陸遜改名の時期
陸遜は、もともと陸議といったそうです。
『呉書』陸遜傳の冒頭にこうあります。
陸遜 字は伯言、呉郡呉の人也、本の名は議、
***以下原文***
『呉書』 陸遜傳
陸遜字伯言,呉郡呉人也.本名議,
改名の時期については、本傳に記載がなく、諸説あるようです。
私は、陸遜は晩年に改名した説を支持しています。
まず、史書での記載がどうなっているかみてみますと、
『蜀書』は全て陸議と呼んでおります。
『魏書』では、滿寵傳、王基傳で陸遜と呼んでいる他は、陸議と呼んでいます。
明帝紀、賈詡傳では陸議と呼んでいる。
『呉書』では、周魴傳で陸議という記載がある以外は、全て陸遜と呼んでいます。
この周魴傳に記載のある陸議というのがポイントで、周魴は、そのころ揚州牧であった魏の曹休を
騙して誘い出す為、七通の手紙を曹休宛に出すのですが、その3通目に陸議と記載しています。
ここでの記載は、当時実際に曹休宛に送った文を転写したものと思われます。
この手紙を出した時期は、曹休が南下してきた時なので、二二八年になります。
この年、陸遜は四十八歳、従ってこの時期ぐらいまでは陸議であったことが想像できます。
『蜀書』では、陸遜は夷陵の戦い(二二二年)までしか出てきません、周魴の手紙が二二八年に
書かれてますので、二二二年までしか記載のない蜀では、全て陸議と呼んでいるということが
想像できるのです。
『魏書』の滿寵傳では、陸遜が廬江に向かったという記載があります。
この年は二三二年です。
陸遜は、この年五十歳。
王基傳での記載は、陸遜が死んだ後の記載なので、陸遜と言っていることが想像できます。
したがって、二三十年ごろに陸遜は改名したのではないか、というのが私の推測です。
この時期の主な出来事としては、二二九年に孫権が帝位に即き、陸遜は太子孫登の後見役に
なっています。
心気一転、名を変えたのかも知れませんね(独断と偏見です)。
シンデレラボーイ、魏延さん
ブログタイトルにある『三国志』の記事が少ないので、今日は魏延さんの話しをしたいと思います。
魏延というのは、本来かなり優秀な武将であったようです。
劉備が死んだ後の身の処しようがもっと上手であったら、史家の評価は趙雲より上であったと
思いますし、よけいな因縁つけられて殺されるようなこともなかったかと思います。
関羽にわをかけて傲慢?なところが自滅を招いたといったところでしょうか。
劉備が益州攻略の為、荊州を出発する時の魏延は、
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部曲を以って、先主の入蜀に随行し、しばしば戦功が有り、牙門将軍に遷る。
***以下原文***
以部曲隨先主入蜀,數有戰功,遷牙門將軍
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とあります。
後漢末ごろにちょっとした私兵集団を部曲という慣わしが多かったようです、
ちょうど劉備が旗挙げした当初で、
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先主その属徒を率いて校尉の鄒靖に従い、黄巾の賊を討ちて功あり、安喜の尉に除せられる。
***以下原文***
先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功,除安喜尉
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が、この時の魏延にあてはまると思います。
ちょっとした私兵集団を伴って、荊州南軍を実行支配していた時期の劉備の下にはせ参じた
といったところでしょうか、趙雲が公孫瓚のもとにはせ参じた時も同様ですね。
劉備の益州攻略戦で功績をあげて、牙門将軍に昇進したとあります。
出だしだけ見ると、その出世の速さは劉備を軽く上回ってますね。
劉備が漢中王になると、魏延を大抜擢して、漢中太守に任じたとあります、この時大方の予想は
張飛が選ばれるだろうという雰囲気であったそうですが、劉備は魏延を抜擢したわけです。
ここで軽く趙雲を抜いてしまったわけですね、しかし、劉備が死去し諸葛亮が実権を握るように
なってからは、史書にあるとうり、魏延はしばしば諸葛亮と意見が衝突していたようなので、
あまり重宝がられなくなっていったようです。
逆に疎んぜられるようになってしまったような感じがします。
諸葛亮の死後、魏延は史書の読み方によっては、よってたかって反旗をひるがえすような窮地に
追い込まれたようにもとれます。
まさに高祖の時の韓信、彭越、英布、状態ですね。
シンデレラも12時をまわると、おちぶれるといった感じでしょうか。
魏延も劉備が健在であった時は、飛ぶ鳥も落とす勢いでしたが、諸葛亮にかわってからは、
没落の一途をたどってしまったようです。
鬼門をちょっと考察
鬼門のことは『史記』の註にみえる。
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集解海外經に曰く
「東海中に山あり、名を曰く度索、上に大きな桃樹あり、めぐること三千里。
東北に門あり、名を曰く鬼門、万鬼が集まる所なり。
天帝の使いである神人之を守る、一名を神荼、一名を鬱壘、万鬼の領の門番なり。
人を害すを鬼、葦を以てこれを索縛し、桃弧を以て射、虎の食べ物にする。」
***以下原文***
『史記』 五帝本紀 註
集解海外經曰:
「東海中有山焉,名曰度索.上有大桃樹,屈蟠三千里.東北有門,名曰鬼門,萬鬼所聚也.
天帝使神人守之,一名神荼,一名鬱壘,主閱領萬鬼.若害人之鬼,以葦索縛之,射以桃弧,
投虎食也.」
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中原からみて、東の方に蟠木という所があり、その度朔山の東北に万鬼の集まる門がある。
これを名づけて〝鬼門〟というようですね。
山片蟠桃は『夢の代』で、
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最澄、桓武帝をあざむき、王城の鬼門を守ると云て、比叡山を創立す。
東海度朔山は碣石の東北にして、日本より西なり。
……
日本の東北にあらず。
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と言って、日本の鬼門の馬鹿馬鹿しいことを罵っている。
また、内田正男も『暦と日本人』で、これを引いて
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鬼というのは牛の角をだし、虎の褌を締めている。
牛と虎をつけた奴のいる方角うしとらの方角が鬼門であると解釈して笑いとばしておけばよい。
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と、これまた鬼門の馬鹿馬鹿しさを説いている。
日本では、方位を十二支で表すのを多用しているが、東北を表す支が無いので、八卦の〝艮(ゴン)〟
をもって代用し、訓じて(うしとら:丑寅)と言っている、不思議な民族である。
蟠桃の言うとおり、時の権力者というのが、腐れ坊主の戯言をいちいち真に受けて、巨額の税を投じ
神社仏閣を乱立させたのなら、日本人の信仰の基になる遺産も、今の箱物行政の残骸とさして
変わらなくなってしまう。
税を徴収すべきだ!(冗談です)。