人はいつか死ぬ、でもそのいつかは分からない。

それに原因も分からない。

寿命を全うして死ぬのか、病気を患って死ぬのか、事故か事件か災害かで死ぬのか・・・

誰かの手によって故意に死に至らしめられるのか、必然的な運命に従ってやむを得ない死を受け入れることになるのか・・・それは誰にも分からない。

 

分からないから、ある日の突然大切な人の死についての在り方を見直す隙は存在しえない。

 

明日、貴方の家族の誰かが死ぬ可能性は0じゃない、あるかもしれないで生きろ!

明日、私の家族の誰かが死ぬ可能性も0じゃない、だから私は常に死を意識しながら生きている。

 

死後平静を保っていられるように。

「ほら、思った通りだ!」

そう楽観、或いは達観できれば・・・きっと死による絶望も乗り越えられるだろう。

そう信じている。

 

 

そして、他人に対しても私はそれを求めている。

「あり得ない、なんてことはあり得ない」

 

明日貴方の知る誰かが自殺する可能性、或いは犯罪を犯す可能性は0でない。

そこに意識を向けろ、私はそう言いたい。

人は欲に関しては酷く貪欲だ、それは他者を蹴落としても得ようとする事象の他ならない。

それが貴方の知っている誰かの可能性は0ではないことを理解して生きてほしいと私は勝手に思っているのだ。

 

何故かって?

理不尽な運命を平静を装って、楽観し、或いは達観して傍観できると信じているから。

「あぁこの人そういうタイプの人だったのね~」で終わらせることができる。

世間はそうでなくても身内、或いは知り合いならその程度の解釈で飲み込めるはず!

 

 

あらゆる事象に対して最悪の結末を前提条件として受け入れる生き方は私の理想だ。

こういう話をするときに大体出てくるのは、幽霊話だとか霊能者・・・

或いは怪談話、都市伝説、心霊体験談なんてのが一般的だと思います。

 

私の場合、ちょっと趣が違います。

勿論その話もするのですが、私の場合”無機物は本当に生きていないのか”です。

 

植物は生き物というように、人間が作り上げた人工物をはじめ様々な無機物。

人間の言う”物”は本当に生命活動をしていないのかっていう話です。

 

理論的な、あるいは哲学的な・・・

はたまた科学的な話をするつもりはありません。

全ては一一般人の間抜けな妄想でしかございません。

 

トイレの便器は生きている

お風呂のバスタブは生きている

料理のお鍋は生きている

椅子は生きている

あらゆる機械は生きている

テレビだって生きている

鏡だって生きているかもしれない

畳もそう、床だって、アスファルトだって、コンクリートも生きているかもしれない

 

 

車もきっと生きている、電車も生きているし列車も機関車も新幹線だって生きている。

飛行機もきっと生きているだろう。

 

 

そんなとち狂った妄想です。

でもそれらを否定する根拠は今現在人間たちが作り上げた生き物の定義でしかありません。

その定義は未来永劫帰ることのできない普遍的なものだという証明は私はできないと思っています。

何故ならその証明をするには未来を知っているという前提が必要だと思うからです。

バカっぽい理論かもしれませんが、極端な話そうだと思います。

だから、結局のところ「無機物は生きていない」ということを完全に証明することはできないんじゃないかっていう結論に至る妄想でございます^^

 

そう、全ては妄想。

自分の中で完結する世界、自分の中で信じ込んでいる常識です。

 

 

それで言うと、人ならざる者の代表である幽霊的なナニカもそう。

私はその経験は無いのですが、存在していると信じています。

それは、それを体験している人を知っているからというのもありますが・・・

さっきの妄想の続きではないですが、「無いと言い切る根拠がどこにもないからです」

 

霊の定義は科学的に定めることはできません。

それ故、存在の否定をするための根拠を並び立てることが不可能だと思っています。

 

 

私は性格上よく独り言を言っているのですが、自分の中のもう一人の自分と会話するかのように口に出して話しかけることがあります。

この言葉、人ならざる者に届くと良いなと思いながら・・・

 

そういう意味でも狂った人間だと私は言いたい。

 

あ、一応訂正しておきますが独り言は一人事です。

一人の時にしかやりません。

家では風呂とかトイレに行っている時くらい?

外でも誰も聞いていない状態で喋るでしょう。

 

え?それでも大分不審者?

不審者と認識する人がいないから不審者じゃないです。

 

ということでこれにて終了!

私は何に対してもやる気が一切ありませんw

究極の困ったときにやる主義なんですね・・・

 

そう、それこそ生き物として最低限のサイクルの1つである「食う」も朝昼晩決まった時間にではなく、気分で食べてます^^

そしてその時に出た洗い物とかも全部後回し、その結果次使いたいときに使えずその時気付いてその時に洗うほどのめんどくさがり屋。

 

 

それは趣味についても言えることで・・・

ノリがあるんですよね~

波が!

没頭できるときとそうでない時の差が激しいというかなんというか・・・

で、やりたくない時はとことん気分が乗らずっていう?

 

 

それが働くという点においても響いていくのだから質が悪い。

必要になったらやるかもしれない、好きなことなら没頭できるかもしれない・・・そんな精神が生きてきますww

え?お金、収入は必要だって?

 

究極の堕落の精神は親のすねかじり、困ったときにしか行動できない最悪のシナリオパターンが展開されてしまっているんですよね・・・

困った困った。

肉体的に痛めつけられたい苦しめられたいという願望と精神的に痛めつけられたい苦しめられたいという願望。

2つの要素が合わさった究極の被虐願望に限って・・・という話ですが、「自殺願望」と「殺人願望」に繋がることなのかもしれないなってふと思ったので綴る。

 

はじめに「自殺願望」において前提条件を足していきます。

まず、死とは手段でも目的でもない、達成後の事象として捉えます。

では目的は何かというと、実際に息絶えるその瞬間までの間を経験してその後死に至る過程のことを指します。

具体的にどういうことかというと・・・

入水自殺を例に挙げるとする。その場合睡眠薬を飲んだり酒を飲んで錯乱状態にしたりすることなく正常心のまま行うということを言いたい。

それだと達成困難になるのでは?と思うかもしれない。

だが、それを断ち切る要素なんていくらでもあるだろう・・・

深い水の中なら身体か足か浮き上がらない重りをつければいい、水底に足枷でもあれば万々歳ではなかろうか?

 

そしてそこには被虐願望として得るものがある。

絶対に逃れられない中の死ぬまで続く苦しみ・・・

それこそが肉体的苦しみとして最高位に君臨するのではないか、そう思うのです。

 

 

 

 

次に「殺人願望」。

こちらも色々前提条件を足していきます。

まずこれは「自殺願望」と似ていますが、コチラの場合殺人は過程に過ぎずその結果の先全てが目的となります。

どういうことかというと、事後として犯罪者となるわけですがその後の人生そのものを目的とするということです。

 

それは、自分以外に味方は一切おらず生涯かけて責め続けられるそんな存在になるからです。

当事者はもちろん、それを知るものもまた自分に対して矛先を向けることになるでしょう。

自分はどんなことをしても名誉回復はできないだろうし、復帰・復活はありない。

犯したが最後、一生這い上がれない底なし沼にひたすら沈み続ける人生を歩む。

 

それこそが精神的苦痛における最上位だと私は考えています。

 

 

 

 

私は、全てにおいてマイナスを前提に考えている人間です。

 

所謂、最悪を前提とした行動。

慎重派と言えば聞こえは多少良くなるかもしれないが、この思考行動力皆無の温床故普通にきっついですww

 

でも、嫌なものや嫌なので止められない。負の無限ループです。

それだけは回避したいという最悪パターンを想定して、そもそも手をつけなければ何も起きない精神になるっていう・・・

 

こういう言葉をたまに耳にします。

やらない後悔よりやって後悔。

しかし自分の場合、やって後悔の方が酷くマイナスをよく招くのでその理論は通りませんww

 

こういうことを耳にします。

ポジティブシンキング。

言わんとしていることは分かるけど、普通に自信がないんですよね~

怒られたらどうしよう、批判されたらどうしよう・・・何てこと考えます。

場合によっては自分が信じてきたもの、自分が目標にしてきたものの全否定になりかねないのでより一層躊躇してしまうんですよね~

 

 

 

 

だからこそ、せめてものの妥協案として自分の考え得る最悪に備えた準備をした上で実行するようにしています。

あんまり変わってない?

行動をするという前提を大切にするための妥協案です、最悪の想定に沿った振る舞いを構築したうえで取り組む。

だからこそ、自分以外をまきこむ場合あらかじめ報告することになるでしょう。

 

もしこれこれこうならこうで、これこれこうならこう!ってな感じで・・・

 

 

生きづらくない?って聞かれそうですが、はっきり言って生きづらいです。

だからと言って治す気にはなりませんw

厄介な思考回路です^^

人々が普段歩いたり走ったりする地面或いは床に対して何か想ったりしたことはありますか?

普通は無いと思います。

しかし私はあります、こんな感情です。

「自分も床や地面になりたい」

 

それが、踏まれたい、潰されたいというM的願望だと気づいたのはその異質な願望を明確に認識してから何年後かのことでした。

ネットで調べたらそういう癖のサイトにたどり着いたのです。

 

 

夜見る夢の中で、汲み取り式トイレの最奥に閉じ込める夢を見たことがあります。

或いは排水溝か掃除機かで永遠に吸い込まれる夢。

それからこんな感情に行きつきました。

「生涯トイレで過ごせる身体になりたい」

「自分の意思とは無関係に機械的に巻き込まれてみたい」

 

それらもまた、ネット上で特殊性癖という癖の一種でもあると気づかされました。

 

 

人々が椅子に座り、体重によって若干座る部分がへこむところ見てあたかも俯瞰視点で自分に座られているような妄想に浸ることがあります。

或いは、ベットになって全身で重さを感じたい。

はたまた抱き枕になって無意識にボロボロにされてみたいなど・・・

 

これらもまた特殊性癖の一種と置き換えることができました。

「人間椅子」

「人間家具」

「人間サンドバッグ」

 

 

いつかだったか、格闘家の練習道具としてのサンドバッグになりたいという話をしましたがそれにも繋がる話です。

 

 

私は、人が一日のサイクルをこなす中で関わるであろう様々なモノに対して異常な興味の示し方をしている人間です。

これが、特殊性癖も引くほどの特殊性癖である所以です。

 

殺されるほどに苦しめられたい、っていう自体特殊性癖の中でも特異体質だというのにその根幹が無機物、モノになりたいというのだからさらに狂っているといえるでしょう。

 

 

私は日々その妄想を心に秘め生きています。

その下、実生活で再現できることだけは再現して得たいと考えて生きています。

でなきゃ、ストレスで爆発しそうですからね~

健康の維持上問題のない範囲で嗜めれば万々歳なんじゃないですかね?

そういう問題でもない?

 

それもそうかもしれない、けれどそれ以外にこの想いを収める術を私は知らない。

一つ分かることは、想いを秘め続ければ秘め続けるだけ気持ちが膨張するということ。

膨れ上がった想いが思わぬ爆発を招く前に何とか手を打とうと思い絞り出した答えです。

「人間とは己の欲求に愚直な生き物」と持論している私の最大の疑問がタイトルにある、『興味から行動までの距離』

 

人はあることに興味を持つと直ちに空想し、妄想の下シミュレートして、欲望を理解し、その思いに応える意志を蓄え、決断し、実行するという流れを長い歴史の中ずっと繰り返してきている・・・そう考えています。

 

それが、良いことであれ悪いことであれ。

たどる道は大小規模は違えどこの流れを歩むのではないか?と。

 

 

さて。

例えば、ここに悪意に対して興味を持つ人間がいるとします。

その人間は妄想でシミュレートし、欲望を認識、手を伸ばそうと努力しようと意志を固めました。

その先のもう一歩は確かに決断というプロセスですがそれは実行とほぼ同時期に発生するようなものだと認識しています。

つまり、何かがきっかけで背中を押されるようなことがあればその途端、決断し直ちに実行するのではないか?

私はそう考えます。

 

ではきっかけとは何か?

それは正確には分からないですが、刺激になるものであればなんであれ何かしらかの効果発揮しそうです。

 

 

 

さて、ここで問題が生じます。

刺激を受けた途端行動にプロセスが動きますが、刺激を受けなければ何も生まれません。

意志を固めた単なる妄想野郎の戯言に過ぎないのです。

実行を仄めかすような雰囲気を節々に感じるだけの頭お花畑野郎。

 

 

 

第三者視点でどう捉えることができるでしょうか?

そこまで露骨に思いを寄せていれば実害はなくとも他者に異常な雰囲気は察知できるかもしれない?

それはあり得るでしょう。

 

たかだか妄想でしかない戯言、何の問題にはならない。だって思う分には自由で誰にもその邪魔はできないから・・・

それは確かに納得はできます、が言うなれば時限式の爆弾を持っているようなモノ。

存在自体が危険因子という解釈であればどうだろうか?

 

 

 

たかが妄想、されど妄想。

たかが興味、されど興味。

侮ること勿れ、人は人の脳内を読み解くことは現状不可能。

貴方の隣人は悪意に興味ある人間・・・かもしれない。

 

 

私は常にそういうことを考えながら生きています。

だって私自身そうなのだから。

他人から見た私はいたって普通に見える・・・と思う。

少なくともそういった特殊な思考を持っているとは考えない。

 

だからこそ、私は私以外に対してこんな思考を持っている。

みんなそれぞれの考える悪意の興味は何なんだろうか?と・・・

 

え?悪意の興味がある前提過ぎるって?

私は「性悪説」を信じていますから、ひた隠しにしている悪意について人一倍興味があるのです。

悪意剥き出しの本性を知りたい、見て見たい、そんな思いが脳を支配します。

とんだ被害妄想ですが、それが私という人間なのです。

一種の自傷行為と言われました。

ハッとなりました、そういえばそうだと。

確かに自分自身の手でというわけではないですが、自分自身を傷つける行為という意味でそうなのだと、

 

 

次に、患者の身体的健康の維持のためその手の行為/プレイは推奨はできないと言われました。

それもそうだなと思いました。

病院に通うほどの重傷を負うかどうかということではなく、身体に痣をつけるような行為ですからね、医療に携わる身としては受け入れがたい要素なのでしょう。

 

 

更にこう言われました、ネット上で知り合った人と出会う上でのリスクと脅威。

それについてはそれなりに理解している方ですが、その手のフェチの肉体的活動においてもはやそれがデフォだという認識である以上やむを得ない壁だと思っています。

だって、リアルで知り合う人々にその癖に通じる人がいる確率ってどれくらいでしょうか?

対してネットはあっという間且つ100%なのです。信頼性についてはある程度無視せざるをえないことにはなりますが・・・

 

 

 

 

正直私は何を求めているのかいまいちピンと来ていません。

殺意増し増しでgutpunchを嗜んでいる動画、殺意増し増しでサンドバッグやミット打ちに精を出す格闘家の練習動画。これらの動画を見て興奮し射精する人間とだけしか分かっていません。

私は実際に殴られたいのか、それについては妄想上そうだと答えます。

そういう感情に浸ること10年、精神的にはもういっぱいいっぱいという感じです。

それは言い換えるのなら、ストレスが溜まりに溜まっているということになるかもしれません。

 

心の平穏の為に、ネットのリスクと脅威の壁を乗り越え最も早く実現可能な未来を選ぶか、多少時間はかかってもリア友を通じた広いコミュニティの中から探すことから始めるのか・・今その段階にいます。

とは言え、後者は書いている通りかなりの時間を有することでしょう。

何しろ、リアルでの人とのつながりというのはすぐに多くの人と接し性癖まで語り合うまでに何工程踏む必要があるのでしょう?

それに何よりフェチ・性癖と合致する人との出会いの確率なんてどれくらいなのでしょうか?

我慢すればするほどストレスはたまり、より精神に負荷がかかります。

 

 

 

医者としての適切なあり方とはいえ、精神的負担が大きすぎる現状。

正直どうすればいいのか苦悩の毎日を送っています。

人はいつでも、どこでも、誰とでも簡単にコロッと死ぬことができる。

確かに手段によっては確実性が失われたり、時間を必要としたりするかもしれない。

 

 

一つ例を挙げるとすれば、首吊り自殺は一番メジャーにして一番楽に実行できる難度の方法だと思う。

それが成功するかどうかは別として・・・

吊り下げられたロープが取れたり、うまく吊れなかったりしてという話をネット上で見たことがある。

後は、ドアノブとかで低い位置での首吊りも可能という話も聞いた。

 

だから何だっていう話?

最初に言ったことに関係する、死ぬのは簡単だということだ。

手段として首吊りを選ぶとする。

必要なのはロープとそれをひっかけられる場所と少しの時間だけだ。

後はどこででもできるだろうし、誰とでもできる、いつでも可能だろう。

 

それを実行するという硬い意志と強い決意さえあれば・・・

意思と決意意味ほぼ一緒だって?

とにかく、本気でそれを望んでいるのならすぐにでも実行できるようなことなのだ。

そう私は考えている。

 

 

 

一方、生き抜くというのはそれよりもはるかに難しい。

日本の現代社会、生きるためには働かなければいけない。

 

人間は生きるには食べて寝てというサイクルを繰り返す必要がある。

でもそれを得るには現代ではお金が必要だ。

そのお金を得るにはどうしても仕事をしなければいけない。

それかもしくは・・・まぁその話はまたいつかするとして。

 

生きるために生きる努力を継続する必要がある、それこそが生き抜く上での苦痛と言えよう。

しかし!

世の中には生きる努力を楽しみに変え楽しく生きている人もいるだろう。

世の中には生きる努力自体が楽しみそのもので来ている人もいるに違いない。

でも、全員が全員そうなのか?

いやな仕事でもしなければ生きていけないと考え生きている人が大体を占めているのではないか?

 

 

私も生き続けているが、残念ながらそのどれにも属さない。

就労者にひたすら依存しているだけの身である。

働くことが困難なため仕方ない・・・とはいえ、どこか後ろめたさがある。

それは、働くことの困難を極める所以が精神的なモノだからだ。

それで更に肩身狭い思いをしながら日々苦痛に生きている。

 

自殺は嫌だという話は昨日したと思う。

私の望む自殺は、長い苦しみの末確実に死ぬ行為に尽きるからだ。

中々実行できる環境はないし、贅沢な悩みとして選びたい手段が多すぎる。

まぁその話は繰り返しになるので気になるなら昨日の記事を見ていらしてくださいなww

 

 

 

だから、死ぬこともできない。

ただただひたすらに生き続けなければいけない。

その上で私は働けない。

精神疾患という目には見えない世間が納得するようなモノかどうか曖昧。そんな疾患で生き続けている。

 

 

働く苦痛と働かない苦痛。

どちらがより苦痛なのだろう?

比べるベクトルが違うから測れない、だからそれで比較はしてほしくないと訴えたい。

 

 

アレ?これ何の話だっけ?

いずれにせよ、生きるのがつらいという話で終結させていただきますww

 

 

働く苦痛と働かない苦痛についてはまたいずれいつか・・・

正確には妄想癖というのは正しいのか正直微妙なところで・・・

妄想によって悩まされているという点においてはそうという解釈もできなくもないっていうだけです。

 

 

 

自分が人殺しになるかもしれない、そんな妄想をしたことはありますか?

私は毎日あります。

 

それは人は誰しも、環境や状況によって言動が大きく変わるものだからいつ来てもおかしくない不幸の一種として捉えているという意味ではありません。

 

加虐心に心寄せ、興味が魅かれている最中のそれだからこそ問題視しているところがポイントです。

 

プロフィールでは被虐願望を全面に押し出している私が加虐に言及?と思われる方もいるでしょう。

実は興味があるというのはあるが、被虐ほどの興味は注がれないというのが正しいと言えるでしょう。

それに、人としての最大限の加虐行為を行った未来にこそ興味そそるものがあるというのが何より一番興味がそそられる被虐体験的なことだと考えているのです。

 

精神的に追い詰められる人生。

自分以外は全員敵で恨まれて当然。

救いの道は一切ない、何なら自分以外から罵声罵詈雑言は当然のように巻き起こることでしょうし、何なら物理的な制裁すら起こる環境ですらある。

 

究極の被虐フェチライフ冥利に尽きる未来だとは思いませんか?

 

そうです、相当イカれちまっているのです。

とはいえ、犯罪行為を正当化するつもりはありません。

それは社会で決まっているからだとか、法律がどうとか、ルールがどうの、マナーがどうのというわけではなく・・・

 

純粋に「困る」からです。

平和的な暮らしを築く上で必要悪として君臨する分には仕方ないとしてほっとくけれど、この場合は少なくともその手の者でもない害悪でしかないのでヨロシクないという認識はあります。

 

 

まぁそんなわけで日夜悩まされて、私生活に支障をきたしているのです。

それはもはや仕事どころではない・・・

家族に養っている身だったりするのです。

 

頭の中は年中無休365日そんなとち狂った思考に支配されています。

でも、そこから解き放たれる瞬間は少なからずあります。

 

自分自身が興味を持ち積極的に参加できる何かです。

明日はそれについてお話ししましょう。

それでは・・・