三国志のお話し -6ページ目

諸葛瑾、諸葛亮異母説について

諸葛瑾と諸葛亮とが異母であるという説があるそうな。
たしかに『三国志きらめく群像』の高島先生も、異母説を唱えている。
名前の玉偏を考察してのことらしいです(詳しくは上書参照願います)。
高島先生は、異母説にからめて、諸葛亮を素性のわからぬ人物と言っています。


私は、基本的に『三国志』の考察だけなので、亮さん瑾さん同母派です。


素性があやしいのは、どちらかといえば諸葛瑾の方だと思っています。
諸葛亮は素性がはっきり記されていますが、諸葛瑾はなにもありません。
諸葛瑾が孫権に早くから仕え、諸葛亮が劉表に仕えずブラブラしてたからと
いって、諸葛瑾が格上で、諸葛亮が格下とは限りません。
孫権配下にも、もと盗賊とか氏素性のわからない輩がたくさん居ますし、
孫権自身も、お爺さんの名前すらはっきりしません。
それに対し劉表は、おおいに氏素性のわかる家柄です。袁紹みたいに、名門で
なければ見向きもしなかったんじゃないでしょうね、諸葛瑾が荊州に居ても、
劉表は見向きもしなかった思います。


私が、諸葛瑾と諸葛亮が同母であると考えるのは、
『三国志』諸葛瑾傳の裴松之が注に引く【江表伝】に、孫権の言葉として
 諸葛亮は、あなたと同産である。
と言っています。

同産=同腹で、同腹とは同じ母から生まれた兄弟をさします。
これが僕の考えです。

呂伯奢事件

『三国演義』での呂伯奢事件のあらましは、
董卓から逃げた曹操が途中呂伯奢宅により、呂伯奢は酒肴を買いに外出する。
留守中奥の方で、どうやって殺そうかと相談する声が聞こえてくる。
自分を殺そうとしていると勘違いした曹操は、踏込んで居合わせた人を斬ったが実は豚を絞める
相談をしていたことに気づき逃げ出す。
途中買い物から帰ってきた呂伯奢に出会ったが、言い訳をし、すれ違ったところを後ろから
バッサリとこれも斬り殺してしまう。
驚いた陳宮が訳を聞くと、
曹操は「伯奢が家に帰り、家人が死んでるのを見たら、面倒なことになる」とか言って公然と
うそぶく。
陳宮が非難すると、曹操は胸をはって
「我をして天下の人を負むかせしむ、天下の人をして我を負むかせしむこと無かれ」と言った。
陳宮は黙ってしまっう。
その夜寝入った曹操を陳宮は殺そうとするが、考え直してこっそり逃げ出す。

だいたいこんな感じのところじゃなかったでしょうか。


では史書の方はどうなっているのか。
 太祖(曹操)は姓名を変え、ひそかに東に帰る。
 間を井で、中牟を過ぎるとき、亭長の疑うところとなり、県に詣でとらわる、
 邑中である人が之を密かに知り、請いて解いてもらう。
 『魏書』 武帝紀
 太祖乃變易姓名,間行東歸。出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。
陳宮はもちろん出てきませんし、呂伯奢事件も執り入れられていませんね。


呂伯奢事件はここのところで、裴松之が引く註に出てきます
(曹操が董卓から逃げるくだりは省きます)
 魏書(王沈)に曰く:
 …
 従うもの数騎と成皋の知人呂伯奢宅で過ごす、伯奢は不在で、その子と賓客が共に太祖を脅し、
 馬・荷物を取る、太祖は手刃で数人を撃殺す。
 『魏書』 武帝紀 註
 魏書曰:…
 從數騎過故人成皋呂伯奢;伯奢不在,其子與賓客共劫太祖,取馬及物,太祖手刃擊殺數人。

曹操の荷物に目のくらんだ呂伯奢の家人が、曹操を殺して奪おうとしたが、返り討ちにあった
といったところでしょうか。


同じく、裴松之が引く
 世語に曰く:
 太祖が伯奢宅で過ごす。
 伯奢は外出しており、五子は居て、主客として遇してくれた。
 太祖は卓の命に背いていて、自分へのはかりごとを疑い、手剣で夜に八人を殺し去った。
 『魏書』 武帝紀 註
 世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行,五子皆在,備賓主禮。太祖自以背卓命,疑其圖己,
 手劍夜殺八人而去。


もう一つ、裴松之が引く
 孫盛の雜記に曰く:
 太祖は食器の音を聞くと、自分へのはかりごととなし、夜にこれを殺す。
 悽愴として曰く「我をして人を負かしむ、人をして我を負むかしん!」と言って去る。
 『魏書』 武帝紀 註
 孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲,以為圖己,遂夜殺之。既而悽愴曰:「寧我負人,毋人負我!」遂行。

『三国演義』の作者は、この雑記の文をみて小説に執り入れたんでしょうね。


曹操だけじゃ物足りないから、陳宮を引っ張り出して曹操を際立たしてるんだと思います。

陳宮は東郡の人で、反董卓連合が旗揚げしたころに曹操に仕えたようです。

【『魏書』呂布傳 註を参照】。
曹操が董卓から逃げてる途中に助けたのが陳宮とするのは、まったくの小説(空話)ですね。

土用の丑の日

ちょっと一日ズレてしまいましたが、土用の丑の日のお話し。


今日は暑いのに、かんじんな昨日は肌寒かったですね。


この日に鰻の蒲焼を食べる習慣は、平賀源内が看板に〝土用丑の日に鰻を〟と書いたのが

はじめだとか何だとか、けっこう有力な説らしいです。



平賀源内


よくみかける記事に「万葉集に書いてある」とありますが、萬葉集には
 石麿にわれ物申す夏痩に良しといふ物そ鰻取り食せ
とあるだけ、「鰻は夏痩せにいいらしいですよ」と石麿さんにすすめてるだけですね。
蒲焼も、丑の日も関係ないようです。

昔から夏痩せに鰻が効くと云われてたんでしょうか、なので平賀源内は友人の鰻屋にCMを
頼まれた時に〝土用丑の日に鰻を〟と書いたのかどうか。


土用というのは、五行説の土のことですね。
 木-春
 火-夏
 土-(四季の土用)
 金-秋
 水-冬
五行に四時を配当したかったんでしょうが、土がどうしても余っちゃっうので、もっともらしく
土用なるものを案出したと、田中先生は著書『暦と日本人』でおっしゃっている。


まことにもっともだと思うのですが、一応説明しとくとだいたい次のようです。
 五行では春は木気、夏は火気、秋は金気、冬は水気が専ら支配するという。
 土気はどの季節にもあるが、専ら支配力をもつ季節はないということ。
と、『和漢三才図会』の訳者注釈にある。


おなじく『和漢三才図会』 土用 の項では、次のように説明している。
 蔡邕の「月令」の注に、「土は四時のいずれにも身を寄せ、各々十八日、合わせて七十二日
 盛んとなる。この七十二日を除けば、木火金水もまた各々七十二日となる。土は四時の間に
 ないときはなく、それで定位なく専気なく、辰・戌・丑・未それぞれの末に身を寄せて盛ん
 となる。末の月は火金の間にある」とある。

昔の人は、一年を一月三十日、十二ヶ月で三百六十日と考えたかったんでしょうね。
なので、一年を五行で割ると七十二日、土用は四時に身を寄せるので各々十八日だと、
蔡邕はここで述べてるのだと思います。
今は律儀に一年三百六十五日をきっちり割ろうとして土用は各々十八~九日とかしてある。
別にそんなに律儀に計算しなくても、実用上はなんら問題ないので、昔の人の単純に割切れる
十八日間でいいんじゃないかと思う。
蔡邕の言ってる「辰・戌・丑・未それぞれの末に身を寄せて」とは季節(三・六・九・十二月)
のこと。
「末の月は火金の間にある」とは、五行の木(春)・火(夏)・土・金(秋)・水(冬)を
あらわしている。


土用とは、四立(立春・立夏・立秋・立冬)前の十八日間を指す。
したがって、土用明けの次の日が四立(シリュウ)ということになります。