三国志のお話し -2ページ目

浅野内匠頭の人物像

三田村鳶魚翁は著書『赤穂義士』で次のようにおっしゃっておられる。
 仮に浅野長矩という人がよくない人で、無理な事をする人であったと致しましても、
 その家来たる者どもが、飽くまで忠義の心を失いませんで、人の家来たるべき道を
 尽くしましたならば、却って君臣という間柄、その義理を立てて参る上から申し
 まして、益々立派になることであろうと思います。
これは、浅野内匠頭が世間で思われてるほど立派な人物でなかったとしても、
鳶魚翁としては、六十六人の義士の忠義にケチがつくようなことはない。
尊敬に値しない程度の君主に忠誠を尽くしたことで、逆にその忠義のほどが際立つのでないか
と説いてるわけですね。


それでは、鳶魚翁は内匠頭長矩をどう観ておられたのか、同じく『赤穂義士』で
次のようにおっしゃっておられる。
 赤穂の家風としては非常に倹約な、塩っ辛い家風であったのです。そういう中に生まれて
 来たせいかも知れませんが、内匠頭長矩は非常に鄙吝な人でありました。

と評しておられる。


鳶魚翁は長矩のケチさ加減について、吉良に礼儀として当然納めるべき付届けである金一枚
さえも渋って出さなかったと次の論拠を挙げて説明している。
 『秋の田面』とういう本がありますが、これには長矩のことを「惣じて毎年公家衆参向の節、
 御馳走御用仰付けられ候大名、いづれも世話焼として上野介方へ馬代金一枚宛、早速付届
 いたし候事、並の格と成来候也、然るに内匠頭、其うまれつき至極短慮にして、すぐれて
 吝嗇強くして、人の伝ふ事を少も聞入れぬ性質なり」と書いている。

その頑固で頑なな性格を説いているわけですね。

さらに、鳶魚翁は長矩が饗応費用をケチったことについても、小宮山南梁翁の話を持ち出して、
 小宮山南梁翁はこういうことを云って居られる。
 …云々
 近来何事も華美になって行く。公家の御馳走役の如きも、だんだん費用が多くなるようで、
 それが前例になってはならぬから、今度は前年よりもあまり高くならないように…云々

と説明し、長矩がこの言葉を単純に受け止めたことの馬鹿さ加減を次のように説明している。
 十九年前につとめたことを考えてみますと、天和三年には四百両かかっている。
 それから元禄十年につとめた伊東出雲守の費用を聞合せて見ると、千二百両遣っている。
 そこで自分はその中を取って、七百両ぐらいに見積もればいいだろうと考えた。

とある。


この長矩の短絡的な思考もよくわからんが、小判の価値というのは長矩が拠ってる最初の
四百両と最近の千二百両とでは大いに違っているらしい、
 浅野が前にやった時は、四百両といいますけれども、その頃は慶長小判だったし、
 元禄八年以降は、例の悪貨といわれる小判になって居りますから、前後で物価が
 大変違います。
 四百両のものなら、八百両ぐらいかかるのは不思議でない。
 伊東が千二百両遣ったのは、非常に多いようだけれども、実際はさまで多いわけじゃない。
 七百両では前の四百両よりもまだ粗末なので、これは無理な話です。

長矩が自慢げに質素倹約に努めた内容に対し、それは小判の粗悪化を考慮に入れていない
短絡的な考え方で、賢君とは程遠い物のわからん人物だと評してるわけですね。


それではこの浅野長矩という男が、質素倹約に努め税を軽減してるのかというと、
どうもそういう風でもなく、搾り取れるところからは徹底的に搾り取っていたようである。
管茶山『筆のすさび』-亡国幣政-を引いて説明している。
 赤穂の浅野家が潰れる前方は、大野某が執政であって、大石などは度々しくじって、
 閉門だの逼塞だのを毎年食っていた、浅野家が潰れて、ところの者が却って悪政がやんだ
 といって喜んだ。

また伴蒿蹊『閑田次筆』を引いて、
 赤穂の執政は大野氏上席で、万事を取はからって居った為、民は聚斂に堪えないで
 弱っていた、家が潰れたので、人民は大喜びで、餅を搗いて賑わした。

と言っている。
鳶魚翁自身、赤穂に赴いて訊ねまわったところ
 赤穂の浅野家が退散して、彼処を引払う時分に、領民はひどく喜んで御祝いをした、
 殊に塩浜の者は幾日か続けて御祝いをした、という話をききました。

という体験談を挙げて、長矩の執政のまずさを裏付けておられる。


鳶魚翁は長矩の例に挙げた二件のドケチっぷりを
まず付届けをしなかった件で、吉良というのは自尊心の高い人物だとして、『秋の田面』を
解説して、
 内匠頭が挨拶に行かれた時でも、相役である伊達左京亮の方では、世間並みに挨拶付届が
 してあるのですから、吉良の扱いも自然それとは違ってくる。
 つまりあの大騒動は、内匠頭の根性の穢いのから起こったのである。

と解釈している。
饗応費用をケチった件について、吉良は長矩の案を否定して次のように言ったとある。
 御馳走役というものは、そんなに度々つとめるものじゃない、大名一代に一度か二度しか
 つとめるものじゃないから、そう倹約するに及ばない、浅野の見積もりはいかん、前年、
 前々年の例もあるから、格別に減らしちゃいかん。こういって聞かない。
 吉良は云出したらあとへ引かないし、浅野はまた何と云っても聞かないで、
 すべての設備を七百両で仕向けましたから、吉良のいうところとは、すべての事が
 行違って来る。
 御公家さんも前年、前々年の例を知っていて、そのつもりだから、愈々行違いに
 なって来る。
 そういう事から遂に浅野が癇癪を起して、刃傷沙汰を惹起するようになったので、云々

として、吉良への傷害事件は、長矩が自分の思慮分別に欠けたところを棚に上げて、
逆切れしたことから起きているのではと説いてるようです。 


要は、浅野内匠頭長矩に関しては、世評が現実と乖離しすぎている。
長矩の人物像は、拝金主義者で金に執着すること甚だしい、金の為なら領民の生活苦など
意に介さない。
当時の領民の様子がそれを物語っている。と言いたいようです。

私も個人的にこの意見に賛成である。

人を食った話し

昔は、例えとして「三枚におろすぞ!」とか、「人を食った態度」とかいう言葉をよく聞きました、

最近はあまり聞かないですね。

これらは日本でも昔は人を食った古事があったということを物語ってるのでしょうか?


日本のことはよくわかりませんが、中国史上では、よく人を食った古事が出てくる。
『三国志』にもこれらの古事は、枚挙にいとまがない。
 主簿は內廚の米三鬥をひらき、少しずつ二つに分け糜粥にすることを請うた、
 洪は歎じて曰く「ひとり食して何とする!」薄粥を作らせ、衆に分け喰らわす、
 愛妾を殺し将士に食べさす。
 将士にがい涙を流し、仰ぎ見る者なし。
 『魏書』 呂布臧洪傳
 主簿啟內廚米三鬥,請中分稍以為糜粥,洪歎曰:「獨食此何為!」使作薄粥,眾分歠之,
 殺其愛妾以食將士。
 將士鹹流涕,無能仰視者。

籠城中に食料が欠乏し、臧洪が自分の妾を殺して、部下にふるまったという美談?です。


その他に、
 この歳穀一斛が五十餘萬錢、人相食う
 『魏書』武帝紀
 是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食


 英雄記に曰く
 備の軍廣陵に在り、飢餓で行きづまり、吏士は上下たがいに貪り食う
 『蜀書』先主傳 註
 英雄記曰:備軍在廣陵,飢餓困踧,吏士大小自相啖食

こちらは、もっともよく見かける、餓えのために士卒ら相食らうとかいうやつですね。


どちらにしても、人を食ったというのは、自慢にはならなかったらしい。
 五官將(曹丕)は忠(王忠)がかつて人を食ったのを知っていた、
 外出の際、俳(俳優:楽しい話をする側近)にドクロを取らせ忠の馬鞍に目立つように繋げ、
 笑い喜んだ。
 『魏書』武帝紀 註
 五官將知忠嘗噉人,因從駕出行,令俳取間髑髏繫著忠馬鞍,以為歡笑.

たちの悪い曹丕が、王忠が人を食ったことがあるのを馬鹿にして、笑いの種にしたといった
ところでしょうか。


その他、
 世語に曰く
 初め、太祖は食に乏しく、昱(程昱)に彼の本縣を略奪させ、三日分の糧を差し出させた、
 人の乾し肉を度を越して混ぜた、これが朝望を失した由来である
 『魏書』程昱傳 註
 世語曰:初,太祖乏食,昱略其本縣,供三日糧,頗雜以人脯,由是失朝望

※脯というのは、刑罰の一つで、刑殺した人の肉を平らに伸ばし、塩漬にすること。
ここから、昔の刑殺で〝烹〟とか〝醢〟とかの類で、料理した人肉は、飢餓の際に食用として
流用したことが考察できる。

〝烹〟とか〝醢〟とかの保存に適した?刑殺は、戦乱の世によく用いられ、糧食不足を補う
目的を兼ねてたのか?
程昱は、糧食に混ぜる人肉の量が多すぎた為に、皆の不評をかい朝廷における声望を失したのか?


僕の所感としては、刑殺者の肉を食用として保存してた可能性は大きい。
これらは漢人としての風習でなく、やむにやまれない時の非常食みたいな感覚である。

斉の桓公・易牙の故事みたく、珍味としての食人というのは、めったにない。

飢餓の際に人を食うというのは、何も漢人に限ったことではないので、こちらは風習とか
習慣とは関係ない。


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今回は『三国志』に特化して食人の話をしましたが、通史としての食人の風習の考察は、
桑原 隲蔵先生の『東洋文明史論』に詳しい。
興味のある方は一読をお勧めします。

美髯公


美髯公

関羽の髯につきまして『三国志』で、諸葛亮が関羽に宛てた手紙で
馬超のことを評した内容に
 「…なお未だ髯の絶倫逸群なるに及ばざる」羽(関羽)美鬚髯にして、

 故に亮(諸葛亮)これを髯という。
とあります。


『三国志平話』では、関羽の登場シーンで
 生得神眉鳳目虬髯(生まれつきの神眉、鳳目、虬髯)
とある。
虬とは、みづちのことのようです。
みづちは、角のある龍の子供のことで、体がねじれてるそうです。
髯は、頬ひげのことですね、『三国志平話』では、関羽のひげを小龍のような
くるくりした頬ひげと表現したかったんですかね。
それとも〝神のような眉、鳳凰のような目、虬のような髯〟という具合に神格化された

関羽像を表現したかったのか。
日本人にはちょっとわかりにくいですかね。


『三国演義』では、献帝が関羽の髯をほめるくだりがあります。
 操(曹操)紗錦囊を作り、關公(関羽)に髯を護るように與えた。…
 帝曰「真の美髯公也り!」因って、人皆此れを為ねて美髯公と呼ぶ。

紗錦囊とは、薄いニシキ織りの袋のようです。
寒い季節に痛みやすい頬ひげを護るのに、曹操が与えたとあります。


これらの内で『三国志平話』に出てくる、虬髯というのが、一番面白いですね
『三国志平話』では、スラッとした長い髯でなく、クルクルした巻き毛みたいな
感じでを表現してるんでしょうか。
『三国志平話』の作者と、『三国演義』の作者が、それぞれどんなイメージをもって
関羽を書き分けてたか、考えるとちょっと面白いですね。