三国志のお話し -4ページ目

諸葛亮の衣装


諸葛亮
『三国志演義』に登場する武将といえば、決まり文句のような出で立ちがあります。
関羽の緑の直垂とか、馬超の鎧姿とか。

孔明さんといえば、二輪車?に道士服、団扇を煽って涼しげに軍を指揮する姿。
これじゃなきゃ孔明ではないといった感じでしょうか(僕だけかも…)。

この孔明さんの出で立ちの典拠はどこにあるのでしょうか?
 推し出でたる一輛の四輪車。
 車中に一人端坐し、頭に綸巾を戴き、身には鶴氅を披い、手に羽扇を執る
 『三国志演義』 第五十二回 諸葛亮智辭魯肅 趙子龍計取桂陽

 忽然一輛の小車が山坡の中より轉り出でる。其の人頭に綸巾を戴き、身に鶴氅を披い、
 手に羽扇を搖る乃ち孔明也り。
 『三国志演義』 第九十三回 姜伯約孔明に歸降し 武鄉侯王朗を罵り死す

 只見る孔明の簪冠に鶴氅、手に羽扇を搖り、車上に於いて端坐す。
 『三国志演義』 第一百一回 隴上に出でて諸葛神を妝い 劍閣に奔りて張郃計に中る

などが、あげられそうです。

なかでも、頭に被った物の表現は数通りあるようですが、
 「綸巾(カンキン)」とは、(青い)絹の組みひもでつくったずきん。ふだん着用のかぶりもの。
 諸葛孔明は青いのを、漢・魏時代の風流人は白いのを使ったという。
 学研『漢字源』

とあります。

典拠としてあげるなら、五十二回か九十三回の時の格好がいいようですね。
四輪車に乗ってると明記がある五十二回が一番よさそうでしょうか。

全体として、孔明さんの道士服姿、敵を追い込む時の心理的な威圧の為に用いてるようですね。
好きこのんで、戦にそぐわない格好をしてるわけじゃなさそうです。

常時車に乗って座ってたら、何かあった時に逃げられませんもんね。

周倉


周倉

演義において、独特な存在感を持っている人物の一人に周倉がいる。


周倉というのは、存在意義のわからん人物である。
なぜことさら関羽にだけ、スペシャルサンクス的な感じで実在の人物で無い周倉が侍るのか?
人物設定も曖昧極まる、演義では次のように述べている。
 ここを離れること二十里に臥牛山あり。
 山上に關西の人あり、姓は周、名は倉、兩臂に千斤の力あり。
 面には虯髯、形容甚偉。
 ……
 黑面てで長身
 『三国志演義』 第二十八回 斬蔡陽兄弟釋疑 會古城主臣聚義

周倉は関西の人としてるのみです、関西とは函谷関より西方という意味ですので、
昔の秦国あたりですかね。


よく見かける周倉のイメージ画をみると、中国人には無い衣装をまとっている。
衣装からするとポルトガル人っぽいですが、民族衣装にうというのでよくわかりません。
詳しい方教えてくださいね。


周倉というと関羽と関平三人並んだ構図を連想します。
前回〝関聖帝君〟の記事を書いたときに、関聖帝君には二人の従者が付くと書きました。
一人は息子の関平で、白面の将軍。
一人は周倉、こちらはちょっと難しい、
原文訓読は「黑臉に虯髯の人」⇒「黒い顔にクルクルの巻きヒゲ」といった感じでしょうか。


例えば周倉を西域の人と連想した場合、次のようなことが考察できる。
関羽は、当たり前な話として将軍である、巷ではなぜか商売の神様でもある。
関平は武将としての関羽をあらわし、周倉は西域からシルクロードを連想させ、
商売人としての関羽を連想させてるのではないか?

周倉というのは、たぶん『三国志演義』よりも古くから関羽とセットになってたんじゃ
なかろうかと思う。

史書の『三国志』には、商売に結びつくような人物は、麋竺とかになってしまう。
麋竺ではインパクトがないし、関羽に侍るとなるとなおさら話しがおかしくなる。
演義の作者は適当に関西の人とかいって、西域をイメージさせる周倉をでっち上げ、
関羽にくっつけたんじゃなかろうか。


もとより、勝手な想像です。
周倉に関する、きちっとした典拠を知ってる方がいらっしゃったら教えて下さいね。

卑弥呼が魏に使者を送った時期

卑彌呼が魏へ、使者を送った年というのは、日本の通説では魏の景初三年
ということになっているのだそうです。
今出ている教科書類もだいたいこの年を採用してるんだと思います。


このことは、魏書の鳥丸鮮卑東夷伝に書いてあります。
しかし現存する『三国志』の写本では、景初二年となっています。

景初三年を採用している日本の著者は、
 景初二年に司馬懿が公孫淵を討ち、遼東を平定するのですが、公孫淵が討たれるまで、
 遼東以東と中国との交流はなかった。
 公孫淵が討たれるのが、景初二年八月二十三日とありますので、その年の十二月に
 卑彌呼の使者が魏に着くのは無理がる。
ということを言いたいらしい。
ここでは、たぶん遼東討伐→遼東以東を平定という時の流れを念頭に置いているんで
しょうね。


それでは、景初二年八月まで遼東以東とは、本当に交流がなかったのでしょうか?

例えば、遼東討伐をやりやすくするため、帯方・楽浪諸郡の平定を同時進行させ
司馬懿の後方支援をするというやりかたも考えられます。

鳥丸鮮卑東夷伝の韓のところで、景初年間、明帝が帯方太守の劉昕と、楽浪太守の鮮于嗣に、
 それぞれの郡に海から入らせ平定させた。諸韓国の臣智に邑君の印綬を授けた云々…

 『三国志』 魏書 鳥丸鮮卑東夷傳
とあります。


明帝が亡くなるのが、景初三年正月一日とありますので、明帝の名で帯方郡などを
平定出来るのは、景初二年以前ということになります。
司馬懿に遼東討伐を命じたのが、景初二年正月とありますので、だいたいこの
時期に、劉昕と鮮于嗣を、帯方・楽浪の太守に任じ二郡平定を命じたと考える
ことはけっして無理のあることではないと考えられます。
平定したとありますので、こちらの方は、戦などせず、劉昕と鮮于嗣が到着し
話し合いだけで解決したんでしょうかね、そんなに時間はかからなかったようです。
その後、すぐに諸韓国の臣智を邑君に封じたとあります。
その足で、さらに海の向こうにある、倭国の女王にも朝見を促したということも十分に
考えられる。

司馬懿が遼東討伐期間を、進軍百日、攻撃百日、戻り百日、
休息六十日と答えてますので、
帯方・楽浪にもだいたい行きに、百日かかるとして、帯方・楽浪の平定に
三十日、帯方から倭国まで四十日とありますので、往復八十日、倭国平定に余裕を
みて三十日と考えても、計三百四十日になりますので、十二月に卑彌呼の使者が、
魏に到着しても、おかしくはないわけです。


 写本の単なる間違いではないか?現に他の史書類で景初三年としているものが多い。
これにつきましては、現代の日本の書物でも景初三年を採用してるものが多々あり、
これらは歴史的背景を考察して何の注釈も無しに景初三年と明記しております。
同じことは、昔の中国でも考えられ、遼東討伐→遼東以東平定という説の方が何の注釈も
無しに景初三年と書く。
こんな感じではないか、というのが個人的な考えです。


現存する唯一の当該史書である『三国志』で景初二年と書かれている。
その当時の他の史書類で景初三年と書かれているからといって、教科書までもが何の注釈も
無しに景初三年とするのは、ちょっと横暴では?
ちょっとは原本にも花を持たせましょうよ。というのが、私の所感です。