三国志のお話し

与謝野さん、久方ぶりにお顔をはいけんしましたね。

あの人前に、

「役人は何一つ無駄な公共事業をやっていない」

と胸張って言ってましたけど、ああいう役人にどっぷり

漬かってる人を起用して大丈夫なんでしょうかね?

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『古代国語の音韻に就いて』

『古代国語の音韻に就いて 他二篇』
橋本進吉 著(岩波文庫) 400円

〈目次〉
・駒のいななき
・古代国語の音韻に就いて
・国語音韻の変遷

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「ハハ」は昔は「パパ」だったというのは、よく引用されてるようですが、
この本を読んで論拠がよくわかりました。


契沖阿闇利や本居宣長らが提唱した「い・ゐ」「え・ゑ」「お・を」は同音か?
からはじまり、古代音韻の変遷を紐解いていく様が、非常に明解に語られていて面白い。


奈良朝時代には萬葉仮名は八十七類に分類されており各々音として区別されていて、
混用されるようなことは無かった。
もうちょっと古くは『古事記』に観られる通り、八十八音を厳密に区別していた。
平安朝に入ると、音の分類がグッと少なくなり六十八音で、濁音を除いた清音が
『天地の詞』四十八音にあらわされている。
次に二類が合わさり六十七音となり、同じく濁音を除いた四十七音の清音が
『伊呂波』四十七音にあらわされている。
『天地の詞』・『伊呂波』は、つくられた当時の音を正確に伝えるものであったとしている。

橋本進吉は、これらの研究結果を応用し、『古事記』は平安時代につくられたとする
偽書説を退けている。
概略を示すと次の通り。
 『古事記』は奈良朝のころの十三仮名の甲乙両類を厳密に遣い分けており、
 さらに「モ」の仮名についても遣い分けている。
 奈良朝よりさらに古い時代のものであることが推測される。
 萬葉仮名の遣い分けは奈良朝末期ごろから乱れ始め、平安朝に入ったころには
 グチャグチャになっていたので『古事記』が平安時代につくられたという
 偽書説を覆すことができる。

と結論付けている。


その他、
「ラ」行音ではじまる言葉は漢語か西洋語のみで、古代国語には無かった。
濁音ではじまる言葉も同じく無かった。
「ア」行音のように母音ではじまる言葉は、一部の極少ない例外を除いて、
それ以外は無かった。というのも参考になります。


古代語は文字としては漢字だけが用いられ、当時の音韻を知るべき資料は漢字をもって
日本語の音を写したものだけである。
萬葉仮名でも、訓をもって国語の音を写した物は資料にならない。
萬葉仮名に当てた漢字音を推察するには、唐末・五代ごろに成り立ったと思われる
音韻表『韻鏡』に依って推察できそうだとしている。
 萬葉仮名は漢字音を仮りて、日本語の音を写したものが沢山あります。
 漢字音は支那語でありますから、支那語の発音がわかれば、それで写した日本語の
 発音も大体見等がつく訳ですが、しかしこれは現代の支那語でなく古代の支那語ですから、
 その音を知るのはなかなか困難であります。
 けれども、古くから日本に用いられている『韻鏡』という書物がありまして、
 これは古代の支那語の音を、日本の五十音図と同じ原理で、最初の子音の同じものは
 同じ行に、終の音の同じものは同じ段に並べて図にしたものですから、これによっても、
 古代支那語の音は或る程度まで知られるのであります。
 勿論、漢字の音を仮りて日本語の音を写した萬葉仮名は、日本の或る一つの音を写すのに、
 いつでも同じ文字を用いるのではなく、いろいろ違った字を用いており、
 その文字の支那語は必ずしも同じでなく、いくらか違ったものがありますから、
 その漢字音からして、これで写した日本の音がどんなものであるかを考えるには、
 同じ音を写したいろいろの漢字の音を眺めわたして考えてみなければ
 ならないのであります。


邪馬壹國や卑彌呼に関する物に限りませんが、最近の著書に僕が魅力を感じないのは、
自説や出版社の意向に重きをなして、その著者の基本的な思考回路が狂ってると感じる
ことが多々あるからであります。

それに比べ、昔の学者の知識量というのは、非常に端倪すべからざるものがあり、
真実を追究する姿にも読んでて清々しいものを感じる。


古書の魅力というのは、こういう所にもあるんじゃなかろうか。

卑弥呼、邪馬台国?

現在私たちがあたりまえのように読んでいる文字でも、
その論拠についてはなかなか明確な物が少ない。
卑彌呼・邪馬臺国なんかは、その代表格である。


この卑彌呼・邪馬壹國を私たちは(ひみこ)(やまたいこく)と読まされている。
学校で習いましたよね。


諸説をみてみると、卑彌呼は
 日命(ひのみこと)→ひみこ
 日御子(ひのみこ)→ひみこ

とするのが多い。
単に(ひみこ)の(みこ)を〝命・尊(みこと)〟又は〝巫女・御子(みこ)〟に
関連付けたいだけのように感じられる。


邪馬壹國(やまいちこく)は
 『魏書』の誤りで、一般には『後漢書』の邪馬臺國(やまたいこく)が正しい。
としている方が多いようだ。
これは『後漢書』の註にある
 案ずるに邪馬惟國の音は誤りである。
としているのを根拠にしているのだろうか?
この註からすると邪馬壹國の音は(ヤ・バ・イ)であったと想像できる。
どちらにしても〝馬〟を(マ)と読ませる論拠は無いようです。


これは『後漢書』の記事であり『後漢書』は『魏書』の百年後の史書である。
これをもって『魏書』の倭人のところで、教科書等が何の注釈もなしに〝邪馬壹國〟の
表記を〝邪馬臺國〟に変えて(やまたいこく)と読ませるのは、改竄に近しいのではなかろうか。
せめて、『後漢書』によって『魏書』の表記を変えて〝邪馬臺國〟としたとか註をしてもらいたい。


その外の諸国に対する読みも同様である。
僕たちは、ややもすると当時の中国人が倭人と云った種族が住んでる地域は、
同じ習慣・言葉の国々であったように勘違いしがちです。
『和漢三才図会』が註に引くところでは、
 聖武天皇神龜二年の条に諸蕃異域それぞれで風俗同じく無く。
 訳語がなければ事を通じることが出来ない。
 粟田朝臣馬養、播磨値乙安、陽胡史直身、秦朝元文・元貞ら五人、
 各弟子二人をとり漢語を習わす。
 『続日本紀』

とある。
これからすると七百年代まで、倭国は通訳がなければ、諸蕃族間で意を通じることも
出来ない多種民族であったらしい。

なので、統一王朝のもと篇纂された『記紀』の発音を、卑彌呼の時代の諸部族全てに
当てはめようとして『魏書』の表記は誤りだとか、中国人の聞き間違いだとかするのは、
滑稽であるし、失礼である。


例えば、
 江戸は、当時は(イェド)と発音していた。当時の英文表記は「Yedo」である。
 円も同じく、当時は(イェン)と言った。なので現在でも単位は〝Y〟である。

これをして、今現代が(エド)(エン)だから、昔の外国人が表記した「Yedo」「Yen」は
間違いであるとはならない事、子供でもわかる理屈だと思う。


二百年代当時の倭国は、各宗族毎に様々な習慣・言葉があり、多々ある言葉が統廃合され、
なまったり、簡略化していった。
そのうち七百年代になって、その時々で勢力が強かった宗族が『古事記』や『日本書紀』
などを篇纂した。

なので、『古事記』や『日本書紀』に出てくる言葉がこうだから、〝卑彌呼〟は(ひみこ)
だし、邪馬壹國は『魏書』の誤りで『後漢書』で〝邪馬臺國〟とするのが正しい、
また読みは(やまたいこく)だ。
とするのは、順序がおかしいし支離滅裂に感じられると思ったしだいです。


当時の発音がどうだったのかを、中国人が当時当てた漢字をもとに考察し、
四五百年後に篇纂された『古事記』や『日本書紀』の表現は、それらの発展形だと考えれば、
『古事記』や『日本書紀』を篇纂した宗族の、ご先祖様のルーツを探る糸口になるのでは
なかろうかというのが僕の考えです。

(ひみこ)(やまたいこく)という読みを、軽々しく『魏書』の時からそうであったと
するのが正しいのか?疑問です。
としたのは、こういうことです。


漢語が定着した、僕たちの世代でさえ、正字・正仮名使いで書かれた戦前・戦後あたりの本を
読むのはおっくうだし、それ以前の文語なんかは、僕は少なくとも何の注釈もなしでは読めない。

まして、文字も無かった当時の倭人が、何百年間も同じ発音を伝えてきたとは、少なくとも
僕には考えられない。

今こう言ってるからこの漢字は、当時の中国人の間違いだろうとか、こう発音してたのを
当時の中国人が聞き間違ったとかするのは、滑稽だとしたのは、こういうことです。


卑彌呼の時代の倭国は、諸部族乱立していて、言葉もバラバラ、習俗もバラバラ。
始めて遣いとして来た中国人が記録に留めるのに苦労したのが想像できる。
違う人が来れば、とらえ方に違いがでる。『魏書』と『後漢書』との表記違いはこういう
理由の方が強いのではないか、史書によって、表記や読みに若干の異同があるのは当然である。
今の常識で昔の史書に誤記や聞き間違いがあるとするのは、
早計であるし、稚拙であるし、失礼である。

騎馬の用法

中国における騎馬の用法とはどういうものだったのでしょうか。


例えば『三国志』で、呂布が曹操に捕らわれた時、命乞いだと思うのですが
ひとつの提案をしています。
 布(呂布)請いて曰く「明公(曹操)の患うる所布に過ぎず、今已に服矣す、
 天下憂うに足らざる。
 明公が步を將い、布が騎を將いしめ、則ち天下定るに足らざらん也り。
 【『魏書』 呂布傳】
呂布は「俺が騎馬兵、曹操は歩兵を率いれば、天下を易々と平定できる」と
言って命乞いをしたわけですね。
曹軍の主力が歩兵であることが考察できる。


ガキんちょのころから馬に乗ってるような、モンゴル系の遊牧民族は別として、
中国は文人優位の世界です。
その兵法も自然と頭を使った陣立て合戦のようになってくる。
孫子はその兵法書で、
 故に兵の極むる形、無形に於いて至る、形が無ければ、則ち深閒を窺うこと能わず、
 知者も謀る能わず、形に因りて衆に於ける勝ちを錯くも、衆は知ること能わず、
 人皆我の勝ちの形の所以を知るも、吾が勝ちの形を制する所以を知ること莫し、
 故に其の戦いに複さずして勝つや、まさに形に於いて無窮たるべし
 【『孫子』 虚実篇】

と説いている。
陣形の極みとは、知者が観ても何だか判らんような物が良いらしい。
対間諜対策ですね、盗み見られて簡単に対策を練られるようじゃしょうがないわけです。
なので陣形が神妙な域に達するということになるわけですな。


諸葛亮の八陳図(陳は陣と同じ)とは、まさにそうした域に達した物に他ならない。
高島先生が唐のころまで伝わっていたという、諸葛亮の八陳図を紹介しておられる。
 大陣が小陣を包み、大営が小営を包み、隅落鉤連し、曲折相対す。
 陣数は九ある。中心の零は大将が掌握し、四面八向、すべてその指揮に従う。
 陣の間に陣を容れ、隊の間に隊を容れ、前をもって後ろとなし、後ろをもって
 前となし、進むに速奔なく、退くに遽走なく、四頭八尾、衝突したところが
 首になり、敵がその中を衝けば、両頭がこれを救う。数は五に起り、八に終る。
 【ちくま文庫『三国志きらめく群像』より抜粋】

高島先生は神秘的空論とおっしゃっている。
ここら辺のことは真偽のほどはよくわからんが『李衛公問対』に詳しく載っている。
時間をみてご紹介したいと思います。


中国人にとって、兵法とは学問の応用に他ならない。
騎馬のような一直線の力技は好まなかったし、だいいち騎馬上手な純粋な中国人は少ない。
戦に使えるような馬が何万頭もいたとも思えない。
乗馬が上手いのも、北原の半分騎馬民族との混血児のような中国人で、ほんの一握りしか
いなかったのではなかろうか。
北方系の人物としては、馬超・呂布・董卓・公孫瓚なんかはその代表格でしょうね。


中国における〝騎馬の用法〟というのは、こういう荒くれ者が先鋒や、後方撹乱をにない、
相手の陣形を乱すというのが主目的ではなかったかと思います。
上に説明したように、知者が観ても何だかよく判らん陣立てなんか、いくら調査しても
時間の無駄なわけで、強力な騎馬兵で相手の陣立てを早めに崩した方が利口である。

例えば、袁紹と曹操との官渡での戦いの時、
 曹公は張遼及び羽(関羽)を先鋒に使い之を擊つ。
 羽は良(顔良)の麾蓋を望見し、策馬し萬衆の中に於いて良を刺す、
 其の首を斬りて還る、紹(袁紹)の諸將で能く當る者莫し、遂に白馬の圍い解ける。
 【『蜀書』 關羽傳】

曹操は官渡戦の時に張遼と関羽とを先鋒とし、袁紹の陣を乱したということらしいです。
これなんかも、相手の陣形を早めに突き崩して戦況を有利に導こうとの意図が
うかがわれますね。


後方撹乱では、同じく官渡の戦いの時、
 曹公は袁紹と官渡に於いて相拒む、汝南の黃巾劉辟等は曹公に叛いて紹(袁紹)に應ず。
 紹は先主を遣わし将兵を與え辟等と許下を略さす。
 【『蜀書』 先主傳】

袁紹はこの時、劉辟の叛逆に乗じ、劉備に後方撹乱を命じている。
後方撹乱は戦況が膠着状態に陥った時に有効な戦術であるような感じですね。
この時は失敗したようですけど…。


先鋒・後方撹乱、どちらも機動力が重要なわけで、騎馬の有用さを物語ってると思います。
歩兵じゃ遅すぎて、間諜に気づかれちゃいますもんね。


所感としては、騎馬の用法というのは、先鋒・後方撹乱など、用兵全体の中にあっては、
初期段階での小競り合いや、戦況膠着状態での奇襲として用いられたように思われる。
先鋒の場合でも、騎馬同士がぶつかるなんてのは少なかったのではなかろうか。
先鋒も、後方撹乱も虚をついて敵を撹乱させるのが効果的だと思うからです。
ましてや、将軍同士が一騎打ちをするなんて、あまり想像できない。
顔良は関羽に虚をつかれて一刺しにされている。


しめはやはり、文臣率いる歩兵同士のぶつかりあいといったところでしょうか。

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