風邪
風邪が治らない。
11月の下旬に風邪っぴきの子供が多数来店したことがあったのだが
どうもその時にうつされたらしい。
全く汚い話だが、恐ろしく粘度の高い、まさにジェルのような鼻水と
そこから広がる痰、それを吐き出そうとする咳と、全くもって
体力を消耗する話になっている。
昔に比べるとマスクをして歩く人の数も増えたように思うが
アレってどこまで効果があるのだろうか。
咳き込む私がマスクをするのはまあそれなりの意味があるのだろうが
どうもマスクをして街中を歩くと不審者のような気がしてならないのである。
さらに接客をする身としては、マスクをして接客する事にどうも抵抗がある。
スーパーのレジのオバハンがマスクをしてレジを打っているのを見ていると
不快とまでは言わないが、決していい気分はしない。
要は接客する場所に出なければいいのだが、中々そういう訳にもいかない。
ちょっと咳をしただけで居丈高に「マスクを着けろ。」と言う奴もいるのだが
そういう奴に限って上長がいない時に規定時間以上の昼休みを取ったりしやがるので結局嫌でも接客をしなければいけない訳だ。
と、言うことで年末調整の関係で朝一瞬だけ出社して、休み扱いにしてもらい、病院へ行った。
職場の最寄りであり、嘗て住んでいた家の最寄りでもある駅の近くにある病院にいったのだが
最近に院長が癌で亡くなったらしい。
その院長、どこかで聞いたことある名前だと思ってドクターに聞いてみたら、
どうやらこの地に住んでいた時何かあったらいつも診てもらっていた診療所の
院長だった様だ。
そこそこ年はいってそうだったが、清楚な感じの女医さんだったのを覚えている。
風邪を引いたお陰で、昔のことを少し思いたした・・合掌。
夜が来る
おかげ様で毎日残業続きである。
若い連中は何処まで仕事を片付けるかではなく、何時に帰るかというアルバイト並の発想をしているので、上長と私でケツを拭っているのが現状である。
とはいえ、忙しい時程カメラを持ちたくなるのが悲しい性で、通勤の際、夜の街に繰り出す事もしばしばである。
デジタル時代になり、ISO1600とか3200果ては6400等フィルム時代には超特殊フィルムだった感度がごく普通に使う事が出来、肉眼でみるのとはまた違う光景が広がり、ここ数年来のお気に入りでもある。
写真を撮る事がストレス解消に繋がっていると意識し始めたのは2年程前だっただろうか、当時の仕事に行き詰まりを見せていた私は手にして間もない高感度性能に優れたデジカメを持って通勤途中の夜の街を撮り始めたのがきっかけだったと思う。
それまで家には寝に帰るだけ、休みは家でゴロゴロするだけの生活から再び街に出ようと思うきっかけだった。
それから、ストレスの増大と共にシャッター数は確実に増大し、学生時分に戻ったかと思うほどシャッターを切る様になった。
閑話休題この時期あちこちでイルミネーションが行われているがあれも中々よいものである。
仕事場の最寄り駅の前でも行われているのだが実は最近まで気付かなかった。残業続きでイルミネーションが点灯している時間に駅にいないので知らなくて当然といえば当然なのだが・・・。
ショボいと聞いていたが中々どうして綺麗なものである。神戸ルミナリエの様な大規模なものは人ごみの苦手な私にとっては少々辛いものがあるが、この程度の規模なら安心して見る事が出来るし、撮影も楽しめる。
そういえば今年のルミナリエは矢鱈と「震災の犠牲者への鎮魂という本来の目的に帰ろう。」という話を聞くのだがいよいよ財政的な厳しさを増してきているのだろうか。ここ数年来、どことなく「今年で最後。」という話が出ていたし、無責任なことは言えないが冬の風物詩となっている企画だけに何とか続いたらと思う。
しかし、師走に入りちょっとは早く帰れるようになるかと思ったのだが、所謂年末進行見たいな状況になって余計に忙しくなってしまった。
ちっとも風邪が治らないし、全くとほほである。
気が付けばもう師走

この忙しい最中、この様に駄文を書いているのは、職場でやりきれなかった仕事をするためパソコンに向かったものの、全くはかどらず現実逃避をしているからにほかならない。

私の職場は商業施設の中にあるのだが、11月の上旬にはもうクリスマスツリーが置かれていた。何だかクリスマスも商業化が進むにつれ随分早くから取り上げられる様になったと思う。

私の母親は行事物というか、季節ごとのイベントが好きな人で、クリスマスもツリー飾り付けなどしていた記憶がある。昔はクリスマスは家族で楽しむイベントだったように思うが、バブル期以降は完全に商業化されたような気がする。商業化されるのは悪い事ではないが天邪鬼としては何か踊らされている感がありシャクに触る。

ネットで「今年のクリスマス中止」ネタが流れるが、ではクリスマスが嫌いかといえばそうでもない。
例えば、小学生の時2学期の最後の給食にはケーキ(当時はクリスマスイブが終業式だった。)がついて来たが、そういう細やかな非日常が結構好きなのだ。昨年の師走、失業中でぶらぶらしていた私は友人の商いのヘルプに行ってたのだが、そこでの給食で「いかにもクリスマスらしい献立」が出て密かに嬉しく思ったものである。
クリスマスもそうだが、その後に続く年末の慌ただしさも好きである。日常から非日常に変わっていくワクワク感がたまらない。私にとって正月は祭のあとの様なものである。考えてみれは学生時分のバイト以来、正月はたいがい仕事をしてたのでもう日常に戻った感がある。今となってはお年玉が貰える訳ではないので尚更である。

さて、年末といえばやはり酒席という事になるのだが先立つものがなく、トンとご無沙汰である。私を酒場に連れてってと遠い空に叫んでみたい。
何を想い何をしてきたのか
大層なタイトルだが中身は非常にライトな話である。
先日私の勤務する店に、私の出身高校の生徒と、付き添いで親父さんが来店した。その生徒に私が同じ高校の出身である事を話していると、その親父さんも同じ高校の出身である事が判った。親父さんは5期生、私は16期生、現役の生徒はざっと計算すると34.5期生位だろう。私が高校に入ったのがもう20年も前になるのだからいやはや月日がたつのは早いものである。
私の通った高校はまあ進学校の端くれで自宅から近いという理由でかなり無理をして入った学校で、完全に落ちこぼれだったし学校もつまらなかった。
そんな中通学の原動力となり、今の生活への道(まぁ裏街道か茨の道かも知れんが。)の起点となったのが写真部に入り、一眼レフカメラを手にした事だった。
まあ余りの成績の悪さに親に退部させられかけたのはご愛敬だが、その後写真の学校に進み、それ関連の仕事をしているのはちょっとしたサクセスストーリーなのかと軽く自画自賛してみたくもなる。
鉄道写真から入り、赤瀬川原平の超芸術トマソンの影響を受け、カメラを持って街を歩く様になったのは高校三年の頃からなのでこれも中々のキャリアである。
さらに高校を出て、大阪の写真の学校なんぞに行ったからもう大変、現在の撮影スタイルが確立されてしまった。あとはまぁ、仕事上の必要にかられ望遠レンズを購入したのを機に一時期離れていた鉄道写真を撮り始めた以外は、十年一日のごとき行動を続けている。20年飽きもせずよくやってきたものだと思う。
何ともつまらない高校生活だったが、一生続けられる事に出会えた事は素直に喜ばねばなるまい。件の高校生も受験を控えているらしいが何かこれからの人生に繋がる事に出会えればと、不肖の先輩は思うわけである。
そう言えば初めて写真を撮影する事を目的に出掛けたのは昭和62年、国鉄最末期の岡山駅だった。その時一緒だった悪友がいるのだが、特に申し合わせた訳ではないがこいつも高校卒業後写真学校へ進学した。しかも共に岡山駅に行ったのがきっかけだという。全く類は友を呼ぶんだか何だか。
大津百町
大津百町大写真展というイベントに行ってきた。
滋賀県の営業写真界の重鎮谷本勇氏が撮影した古い大津の街並みや生活を中心に、大学のゼミで撮影した今の大津、そして市民が携帯で撮影したカットを展示する企画である。
私が滋賀県に引越して来た時思ったのは、大津は県庁所在地ではあるが、県庁しか無いところだという事。確か当時は全国て3箇所しかない特急の停まらない県庁所在地駅だった。まあ東海道の中でも大津は三条大橋を出て最初の宿場、現代人の私の足で歩いても4時間、電車だと大津京都はたったの9分という程度の距離だから、今のご時世人の流れが都市に向かうのは仕方があるまい。
とはいえ、昭和30年代や40年代はまだまだ都市としての機能があったようで今の官庁街しかない大津のみを知っている私には賑やかな大津はある意味新鮮に映った。
しかしまあ、今回の写真展で、印象に残ったのは、観客に地元の老人が多数いた事と、写真を見ながら、あそこに何があったとか誰が住んでいたと、皆が口々に話していた事である。
写真は芸術か記録かという話は昔からあるが、私は、写真は記録であり記憶の補助装置だと考えているので写真を見ながら昔話に華を咲かせるのは理想的な姿だと思う。昔の記憶なんてものは結構曖昧なもので私自身子供の頃住んでいた街の事を考えると、まるでエアポケットに落ちたかの様に記憶が飛んでいる事がある。そんな時、当時の写真があればと思うのだが、そんなものは中々残っていないし、私自身の写真も、度々の引越で今やどこにあるのかすら判らない状態である。
ただ誰の為、何の為ではなく今この時の想い出として写真が残せればと思う。どのような評価かはさておいて、ふと昔の事が思い出される様であれば非常に嬉しく思う。










