勇者と段々崩壊していく世界 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

勇者と段々崩壊していく世界

「軍務長殿、ご無事で!?」
「ええ、隊長殿。この度の私の失態、あなた方に如何様な言葉で詫びればよいか」
「軍務長殿がご無事であるならば、私どもは何も望みません」
「必ず、この度の非は私のみが負います。ところで、倒れていた女がいたはずですが」
「はっ、すでに事切れておりましたゆえ、そのままに」
「重要な証人です。簡単に死んでしまっては困ります。処置をすればまだ助かるかもしれません。医者の手配を。今は私が診ましょう」
軍務長は急いだ様子で、仰向けに倒れている女のもとへ駆け寄った。
ウルシは虚空を一点に見つめて、動く気配はない。少し小さく見える。誰が見ても、死んでいた。しかし、軍務長は誰とはなしに、ぽつりとつぶやいた。
「窒息ですね。まだ、間に合います」
ウルシの体位を横にし、口腔にたまっている血を流すと、何度か背中を叩いた。その場にいた誰もが無意味な行為だと思った。蘇生することは不可能だと思ったし、そのような蘇生法では用をなさないと。
だが、軍務長が何度目か背中を叩いた拍子に、女が口内から血を、吐き出した。自発的に血を吐いた。そんなバカな、と、どよめく周囲に、軍務長は、
「医者はまだか!」
と一喝した。
「やはりすばらしい」
誰からも見えぬようにウルシをさする己の手が、青白く光る淡い燐光を帯ているのを見ながら、軍務長は闇より他に聞くもののない感嘆の声を漏らした。続けて、
「城にいては楽しめぬやも。ねえ、ねえさん」
とつぶやく軍務長の顔がどのようなものだったか、知る者は、本人を含めて、いない。


垢だらけの顔をにんまり歪ませて、汚い手をした乞食の爺さんが、私に懐から取り出した乾パンをくれる。何回か見たことがあるけど、別に親しかったわけじゃない、ああ一度助けたことがあったっけ。
乞食になりたての私は、とても嬉しくなって、その汚らしい乾パンを口にする。
「うまいだろ盗賊」
私は何も答えることができない。
「盗賊、おいしいかい?、寒くてたまらないよ、盗賊」
私が盗賊になるのはまだ先なのになあ、カムラは思った。
「盗賊、この前はありがとう助かったよ」
きっと私が、この人の記憶を思い出したから、この人はこんなことを言ったのだろう。こんなヘンテコで都合のいい過去の光景は、あれしかない。ほら、段々、あたりがぼやけてきた。
「盗賊、盗賊、盗賊」
誰かの声が聴こえる。もうすぐ視覚も取り戻すんだろう。
私は、乞食のころ、よく倒れた。たまに腹いっぱい飯を詰め込んだり、風呂に入ったり、酒を飲んだりすると、途端に気持ち悪くなって、血の気を失い、気がつくと誰かに介抱されていたりした。気がつく時には必ず、走馬灯を見る。たぶん一度リセットされた脳が再起動するにあたり、過去と現在得られる情報をすり合わせて、寝ている時に見る夢よりも強引に整理しているんだろう。
「盗賊」
武道家の声だ。まだ、私の目は視覚情報を正しく私に伝えず、ちかちかと、明滅して、まるでモザイク模様だ。
「盗賊」
段々クリアになっていく視界のなかに、マリネの姿が見えた。私を覗きこんでいる。
「やあ、武道家」
何度目かは知らないが、武道家の呼ぶ声に私は明るく応えた。
「大丈夫そうだな」
「大丈夫さ」
そう言って立ち上がろうとした私を、マリネが抑えた。
「顔に血の気がねえ。まだ横になっていろ」
私はおとなしくマリネの言う通りにした。安全な隠れ家までたどり着いたまでは記憶がある。直後に倒れたんだろう。だとしたらまだ安全が確認されたわけではない。いつでも動ける状態を保っていなくてはならない。マリネの言う通り、体にうまく力が入らない。気分も悪い。意識も、ぼんやりとしている。回復に集中しなくてはならない。
「夢をみていたよ」
なんとはなしに、私がそう言うと、
「そういやおれも、フナムシや師匠に意識をかりとられた時はよくみていたな。段々夢と現実がごちゃ混ぜになっていって、ありゃなかなかおもしろいもんだ」
マリネはにこりと笑った。
「なあ、武道家」
床の上で寝転びながら、私は何気なく言ったのだ。
「これで終わりでもいい。このまま逃げたっていいんだ」
マリネはそれを聞くと、
「おれとフナムシが師匠、師匠は今でもなんだかよくわからない武道家だったんだが、その人に一番初めに教わったことは、死んだふり、と、適切な怯え方、だ。がっかりしたぜ。強くなれると意気込んで弟子入りを頼んだのに、まさか演技指導されるとはおもわなかった」
そう言って、はにかんだ。
「まあでも修行が始まったら地獄すら生ぬるい日々だった。初日から、演技を渋るおれらに師匠は激怒してな。実際にわからせてやると言って、おれらを半殺しにし、瀕死のおれらが怯えて震えているのを見て、それだ、なんて言ったり。何が、それだ、だよ。やりすぎだあの野郎は。その日は、そのまま山を延々と走らされて、気がついたら布団の中にいて、フナムシが先に起きていたっけな。痛む体で昨日は何が起きたのか話し合っていると、部屋の中に師匠が入ってきて、師匠の顔を見て血の気がひいたおれられの顔を見てまた、それだ、なんて言いやがった。笑えなかったなあ。おれらが適切な怯え方を身につけるまでこんな風にひとつひとつ指導されるのかと思うと、心底生きた心地がしなかった」
「大変だねそれは」
「ああ。当たり前だが、次の日には師匠から逃げようとしたんだが、すぐに見破られて、逃げ方がなっていない、と始まった。逃走に失敗したら死ぬんだぞ、そう言って師匠はおれたちを半殺しにし」
「ふふ、半殺しにされてばかりじゃないか」
「慣れとは恐ろしい。八年ほど師匠のもとにいたが、その間に半殺しにされた回数を数えるより、無事だった日を数えた方がはるかに楽だ。無事だった日はよく覚えている。師匠から逃げきった日、おれとフナムシが街に出てきたその日だけだから」
「悪いけど、バカみたいだ」
「言うな盗賊。やるせなくなる」
ふたりはしばし笑った。
「自分ひとりだけなら逃げられるって場面は何度もあったんだ。あの野郎はおれたちを買い出しなんかに行かせる時には、必ずひとりを人質にしてやがったからな。ああいや、別におれたち三人は人里離れて暮らしていたわけじゃないぞ。山にこもることも多かったが、師匠はよく村の酒場に酒を飲みにいったり、収穫期には畑仕事を手伝ったり、畑を荒らす害獣用の罠を作ったり、退治したり、そもそも確かありゃ開拓や農法指導のために招かれてきていたはず。なのに結構なあいだ山にこもっていたが、何者なんだあいつは。強いしよぉ」
「そんなこと知らないよ」
「悪い。思い出したらムカついてきただけだ。でだ、何度も自分ひとりだけなら逃げられるって状況は互いにあった。まあ当時に気づいてさえいればふたりして逃げられる機会もあったのだが、それはいいとして、でもおれたちはひとりでは逃げなかった。なぜか。友情だとかそんなウェットなもんじゃなくて、単純な話だ。逃げることは生き残るための、最も大事な戦いなんだ。ミスは許されない。要は当時のおれたちにはひとりであの師匠の魔の手から逃げのびる算段がどうしてもつかなかった」
「魔の手とは、言うね」
「逃走に失敗したら死ぬ。師匠なら、やる」
「それは、かわいそうに」
「だからなんだ、今もそうなんだということだ」
「ん?」
「この状況からいま逃げるにしても、いざとなったら逃げるにしても、ひとりじゃ厳しい」
「でも、あたしは、弱い。こうして倒れもする」
「お前ひとりならおれが運べる。足りない部分は補いあって行こうぜ。おれなんか今の状況で何か物や金を工面しようとしたら強盗でもするかしか思いつかねえんだから」
「ふふ、盗賊に向かってそれをいうかい?」
「正直に言うと」
「なんだい?」
「暴れたりねえ」
「はあ、これだから武道家ってやつはいやなんだよ」
カムラは、くっと笑った。
「おれだって的確な指示がなきゃ、ひょんなことで捕まっちまうもんなんだよ。フナムシとふたりで戦いに行く時は役割を決めて行ったもんだ。おれが生き残るために、暴れるためには、お前が必要だ」
「血生臭いプロポーズをどうも」
「ところで、体は大丈夫か?」
気恥ずかしくなったのか、マリネは話題をかえた。
「ま、問題ないだろ。昔はよくあった。疲れただけだろうさ」
「ならいいんだ」
「ところで、その師匠とやらから逃げだしてこれたのは、ふたりが師匠より強くなったということかい?」
「いや、それはわからないが、師匠もおれたちに構ってる暇はないだろう」
「うん?、話が噛み合わないね」
「ああ、なんだ。さすがの師匠も産まれたばかりの我が子を連れてまでおれたちを追ってくるような真似はしなかっただろうし、さすがにもうおれに興味はないよ」
「あんたたち、どんなタイミングで逃げだしたんだい?」
「どんなタイミングって、まっとうなキャンパスライフというものへの憧れが若いおれたちを日々強くし」
「動機はどうでもいい。逃げだした時の状況よ」
「ああ、師匠にようやく陣痛が始まって」
「は!?」
「え?」
「女、だったの?、師匠」
「オスメスで言うならメスだが、人か鬼かというなら鬼だ」
「ああ、そう。そうか。うん」
「それでまあ、まだ安心はできないと」
「それはお産ではなく、あなたたちの逃走のことで?」
「うん。だからおれたちは必死に準備なりを手伝って、神経をすり減らしながらも長い時間を演じ抜き、おぎゃあ、という産声を合図に、逃げた。さすがに産まれたての我が子をおいてまで追って」
「どんだけ慎重なんだお前らは!」
「お前は師匠の恐ろしさを知らねえからそんな悠長なことがいえるんだ!、前日まで半殺しの日々が続いてたんだぞ!、当時のおれたちでもふたりがかりなら今のおれが相手したら無傷じゃすまねえ覚悟がいるのにだ!」
「嘘、嘘でしょ?」
「あんな奴のためにこんな嘘つくか!」
「そんな女がいるなんて信じられるか!」
「いたんだからしょうがねえだろ!」
「だいたいそんな女を相手する男が」
「ああ、それなんだけどな」
「まさか、その子の父親は」
「信じてないんじゃなかったのかよ。そんな目で見るな」
「じゃあ」
「フナムシでもねえ。ありえない。いやあ、当時おれらも疑ったのよ。意識のないあいだに搾取されたのでは?、と」
「ひどい言われよう」
「そんなことをふたりでひそひそと話していたら、師匠にバレて」
「バカだね」
「殺されるのかなあ、と思ったら、そこはいつも通りで済んだんだが」
「ずいぶんのんきに半殺しされるね」
「そのあと村の家畜小屋に連れてかれてさ。延々と豚や牛の精液を搾らされた。師曰く、お前らこんなことして楽しいか?、だそうだ。おれたちは家畜扱いだったんだと思い知った」
「その人が伝えたかったのはそこなのか?」
「次の日、師匠の夜の相手はこの辺りじゃ野生の熊ぐらいしか務まらないだろう、なんてことをフナムシと話していたら」
「嫌な予感しかしない」
「まあ、バレて半殺しにされるんだが」
「さっきから聞いてりゃ、半殺しにされる理由がお前らのバカさにしかない」
「意識を失って気がついたら、目の前に檻に入った大きな熊がいて」
「師匠の調達力も並じゃないね」
「師匠が言うんだ。メスの毛皮も用意した」
「師匠の調達力!」
「そこから先は覚えていない」
「悲しい、話だねえ」
「まあ、師匠の相手が誰なのか知らないが、あんな女を相手にしたんじゃきっともう生きてはいない。ああ、そうか。墓を掘り起こして子種を調達したのかもしれ」
「どうしてお前はそう死にたがりなんだ?」
マリネが軽口を飛ばした瞬間、雑居ビルの一室にある、広くも狭くも廊下もないがらんどうとした隠れ家のドアの向こうから、誰がどう聞いても怒気をはらんだ女の声がした。
カムラは、声の主が追っ手だと、少しも考えなかった。マリネが死んだ魚の目をしながら茫然としていたからだ。
「逃げたら捕まえて殺す。開けなきゃ鍵をぶち壊して殺す。おとなしく姿を見せて殺される。あまり音を立てたくはないだろう。そのくせ大きな声で人の悪口をお前は。…久方ぶりに弟子と会うのだ。私としては、最後の案をおすすめする」
「あなたが、敵じゃないという証拠がない」
それでもマリネは立ち直り、カムラに、動くな、と指示した。動いても無駄なことだと知っている。
「そんなものあるか。要求しているのはこっちだ。動く気配がないということは、鍵をぶち壊して入ってこいということだな。ちなみに、さっき私が言った順番は、そのまま苦しむ時間の長さの順でもある。まあ真ん中なら、どちらが長いか短いか言う必要はないだろうよ」
「わかった、開ける。おれが開ける」
「待っててやるから早くしろ」
マリネは観念して、ゆっくりと扉に近づき、鍵を開けた。カムラは、一応、逃げの体勢をとり、隠れ家にはつきものの、抜け道、に駆け込めるようにしている。
扉を開けたマリネがみたのは、ひとりの少年だった。
「はじめまして」
少年は師匠の声でそう言うと、マリネの背後を指さした。同時にマリネの耳にごとっという音が聞こえた。
指と音に釣られてマリネが後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。いるはずのカムラが消えていた。
慌ててマリネが前を向くと、今度は少年が消えていた。
まずいとばかりに、扉を閉め、後ろを振り向くと、先ほどその姿を消したカムラがいた。ぽかんとしている。
マリネはたとえ罠だと知っていても、カムラのもとに駆け寄らざるをえなかった。
「無事か」
しかし、マリネの予想に反して、罠という罠はなく、
「速すぎる」
とだけカムラはこたえた。
「マリネよ、私が敵じゃないという証拠を示してやったぞ。これでいいか?」
最初と同じように、隠れ家のドアの向こうから、師匠の声がした。マリネをどっと安堵が包みこむ。決して警戒を解いたわけではないのだが、先ほどの襲撃で受けた緊張並びにその襲撃を可能とする師匠が少なくとも今は敵じゃない、という事実に、安堵しないことは誰をもっても不可能だ。
「鍵はあいています」
「そうか。入るぞ」
開いたドアから入ってきた子連れの女は、正確な年齢を知る者はいないが、年相応にやつれているものの、顔と体格は十分に美人と判断される範疇の人物で、
「何回やられれば治るんだてめえらのバカは。棺桶の中で家畜の精液を搾りとりながら熊にてめえのケツを掘らせればいいのか?、どんな地獄絵図だそりゃ!」
と言いながら、油断して師匠に挨拶をしようと不用意に近づいたマリネの首を片手で掴み、体ごと持ち上げて宙に浮かせ、空いた片手でマリネの腹に何発も何発も、終わることなく突きをたたき込む姿など、その容姿からは想像もできない。
マリネは糸の切れた操り人形、いや、〆られたタコのように、だらりと力無く師匠の腕に支えられては垂れ下がり、おそらく、死んだ。