勇者と段々崩壊していく世界 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

勇者と段々崩壊していく世界

午後からのデートに備えるため彼女を家まで見送り、僕は寝てしまわないために道場へ向かうことにした。彼女は一貫してなにも悪いことはしていないという態度だった。
道場についてしばらくぼうっとしていると、フナムシが朝のランニングから帰ってきた。久しぶりに会うフナムシは、よお、と言いながら柔軟体操に勤しみはじめた。僕は、おお、と返した。そのまましばらく互いに無言だったが体をほぐすフナムシに僕は、終わったら久しぶりに組手でもしよう、と提案した。腑抜けた僕の提案は断られるかと思ったがフナムシは良しとうなずいた。急いで僕も柔軟体操をはじめた。
僕はフナムシにけちょんけちょんにやられた。このふた月ほど世の中が大変だというのに家を出るのすら億劫でほとんど体を動かしていなかったのだから、もともとフナムシと技量の差はあまりなかったがずっと修行を続けているフナムシと僕とでは当然の結果だった。
湯浴みの準備をしながらフナムシは、これから何かあるのか、ときいてきた。デートだと僕は言った。そうか、とだけフナムシは応えた。特に以前のふたりと変わらぬやりとりだったが、思えばこの時すでにフナムシは勇気ある者として死地に赴く算段をつけていたのだろう。僕はそんなことをひとつの可能性としてすら考えてなかった。
湯浴みを終えたら飯を食って昼寝をするのが日常だった。僕は湯浴みだけすると道場をあとにした。約束の時間まではまだ数時間あったがじっとしてはいられなかった。またやるよ、とフナムシに嘘を告げて僕は外に出た。
ひとりの時間をどう楽しく幸せに潰そうかと思案しながらふらふらと町を歩いた。彼女との思い出の地を巡ってみようかとも思ったが、そうすると幸せとは程遠い感情に支配されてしまいそうでやめることにした。歩きながら僕はあーでもないこーでもないと独り言をぶつぶつ言ってはにやにやと笑みを浮かべていた。そんな僕の様子はさぞかし不気味だったろうと思う。
結局なにをするでもなくふらふらと彼女の住む町までたどり着くと、待ち合わせの時間まであと一時間ほどになっていた。僕は喫茶店に、彼女との待ち合わせに早く着くといつも僕が利用する喫茶店でその時間を潰した。
今朝あんなことがあったなんてまるで感じさせないように僕は努めた。それは彼女の為ではなく、彼女の弁解を信じたわけでもなく、ただ自身の幸せのためだった。手をつないで歩いたり立ち止まって口付けを交わしたり、歌をうたったり冗談を言いあったりで、やっておきたいことをこれが最後だと彼女に感知されずに詰め込むのはなかなか忙しかった。彼女は久しぶりにみる僕の明るい顔に嬉しそうだった。
夕飯を食べ終わる頃、僕は冗談の延長線上のような雰囲気で一方的に別れ話を切り出した。幸せな一日にはしたかったが、最低限のけじめはつけなければと思っていたからだ。彼女の顔が一気に泣き顔に変わっていった。ホテルに入って少し話し合うことにした。ベッドの上にへたり込んだ彼女は改めて僕の意思をきいた。僕の答えはかわらなかった。彼女はむせび泣いた。いつしか僕も涙を我慢できなくなった。だがその涙の理由はふたりの関係が終わることではなく、自身が死ぬことに起因していた。ホテルに入っても肉体の契りを結ばなかったのははじめてのことだった。
僕は彼女を知り尽くしていた。120パーセントでも80パーセントの彼女ではなく、等身大の彼女を知り尽くしていた。僕が武道家で対戦相手ひいては町行く人々の技量や精神性を推察することが常態化していたからだろうか、客観的にみた彼女の性格や習性を知り尽くしていた。だから彼女が相手の男のことが好きだというのもよくわかった。わかってしまうのは本当に辛かった。
しっかと泣くのをやめた彼女を駅まで送り、僕と彼女は初めてまたねと言わずに別れた。
僕は良い感じで眠くなっていた。二日は一睡もしていない。これなら楽に死ねるかもしれないと思うとうれしかった。家について鏡をみると僕の顔は泣いたからか寝ていないからかひどくむくれていて、そのくせ幽鬼のように目がぎょろりとしていた。これが死に行く者の顔かとえらく関心した。
縄を括るのに都合のいい梁が僕の家にはなかったので、小一時間かけてドアに工夫をして縄を張り、何度か首の圧迫具合を確かめた。ここぞというポジションを見つけ、僕は本番に挑んだ。
結果はもちろん死ねなかった。体を横たえながら気を失いはしたが、真に体から力が抜けた時に首と縄との間に隙間ができてしまったのだろう。しかもそのまま数時間寝てしまっていたのだから間抜けだ。
生き残った僕はどうしたものかと思案した。なぜだか自分にとどめをさすことは考えなかった。はじめから死ぬ気がなかったのではないかと思い苦笑した。
夜になって僕はいてもたってもいられず、彼女のもとに行くことにした。彼女のことが好きだった。
仕事帰りの彼女を駅で捕まえた。幸いなことにひとりだった。僕はごめんと謝ったりして、やっぱりやり直そうと持ちかけた。彼女は嬉しそうにしてくれた。ここにきて僕は彼女の言うことを信じてみるのも酔狂だと思うことにした。
だが僕が彼女に、信じるからそれを証明して欲しい、信用を築きたいと言うと彼女の顔が曇る。彼女は、あいつは同期で家も近いから一緒に仕事に行くことも帰ることもあるだの、ふたりで飲みにいくのはダメだよね?だの、みんなでならいいよね?だのとのたまう。
僕が復縁を呼びかけた手前、ふざけるなと思いつつも強くは言えなかった。じゃあ帰りはできる限り僕が送るよ、と言うと彼女は、怖い、と言った。ただ信じてとだけ言う彼女に、信じられるだけの行動をして欲しい、と言うと、何かを変えるのは自分が自分じゃなくなるみたいで嫌だと言う。嫌われたくない僕にはお手上げだ。こうなれば僕が勝手に探るしかないという結論に達するのは自然なことだ。
そういう理由で、僕は今日も動悸を止められずにラブホ通りを見張っている。ないものを証明するにはあることを信じて探しその結果なかったとするしかない。