浅野内匠頭の人物像 | 三国志のお話し

浅野内匠頭の人物像

三田村鳶魚翁は著書『赤穂義士』で次のようにおっしゃっておられる。
 仮に浅野長矩という人がよくない人で、無理な事をする人であったと致しましても、
 その家来たる者どもが、飽くまで忠義の心を失いませんで、人の家来たるべき道を
 尽くしましたならば、却って君臣という間柄、その義理を立てて参る上から申し
 まして、益々立派になることであろうと思います。
これは、浅野内匠頭が世間で思われてるほど立派な人物でなかったとしても、
鳶魚翁としては、六十六人の義士の忠義にケチがつくようなことはない。
尊敬に値しない程度の君主に忠誠を尽くしたことで、逆にその忠義のほどが際立つのでないか
と説いてるわけですね。


それでは、鳶魚翁は内匠頭長矩をどう観ておられたのか、同じく『赤穂義士』で
次のようにおっしゃっておられる。
 赤穂の家風としては非常に倹約な、塩っ辛い家風であったのです。そういう中に生まれて
 来たせいかも知れませんが、内匠頭長矩は非常に鄙吝な人でありました。

と評しておられる。


鳶魚翁は長矩のケチさ加減について、吉良に礼儀として当然納めるべき付届けである金一枚
さえも渋って出さなかったと次の論拠を挙げて説明している。
 『秋の田面』とういう本がありますが、これには長矩のことを「惣じて毎年公家衆参向の節、
 御馳走御用仰付けられ候大名、いづれも世話焼として上野介方へ馬代金一枚宛、早速付届
 いたし候事、並の格と成来候也、然るに内匠頭、其うまれつき至極短慮にして、すぐれて
 吝嗇強くして、人の伝ふ事を少も聞入れぬ性質なり」と書いている。

その頑固で頑なな性格を説いているわけですね。

さらに、鳶魚翁は長矩が饗応費用をケチったことについても、小宮山南梁翁の話を持ち出して、
 小宮山南梁翁はこういうことを云って居られる。
 …云々
 近来何事も華美になって行く。公家の御馳走役の如きも、だんだん費用が多くなるようで、
 それが前例になってはならぬから、今度は前年よりもあまり高くならないように…云々

と説明し、長矩がこの言葉を単純に受け止めたことの馬鹿さ加減を次のように説明している。
 十九年前につとめたことを考えてみますと、天和三年には四百両かかっている。
 それから元禄十年につとめた伊東出雲守の費用を聞合せて見ると、千二百両遣っている。
 そこで自分はその中を取って、七百両ぐらいに見積もればいいだろうと考えた。

とある。


この長矩の短絡的な思考もよくわからんが、小判の価値というのは長矩が拠ってる最初の
四百両と最近の千二百両とでは大いに違っているらしい、
 浅野が前にやった時は、四百両といいますけれども、その頃は慶長小判だったし、
 元禄八年以降は、例の悪貨といわれる小判になって居りますから、前後で物価が
 大変違います。
 四百両のものなら、八百両ぐらいかかるのは不思議でない。
 伊東が千二百両遣ったのは、非常に多いようだけれども、実際はさまで多いわけじゃない。
 七百両では前の四百両よりもまだ粗末なので、これは無理な話です。

長矩が自慢げに質素倹約に努めた内容に対し、それは小判の粗悪化を考慮に入れていない
短絡的な考え方で、賢君とは程遠い物のわからん人物だと評してるわけですね。


それではこの浅野長矩という男が、質素倹約に努め税を軽減してるのかというと、
どうもそういう風でもなく、搾り取れるところからは徹底的に搾り取っていたようである。
管茶山『筆のすさび』-亡国幣政-を引いて説明している。
 赤穂の浅野家が潰れる前方は、大野某が執政であって、大石などは度々しくじって、
 閉門だの逼塞だのを毎年食っていた、浅野家が潰れて、ところの者が却って悪政がやんだ
 といって喜んだ。

また伴蒿蹊『閑田次筆』を引いて、
 赤穂の執政は大野氏上席で、万事を取はからって居った為、民は聚斂に堪えないで
 弱っていた、家が潰れたので、人民は大喜びで、餅を搗いて賑わした。

と言っている。
鳶魚翁自身、赤穂に赴いて訊ねまわったところ
 赤穂の浅野家が退散して、彼処を引払う時分に、領民はひどく喜んで御祝いをした、
 殊に塩浜の者は幾日か続けて御祝いをした、という話をききました。

という体験談を挙げて、長矩の執政のまずさを裏付けておられる。


鳶魚翁は長矩の例に挙げた二件のドケチっぷりを
まず付届けをしなかった件で、吉良というのは自尊心の高い人物だとして、『秋の田面』を
解説して、
 内匠頭が挨拶に行かれた時でも、相役である伊達左京亮の方では、世間並みに挨拶付届が
 してあるのですから、吉良の扱いも自然それとは違ってくる。
 つまりあの大騒動は、内匠頭の根性の穢いのから起こったのである。

と解釈している。
饗応費用をケチった件について、吉良は長矩の案を否定して次のように言ったとある。
 御馳走役というものは、そんなに度々つとめるものじゃない、大名一代に一度か二度しか
 つとめるものじゃないから、そう倹約するに及ばない、浅野の見積もりはいかん、前年、
 前々年の例もあるから、格別に減らしちゃいかん。こういって聞かない。
 吉良は云出したらあとへ引かないし、浅野はまた何と云っても聞かないで、
 すべての設備を七百両で仕向けましたから、吉良のいうところとは、すべての事が
 行違って来る。
 御公家さんも前年、前々年の例を知っていて、そのつもりだから、愈々行違いに
 なって来る。
 そういう事から遂に浅野が癇癪を起して、刃傷沙汰を惹起するようになったので、云々

として、吉良への傷害事件は、長矩が自分の思慮分別に欠けたところを棚に上げて、
逆切れしたことから起きているのではと説いてるようです。 


要は、浅野内匠頭長矩に関しては、世評が現実と乖離しすぎている。
長矩の人物像は、拝金主義者で金に執着すること甚だしい、金の為なら領民の生活苦など
意に介さない。
当時の領民の様子がそれを物語っている。と言いたいようです。

私も個人的にこの意見に賛成である。