哲学的遺書を読む(8)― ラヴェッソン篇(8)愛の神と魂の神話 | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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今日読む『遺書』の箇所は、一昨日の記事で引用した箇所に続けて、ベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と業績」に、ごく一部の省略を除いて、ほぼそのまま引用されている箇所である。まず、ベルクソンが省略した語と表現([ ]内に示す)を復元した『遺書』原文そのままを掲げ、その直後に野田又夫訳「ラヴェッソンの生涯と著作」の当該箇所を、省略部分の訳を[ ]内に付加し、改行も『遺書』通りに戻して示す(仮名遣い・旧漢字は、現行のそれらに改めた)。

 

 On trouve [souvent] dans le pays où naquit le Christianisme [aux derniers temps de l’antiquité païenne], une fable allégorique inspirée d’une toute autre pensée, la fable de l’Amour et de Psyché ou l’âme.

 L’Amour s’éprend de Psyché. Celle-ci se rend coupable, comme l’Eve de la Bible, d’une curiosité impie de savoir, autrement que par Dieu, discerner le bien et le mal, et comme de nier ainsi la grâce divine. L’Amour lui impose des peines expiratoires, mais pour la rendre à nouveau digne de son choix, et il ne les lui impose pas sans regret. Un bas-relief le représente tenant d’une main un papillon (âme et papillon, symbole de résurrection, furent de tout temps synonymes, de l’autre main il le brûle à la flamme de son flambeau, mais il détourne la tête, comme plein de pitié (p. 116).

 

 [古代異教時代の最後期に]基督教が生まれた国には、それと全く異なる思想をこめた一つの寓意的神話、愛の神とプシケ即ち霊魂との神話が[しばしば]見出される。

 愛の神はプシケに恋する。プシケは、聖書のエヴァの如く、神によらずして善悪を識別してかくていはば神の恩寵を否定するところの、不信の好奇心によって、罪を獲る。愛の神は彼女に贖罪の苦痛を課する、けれどもそれは彼女を再び彼の選択に値するものとなさんが爲である。しかも彼は悲しみの心を以てそれを課するのである。ある浮彫には、愛の神は片手に蛾をもち(復活の象徴なる蛾と、霊魂とは、いつの時代でも同意義であった)、もう一方でそれを炬火の炎にかけて焼いている、けれどもあはれみに堪えぬものの如く、面をそむけているのである。(120頁)

 

野田訳の一行目の「それ」は、ベルクソンによるラヴェッソンの引用では、昨日の記事で引用した段落が全部省略されているために、「基督教の精神そのものなる慈悲の精神を知らぬ一神学」、つまり「狭隘な神学」のみを指すと読めてしまうが、ラヴェッソンの『遺書』を見ると、 « une toute autre pensée »(「全く異なる思想」) は、「狭隘な神学」と全く異なるだけではなく、その次に批判の俎上に載せられた「抽象的な神学」とも全く異なると読むほうが妥当だと思われる。

ここでラヴェッソンが提示している思想は、裁きと知性とをそれぞれ基礎とする神学的思考とは根本的に異なった、愛と憐れみの神の思想である。自らの知によって神に並ばんとして罪を獲た人間の魂を、愛と憐れみの神は見捨てない。増長した魂に罰を課すとしても、それはその魂を救わんがためである。炬火の炎で蛾(と野田訳ではなっているが、仏語の papillon は、蝶も意味する。両者を区別する必要があるときは、前者については « de nuit »を、後者については « de jour » を付加する)を焼くときに、愛の神が顔をそむけているという表象は、罰する神が感じている痛みを表現している。

ラヴェッソンは、キリスト教を他の宗教に対して優位に置くという前提から出発しているのではない。慈悲の精神と愛と憐れみを基調とする思想とに、それがいかなる宗教的伝統において表現されているものであっても、人間にとってより根本的な価値を見出しているのである。