三国志のお話し -5ページ目

有徳の人

〝徳〟ってどういうことですかね。
あの人の為なら命をかけられる、冷たくあしらわれても、罵詈雑言をあびせられても
忠誠心がゆらがない。
こう思われる方が有徳の偉人とかになるんでしょうか?


例えば福沢諭吉さん。
この方はたいそうな自信家で、自説の正しさに絶対の自信を持っていたようだ。
彼の『改暦弁』は非常に面白い内容なのであるが、彼は改暦の正当性を一通り説明したあとで、
次のように語っている。
 故に、日本国中の人民、此改暦を怪む人は、必ず無学文盲の馬鹿者なり。
 これを怪しまざる者は、必ず平生学問の心掛ある知者なり。
 されば此度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といふも可なり。


確かに陰暦というのは季節とのズレが甚だしいし、閏月なんかがあった日には有給なのか、
無給なのかで、だいぶもめたりもしたようだ。
年貢というのは閏月があろうとなかろうと変わらんのに、役人はきっちり十三ヶ月分もらって
財政をかなり逼迫させていたような記述もある。


概して陰暦というのは、風情はあるが生産的でない。
陽暦というのは、風情はないが生産的である。


西欧諸国の先進性を目の当たりにして、当時の偉人さんらが「このままじゃいかん」と
やっきになったのはわかるが、当時の一般の方々は異を唱えたら「馬鹿者なり」と
一刀両断されたわけだ。
今こんな言い方をしたら、諭吉さんと言えども政治家生命にかかわるんじゃなかろうか。

昔の人はずいぶん聞き分けがよかったようである。
「大先生がおっしゃってるんだから間違いない」という信頼しきった心情があったのかも
知れない、さからったら村八分にされたり、組織からの嫌がらせもあったかもしれない。


昨今大物政治家というのが現れにくいとしてるのは、個人主義が蔓延しすぎて攻撃されると
言い返さずにはいられないという方が多くなってるのもあるのでしょうが、逆に昔の人のように
聞き分けが良すぎて、政治家の思惑に振舞わされたり、戦争まっしぐらなんて状況になったら
目も当てられない。


どちらにしても、自分の異に背く奴は「馬鹿者なり」で、切り捨てちゃっても問題ない時代で
あったことは確かだで、政治家にとっては古き良き時代であったということになるんですかね。
こういう人を指して〝有徳の偉人さん〟とするなら、とうぶん偉人が出現するということは
なさそうです。

雒陽、洛陽?

後漢の都は、雒陽と書いた。
対して魏の文帝の都は、洛陽宮という。


この雒陽と洛陽とは同じことです、『魏書』文帝紀に次のようにある。
 魏略に曰く
 詔を以て漢は火行也り、火は水を忌む、故に〝洛〟から〝水〟を去り〝佳〟を加える。
 魏に於いて次を為す行は土、土、水の牡なり、水は土を得て流れる、土は水を得て柔らく、
 故に〝佳〟を除き〝水〟を加える、〝雒〟を変えて〝洛〟と為す。
 『魏書』文帝紀
 魏略曰:詔以漢火行也,火忌水,故「洛」去「水」而加「佳」。
 魏於行次為土,土,水之牡也,水得土而乃流,土得水而柔,故除「佳」加「水」,
 變「雒」為「洛」。
火徳の漢は水を忌み、洛陽のサンズイを嫌い、雒陽と改名した。
土徳の魏は水と相性がいいので、サンズイに戻した。
いろいろ理由をこじつけてますが、要は五行思想上で魏は土徳となるので、これをもとに戻した
という主旨になるんでしょうね。

劉邦の避諱について


劉邦


漢の高祖劉邦、『史記』の邦訳版では高祖の名が明記されていないのは、避諱の為だと
邦訳者の注釈がある。


本当にそうでしょうか?


後漢末になるまで、〝劉邦〟の史書上の表記は〝高祖〟〝劉季〟などであった。
 高祖、沛の豐邑の中陽里の人、姓は劉氏、字は季。
 『史記』 高祖本紀
 高祖,沛豐邑中陽里人,姓劉氏,字季.

 

 高祖、沛の豐邑の中陽里の人なり、姓は劉氏。
 『漢書』 高帝紀
 高祖,沛豐邑中陽里人也,姓劉氏.

季とは末っ子の意で、字というほどのものではないし、もとより名ではない。
〝劉さん家の三男坊〟又は〝劉さんちの末っ子〟程度の意味でしょう。
『礼記』でも年取った兄弟を言い分けるのに「孟・仲・季」を使うとある。
劉邦兄弟がまさにこれにあたりそうですね。
高祖は農家の出身で、学問なんかやっちゃいない、基本的に名なんて無かったと考えるのが
普通である。


僕は高島の〝名無しのゴンベエ説〟に拠っている。
大漢帝国の高祖様が、名無しのゴンベエじゃあんまりなので、大漢の領地を定めたという
意味合いも込め〝邦〟としたんじゃなかろうか。


『史記』の註では次のように言っている。
 索隠按:漢書(荀悦の漢紀)「名を邦、字を季」、この字と伝うのも、これもまた疑わしい。
 按:漢高祖の長兄の名は伯、次の名は仲、別名は見えず、すなわち季もまたこれ名なり。
 ゆえに項岱が云う「高祖の小さいときの字は季、即位し名をかえ邦、のち諱を邦により季は
 諱でない、ゆえに季は姓の延長也り」。
 『史記』 高祖本紀 註
 索隱按:漢書「名邦,字季」,此單云字,亦又可疑.
 按:漢高祖長兄名伯,次名仲,不見別名,則季亦是名也.
 故項岱云「高祖小字季,即位易名邦,後因諱邦不諱季,所以季布猶稱姓也」.

要は、巻末のころ荀悦などが、その著書で「姓は劉、名は邦、字は季」とか言ってるが、
何に拠ったかははっきりわからない。
邦というのは即位してからの名で、季というのは兄弟を言い分ける程度の姓の延長上のものだ。
と説いてるわけです。


荀悦とは、ご存知荀彧の兄弟で一世紀末ごろの人である。
高祖は前三世紀ごろの人。
「高祖本人が死んで四百年ほど後になって、劉邦とか言われだしたが、典拠は何なんですかねぇ」
程度の内容でしょう。


なので僕は、劉邦とは大漢帝国の高祖様が名無しのゴンベエじゃぁあんまりなので、
領土を定めたような意味合いを込めて名に邦をあてたと考え、高島先生の
〝劉邦 名無しのゴンベエ説〟に大いに賛同しているとしたしだいです。