努力の最小量子単位は生涯時間(チャイティン)〜5.1のすぐ後にAstra?!〜寓話から星々へ!
(まといのばブログ)
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』第二部 第14章 第4節、第8節)
第一三章 時の起源
始まりは、わたしたちに馴染みのある時間像、宇宙の至る所で等しく一様に時が流れ、すべての事柄が「時」の流れのなかで起きるというイメージだった。宇宙のあらゆる場所に現在、つまり「今」があって、それが現実だと思っていた。過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、定まったものであり、未来は開かれていて、まだ定まっていな い。現実は、過去から現在を経て未来へと流れ、事柄は、本来過去から未来へと非対称にしか伸展しない。それが、この世界の基本構造だと思っていた。
お馴染みのこの枠組みは砕け散り、はるかに複雑な現実の近似でしかないことが明らかになった。
宇宙全体に共通な「今」は存在しない(アインシュタイン)すべての出来事が過去、現在、未来と順序づけられているわけではなく、「部分的に」順序づけられているにすぎない(半順序集合)。わたしたちの近くには「今」があるが、遠くの銀河に「今」は存在しない。「今」は大域的な現象ではなく、局所的なものなのだ(地球の曲率と同じ)。
世界の出来事を統べる基本方程式に、過去と未来の違いは存在しない(ニュートン力学)。過去と未来が違うと感じられる理由はただ一つ、過去の世界が、わたしたちのぼやけた目には「特殊」に映る状態だったからだ(エントロピーとは主観的)。
自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが(地面に近い方が)、そして速く動いたほうが遅くなる。二つの出来事をつなぐ時間は一つでなく、さまざまであり得る。
時間が流れるリズムは、重力場によって決まる。重力場は真の実在であり、その力学はアインシュタイン方程式で記述される。今かりに量子効果を無視すると(アリストテレスの物理学は間違っているのではなく、大雑把なだけ)、時間と空間は、わたしたちが埋め込まれた巨大なゼリーの異なる側面なのだ(軟体動物の上にいるとアインシュタインは言った)。
しかし、この世界は量子的であって、ゼラチン状の時空もまた近似でしかない(アインシュタインも、ニュートンも、アリストテレスも近似。量子論もまた未来の物理学から見たら近似的)。世界の基本原理には空間も時間もなく、ある物理量からほかの物理量へと変わっていく過程があるだけだ。そしてそこから、確率や関係を計算することができる(全ては縁によって生じる)(我々が関わりを持つことができるところしか存在しない。ゆえに全体としての「世界」は存在しない。マルクス・ガブリエル)。
現在わかっているもっとも根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たものはほぼないといえる。「時間」という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない(あるシャッフル状態が特殊だと考えるのは、それを特殊だと考えるから。その意味ではミクロをすべて知るならば、エントロピーはなくなる。エントロピーとは無知の尺度である。『宇宙をプログラムする宇宙』)。
それでもこの世界を記述する式を書くことはできる。それらの方程式では、変数が互いに対して発展していく。それは「静的」な世界でも、すべての変化が幻である「ブロック宇宙」でもない。それどころか、わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』1・1「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」)。
ここまでが外へ向かう旅、時間のない宇宙への旅だった。
そして帰りの旅では、この時間のない宇宙から出発して、わたしたちの時間のない世界から出発して、わたしたちの時間の近くがどのように生じてくるかを理解しようとした。すると驚いたことに、時間のお馴染みの性質が出現するにあたって、わたしたち自身が一役買っていた。この世界のごく小さな部分でしかない生き物の視点、つまりわたしたちの視点からは、この世界が時間のなかを流れるのが見える。この世界とわたしたちの相互作用は部分的で、 そのためこの世界がぼやけて見える。このぼやけに、さらに量子の不確かさが加わる。そしてそこから生じる無知によって特殊な変数、つまり「熱時間」の存在が決まり、わたしたちの不確定性を量で表したエントロピーが定まる。
おそらくはわたしたちは世界の特別な部分集合に属していて、その部分集合と世界の残りの部分の相互作用では、熱時間のある特定の方向におけるエントロピーが低いのだろう。したがって時間の方向性は確かに現実的ではあるが、視点がもたらすものなのだ(天球の回転もまた視点がもたらすものなのだ)。ことわたしたちに関して言えば、この世界のエントロピーは、わたしたちの熱時間とともに増大する。
そしてわたしたちは、自分たちが単純に「時間」と呼んでいる変数によって順序づけられた形で、さまざまな事柄が生じるのを目にする。わたしたちから見れば、エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ。人類は、この壮大なエントロピー増大の歴史の一つの結果であって、これらの痕跡がもたらす記憶のおかげで一つにまとまっている。一人一人がこの世界を反映していればこそ、まとまった存在なのだ(c.f.ホメオスタシス、孤立や感覚遮断による発狂)。なぜなら自分たちの同類と相互作用することでまとまった実在のイメージを形作ってきたからで、それが、記憶によってまとめられたこの世界の眺めであるからだ(アリストテレス『政治学』「共同体から離れるのは神か獣」)。ここから、わたしたちが時間の「流れ」と呼ぶものが生まれる。これ が、過ぎ行く時間に耳を澄ましたときに聞こえるものなのだ。
「時間」という変数は、世界を記述するたくさんの変数のなかの一つでしかない。重力場の変数の一つなのだが、わたしたちの知覚のスケールでは、量子レベルの揺らぎは認識できない(ファインマンの靴:不確定性原理の効果を認識はできる)。だから、ちょうどアインシュタインの巨大なゼリーのように、時空を定まったものとして思い描くことができる。わたしたちのスケールでは、このゼリーの動きは小さく、無視できる。したがって、時空を堅いテーブルのようなものと見なすことができるのだ。ちなみに、このテーブルには次元がある。一つは空間と呼ばれるもので、もう一つはエントロピーの増大に沿う形の時間と呼ばれるものだ。日常生活でのわたしたちの動きは光と比べてひどく遅いので、複数の固有時の差や時計の食い違いを感じることはなく、質量からの距離が違うことによって生じる時間経過の速度の違いも、小さすぎて判別できない(大きすぎて判別できるとしたら、、、ジョージ・ガモフ著「不思議の国のトムキンス』)。
だからけっきょくのところ、あり得るさまざまな時間ではなく、ただ一つの時間ーーー自分たちが経験する、一様で順序づけられた普遍的な時間ーーーについて語ることが可能になる。これは、わたしたちの特殊な視点、エントロピーの増大を頼りとして時間の流れにしっかり根差したヒトとしての視点からの、この世界の近似の近似の近似なのだ。わたしたちには、旧約聖書の「コヘレトの言葉」にあるように、生まれるに時があり、死ぬ時がある。
これがわたしたちにとっての時間だ。時間は、さまざまな近似に由来する多用な性質を持つ、複雑で重層的な概念なのだ。
(カルロ・ロベッリ『時間は存在しない』)
時間は存在しない〜君の前前前世から僕は君を探し始めたよ、、むしろ0からまた宇宙を始めてみようか
(まといのばブログ)
今回の記事も、
















