勇者と段々崩壊していく世界
数件のラブホが並ぶ通りは少し曲がっている。なので通りの口から全体を見渡すことはできない。そのくせその中の二件のラブホには出入り口が二方面あり、通りに姿を現さずに脇道へとそれることができる。ホテルから彼女の家へのルートがそれにあたる。ただ通りの真ん中に突っ立っていれば人の出入り全てを見張れるわけではなかった。彼女が男と駅で別れるか、男が彼女を家まで送るか、駅までの道にしたってわざとラブホ通りから向かうことをしないこともある。僕と彼女の実体験に基づく想定だ。ルートをさらにいえば彼女が他の町から始発で帰ってくる場合も想定しなければならないが、その場合は足りなかった。復縁を呼びかけた僕は彼女に、だけども次はない、と告げていた。その、次、とはいろいろと僕の中に定義のようなものがあるが、やはり彼女の言い逃れが通用しない出来事といえば彼女が男とラブホに入るところか出てくるところを捕まえることだった。僕はその脇道のルートとラブホ通りをきょろきょろと前後を見渡しながら何度も何度も足早に往復した。
もちろん浮気現場なんかに出くわしたくはない。僕は彼女が好きだ。どちらも心底そう思う。彼女の言うことを信じられればどれだけ楽か知れたものじゃない。だが信じられない。いや信じる信じないの問題でもないのかもしれない。僕の動悸をとめるには、僕はこうするしかなかったからだ。彼女がホテルから出てこず、さらに家から出てくる姿を見なければ動悸から解放されなかった。しかし最近ではそれでもこと足りず、今日のように始発の時間を見張れなかった日などはたとえ彼女が家から出勤しようとその日は一日中動悸が高鳴るばかりだった。
それほど遠視力のよくない僕は通りゆく人やホテルから出てくるカップル、入ろうとするカップルの顔をあらためるのに、おそらくフナムシと稽古を実行する時に相手へ向ける含みを帯びた視線より力の入った顔をしているだろう。僕と目があった多くの人々がギョッとした顔をして足早に僕の横や前を通りすぎていった。何日もそんな様子であったから当然の結果として何度か警官に呼び止められた。最初に呼び止められた時に口からでまかせで、友人から恋人の浮気調査を頼まれた、現場を取り押さえたら金一封だと言ったら、持ち物検査だけはされたが、ご苦労さんと言われて終わりだった。それからは呼び止められるたびに同じことを言うと警官は、ああ、と得心のいった顔付きでやりすぎるなよと言うだけだった。本来の目的ではないが嫌でも何日かこの町をじっくりと観察した僕から見れば警官のその反応は、僕の持ち物がタバコとマッチとしかないことと僕の嘘が通じて僕が安全な奴だと判断されたのではないかということとは無縁の反応で、おかしな奴には何を言っても無駄である、といった対応だった。この町には、いやきっとほとんどの町には乞食というわけではないのに真夜中や朝早く、もっといえば真昼間にもひとりでふらふらと徘徊している奴が何人もいる。警官にしてみれば僕もそのひとりで、慣れた対応なのだろう。無論法を犯していない僕の行動を制限する権利は彼等にないにせよ面倒は避けたかった僕はその対応を歓迎した。
この日も僕は彼女の出勤時間まで見張りを続け、時間を見計らって移動し、彼女が家から出勤する姿を見た。声はかけない。彼女が怖いと言う行動をしているからだ。彼女に嫌われることはしたくなかった。
この日は一日僕の動悸がおさまることはない。おさまる機会があるなら朝と同じよう彼女が時間通りに、最低でも就業時間からまっすぐ帰った場合の帰宅時間より一時間から一時間半後までに、彼女が家に帰るのを見届けることができた場合のみだ。当然その時間の基準は彼女の性格を考え彼女の性行為にかける時間をおったものだ。専車に乗って一日中彼女を追っかけることもできなくはないが、一日中彼女の視線から姿を隠すことは無理なことだと思う。彼女に見つかれば嫌われる。それだけは避けたかった。
彼女を見届けた僕は歩いてうちに帰る。以前だったら一時間かからなかった道程も今は一時間半以上かかる。動悸で胸が苦しいということもあるが、どうしても以前のようにすたすたと歩けなかった。なにか彼女の住む町に後ろ髪を引かれる思いだった。家に帰れば寝るしかやることがない。何度か彼女と一緒に住もうと提案した部屋だった。仕事場から遠くなる、親から許されない、そんなことを彼女は言って、僕の提案を断った。いつ彼女が来てもいいように綺麗に掃除していたものだが、今はゴミこそないが、掃除をしていないので埃まみれの薄汚い部屋になった。この部屋でやることは寝るしかない、次の日の朝まで。
こうした日々が何日も続いた。
週に一回ほど彼女と正式に会っていたが、その度に僕の懸念はますます強くなり、その度に彼女は僕をますます怖いと思うようになっていった。何度か別れ話を切り出したが、その度に彼女は泣いた。ずっと一緒にいると彼女は言う。そんな彼女の姿を見ながら僕はなぜ彼女が僕と別れないのが不思議でしょうがなかった。
そして転機がやってきた。
もちろん浮気現場なんかに出くわしたくはない。僕は彼女が好きだ。どちらも心底そう思う。彼女の言うことを信じられればどれだけ楽か知れたものじゃない。だが信じられない。いや信じる信じないの問題でもないのかもしれない。僕の動悸をとめるには、僕はこうするしかなかったからだ。彼女がホテルから出てこず、さらに家から出てくる姿を見なければ動悸から解放されなかった。しかし最近ではそれでもこと足りず、今日のように始発の時間を見張れなかった日などはたとえ彼女が家から出勤しようとその日は一日中動悸が高鳴るばかりだった。
それほど遠視力のよくない僕は通りゆく人やホテルから出てくるカップル、入ろうとするカップルの顔をあらためるのに、おそらくフナムシと稽古を実行する時に相手へ向ける含みを帯びた視線より力の入った顔をしているだろう。僕と目があった多くの人々がギョッとした顔をして足早に僕の横や前を通りすぎていった。何日もそんな様子であったから当然の結果として何度か警官に呼び止められた。最初に呼び止められた時に口からでまかせで、友人から恋人の浮気調査を頼まれた、現場を取り押さえたら金一封だと言ったら、持ち物検査だけはされたが、ご苦労さんと言われて終わりだった。それからは呼び止められるたびに同じことを言うと警官は、ああ、と得心のいった顔付きでやりすぎるなよと言うだけだった。本来の目的ではないが嫌でも何日かこの町をじっくりと観察した僕から見れば警官のその反応は、僕の持ち物がタバコとマッチとしかないことと僕の嘘が通じて僕が安全な奴だと判断されたのではないかということとは無縁の反応で、おかしな奴には何を言っても無駄である、といった対応だった。この町には、いやきっとほとんどの町には乞食というわけではないのに真夜中や朝早く、もっといえば真昼間にもひとりでふらふらと徘徊している奴が何人もいる。警官にしてみれば僕もそのひとりで、慣れた対応なのだろう。無論法を犯していない僕の行動を制限する権利は彼等にないにせよ面倒は避けたかった僕はその対応を歓迎した。
この日も僕は彼女の出勤時間まで見張りを続け、時間を見計らって移動し、彼女が家から出勤する姿を見た。声はかけない。彼女が怖いと言う行動をしているからだ。彼女に嫌われることはしたくなかった。
この日は一日僕の動悸がおさまることはない。おさまる機会があるなら朝と同じよう彼女が時間通りに、最低でも就業時間からまっすぐ帰った場合の帰宅時間より一時間から一時間半後までに、彼女が家に帰るのを見届けることができた場合のみだ。当然その時間の基準は彼女の性格を考え彼女の性行為にかける時間をおったものだ。専車に乗って一日中彼女を追っかけることもできなくはないが、一日中彼女の視線から姿を隠すことは無理なことだと思う。彼女に見つかれば嫌われる。それだけは避けたかった。
彼女を見届けた僕は歩いてうちに帰る。以前だったら一時間かからなかった道程も今は一時間半以上かかる。動悸で胸が苦しいということもあるが、どうしても以前のようにすたすたと歩けなかった。なにか彼女の住む町に後ろ髪を引かれる思いだった。家に帰れば寝るしかやることがない。何度か彼女と一緒に住もうと提案した部屋だった。仕事場から遠くなる、親から許されない、そんなことを彼女は言って、僕の提案を断った。いつ彼女が来てもいいように綺麗に掃除していたものだが、今はゴミこそないが、掃除をしていないので埃まみれの薄汚い部屋になった。この部屋でやることは寝るしかない、次の日の朝まで。
こうした日々が何日も続いた。
週に一回ほど彼女と正式に会っていたが、その度に僕の懸念はますます強くなり、その度に彼女は僕をますます怖いと思うようになっていった。何度か別れ話を切り出したが、その度に彼女は泣いた。ずっと一緒にいると彼女は言う。そんな彼女の姿を見ながら僕はなぜ彼女が僕と別れないのが不思議でしょうがなかった。
そして転機がやってきた。
関係ない
ふと思ったというより思い出した、というかたまに思うことだけど、
好きなタイプ、空気の読める人
嫌いなタイプ、わがままな人
ってことを言ったり書いたりする人って大概自分では空気を読めてるって思ってるかなりわがままな人だよね!
という風に短絡的な言葉遊びで世の中の老若男女誰にでも適用されるような性格診断を言ったりするのがぼくの仕事です。
好きなタイプ、空気の読める人
嫌いなタイプ、わがままな人
ってことを言ったり書いたりする人って大概自分では空気を読めてるって思ってるかなりわがままな人だよね!
という風に短絡的な言葉遊びで世の中の老若男女誰にでも適用されるような性格診断を言ったりするのがぼくの仕事です。
勇者と段々崩壊していく世界
午後からのデートに備えるため彼女を家まで見送り、僕は寝てしまわないために道場へ向かうことにした。彼女は一貫してなにも悪いことはしていないという態度だった。
道場についてしばらくぼうっとしていると、フナムシが朝のランニングから帰ってきた。久しぶりに会うフナムシは、よお、と言いながら柔軟体操に勤しみはじめた。僕は、おお、と返した。そのまましばらく互いに無言だったが体をほぐすフナムシに僕は、終わったら久しぶりに組手でもしよう、と提案した。腑抜けた僕の提案は断られるかと思ったがフナムシは良しとうなずいた。急いで僕も柔軟体操をはじめた。
僕はフナムシにけちょんけちょんにやられた。このふた月ほど世の中が大変だというのに家を出るのすら億劫でほとんど体を動かしていなかったのだから、もともとフナムシと技量の差はあまりなかったがずっと修行を続けているフナムシと僕とでは当然の結果だった。
湯浴みの準備をしながらフナムシは、これから何かあるのか、ときいてきた。デートだと僕は言った。そうか、とだけフナムシは応えた。特に以前のふたりと変わらぬやりとりだったが、思えばこの時すでにフナムシは勇気ある者として死地に赴く算段をつけていたのだろう。僕はそんなことをひとつの可能性としてすら考えてなかった。
湯浴みを終えたら飯を食って昼寝をするのが日常だった。僕は湯浴みだけすると道場をあとにした。約束の時間まではまだ数時間あったがじっとしてはいられなかった。またやるよ、とフナムシに嘘を告げて僕は外に出た。
ひとりの時間をどう楽しく幸せに潰そうかと思案しながらふらふらと町を歩いた。彼女との思い出の地を巡ってみようかとも思ったが、そうすると幸せとは程遠い感情に支配されてしまいそうでやめることにした。歩きながら僕はあーでもないこーでもないと独り言をぶつぶつ言ってはにやにやと笑みを浮かべていた。そんな僕の様子はさぞかし不気味だったろうと思う。
結局なにをするでもなくふらふらと彼女の住む町までたどり着くと、待ち合わせの時間まであと一時間ほどになっていた。僕は喫茶店に、彼女との待ち合わせに早く着くといつも僕が利用する喫茶店でその時間を潰した。
今朝あんなことがあったなんてまるで感じさせないように僕は努めた。それは彼女の為ではなく、彼女の弁解を信じたわけでもなく、ただ自身の幸せのためだった。手をつないで歩いたり立ち止まって口付けを交わしたり、歌をうたったり冗談を言いあったりで、やっておきたいことをこれが最後だと彼女に感知されずに詰め込むのはなかなか忙しかった。彼女は久しぶりにみる僕の明るい顔に嬉しそうだった。
夕飯を食べ終わる頃、僕は冗談の延長線上のような雰囲気で一方的に別れ話を切り出した。幸せな一日にはしたかったが、最低限のけじめはつけなければと思っていたからだ。彼女の顔が一気に泣き顔に変わっていった。ホテルに入って少し話し合うことにした。ベッドの上にへたり込んだ彼女は改めて僕の意思をきいた。僕の答えはかわらなかった。彼女はむせび泣いた。いつしか僕も涙を我慢できなくなった。だがその涙の理由はふたりの関係が終わることではなく、自身が死ぬことに起因していた。ホテルに入っても肉体の契りを結ばなかったのははじめてのことだった。
僕は彼女を知り尽くしていた。120パーセントでも80パーセントの彼女ではなく、等身大の彼女を知り尽くしていた。僕が武道家で対戦相手ひいては町行く人々の技量や精神性を推察することが常態化していたからだろうか、客観的にみた彼女の性格や習性を知り尽くしていた。だから彼女が相手の男のことが好きだというのもよくわかった。わかってしまうのは本当に辛かった。
しっかと泣くのをやめた彼女を駅まで送り、僕と彼女は初めてまたねと言わずに別れた。
僕は良い感じで眠くなっていた。二日は一睡もしていない。これなら楽に死ねるかもしれないと思うとうれしかった。家について鏡をみると僕の顔は泣いたからか寝ていないからかひどくむくれていて、そのくせ幽鬼のように目がぎょろりとしていた。これが死に行く者の顔かとえらく関心した。
縄を括るのに都合のいい梁が僕の家にはなかったので、小一時間かけてドアに工夫をして縄を張り、何度か首の圧迫具合を確かめた。ここぞというポジションを見つけ、僕は本番に挑んだ。
結果はもちろん死ねなかった。体を横たえながら気を失いはしたが、真に体から力が抜けた時に首と縄との間に隙間ができてしまったのだろう。しかもそのまま数時間寝てしまっていたのだから間抜けだ。
生き残った僕はどうしたものかと思案した。なぜだか自分にとどめをさすことは考えなかった。はじめから死ぬ気がなかったのではないかと思い苦笑した。
夜になって僕はいてもたってもいられず、彼女のもとに行くことにした。彼女のことが好きだった。
仕事帰りの彼女を駅で捕まえた。幸いなことにひとりだった。僕はごめんと謝ったりして、やっぱりやり直そうと持ちかけた。彼女は嬉しそうにしてくれた。ここにきて僕は彼女の言うことを信じてみるのも酔狂だと思うことにした。
だが僕が彼女に、信じるからそれを証明して欲しい、信用を築きたいと言うと彼女の顔が曇る。彼女は、あいつは同期で家も近いから一緒に仕事に行くことも帰ることもあるだの、ふたりで飲みにいくのはダメだよね?だの、みんなでならいいよね?だのとのたまう。
僕が復縁を呼びかけた手前、ふざけるなと思いつつも強くは言えなかった。じゃあ帰りはできる限り僕が送るよ、と言うと彼女は、怖い、と言った。ただ信じてとだけ言う彼女に、信じられるだけの行動をして欲しい、と言うと、何かを変えるのは自分が自分じゃなくなるみたいで嫌だと言う。嫌われたくない僕にはお手上げだ。こうなれば僕が勝手に探るしかないという結論に達するのは自然なことだ。
そういう理由で、僕は今日も動悸を止められずにラブホ通りを見張っている。ないものを証明するにはあることを信じて探しその結果なかったとするしかない。
道場についてしばらくぼうっとしていると、フナムシが朝のランニングから帰ってきた。久しぶりに会うフナムシは、よお、と言いながら柔軟体操に勤しみはじめた。僕は、おお、と返した。そのまましばらく互いに無言だったが体をほぐすフナムシに僕は、終わったら久しぶりに組手でもしよう、と提案した。腑抜けた僕の提案は断られるかと思ったがフナムシは良しとうなずいた。急いで僕も柔軟体操をはじめた。
僕はフナムシにけちょんけちょんにやられた。このふた月ほど世の中が大変だというのに家を出るのすら億劫でほとんど体を動かしていなかったのだから、もともとフナムシと技量の差はあまりなかったがずっと修行を続けているフナムシと僕とでは当然の結果だった。
湯浴みの準備をしながらフナムシは、これから何かあるのか、ときいてきた。デートだと僕は言った。そうか、とだけフナムシは応えた。特に以前のふたりと変わらぬやりとりだったが、思えばこの時すでにフナムシは勇気ある者として死地に赴く算段をつけていたのだろう。僕はそんなことをひとつの可能性としてすら考えてなかった。
湯浴みを終えたら飯を食って昼寝をするのが日常だった。僕は湯浴みだけすると道場をあとにした。約束の時間まではまだ数時間あったがじっとしてはいられなかった。またやるよ、とフナムシに嘘を告げて僕は外に出た。
ひとりの時間をどう楽しく幸せに潰そうかと思案しながらふらふらと町を歩いた。彼女との思い出の地を巡ってみようかとも思ったが、そうすると幸せとは程遠い感情に支配されてしまいそうでやめることにした。歩きながら僕はあーでもないこーでもないと独り言をぶつぶつ言ってはにやにやと笑みを浮かべていた。そんな僕の様子はさぞかし不気味だったろうと思う。
結局なにをするでもなくふらふらと彼女の住む町までたどり着くと、待ち合わせの時間まであと一時間ほどになっていた。僕は喫茶店に、彼女との待ち合わせに早く着くといつも僕が利用する喫茶店でその時間を潰した。
今朝あんなことがあったなんてまるで感じさせないように僕は努めた。それは彼女の為ではなく、彼女の弁解を信じたわけでもなく、ただ自身の幸せのためだった。手をつないで歩いたり立ち止まって口付けを交わしたり、歌をうたったり冗談を言いあったりで、やっておきたいことをこれが最後だと彼女に感知されずに詰め込むのはなかなか忙しかった。彼女は久しぶりにみる僕の明るい顔に嬉しそうだった。
夕飯を食べ終わる頃、僕は冗談の延長線上のような雰囲気で一方的に別れ話を切り出した。幸せな一日にはしたかったが、最低限のけじめはつけなければと思っていたからだ。彼女の顔が一気に泣き顔に変わっていった。ホテルに入って少し話し合うことにした。ベッドの上にへたり込んだ彼女は改めて僕の意思をきいた。僕の答えはかわらなかった。彼女はむせび泣いた。いつしか僕も涙を我慢できなくなった。だがその涙の理由はふたりの関係が終わることではなく、自身が死ぬことに起因していた。ホテルに入っても肉体の契りを結ばなかったのははじめてのことだった。
僕は彼女を知り尽くしていた。120パーセントでも80パーセントの彼女ではなく、等身大の彼女を知り尽くしていた。僕が武道家で対戦相手ひいては町行く人々の技量や精神性を推察することが常態化していたからだろうか、客観的にみた彼女の性格や習性を知り尽くしていた。だから彼女が相手の男のことが好きだというのもよくわかった。わかってしまうのは本当に辛かった。
しっかと泣くのをやめた彼女を駅まで送り、僕と彼女は初めてまたねと言わずに別れた。
僕は良い感じで眠くなっていた。二日は一睡もしていない。これなら楽に死ねるかもしれないと思うとうれしかった。家について鏡をみると僕の顔は泣いたからか寝ていないからかひどくむくれていて、そのくせ幽鬼のように目がぎょろりとしていた。これが死に行く者の顔かとえらく関心した。
縄を括るのに都合のいい梁が僕の家にはなかったので、小一時間かけてドアに工夫をして縄を張り、何度か首の圧迫具合を確かめた。ここぞというポジションを見つけ、僕は本番に挑んだ。
結果はもちろん死ねなかった。体を横たえながら気を失いはしたが、真に体から力が抜けた時に首と縄との間に隙間ができてしまったのだろう。しかもそのまま数時間寝てしまっていたのだから間抜けだ。
生き残った僕はどうしたものかと思案した。なぜだか自分にとどめをさすことは考えなかった。はじめから死ぬ気がなかったのではないかと思い苦笑した。
夜になって僕はいてもたってもいられず、彼女のもとに行くことにした。彼女のことが好きだった。
仕事帰りの彼女を駅で捕まえた。幸いなことにひとりだった。僕はごめんと謝ったりして、やっぱりやり直そうと持ちかけた。彼女は嬉しそうにしてくれた。ここにきて僕は彼女の言うことを信じてみるのも酔狂だと思うことにした。
だが僕が彼女に、信じるからそれを証明して欲しい、信用を築きたいと言うと彼女の顔が曇る。彼女は、あいつは同期で家も近いから一緒に仕事に行くことも帰ることもあるだの、ふたりで飲みにいくのはダメだよね?だの、みんなでならいいよね?だのとのたまう。
僕が復縁を呼びかけた手前、ふざけるなと思いつつも強くは言えなかった。じゃあ帰りはできる限り僕が送るよ、と言うと彼女は、怖い、と言った。ただ信じてとだけ言う彼女に、信じられるだけの行動をして欲しい、と言うと、何かを変えるのは自分が自分じゃなくなるみたいで嫌だと言う。嫌われたくない僕にはお手上げだ。こうなれば僕が勝手に探るしかないという結論に達するのは自然なことだ。
そういう理由で、僕は今日も動悸を止められずにラブホ通りを見張っている。ないものを証明するにはあることを信じて探しその結果なかったとするしかない。
勇者と段々崩壊していく世界
フナムシと別れて僕は駅へと向かった。ちょうど専車が動きはじめる時間だった。専車に揺られながら僕は不義を叩くため死路へ赴かんとする親友のことを考えてはいなかった。そんなんじゃダメだ、フナムシのことを考えなくてはダメだと何度頭を振っても頭にふつふつと途切れることなく浮かんでくるのは彼女のことだった。特に彼女の浮気のことだった。気がつくと僕は自分の最寄り駅ではなく、彼女の家の最寄り駅で降りていた。
人の流れを見渡せる駅前広場の隅でポケットからタバコを取り出し一服する。特に向かいの細い通りを見渡せるように。その通りは数件の、この町で唯一のラブホに続く通りだ。その通りにはラブホ以外ないので、そこから彼女と男が出てきたらそれすなわち浮気だった。
タバコがなんだかとても乾いているような気がする。全く吸った気がしない。僕はひどくそわそわして動悸が激しく、じっとしていることすら難しかった。僕は見張りを中断して彼女の家の前まで歩くことにした。
駅から歩いて五分ほど、目の前に24時間営業の八百屋があるアパートの一室が彼女の家で両親と住んでいる。外から彼女の部屋に灯りがないことに僕は考えを巡らせる。確かにこの朝早い時間なら寝ている。今日の彼女の予定では、出勤の時間まであと三時間はあるはず。しかし彼女が現在この部屋にいないとも考えられる。僕はじっとしていられず踵を返すと、駅から彼女の家へのルートではなく、ラブホから彼女の家へのルートを通って駅へと向かった。彼女と出くわすことがないよう祈り続けながら歩いた。幸い彼女は見当たらなかったものの動悸は激しさを増していった。
人一人の見張りでは見張れる場所に限界がある。駅前の広場からの見張りでは、ラブホから駅へのルートは見張れてもラブホから彼女の家へのルートは見張れない。男が彼女を家まで送る場合には見逃す。ラブホを見張れば今度は駅から彼女の家へのルートが見張れない。違う場所で男と会っていたなら見逃してしまう。見張れる場所にも違いがある。駅前の隅でポツンと立っているものとラブホの近くでポツンと立っているものの怪しさの違いは言わずもがなだ。
僕はラブホをとった。最悪の事態の方をとった。
実は以前、最近の彼女の行動に怪しさを感じはじめた頃、今日は何かあると睨んではじめて見張りをした日に、駅前から見張っていた僕は彼女が男とラブホ通りから出てくるのとかちあったことがあった。呆然とした僕を遠くから認めたふたりは、すぐさま散り散りになった。しまった出遅れたと思った
僕はすぐさま男を捕まえて殺そうと駆け出したが、そんな僕に彼女はニコニコと笑みを浮かべて近づいてきた。
違うよあいつはただの同期の同僚で専車が出るまでつきあってやっただけでなんにもない、と彼女は言った。彼女の言い訳をよそにして、男を取り逃がした僕は打ち震えていた。
この件とは関係なしに僕はだいぶ前からおかしくなっていた。自分でもなんだかよくわからないがそれまであった自らの武を持って不義を撃つといった情熱や将来そうなるんだという希望は消え失せ、すべてにおいてのやる気や自信、明るい面の感情というものがなくなり考えることは影のように暗いものばかりでいつもなにかつまらなそうな顔をしている。フナムシとの修行もやめ仕事もやめ、彼女と会っても話すことはなく、彼女に話しかけられてもうんと言うぐらいしかなかった。彼女からの疑問系の質問すべてに僕は大きな不快感を示した。どこいく?なにする?どう思う?どう思ってる?。そんな普通の言葉になぜだか知らないがとにかく死んでしまいたいとさえ思った。
それでも僕は彼女が好きだった。このままでは彼女が僕を好きじゃなくなるのも理解はできた。金もなく、話しかけてもうんとしか言わない。こんな男を誰が好きだというのか。僕はよくわかっていた。別れてと言われればきっと、うんと答えた。でも彼女はいわなかった。僕は無為なる日々をただ過ごしていた。
男を取り逃がしたとき、僕の中で何かが崩れた。僕は強い。かなり強い。試合形式ではわからないが実戦だったらウエノでも五指に入るとの自負がかつてあった。そんな僕が、いざ、というときに戦えもできなかった。僕は一体なんの為に修行をしてきたかわからなくなった。不義を叩く時、いざ、という時に戦えるためだったのではないか。僕にとってあの時はいざという時だった。それがこの体たらくだ。僕は死ぬ日を決めた。
寒いし外で話すことではないので彼女をホテルに戻して話しあった。彼女の言い訳はさらに続いた。いま生理だからできるわけない、確かに生理中だった。ただの友達だからただ休んでいただけだからそれにあいつは恋人なんかいらないって言ってるような奴だから、それを信じる男がこの世にいるのか。だいたい前に浮気の定義について話したとき君はホテルに行ったらやることは決まっていると言ったじゃないか、と僕が言っても彼女は頑なに否定した。バッグの中を見せろ、と言うと彼女は抵抗した。ふざけるなと思ったが努めて冷静に僕は彼女を説き伏せた。バッグの中にはいくつか手紙の束があった。どれも相手の男からのものでも男へのものでもなかった。彼女の親友へあてたものと返信だった。
時系列に沿って手紙を読みだす。彼女は何回か僕の手から手紙を取り返そうとしたが、いざという時には役に立たない僕の力と技術の前では、荒事をしたわけではないが、無力だった。手紙のなかで僕はひどい言われようをされていたが、それは僕が悪いとそう思えるものだった。しかし手紙が最近のものになるにつれ、あの男のことが書かれだしてきた。
気になる男ができたんだ。同期数人で集まって劇を観にいって彼と仲良くなれたよ。彼は恋人なんていらないって言う。わからないけど好きかも。今度ふたりで飲むんだ。まあちゃんにはないものが彼にはある。会うの楽しみ。
そんな内容がかなり続いた。確信の核心をつくものはないといえばなかった。
彼女の親友からそのことについての返事は大まかにいえば、なにがあってもどちらを選んでも私はあなたの味方、というもので、僕について彼女の親友がなにを記していても気にとめなかったがこの点だけ僕は恨んだ。
泣いたり謝ったり弁解したり眠くなったりする彼女に僕は淡々とその日の午後会う約束をとりつけた。その日は彼女の仕事が休みの日でもともと会う約束をしていた。だからこそ昨日今日が怪しい日と睨んだわけだが。
僕はこの日を楽しく過ごしたかった。楽しく、幸せな一日でなければならなかった。人生の最後の日ぐらいは幸せな気分でいたかった。好きとか嫌いとかではなく、それだけだった。
人の流れを見渡せる駅前広場の隅でポケットからタバコを取り出し一服する。特に向かいの細い通りを見渡せるように。その通りは数件の、この町で唯一のラブホに続く通りだ。その通りにはラブホ以外ないので、そこから彼女と男が出てきたらそれすなわち浮気だった。
タバコがなんだかとても乾いているような気がする。全く吸った気がしない。僕はひどくそわそわして動悸が激しく、じっとしていることすら難しかった。僕は見張りを中断して彼女の家の前まで歩くことにした。
駅から歩いて五分ほど、目の前に24時間営業の八百屋があるアパートの一室が彼女の家で両親と住んでいる。外から彼女の部屋に灯りがないことに僕は考えを巡らせる。確かにこの朝早い時間なら寝ている。今日の彼女の予定では、出勤の時間まであと三時間はあるはず。しかし彼女が現在この部屋にいないとも考えられる。僕はじっとしていられず踵を返すと、駅から彼女の家へのルートではなく、ラブホから彼女の家へのルートを通って駅へと向かった。彼女と出くわすことがないよう祈り続けながら歩いた。幸い彼女は見当たらなかったものの動悸は激しさを増していった。
人一人の見張りでは見張れる場所に限界がある。駅前の広場からの見張りでは、ラブホから駅へのルートは見張れてもラブホから彼女の家へのルートは見張れない。男が彼女を家まで送る場合には見逃す。ラブホを見張れば今度は駅から彼女の家へのルートが見張れない。違う場所で男と会っていたなら見逃してしまう。見張れる場所にも違いがある。駅前の隅でポツンと立っているものとラブホの近くでポツンと立っているものの怪しさの違いは言わずもがなだ。
僕はラブホをとった。最悪の事態の方をとった。
実は以前、最近の彼女の行動に怪しさを感じはじめた頃、今日は何かあると睨んではじめて見張りをした日に、駅前から見張っていた僕は彼女が男とラブホ通りから出てくるのとかちあったことがあった。呆然とした僕を遠くから認めたふたりは、すぐさま散り散りになった。しまった出遅れたと思った
僕はすぐさま男を捕まえて殺そうと駆け出したが、そんな僕に彼女はニコニコと笑みを浮かべて近づいてきた。
違うよあいつはただの同期の同僚で専車が出るまでつきあってやっただけでなんにもない、と彼女は言った。彼女の言い訳をよそにして、男を取り逃がした僕は打ち震えていた。
この件とは関係なしに僕はだいぶ前からおかしくなっていた。自分でもなんだかよくわからないがそれまであった自らの武を持って不義を撃つといった情熱や将来そうなるんだという希望は消え失せ、すべてにおいてのやる気や自信、明るい面の感情というものがなくなり考えることは影のように暗いものばかりでいつもなにかつまらなそうな顔をしている。フナムシとの修行もやめ仕事もやめ、彼女と会っても話すことはなく、彼女に話しかけられてもうんと言うぐらいしかなかった。彼女からの疑問系の質問すべてに僕は大きな不快感を示した。どこいく?なにする?どう思う?どう思ってる?。そんな普通の言葉になぜだか知らないがとにかく死んでしまいたいとさえ思った。
それでも僕は彼女が好きだった。このままでは彼女が僕を好きじゃなくなるのも理解はできた。金もなく、話しかけてもうんとしか言わない。こんな男を誰が好きだというのか。僕はよくわかっていた。別れてと言われればきっと、うんと答えた。でも彼女はいわなかった。僕は無為なる日々をただ過ごしていた。
男を取り逃がしたとき、僕の中で何かが崩れた。僕は強い。かなり強い。試合形式ではわからないが実戦だったらウエノでも五指に入るとの自負がかつてあった。そんな僕が、いざ、というときに戦えもできなかった。僕は一体なんの為に修行をしてきたかわからなくなった。不義を叩く時、いざ、という時に戦えるためだったのではないか。僕にとってあの時はいざという時だった。それがこの体たらくだ。僕は死ぬ日を決めた。
寒いし外で話すことではないので彼女をホテルに戻して話しあった。彼女の言い訳はさらに続いた。いま生理だからできるわけない、確かに生理中だった。ただの友達だからただ休んでいただけだからそれにあいつは恋人なんかいらないって言ってるような奴だから、それを信じる男がこの世にいるのか。だいたい前に浮気の定義について話したとき君はホテルに行ったらやることは決まっていると言ったじゃないか、と僕が言っても彼女は頑なに否定した。バッグの中を見せろ、と言うと彼女は抵抗した。ふざけるなと思ったが努めて冷静に僕は彼女を説き伏せた。バッグの中にはいくつか手紙の束があった。どれも相手の男からのものでも男へのものでもなかった。彼女の親友へあてたものと返信だった。
時系列に沿って手紙を読みだす。彼女は何回か僕の手から手紙を取り返そうとしたが、いざという時には役に立たない僕の力と技術の前では、荒事をしたわけではないが、無力だった。手紙のなかで僕はひどい言われようをされていたが、それは僕が悪いとそう思えるものだった。しかし手紙が最近のものになるにつれ、あの男のことが書かれだしてきた。
気になる男ができたんだ。同期数人で集まって劇を観にいって彼と仲良くなれたよ。彼は恋人なんていらないって言う。わからないけど好きかも。今度ふたりで飲むんだ。まあちゃんにはないものが彼にはある。会うの楽しみ。
そんな内容がかなり続いた。確信の核心をつくものはないといえばなかった。
彼女の親友からそのことについての返事は大まかにいえば、なにがあってもどちらを選んでも私はあなたの味方、というもので、僕について彼女の親友がなにを記していても気にとめなかったがこの点だけ僕は恨んだ。
泣いたり謝ったり弁解したり眠くなったりする彼女に僕は淡々とその日の午後会う約束をとりつけた。その日は彼女の仕事が休みの日でもともと会う約束をしていた。だからこそ昨日今日が怪しい日と睨んだわけだが。
僕はこの日を楽しく過ごしたかった。楽しく、幸せな一日でなければならなかった。人生の最後の日ぐらいは幸せな気分でいたかった。好きとか嫌いとかではなく、それだけだった。
勇者と段々崩壊していく世界
お前はどうするのか、チェーン展開するかっこだけつけたまずい居酒屋で散々っぱら痛飲した星の明るい夜の帰り道、幼馴染の武道家フナムシは僕に問いかけた。これから勇気ある者としてトッツクポーリへ向かう武道家へのはなむけの夜だった。
僕は返答代わりにただ、むう、とだけ口にするとあの店は酒も飯もまずいがホールの女の子はかわいいなとその日何度目かわからないことを言った。フナムシは僕になにか諦めたような、なにかをふっきるような作り笑顔で、浮気する甲斐性もないくせにと言った。僕も作り笑いを浮かべた。
ほとほとと歓楽街から少し離れた道を歩いているとフナムシが相変わらず笑った顔で、最後に稽古でもするかと言った。そのあとすぐに、戻ってくるかどうかもわからないから好き出来るぞと付け足して顔を和らげた。好きやったらお前が良くても残るおれは迷惑だ、と僕は言ったが友の心情を思うに稽古の実行はやぶさかではなかった。
それからふたりはまず酔いを覚ますことに少し注力した。全速力でまっすぐ駆けることができると確認したら、稽古相手を探しに歓楽街の方へと戻っていった。
この場合ふたりの言う稽古とは喧嘩のことだった。だけどそれは喧嘩と呼べるものでもないことは確かで、喧嘩というよりは通り魔に近い。目星をつけたガラの悪そうで喧嘩慣れしていそうな奴に近づき、お願いしまーす、とか、よっしゃ、とか、一発やらないかなどとふざけて軽妙に言いつつ問答無用で殴りつける。倒れたのを確認したらその場から全速力で逃げる。それがふたりの稽古だ。何百回とこんなことをしたが大抵最初の一発でけりはつく。くんずほぐれつの喧嘩になることはまずない。そういった時の為の心得はもちろんあるが、騒ぎが大きくなる前に僕らは逃げる。一度もやられたことはないが、ある時などは相手の周囲に何十人もの仲間がいたことに気づかずに稽古をして追われるハメになったが、生まれ育った街かのように歓楽街を散り散りに駆け抜けて、多勢を相手にしなければならない場合はこの場所でと決めていた川沿いにある廃工場の脇の細い通路まで逃げ果せた。その場所で落ちあったふたりはもうこれまでかと、この時もそういえば笑顔で、話しあってはしばらくドクドクと脈打つ心臓の音が自分のものか友のものかわからぬ状態でいたものだった。そのあとなにもないまま夜が明け、なんだか拍子抜けしたように、それでも一応警戒して家ではなくふたりして道場に帰った。地方に生まれて野山を駆け回りながら育ったふたりは昔から脚に、下手したら武道の腕前よりも自信があった。
こちらの実践練習にされる相手は溜まったものではないなと感じるが、こちらとしてもなるだけ喧嘩をしたくてうずうずしているような奴や人の迷惑も省みず道の真ん中をノロノロと方で風を切って歩いているような奴に狙いをつけているのでおあいこだと勝手に決めつけていた。
その日の相手は簡単にみつかった。都合のいいことに相手もふたり連れだった。僕らはよろこんでそのガラの悪いふたりを見やり各々目が合うと、相手ふたりはさっと気構えがかわるのがわかった。ついている。互いにこれから喧嘩が行われることを察し、僕らはふたりに近づく。手が届かない最終線まで近づき、もちろん相手ももう完全に喧嘩の気構えがある、お願いしますとよろこびを隠しきれていない声を発するや否や相手の首を殴りつける。僕は一発で仕留めきれずに二発目を当てる必要になったが、フナムシは一発でやった。どちらにせよ一瞬の出来事だ。騒ぎになる前に駆け出し追っ手がないことがわかると何時もの通り散り散りになり、なにもなかったときの落ち合い場所の公園へと向かった。僕が行くとフナムシはすでにいた。ふたりは目が合うと互いにこの日一番の笑い声をあげた。
二手かかったことをなじられると僕は、おれの相手の方が強そうだっただろなどと適当にかえしてやっぱり笑いあった。今の僕にはとてもとてもただひたすら心地よい時間だった。
あったかい缶コーヒーが次第に熱さを失っていくように笑いが収まると、今度はしんみりしだして昔話をした。どうやらもう稽古はやらないようだ。
野山を駆け回った少年時代のこと。山でであった師匠のこと。尋常ならざる修行に24時間費やした日々。師匠との別離。好きだった女の子のこと。通学の為に町へでたこと。稽古の思い出。僕が世の中の不義をなくしてやるんだとの情熱にかられてい頃のこと。仕事のこと。彼女のこと。僕のこと。そして彼女の浮気のこと。
いつの間にか、だがあっという間に白みはじめた空を見上げながらどちらともなく帰宅を匂わせた。歩いて帰るというフナムシに僕は付き合わなかった。さよならのかわりに背中をバシと叩き、お前がダメだったらその時がおれの番だと言った。フナムシは、ウソつけと言って最後の笑顔を見せ去っていった。
僕は返答代わりにただ、むう、とだけ口にするとあの店は酒も飯もまずいがホールの女の子はかわいいなとその日何度目かわからないことを言った。フナムシは僕になにか諦めたような、なにかをふっきるような作り笑顔で、浮気する甲斐性もないくせにと言った。僕も作り笑いを浮かべた。
ほとほとと歓楽街から少し離れた道を歩いているとフナムシが相変わらず笑った顔で、最後に稽古でもするかと言った。そのあとすぐに、戻ってくるかどうかもわからないから好き出来るぞと付け足して顔を和らげた。好きやったらお前が良くても残るおれは迷惑だ、と僕は言ったが友の心情を思うに稽古の実行はやぶさかではなかった。
それからふたりはまず酔いを覚ますことに少し注力した。全速力でまっすぐ駆けることができると確認したら、稽古相手を探しに歓楽街の方へと戻っていった。
この場合ふたりの言う稽古とは喧嘩のことだった。だけどそれは喧嘩と呼べるものでもないことは確かで、喧嘩というよりは通り魔に近い。目星をつけたガラの悪そうで喧嘩慣れしていそうな奴に近づき、お願いしまーす、とか、よっしゃ、とか、一発やらないかなどとふざけて軽妙に言いつつ問答無用で殴りつける。倒れたのを確認したらその場から全速力で逃げる。それがふたりの稽古だ。何百回とこんなことをしたが大抵最初の一発でけりはつく。くんずほぐれつの喧嘩になることはまずない。そういった時の為の心得はもちろんあるが、騒ぎが大きくなる前に僕らは逃げる。一度もやられたことはないが、ある時などは相手の周囲に何十人もの仲間がいたことに気づかずに稽古をして追われるハメになったが、生まれ育った街かのように歓楽街を散り散りに駆け抜けて、多勢を相手にしなければならない場合はこの場所でと決めていた川沿いにある廃工場の脇の細い通路まで逃げ果せた。その場所で落ちあったふたりはもうこれまでかと、この時もそういえば笑顔で、話しあってはしばらくドクドクと脈打つ心臓の音が自分のものか友のものかわからぬ状態でいたものだった。そのあとなにもないまま夜が明け、なんだか拍子抜けしたように、それでも一応警戒して家ではなくふたりして道場に帰った。地方に生まれて野山を駆け回りながら育ったふたりは昔から脚に、下手したら武道の腕前よりも自信があった。
こちらの実践練習にされる相手は溜まったものではないなと感じるが、こちらとしてもなるだけ喧嘩をしたくてうずうずしているような奴や人の迷惑も省みず道の真ん中をノロノロと方で風を切って歩いているような奴に狙いをつけているのでおあいこだと勝手に決めつけていた。
その日の相手は簡単にみつかった。都合のいいことに相手もふたり連れだった。僕らはよろこんでそのガラの悪いふたりを見やり各々目が合うと、相手ふたりはさっと気構えがかわるのがわかった。ついている。互いにこれから喧嘩が行われることを察し、僕らはふたりに近づく。手が届かない最終線まで近づき、もちろん相手ももう完全に喧嘩の気構えがある、お願いしますとよろこびを隠しきれていない声を発するや否や相手の首を殴りつける。僕は一発で仕留めきれずに二発目を当てる必要になったが、フナムシは一発でやった。どちらにせよ一瞬の出来事だ。騒ぎになる前に駆け出し追っ手がないことがわかると何時もの通り散り散りになり、なにもなかったときの落ち合い場所の公園へと向かった。僕が行くとフナムシはすでにいた。ふたりは目が合うと互いにこの日一番の笑い声をあげた。
二手かかったことをなじられると僕は、おれの相手の方が強そうだっただろなどと適当にかえしてやっぱり笑いあった。今の僕にはとてもとてもただひたすら心地よい時間だった。
あったかい缶コーヒーが次第に熱さを失っていくように笑いが収まると、今度はしんみりしだして昔話をした。どうやらもう稽古はやらないようだ。
野山を駆け回った少年時代のこと。山でであった師匠のこと。尋常ならざる修行に24時間費やした日々。師匠との別離。好きだった女の子のこと。通学の為に町へでたこと。稽古の思い出。僕が世の中の不義をなくしてやるんだとの情熱にかられてい頃のこと。仕事のこと。彼女のこと。僕のこと。そして彼女の浮気のこと。
いつの間にか、だがあっという間に白みはじめた空を見上げながらどちらともなく帰宅を匂わせた。歩いて帰るというフナムシに僕は付き合わなかった。さよならのかわりに背中をバシと叩き、お前がダメだったらその時がおれの番だと言った。フナムシは、ウソつけと言って最後の笑顔を見せ去っていった。