三国志のお話し -8ページ目

諸葛亮の兵法

頭の中では、ある程度の概略は出来上がっているのだが、文章におこすとなるとなかなか難しい。
特に諸葛亮の兵法なんぞは、依るべき資料が非常に少ない。


数少ない資料をもとに、諸葛亮の兵法について語っていきたいと思います。

 冬、亮(諸葛亮)は散関を出て、陳倉を包囲する、曹真が之をふせぐ、亮は糧がつきて還る。
 魏の将の王雙が騎を率いて亮を追う、亮は戦い、之を破り、雙(王雙)を斬る。
 『蜀書』 諸葛亮傳
 冬,亮復出散關,圍陳倉,曹真拒之,亮糧盡而還.魏將王雙率騎追亮,亮與戰,破之,斬雙.


 九年、亮はまた祁山から出る、木牛をもって運ぶが、糧がつきて軍を退く、
 魏の将の張郃が戦を交える、郃(張郃)は射殺される。
 『蜀書』 諸葛亮傳
 九年,亮復出祁山,以木牛運,糧盡退軍,與魏將張郃交戰,射殺郃.

この二戦については、兵法上どのような解釈ができるのであろうか。

『李衛公問対』では、用兵には正と奇があり、適が退く時の注意点を挙げている。
 兵が去る、旗がふぞろいでととのわず、鼓の大小に応ぜず、令は喧囂で一でない、
 これは真の敗者なり。
 奇ではない。
 もし旗がととのい鼓に応じ、号令が一のごときは、紛紛紜紜として、敗走するといえども、
 敗れざるなり。
 必ず奇がある。
 法に曰く、いつわってにげるのは追うなかれ。
 又曰く、能に不能を示す。
 皆奇のいわれなり。
 『李衛公問対』 上巻
 夫兵去、旗参差而不斉、鼓大小而不応、令喧囂而不一、此真敗者也。非奇也。若旗斉鼓応、
 号令如一、紛紛紜紜、雖退走、非敗也。必有奇也。法曰、佯北勿追。又曰、能而示之不能。
 皆奇之謂也。

これをもとに考察をすると、諸葛亮はこれ以上の対陣は利あらずと判断した上で、計画的に
撤退したのではと考察出切る。

つまり、兵糧が尽きてから、あわてて退いたのではなく、撤退の時間を計算に入れて計画的に
退いたということが考察できるのである。
もちろん、魏が追撃してくる事も想定の範囲であったと思う。


一方の魏の方は、蜀軍が兵糧尽果て、算を乱して撤退したと誤って判断したので、追撃を
かけたと考察できる。
特に諸葛亮が張郃を討った時の司令官は、司馬懿である。
僕が、諸葛亮は決して司馬懿にひけをとる者ではないとする論拠の一つでもあります。


『李衛公問対』では、こういう戦を次のように例えている。
 法に曰く、利で誘い、乱して取る。
 老正(宗老正)は兵を知らず。
 勇にたのんで急進する、不意に後ろをたたれ、陛下(李世民)にとらわれる。
 これがいわゆる「奇を以て正と為す」なり。
 『李衛公問対』 上巻
 法曰、利而誘之、乱而取之。老正不知兵。恃勇急進、不意断後、見擒於陛下。此所謂以奇為正也。


李靖が言っている正・奇の用兵について、『孫子』の記すところは、
 戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ、ゆえによく奇を出す者は、
 天地のごとく無窮で江河のごとく不竭
 …
 戦の勢いは、奇正に過ぎざらん、奇正の変、勝窮たらざるなり、奇正は相生し、
 循環すること端無し、だれがこれを窮む
 『孫子』 勢篇
 凡戦者、以正合、以奇勝、故善出奇者、無窮如天地不竭如江河
 …
 戦勢、不過奇正、奇正之変、不可勝窮也、奇正相生、如循環之無端、孰能窮之

と説いている。

諸葛亮は撤退する時、魏に有利と思わせ、追撃してきたところを待ち構えて散々にこれを打ち破り、
王雙、張郃の二将を斬った。
逃げると見せかけて、深追いしてきた適を討つ。
まさに「奇を変じて正と為す」のお手本と言える古事なのです。


ということで、余計なことなんですが、陳壽の諸葛亮評に言うところの

 然し亮(諸葛亮)の才は、戎を治むるに長じ、奇をはかるに短じる、民をおさめる能力、
 将略に於いて優る。
 『蜀書』 諸葛亮傳
 然亮才,於治戎為長,奇謀為短,理民之幹,優於將略.

という部分に対しては、じゃっかんの異議ありといった感じです。
国力で十倍する魏を相手に一歩もひけをとることなく戦い、司馬懿をして防戦一方に追込んだ
諸葛亮の用兵は古の兵法に照らし合わせてみても、十分評価できると個人的に思っている。

十八史略

『十八史略』、よく聞く史書?だが、あまり上等な物ではなさそうです。


『十八史略』を考察するのに、吳王夫差・越王勾踐の〝臥薪嘗膽〟古事を参考に

したいと思います。


-----【以下、臥薪嘗膽について】----------


〝臥薪嘗膽〟この言葉は、宋代のころからあったらしい。
一番古いとされてるのは、蘇東坡の

 しもべ夾を以て遣いを受ける、臥薪嘗膽、日月のすすむをいたむ、功名の立たざることをなげく
 『疑孫権答曹操書』
 〈僕受遣以夾、臥薪嘗膽、悼日月之逾邁、而歎功名之不立〉

というもの。


また、勾踐と〝臥薪嘗膽〟とを関連付ける物としては、

 陛下に精思熟慮を願う、愛民を己に約す、勾踐の臥薪嘗膽におよぶ
 『宋史』 趙必愿
 〈願陛下精思熟慮,約己愛民,必如勾踐之臥薪嘗膽〉

とある。

蘇東坡は北宋の人物だから、この時代には〝臥薪嘗膽〟という言葉があったということに
なるんですかね。
『宋史』は、これを越王勾踐の古事にこじつけたことが考察できる。


日本では

 【臥薪嘗胆】

 呉王夫差が、父のかたきの越王勾践に対するあだうちの志を忘れないために薪の上に寝て

 身を苦しめ、夫差に敗れた勾践があだうちの志を忘れないために胆をなめて身を苦しめたという

 故事から。
 『学研漢和大辞典』

という意味で有名。

しかし、これは無茶苦茶である。
『史記』にも『呉越春秋』にも、こんな古事はないようです。


ちなみに『史記』の勾踐には、

 呉すでに越をゆるす、越王勾踐国にかえり、身にうけた苦しみに心を焦がし、坐に胆を置く、
 坐に臥せるに胆を仰ぎ、飲食に胆をなめる。
 曰く「なんじ会稽の恥を忘れたか?」
 『史記』 越王句踐世家
 〈吳既赦越,越王句踐反國,乃苦身焦思,置膽於坐,坐臥即仰膽,飲食亦嘗膽也.
 曰:「女忘會稽之恥邪?」〉

とあり、出てくるのは〝嘗膽〟の古事だけのようですね。


もともと勾踐に関連するのは〝嘗膽〟であった。
これを『宋史』あたりが、何らかの典拠に依って勾踐と〝臥薪嘗膽〟を結びつけた。
とするのが順序としては正しいということになるんでしょうか。


では、日本の辞典に載ってる吳王夫差と越王勾踐の古事は、どこからきたのか?

これは、はっきりしていて『十八史略』からきてるそうです。

この本が成立したのは、元の初めころで、曾先之という人が書いたらしい。
この本に

 「吳王夫差薪に臥し、越王勾踐膽を嘗める」

とかいう物語が出てくるそうです。

なぜ、曾先之がこういうありもしない作り話を挿れたかは不明。
面白おかしくしないと売れなかったんでしょうかね。


なので、この『十八史略』、中国での評価はすこぶる低い。
今の中国にはもう無い、四庫全書に清代にその名が残ってる程度で、曾先之なんて

もう誰も知らない。

四庫全書では『十八史略』を評して

 「蓋郷塾課蒙之本」

とある、意味は、

 田舎の塾で使う愚か者の本
 【蒙:愚か者】

程度の意味です。


これは例えて言えば、古事記『稻羽之素菟』の説話に出てくる〝和邇〟を鰐と誤訳して、
そのまま出版しちゃった。
日本では、とっくに間違いであるとわかってるけど、どっかの外国では未だに貴重がられていて、
日本でも昔はワニがいたんだと誤解されてるようなものになるんだと思います。

ということで、『十八史略』は、あまり上等な書物でないとしたしだいです。


これらのことは、高島俊男が完璧に論破しておられる、興味のある方は、ご一読をお奨めします。


五節句のこと

節句とは、学研の『漢字源』によると次のように書いてある。
 【節句】
 五つの節日のこと。
 人日(一月七日)
 上巳(三月三日)
 端午(五月五日)
 七夕(七月七日)
 重陽(九月九日)
 で、季節の変わりめを祝う行事を行う。

たぶんどの暦の本をみても、どれも同じような解説であると思う。


この中で一番怪しいのは、人日である。
上巳以降は、月日がゾロ目であるのに、人日だけゾロ目でない。

五節句とは、もともと『易経』上の陽数である一・三・五・七・九を祝うために
いろいろな近時の風習をこじつけて形式化したものである、と私はみている。


陽数の話については、ちょっと複雑なので別の機会にお話したいと思います。
風水などでコパさんが〝九〟が縁起がいいとおっしゃってるのも、『易経』の老陽をあらわす数が
〝九〟であることからきている。


五節供は古くは、
正月朔日(一月一日)
三月三日
五月五日
七月七日
九月九日
に祝っていた。


江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では次のように解説している。
 【時候類】-七夕-
 そもそも一年の中で嘉祝するわけは、正、三、五、七、九の奇月にあって、
 朔、三、五、七、九の奇日に行う。
 俗にこれを五節句という。
 七月七日もその一つである。
 一般では二星のことに心を奪われて、この根本を忘れているようである。

また邦訳版の『日葡辞書』でも次のように解説している。
 【Goxeccu】五節供
 義務として領主に敬意を表して訪問する五つの時節であって、

 それは一年のうちの五つの月にある。
 すなわち、正月にあるその年の最初の日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日。


『日葡辞書』は1603年、徳川家康の時にイエズス会に刊行された、ポルトガル語の日本語辞書。
『和漢三才図会』は1712年の自序があるため、このころの百科事典。

どれも昔の風習を調べる上で、非常に重宝する辞書である。

二つの異なった権威ある辞書に、五節供は正月朔日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日

とあるので、江戸時代ごろまでの五節句は陽月陽日を祝う日であったことは、ほぼ間違いないと

思います。


それでは、人日とはなんぞや?
ということになりますが、同じく『和漢三才図会』『日葡辞書』では、次のように解説している。
 『和漢三才図会』-元三- 注
 東方朔の占書に出ている
 『事物紀原』巻一、正朔暦数部、人日の項に、
 「東方朔の占書にいう。歳の正月一日に鶏を占い、二日に狗を占い、四日に豬を占い、

 五日に牛を占い、六日には馬を占い、七日には人を占い、八日には穀を占う。 云々」


 『日葡辞書』-Iinjit 人日-
 正月の初めの七日目。


どれも観る限りでは、とても五節句の筆頭にくるような由緒ある日ではない。
どちらかというと、どうでもいい日だ。

ここで面白いのは、東方朔が言い出したとか言われてることです。
この東方朔というのは、いいかげんな奴であるし、東方朔に関係するとされることもそうとう
いいかげんである。


皆さんご存知のように『漢書』というのは、非常に権威のある著書ですが、
東方朔の列伝では次のようにしめくくられている。
 朔の駄洒落、未来の占い、射覆は、その事自体がうわついた、庶民の間に行われるもの、

 子供や牧童がまどわされるものである。
 しかるに後世の好事家は、世の奇怪ないい伝えを取ってきて、これを東方朔に付会している。


人日は、もとは占いに関連した日であって、しかも東方朔の名が出てきている。
これだけでも、そうとう怪しい祝日である。
人日がいつごろ、なぜ五節句の筆頭にくるようになったのか?
個人的には、怪しい祝日の一言で片付けて終わり。
これ以上の深入りは無意味だと思っている。