前触れもなく背中を預けてきたハヤテに、シンは怪訝そうな視線を向けた。

 

「おい…」

 

明らかに迷惑そうなシンを無視して、ハヤテが言う。

 

「なあ、俺ら、あの山超えるんだよな?」

 

「……それがどうした?」

 

シリウス号が停泊しているのは、二人が居る場所から、ちょうど島の反対側である。

 

シンとハヤテが宝を探しに入った洞窟は、お決まりのパターンで宝を手に入れた途端に崩落した。

 

崩落を逃れて地上に出てみれば、完全に仲間が待つ場所の反対側。

 

全速力で走って流石に息があがった二人は、しばし休んで呼吸を整えていたのだが…。

 

「あの山、めちゃくちゃ高いぞ。上の方、雲に隠れてて見えねーじゃん。他の道探した方が良くねえ?」

 

ハヤテの言葉に、シンがため息をついた。

 

「相変わらずバカだな。サルは何でも登りたがる…」

 

「は? 別に俺はあのくらいの山を越えることなんか何でもねーけど。シンにはキツくねぇ?」

 

「……山の向こう側へ行くのが目的だ」

 

「だから、山の向こうへ行くってことは、あの山を越えなきゃなんねーだろ? 洞窟は無くなっちまったんだからさ」

 

シンは憐れむようにハヤテを見る。

 

「なら、ハヤテはこのまま真っ直ぐ行ってあの山を越えろ。お前がサルよろしくあの山をよじ登っている間に、俺は、草原を歩いて船に戻る。その方が確実に速いからな」

 

「…え?」

 

ハヤテがシンの言葉を理解する前に、シンはすっと立ち上がった。

 

その背に寄りかかっていたハヤテが、支えを失ってバランスを崩しかけ、慌てて体を起こす。

「……? どういうことだ?」

 

ハヤテは前方の山をよく眺めてみた。

 

絶壁のようにそびえていて、とてつもなく高い山である。雲に隠れて頂上が見えない。

 

そして、シンが進んでいく海辺の草原。

 

そういえば、この島に来た時、船で島の周りを一周したのだ。

 

確か槍のように突き出た山の周囲を草原が取り囲んでいたのが、見張り台から見えたような気がする。

 

シンのように島を一周しただけで島のおおよその地形を覚えたりはできないが…。

 

「ま、待てよ、シンっ」

 

ハヤテは急いでシンを追うのだった。

 

「ちっ……」

 

メインマストの見張り台で銃を手にしたシンが、狙いを定めた直後に舌打ちした。

 

この角度から敵を撃つと、甲板にいる仲間を巻き添えにしかねない。

 

いや、大抵の仲間は、簡単に弾を察して避けるだろうと知っている。

 

だが、見習いのトワには、まだ無理だ。

 

おまけに、襲撃があったら真っ先に隠れるように何度も言っている恋人が、また隠れもせず、シンが撃とうとした敵の向こうでデッキブラシを持って応戦しようとしているのだ。

 

「バカが…」

 

これでは、危なっかし過ぎて、とても撃つ気になれない。

 

ふと、甲板で戦っていたナギが、前方のフォアマストの帆桁に鎖の反動を利用して飛び上がり、降り立つ姿が見えた。使える、と判断したのは一瞬。

 

「ナギっ」

 

呼ぶと同時に、シンの足はそれまで立っていた見張り台の手すりを蹴っていた。

 

風を孕んだシンのコートが帆のように広がる。

 

手にした銃から出た弾は、正確に敵の腕を貫いた。

 

その直後に、カン、と音が響く。

 

敵の腕を貫通して流れた銃弾が船を傷つける前に、リュウガが剣で海へ弾き落とした音だった。

 

落下するシンの右手にナギの鎖が巻きつき、振り子のようにその身体を帆桁へ引き上げる。

 

「…おい、アレ、なんとかしろ」

 

厳しい表情のナギに、不機嫌そうなシンが頷く。

 

「…ああ…判ってる」

 

返事をしながら再びシンが銃を撃つと、デッキブラシを手にした恋人に近づこうとした敵が倒れる。

「…ったく。あのバカが…」

 

帆桁のフートロープを使って素早く甲板に降り立ったシンが、デッキブラシで応戦中の恋人の腰を捕え、引きずるように船室へ向かう。

 

「えぇっ、ちょ、シンさんっ」

 

「邪魔だ」

 

有無を言わせぬ一言。同時に、連続するシンの銃声。

 

自分のせいでシンが攻撃できなかったのだと理解した恋人は、大人しく船室へ避難した。

「おい、シン、航路の計算まだか? 早くしろ。日が暮れちまう」

ノックも無しで航海室へやってきたリュウガ船長に、シンさんは冷たい視線を向けた。

「まだです。海流の複雑な海域を突っ切らなければ、もっと早く計算できますが」

「んな回り道したら、別の客に獲られちまうだろうが」

船長の言葉に、シンさんは呆れたような表情で計算を続ける。

「相手は娼婦でしょう? 今夜ダメなら明日にすればいい」

「ただの女じゃねーんだよっ。最高のキステクニックと評判の美人だぞ。それに俺は、今夜、抱きてぇんだ。シンも男ならそのへんは判るだろうが?」

???私にはゼンゼンわからないんだけど……。
とにかく、船長は、キスが上手だという港の女の人に、どうしても今夜逢いたいってことなんだよね???

「たかがそんなことのために、航路を変更するとは…」

シンさんは、相変わらず呆れた口調だ。

「ったく、可愛気ねぇな。んなコト言ってると、お前の女を借りちまうぞ」

冗談とも本気ともつかないことを、シンさんの手元をのぞき込み、笑いながら言う船長。

船長がチラリと横目で私を見た。

な、なんだろ…。
よくわからないけど、今、なんか背筋が…。
冗談…だよね?

と、シンさんが計算の手を止めて、覗き込んでいた船長の頭を片手で抱え込んだ。
 

 

 

「借りる? 俺のものに手を出したら、噛み切りますよ」

え? え? シ、シンさん…っ。
せ、船長と今にもキスしそうな……。
えーっ?

船長は、面白そうに笑い出す。

「ははは。……怖ぇな。ずいぶんと魅惑的な脅しだ」

「ふん。キスなら、その辺の娼婦なんかより俺の方が数倍上手い」

な、なんか…怖い…。
シンさん、船長を誘っているようにも見えるんだけど、空気がピリピリしているというか、すごい、怒っている。

船長が、苦笑しながら、シンさんの手から逃げるように離れた。

「よせや。いくらシンが美人でも、野郎とキスする趣味はねぇ。それに、うっかり触れたら、確実に噛み千切る気満々じゃねーか」

船長が離れると、シンさんは何事もなかったようにまた計算を始めた。

い、今のって……。
今の…は…。
な、なんだったんだろ……。

宴はそろそろ終盤に向かっていた。

一度は大量の酒に酔って甲板で寝入ってしまったハヤテが、ふと目を覚ました。

自分を見下ろしているシンと目が合う。

「……なんだよ」

その様子が、しばらく前から見下ろされていたような気がして、ハヤテは不機嫌そうにシンを睨み返した。

もしかしたら、自分が目覚めた原因は、シンに蹴られたか、蹴られそうな殺気を浴びたか…。

たぶん、そのあたりのような気がする。

といっても、どこも痛くはないから、蹴られたのではなさそうだ。

「ふん…起きなくてもいいものを…」

シンは、唇を笑みの形にして残念そうに呟いた。

「は? てめぇが、起こしたんだろ」

「名前を呼んでみただけだ。まさか起きるとはな…」

ため息混じりにシンはポケットから包みを取り出して、まだ寝転がっていたハヤテの胸の上に無造作に放った。

「…? ??なんだ、コレ…」

ハヤテはシンの意図が判らず、自分の上に落ちてきた包みを手に取って眺める。

「今日は、お前の誕生日だったはずだが?」

そんなことも忘れたのかと、呆れた口調でハヤテを見下ろしたシンは、そのまま船室へと歩み去っていく。

「……」

身体を起こしてシンからもらった包みを開けると、赤黒茶色に光る、拳より少し大きめの硬い塊。

「何だコレ????」

「……最高級牛の乾燥肉だな。ナイフで薄く削いでそのまま食べられるはずだ」

宴で使った食器を重ねて腕に乗せ、厨房へ片付けている様子のナギが立ち止まる。

「…そうか、シンが落札したのか……」

「は?」

「市場の競りで、最高値がついていた。…大切に食えよ」

笑みを浮かべて告げると、ナギもまた歩み去っていく。

「……。ったく。シンの野郎、礼を言う暇もねぇし…」

ハヤテは、シンが消えた船室の方を見て、苦笑した。

「誰も傷つけずに生きられたらいいのにね…」

ソウシの言葉に、リュウガは即答した。

「そりゃ無茶だな」

その、あまりにもきっぱりとした言葉に、ソウシが視線をリュウガへ向けた。

リュウガは、笑みのない真面目な顔で、ラム酒の瓶をテーブルに置いて、ソウシを見返す。

「なんだ?」

何か、不思議なことでも言ったか、と逆にソウシに問いかける目をしていた。

「……無茶?」

ソウシ自身、誰も傷つけないように生きていくことは、無理なことだと感じている。

けれど、無茶なことだとは思いもしなかった。

無理と無茶。

その含まれる意味には、可能と不可能ほどの差がある。

「ん? ああ、無茶だろ」

信念の宿る、リュウガの言葉。

何がどう無茶なのか、説明して欲しいような、説明など聞きたくないような、複雑な思いでソウシはリュウガがテーブルに置いたラム酒の瓶へ視線を移す。

「傷つけることは問題じゃねぇ。その傷が深いか浅いか、治るモンか残るモンか、誰のドコについたか、の方が肝心だろ? 浅くて痕も残らねぇような傷なら、誰も気にしねぇ」

「うん…でも、痛い思いはさせてしまうよ?」

「それこそ無茶だ。俺達は、さんざん親に痛い思いさせて、苦しませなきゃ、産まれてこれねぇからな」

リュウガは笑って、腕を組んだ。

「考えても見ろよ。世の中、イテェってことを知らない奴ばかりになったら、どうしようもねぇだろうが」

ソウシの顔にも笑みが浮かぶ。

「それは困るね」

体調を知るにも、傷の程度を知るにも、本人の痛みの自覚は必要だ。

「誰でも適度に傷つけてもらって、痛いってことを知っとかねぇと、そもそも生きていけねーってことだな」

リュウガの言葉に、くすくすとソウシも笑い出す。

「…判った。うん、そうだね。あまりにも無茶な願いだったよ」

時折、ふとソウシは思う。

目の前にいるこの男は、どれほどの辛酸をなめてきたのだろうかと。

リュウガの何処かに、自分と同じモノがあることは判るのに。

自分とあまり年齢も違わないこの海賊王は、ソウシよりもずっと先に居ると感じることがある。

それはきっと……。


リュウガにもあるはずの底知れない闇。

「…とても、敵いそうにないね」

ソウシは、肩をすくめてそっと呟いた。

 

「……っ」
一瞬、足に走った痛みにナギは顔をしかめた。
「ナギっ…」
ヒロインの悲痛な声がして、体勢を維持する。
「ったく。オマエが盾になってどうするっ」
怒ったようなシンの声と一緒に、ナギの背にいたヒロインが腕を引かれてナギから少し離れた。
「ナギっ」
強引にナギから引き離されて、ヒロインがナギの背に手を伸ばしかけた。
「馬鹿、この距離じゃないとナギが鎖を使えねぇ。そのくらい、ナギの女なら判れっ」
「え?」
シンの言葉に、ヒロインが驚く気配がする。
仲間と共に戦う時、特に銃撃戦においては、鎖鎌の鎖部分が有効な防御に働く。
武器を扱い、それなりの技量を持つ者には説明するまでもない攻撃範囲や予備動作に必要な範囲が、彼女には判らない。
銃弾を弾き返すために鎖を振るうには、そのための予備動作がどうしても必要になる。
いちいちナギが言葉で説明しなくともシリウス海賊団の仲間は、その必要な空間を悟り、巧みに空間を用意してくれた。
今もまた、ヒロインがたった2歩後ろに下がっただけで、容易に鎖はナギの思うように動く。
「……悪りぃな」
ナギ自身も、それは、言葉ではうまく説明できない。だから、ヒロインに的確な指示が出せない。
もっとも、刻々と敵味方のポジションが変化する戦闘中に、指示を出す時間など無いのだが。
混戦の中で、上手に立ち回れていないヒロインの腕を掴んだシンが、ナギの動きに合わせて必要な空間を作っていく。
もしもナギの使う武器が剣や銃だったなら、ヒロインは手の届く範囲にいてくれるだけで守れるのだが…。
「おい、お前ら、後は頼んだぞ」
船尾楼にいたリュウガが、両手に剣を持って跳躍するのが見えた。
敵船のバウスプリットへ着地して、そのまま甲板を駆けていく。
敵の親玉がリュウガに倒されるのは時間の問題だろう。
シリウス号の甲板に、すでに動ける敵は居ない。
ふぅ、と張り詰めていた緊張を解くと同時に、背中に抱きついてきたヒロイン。
「ナギ、私、よくわからなくて、ごめんね」
「……気にすんな」
抱きついて来たのが背中のせいで、落ち込んでいるだろうヒロインの頭を撫でられないことに、もどかしさが募る。
「ナギ、医務室へおいで。ヒロインちゃんも一緒に、ね」
ナギがヒロインを庇って足に傷を受けたことは、ソウシも気づいているようだった。


ナギの手当てが始まり、ヒロインは一足先に厨房へ行って夕食の下ごしらえをすることになった。
ケガの責任を感じる彼女に、ナギが手当てを終えて厨房へ行くまでにやる仕事を割り振ったのだ。
お湯を沸かし、玉ねぎの皮を剥いておくという、それほど大変な仕事ではなかったが、ヒロインは喜んで倉庫へ玉ねぎを取りに行き、抱えて厨房へ向かった。
「…腕、大丈夫か?」
厨房の入り口には、シンが立っていた。
「シンさん…?」
玉ねぎを抱えている腕を、シンが見下ろして、ため息をついた。
「…手加減できなくて悪かったな」
戦闘中、シンに掴まれていたところが、赤く痣のようになっていた。
「あ、こんなのぜんぜん。しばらくすれば消えるし、あの時、シンさんが引っ張ってくれなかったら、ナギがもっと大怪我しちゃってたかもしれないし…」
ニコっとヒロインはシンに笑いかける。
「逆に、お礼言わなくちゃ。シンさん、ありがとうございましたっ」
「……礼を言われてもな…」
ヒロインから視線を反らしたシンが、ため息をつきながら厨房の扉を開ける。
玉ねぎを抱えているヒロインの両手がふさがっていることを分かっていての、心遣い。
頼まれる前に、先回りして扉を開けてくれるシンに、ヒロインは嬉しそうに笑った。
「あ、ありがとうございます。フフフ…なんか、お嬢様になったみたい」
そんなヒロインを、どこか居心地悪そうにシンが見下ろして、苦笑する。
「玉ねぎを抱えたお嬢様がいるかっ」
「あはは。でも、シンさんて、扉を開けるだけなのになんか、お屋敷の執事さんみたいな雰囲気だったから」
「……フン。執事…ね」
扉を通過したヒロインに付き従うように、シンも一緒に厨房に入る。
「え? シンさん?」
「……お嬢様、お手伝いいたしましょうか?」
軽く頭を下げて執事然とした態度のシンに、ヒロインは息を呑んだ。
「……っ」
一瞬、自分が本当にかしずかれたような錯覚。
「えっ、…あ、いえ、自分でやるのでお手伝いは…」
慌てたような焦ったような口調に、シンが艶笑する。
「お嬢様?」
「あわわっ…い、いや、結構ですっ。あの、ナギもすぐ来ると思うしっ…あっ、玉ねぎっ」
更に覗き込まれて、慌てたヒロインの腕の中から、ゴロゴロと玉ねぎが床に転がった。
咄嗟に転がった玉ねぎを拾おうとして、ゴツ、と額をぶつける。ヒロインを覗き込んでいたシンの鼻先に。
「…っ」
「いったぁ…あ、ごめん…、シンさん。大丈…」
言い終わる前に、片手で鼻を押さえたシンが、盛大なため息をついてヒロインに背を向けた。
「ナギに、距離のとりかた習っとけっ!」
そういい捨てて、扉を出て行く。
「…距離の…そっか、もとはといえば、私がナギの戦いに必要な距離がよくわかっていなかったからだもんね…」
ヒロインは、しばらく考え込んでいたが、やがてはりきって玉ねぎの皮を剥き始めた。 


「距離のとりかたの練習?」
「うん。ほら、時間がある時に、ナギに教えてもらっておいたら、いいかなって」
夕食の片付けをしながら、ヒロインが言い出した提案に、ナギも頷いた。
言葉では説明できないが、実際にやってみれば分かるだろう、と思う。
「じゃあ、足のケガがなおったら、やろうね。約束ね」
どこまでも前向きで明るいヒロインが、ナギを見上げて笑った。
「……」
彼女のこの前向きさに、どれほど救われたことだろう。
黙り込んでしまったナギを、ヒロインが訝しげに見返す。
「ナギ?」
考える前に、勝手に体が動いてそっと唇を重ねていた。
「ナギ兄、なんか食い物……」
不意に、厨房に入ってくるハヤテに気づいて我に返り、ヒロインから離れて片付けを再開する。
触れ合っていたのは、ほんの一瞬。
ヒロインがナギに一歩遅れてはっとし、ナギの横顔を見る。
その視線に、なんとも体がざわつく。
「…約束な」
続きは部屋に戻ってからにしようと目で答えると、ヒロインは頷いてナギの隣で皿洗いを始めるのだった。



 

微かに光が差し込む薄暗い室内で、ナギとシンは背中合わせに立った。
「右腕…」
チラリと肩越しにシンを見たナギが、呟く。
「フン。この程度で、俺の銃弾が狂うわけないだろ」
傷を気遣うナギに、シンが答えて銃を持つ右手に左手を添えた。
言葉とは裏腹なシンの行動に、ナギは表情を引き締める。
シンの銃の技術は信用している。
ナギがどれほど鎌を投げても、その鎖がシンの銃弾を弾いてしまうことはない。

いつも、シンの銃弾は、ナギの鎖の合間を抜けて敵を撃つ。

まだ、彼らが倒さなければならない敵は10人近くいる。
「……下から行く」
「ああ」
短い会話でお互いの意図を確認して、背中合わせだった二人が同時に反対方向へ走る。
ナギの放つ鎌は、敵の足を正確に狙って床とほぼ平行に飛び回った。
時折室内に響くパン、と乾いた音は、ナギの動きを妨げることなく、確実に鎌の届かない位置にいる敵を倒していく。
部屋を一回りして、再びシンと背中合わせに立ったナギの口元に、笑みが浮かんだ。
「…よく、避けたな?」
「まったくだ。もう少し、俺の足場も確保しろ」
ナギの鎖を巧みに避けながら駆けていたシンは、少し弾んだ息で答えた。

 


リュウガに用があって船長室を訪れると、どういうわけか彼女がリュウガと一緒に居た。
…君は、船長と二人きりで、何をしていたのかな?
笑顔で尋ねようとしたけれど、どういうわけか、笑みが創れない。
確か、私には、厨房で特別の料理を作るから、と言って部屋を出て行ったはずなのに。
ここは厨房でないし、君が料理をしている形跡もない。
そんなことを思って何も言えずにいる間に、君はそそくさと私の横をすり抜けて逃げていく。
まるで、悪戯を咎められたような表情で…。
言葉を失くして彼女を見送った私に、リュウガは笑いかけた。
「おい、ソウシ。そんなに怒るなって」
「……? 怒っていないよ?」
私は怒っている? この感情は、怒り、だったろうか?
「浮気されて怒る亭主ってのは、今のお前みたいな顔しているけどな?」
「……」
今、私の胸の内で蠢いている釈然としない気持ち。
いつの間にか、自分ではどうしようもないくらい、彼女に対する独占欲が育ってしまったみたいだ。
可愛くて、とても愛おしい、私の部屋の同居人。
自覚すると同時に、自嘲のため息が漏れた。
「彼女には、できるだけ笑顔で接していたいのに…。どういうわけか、うまくいかないね…」
「そりゃ、生きてる証拠だな」
リュウガが事も無げに言う。
「生きている証拠…」
偉そうに腕を組んだリュウガは、私を見て微笑した。
「ああ。…この船に女を乗せた意義があったな」
「そうだね…」
彼女をシリウスの一員に加えたことについては、リュウガに感謝せざるを得ない。
毎日が、こんなに彩りに満ちたものになったのだから。
「まあ、相手がソウシなら、下手に隠すよりは伝えといた方が早ぇ…アイツはな、今夜の宴を昼からはじめられねぇかと、頼みに来たんだよ」
「今夜の宴?」
あれ? 今夜、宴をする予定なんて、あっただろうか?
「おいおい、今日はお前の誕生日だろうが」
呆れたようにリュウガに告げられて、私は、自分の誕生日のことなんてすっかり忘れていたことに気づく。
「…昼から?」
宴はいつも、夜になってから行う。
いまだかつて、昼から宴を始めた覚えがない。
「夜は、特別のプレゼントでも用意してんじゃねーか?」
からかうようなリュウガの言葉が意図するものは、当然、私も容易に思いつくけれど…。
あんなに恥ずかしがり屋の彼女が、ある意味、誰の目にもバレバレなことをするだろうか?
もしかして、彼女の言っていた「特別な料理」というものは、昼食にふさわしいものなのだろうか?
…それとも、本当に、今夜、期待してしまってもいいのかな?
あの、悪戯を咎められたような表情は、何だったのだろう?
あっという間に、私の思考は彼女のこと一色に染まってしまう。
「ま、夜を楽しみにしているんだな」
リュウガの言葉に、私の期待は、勝手に高まる。
彼女が、私のために何かしようと頑張ってくれていることは、どうやら間違いないようで。
それがどんなことでも、私のためにしてくれるなら、私を想ってしてくれるなら、嬉しくて。
自然と笑みが私の口許を支配する。彼女がくれた微笑み。
期待外れでも構わない。
君が大好きだよ、と今夜も君にたくさん伝えよう。
 

「ウルの王妃さんだけに見せてやるつもりだったんだけどなぁ」

空賊アルタイル団のアベルは、そう笑いながら、窓の向こうを指差した。

「…っ」

絶景とも呼べるその景色に、シンの恋人が息をのむ。

「ふん。300歳の独身じじいなんかに、自分の女を預けられるか」

空飛ぶ船の船長室で、腕を組んでチラリと窓の外へ視線を走らせながら、シンが言い返した。

ウルの王として天界に認められたシンだが、今のところ本業は海賊である。

海賊王の船に乗り、航海士をしているウルの王。

ひょんなことから知り合いになった空賊アベルは、ウルとかかわりを持つ天界の人間と地上の人間のハーフだという。

シンもまた、ウル王族の直系でありながら、その血を半分しか受け継いでいない。

そんなことでお互いに慣れ合うつもりはなかったが、アベルは何かと理由をつけてはシン達にちょっかいをかけてくるので、必然的にシンも対応する羽目になっていた。

アベルの船は、今、雲の上を飛んでいる。

下に果てしなく続く雲の海。

吸いこまれそうなほど澄んで真っ青な空。

水に浮いた船からでは決して見ることのできない、幻想的な絶景であることは確かだった。

その雲海の中に、まるで島のように見えるものがある。

「え? あれ…もしかして……」

「おっ。さすがだねぇ。ヤマトの魂だよな、あれ」

シンの恋人の呟きに、アベルはにこにこと微笑んだ。

「あの山がどうかしたか?」

嬉しそうな表情の恋人を見て、シンが怪訝そうに尋ねる。

「ここは、ヤマトの空なんですね?」

しみじみと、懐かしそうにシンの恋人は雲海に浮かぶ島のような山頂を眺めた。

「どういうことだか、説明してもらおうか?」

シンがアベルを睨みつける。

「だから、ここはヤマトの上空ってことだよ。あの山はな、ヤマトの人間たちにとっては信仰の対象にもなっているくらい有名な山、富士山だ」

シンも、文献から名前は知っていた。

絵画も見たことがある。

けれど、実物を見るのは初めてである。

シンは改めて、恋人の横で雲海に突き出た山を見下ろした。

 


大嫌いな奴がいる。
奴を例えるなら、……赤。
氷を溶かし、森すら焼き尽くす、灼熱の赤。
寒く凍てつく北の海で、誰もが焦がれ求める暖かな炎の赤。
鮮烈な赤。
何度かその炎を消し去ろうとしたが、未だ叶わず、奴は赤く輝いている。
「負け犬ってのは、負けた奴じゃなくて、諦めた奴を呼ぶときに使うもんだ。オマエがそう簡単に諦めるタマかよ」
そう言って笑った奴は、確かに誰もが認めざるをえない海賊王で。
心の何処かで、彼には敵わないと分かっていながら。
それでも…挑まずにはいられない。


「よう、セシルじゃねぇか。オマエも来てたのか?」
カジノ船。
よりによって、ドレスコードがある区画にこの男が来るとは…。
「せっかくだ。一緒に飲まねぇか?」
ダークスーツを着ていても、やはり、この男のイメージは赤なのだと思い知らされる。
「…運のいい男ですね」
「おう、今日は、かなり稼いだぞ」
屈託なく笑うリュウガは、もしも今ここで私が銃を突き付けても、きっと笑い飛ばすのだろう。
そんなことを考えて、ふと、あることに思い当たる。
「一杯だけ、おごりましょう。……レッドバイキングを」
カウンターに声をかけると、しばらくして霧のようにわずかに白い酒を満たしたグラスが差し出される。
「レッドバイキング? 赤くねぇな?」
かつて、北欧の海を駆け抜けた海賊のイメージをもとに作られたカクテル。
ほぼ無色でありながら、赤という言葉を与えられた酒。
「……誕生日にふさわしいかと」
「ん? よく俺の誕生日覚えてたな?」
かなり意外そうに、リュウガが見返してきた。
「忘れられるものなら、忘れたいですけどね…」
「ははは。もしかしてセシルは、ヴァンやリーの誕生日も覚えてんのかっ!」
「誰のせいだと…」
リュウガは、昔からやたら誕生日だ記念日だと理由をつけて、飲みたがった。
昔の懐かしさに囚われそうになって、席を立つ。
「何だ? もう行くのか?」
「シリウスの姫君が来たようですからね…」
可愛らしく着飾っている娘が、キョロキョロと明らかに誰かを探している。
「こっちだ」
リュウガに向かう娘が、横をすり抜けていく。

……いつか、あの赤を消したい。
いつか、などという日は決して訪れないと知りながら。