというあってはならぬ事態を避けるためには、あらかじめ人の幅広い趣向を知識として有し、諸問題に対する対策や兵士への慰労を施し士気を高めることが、戦場に足を運ぶことのない私がすることのできる唯一の武器なのです。どうぞ忌憚なき言葉で、あなたの持つ見識をご教授願います」
軍務長の喋る言葉は別に大して中身のあるものではないし、中身がないくせに長ったらしくややもすれば単にうざったい文言なのだが、やはりそこいらには見ない可憐な女が凛と、そしてどこか楽しげに物を喋るのと、ガマガエルを生きたまますり潰した液を煮詰めたものを朝一番の排便の前に2リットル飲み干さねばならぬ宿命を帯びているのだろうなと容易に想像がつく面の、自称中の下本音では中の上だとのたまいがちな醜女が長舌をふるうのとでは、全く違う印象を帯び、全く違う現象を聴衆に引き起こす。もっと声を聞いていたいと望むか、竹林に行って足下からタケノコが生えてきて体を10メートルの高さまで持ち上げてくるまで眉一つ動かすことを禁じる刑に処したい衝動にかられるか、だ。
輩たちにはそれぞれ軍務長の長い話をおとなしく聞いている狙いはあるが、大半は決しておとなしい人物ではないこの聴衆をおとなしくせしめているのは、ひとえに軍務長の容姿が、声が、不快ではなく心地よいものだからだ。強制ではなく、上役の言葉を遮る術を持たない兵士たちからすれば半ば強制なのだが、自然と聴衆の聞く耳を揃えさせるほどの魅力がある容姿と声という才能とずば抜けた才覚、両者を併せ持つ者などまず生まれ出ずることのないことは人の歴史が証明しているが、ここに幼くして、実の父母と城仕えの庭師見習いを謀殺し、姉にその罪を被せ実質的に謀殺し、なおかつその姉をよりあざ笑いたいが為に牢獄から解き放ち生かしながら城内に於いて自身の立場を確立し続ける、という「イワンのばか」の主人公イワンすら籠絡させてしまうような、悪魔たちの王だと形容しても過分ではない黒い心、そしてそれら才能をこの国に於いて最大限発揮できる血脈をも併せ持つのだからたまったものではない。
彼女の持つ才能のどれかひとつとっても使い方によっては世を狂わしかねないほど扱いに注意を払うべきもので、そんなものが三つも四つもひとりのところにあるのだから、混ぜるな危険どころの騒ぎではない。しかしその才能をもって城内をコントロールし、そして国民を、世界をも、コントロールしはじめていることに気がついているのは、この妹により生かされてしまった姉のカムラとマリネだけだ。
マリネが数秒のあいだ返事に困っていると、
「この場にて口に出すのがはばかられる内容であるのならば、後ほど私ひとりにこっそりと教えてくださってもよろしいのですよ?」
と軍務長がにこりと微笑みながら言った。
見方によっては下品な誘い文句ととれ、輩たちはさておき慌てん坊の衛士などいようものならあたふたと動揺しようものだが、この場にいる者たちは、ひとりを除いて、これを素直な乙女の純粋な知識欲からくる言葉だと解した。この女の裏を知るマリネでさえ、表面上はそう受けとった。過去この女に恋する人を奪われたカムラだけが動揺した。
「それは願ってもないことです」
一応、マリネは枕詞に対して続く言葉を返した。マリネがカムラから過去を詳細に教えられていればこのような返事をかえさなかったことだろうが、カムラの動揺はマリネの何気ない一言でより深まった。また、マリネの言葉に動揺したのはカムラだけではないことを忘れてはならない。
「ですが軍務長殿、」
マリネが続けようとしたところで、
「軍務長殿」
軍務長とは違う女の声が自身の言葉を遮り広場にこだましたのを聞いて、今度はマリネが動揺した。ふたりの計画にはない行動だった。マリネにとって見ればあまりにカムラらしくも盗賊らしくもない、稚拙な行動だった。これはまだほとんど始まってもいない計画の放棄を意味する行為だ。
「先ほどあなたの仰った話に関連する質問をしたいのですがよろしいでしょうか」
声のした方を向いた軍務長の顔が一瞬、今までの微笑みとはまるで違う、あたかも周囲の景色に擬態した捕食者が目の前を通る獲物が捕食可能範囲まで近づくのをじっと待っている時の眼をしたのを、マリネは見逃さなかった。その一瞬の、殺意とも好奇とも快楽とも無心とも云えないただただ真剣な眼は、どこまで勘付かれたかはわからないが、この女にカムラの存在がバレたことは確かだ、とマリネが確信するのに十分な情報量を持っていた。
「歓迎いたします。どうぞ続けてください」
軍務長の態度に、先ほどまでと変わったところはみられなかった。変わらずに好奇心と理知が美によって彩られている。
マリネ達の計画を大まかに述べれば、この招集の責任者である軍務長に冒険の書などの秘密を以って挑発し、十二分にこの女の興味を引きつけてから命がけで逃走を図るのはマリネの役目だった。カムラはできるだけ城にのこり、挑発によってこの女がどう動くか監視し、あわよくばこの女が隠しているもの、すなわち今回の魔王出現に関する秘密を見つける、もしくはこの女の弱みになるものを見つけることが役目だった。大事なものを隠している隠し金庫の所有者に、お前が大事にしているものは頂戴した、とハッタリをかますような古典的な盗賊のやり口がこの女に通用すると思うほどカムラは愚かではない。当然のこととして計画通りマリネが暴れたら、その後に警戒が強まる。城内の探索はもちろん、軍務長への尾行などできるはずはない。素性もすぐに割れるだろう。従って計画では多少流動する可能性があるものの同日に、ふたり、は城から脱走する予定だった。
なぜこんなでたらめな計画を、プロの盗賊と慎重な武道家のふたりが実行に移したのか。ふたりが冒険の書に関する秘密の一端にふれ、ふたりを取り巻く事態が大きく動いたことによりそれまでの考えを崩して一からやり直し十にするには単に時間がなかったという面もあるものの、この女を相手にするには下手に策を弄するよりも、発作的な通り魔のような真意のはっきりしない無計画さの方が短期的に混乱をもたらすのではないかとの考えを持つに至ったからだ。そしてなにより、マリネは国を相手に暴れたかったし、カムラは妹を困らせたかった。そしてなによりふたりは逃げ足に自信があった。
この作戦は謂わばカムラが妹へ送る果たし状だった。買わざるをえない喧嘩を売って、逃げた先に追っ手が来たなら返り討ちにする。策を使われたならぶち破る。こちらも相手を脅かす手段がある。無視することのできない存在の確認された薬も効かない獅子身中の虫になり、その身を、望みを、食ってやる。這いつくばるお前に高笑いで応えてやる。
「では、軍務長殿は女人がこの招集に応じることをどのようにお考えかお聞かせください」
カムラはここに来て、じっとしていることができなくなってしまった。カムラが生きていくために鍛えあげざるをえなかった、仲間内では盗賊の鼻とも呼ばれる五感を頼りに空気の流れなどのわずかな変化を見逃さず何らかの変異や異物をいち早く発見するテクニックが、立ち列ぶ招集者たちの中で誰よりも早く怨敵である妹の接近を知覚した時にはなんとかこらえることができて、それでもマリネにサインを送る手に力が入ってしまったが、ほっとしていたというのにこの体たらくだ。杜撰とはいえ様々な可能性のあった計画をおしゃかにしてしまったことも、それによって隣にいるウルシがとてつもなく厄介な存在になったことも、妹が自分の存在に気づいたことも、またその妹と言葉を交わしているという行為も、カムラの体を奪っていく。もはやなにを口に出して喋っているのかすら他人事のように、平静をなくしたカムラの心と体は一致していなかった。じっとしていられないから動いた。が、なにをしてるのか、なにをしていいのかわからない。ただなぜかは知らないが、口からでる言葉や態度は他人からみれば至極冷静なもので、こうなるとマリネに至ってはわけがわからない。
カムラに何か考えがあって妹と言葉を交わすに至ったのか発作的なものなのか。自分はカムラを無視すればいいのか、それともこのやりとりに何らかの形で介入すればいいのか。カムラとの距離感はどうするか、カムラに視線を向けるか、あの女に向けておくか。マリネは容易に動けなくなった。
マリネの行動を縛る原因はカムラではない。カムラの隣にいる女のせいだ。カムラが暴走し、自棄になっても、それでもカムラには逃げ足がある。カムラをサポートしつつこの場から逃げおおせることは、当初の予定とさほど難易度に違いはない。
しかし、隣の女をサポートしつつ逃げることは武道家であるマリネの領分ではない。マリネはカムラの隣にいる女がたたかいの素人だということぐらいしか知らないし、当初の予定では盗賊カムラがどのようにその女を城から連れ出すかも、盗賊の腕を信用する形で、聞いてはいない。いざとなればその程度のことしか知らない他人の一人や二人どうなろうとわが身とカムラの安全を優先することぐらい平気でするのがマリネという武道家の精神ではあるが、それはあくまで最後までとっておくべき選択肢だという良識もちゃんと持ち合わせている。だからこそ下手に動けない。カムラにしてみても、実際は隣の女すなわちウルシを苦しめようとして連れてきているからいざという時にウルシがどうなろうと刑罰のささいな変更に過ぎないのだが、そのことをマリネに気取られてはいけないし、マリネに隣の女がウルシであることを知られるのはもっとまずい。
二者二様の煩悶を抱えながら短くも長い思考のエアポケットに入ったマリネとカムラ
をよそに、その原因たる当事者のひとりウルシは、なにも知らないことをいいことに、カムラから言われていたことを守り、じっとしたまま当初の作戦における自分の役目を全うしていた。そうすることしかできない、のも事実だが、望みが叶うまで言われたことをやり続ける覚悟がある、ともいえる。ことここに至って、行動を自分で選択する権利もないとも思っている。愚かな私はまた間違った行動をする、とマリネを視界にとらえてから特に強く意識していた。盗賊を信じる。もはやウルシにはその一点にしかすがるものがない。