卑弥呼が魏に使者を送った時期 | 三国志のお話し

卑弥呼が魏に使者を送った時期

卑彌呼が魏へ、使者を送った年というのは、日本の通説では魏の景初三年
ということになっているのだそうです。
今出ている教科書類もだいたいこの年を採用してるんだと思います。


このことは、魏書の鳥丸鮮卑東夷伝に書いてあります。
しかし現存する『三国志』の写本では、景初二年となっています。

景初三年を採用している日本の著者は、
 景初二年に司馬懿が公孫淵を討ち、遼東を平定するのですが、公孫淵が討たれるまで、
 遼東以東と中国との交流はなかった。
 公孫淵が討たれるのが、景初二年八月二十三日とありますので、その年の十二月に
 卑彌呼の使者が魏に着くのは無理がる。
ということを言いたいらしい。
ここでは、たぶん遼東討伐→遼東以東を平定という時の流れを念頭に置いているんで
しょうね。


それでは、景初二年八月まで遼東以東とは、本当に交流がなかったのでしょうか?

例えば、遼東討伐をやりやすくするため、帯方・楽浪諸郡の平定を同時進行させ
司馬懿の後方支援をするというやりかたも考えられます。

鳥丸鮮卑東夷伝の韓のところで、景初年間、明帝が帯方太守の劉昕と、楽浪太守の鮮于嗣に、
 それぞれの郡に海から入らせ平定させた。諸韓国の臣智に邑君の印綬を授けた云々…

 『三国志』 魏書 鳥丸鮮卑東夷傳
とあります。


明帝が亡くなるのが、景初三年正月一日とありますので、明帝の名で帯方郡などを
平定出来るのは、景初二年以前ということになります。
司馬懿に遼東討伐を命じたのが、景初二年正月とありますので、だいたいこの
時期に、劉昕と鮮于嗣を、帯方・楽浪の太守に任じ二郡平定を命じたと考える
ことはけっして無理のあることではないと考えられます。
平定したとありますので、こちらの方は、戦などせず、劉昕と鮮于嗣が到着し
話し合いだけで解決したんでしょうかね、そんなに時間はかからなかったようです。
その後、すぐに諸韓国の臣智を邑君に封じたとあります。
その足で、さらに海の向こうにある、倭国の女王にも朝見を促したということも十分に
考えられる。

司馬懿が遼東討伐期間を、進軍百日、攻撃百日、戻り百日、
休息六十日と答えてますので、
帯方・楽浪にもだいたい行きに、百日かかるとして、帯方・楽浪の平定に
三十日、帯方から倭国まで四十日とありますので、往復八十日、倭国平定に余裕を
みて三十日と考えても、計三百四十日になりますので、十二月に卑彌呼の使者が、
魏に到着しても、おかしくはないわけです。


 写本の単なる間違いではないか?現に他の史書類で景初三年としているものが多い。
これにつきましては、現代の日本の書物でも景初三年を採用してるものが多々あり、
これらは歴史的背景を考察して何の注釈も無しに景初三年と明記しております。
同じことは、昔の中国でも考えられ、遼東討伐→遼東以東平定という説の方が何の注釈も
無しに景初三年と書く。
こんな感じではないか、というのが個人的な考えです。


現存する唯一の当該史書である『三国志』で景初二年と書かれている。
その当時の他の史書類で景初三年と書かれているからといって、教科書までもが何の注釈も
無しに景初三年とするのは、ちょっと横暴では?
ちょっとは原本にも花を持たせましょうよ。というのが、私の所感です。