言葉の森の中の日仏往還思考 ―「心身景一如」論文の余白から | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

 

先週土曜日から始まった一週間余りの冬期休暇中、心身景一如論文の日本語版作成に最初の四日、その仏訳にこの二日、朝から夜までただ只管に机に向かった。三月二日の締切りを目前に控えつつ、ちょっと大袈裟に言えば、背水の陣で臨んだが、覚悟していたよりは難住せずにどちらも終えることができて、今は少しホッとしている。

日本語版の方が、八八〇〇字(四百字詰め原稿用紙で二十二枚。もう何十年とパソコンで原稿を執筆しているにもかかわらず、今でもこっちの数え方が長さの目安としてはピンとくる)。発表時間三十分に対しては長すぎるが、参加者たちには当日原稿が配布されるので、その場で適宜省略しながら発表すれば問題はない。

仏訳は、五千二百語余り、A410.5ポイントで四十行とかなり詰め込んで九枚ちょっとに収めた。先ほど、信頼できる若きフランス人の友人(現在京大で九鬼周造についての博士論文を執筆中で、四月にはフランスに戻ってくる)に今回も添削を頼んだ(もちろん事前に都合を聞いておいた上で)。今回の論文は、文学作品を対象としているとはいえ、アプローチは哲学的なので、やはりまず彼に頼んだ(同僚たちには、彼らの忙しさをこっちもよく知っているから、なかなか頼みにくいという事情もあるが)。

今回のシンポジウムは参加者に仏語を解さない人が多いので、発表言語は日本語にしたが、シンポジウムの論文集は両言語で出版されるので、仏語版の方も最初から全力で取り組んだ。いつもと逆でまず日本語で書いたが、そのことによる効果があった。それはフランス語に訳しながら、日本語版の方の表現の改善もできたことである。

私は、一文が長くなるという良くない傾向が日本語でもフランス語でもあることを自覚しているが、特に日本語でその傾向が著しい。今回も、構文が複雑すぎてそのままではフランス語にしにくい文がいくつかあり、そこは日本語版の方を仏訳に合せて、いくつかに切り分けた。これが他人の文章だったら、そうはいかないわけで、人から仏訳を頼まれたときは、元の日本語の複雑な構文を、それが必ずしも望ましいものでなく、自分のことは棚に上げて(これ、私の得意技)、悪文だなあなどと愚痴をこぼしながらも、それがその人のスタイルだからという理由で、できるだけ尊重する。そうしてできた「苦心」の仏訳をフランス人の友人たちに見せると、「一文が長すぎる。もっと切れ」と結局は注意されるのだが。

二つの言語で論文を書いていると、両言語の間を思考の中で絶えず往還することになる。今回は、日本語そのものを考察対象としたこともその大きな理由の一つだと思うが、日本語での思考をフランス語のそれに変換する過程を通じて、前者の固有性が後者の枠組みの中で浮かび上がってきた。さらに言えば、日本語での思考においてつねに働いている基本的機能要素の特異性が、そららの要素が仏語の枠組にうまく嵌らない、あるいははみ出してしまうことそのことによって、より明瞭に析出されてきたのである。

ここから、日本語で哲学することの特異性について一視角を開くこともできるだろう。