気功は意識が大切というのは、このブログで書いてきていることですが、筋トレもどれだけ結果が出やすいかどうかは意識に依存します。
気功はどんな変化が起きているか、共感覚として意識をあげないといけないのと同じように、筋トレも、どこに意識をさせているか、狙った部位の意識の濃度がどれだけ高いかによって結果が変わってしまいます。
それは変化の濃度に対するセンサーです。
変化を繊細に感じ取る神経といってもいい。
たとえば、腕立て伏せ(壁腕立て伏せでもOK)で、10秒かけて降ろして、5秒かけて維持して、10秒かけて上げてくる、ということをすると、どこで意識が飛んでしまうのか、
どこが負荷がかかっているときに分かりやすく感じるのか、どこが意識にあげやすいのか、その濃度をつぶさに観察しながらやると相当に効きます。(なぜ、そうしないといけないかというと、他の筋肉で代償させてしまうからです。脳はすぐにサボってしまうことと同じ)
ちなみに、ぼくらは精密な機械のように意識的に変化させるようにしていかないと同じようなことを繰り返します。
カーブが近づくたびに意識して、「必ずトライしろ!」と頭の中で自分に強く命令した。命令しないと、何十個もあるカーブのいくつかは、前の周とまったく同じ場所でブレーキを踏んでいることがデータで見てとれる。不思議だけど、寸分違わず同じ場所でブレーキをしていて、まったく進歩していない。人間は意外と精密だと驚く。しかし人間は意識しないと、ふだんと同じところにとどまってしまうのも事実。
『崖っぷちの覚悟』p.126 井原慶子
間違ったことをすればひたすらに間違った方向に進んでいき、怪我のしやすい、機能的でない動きをしていたら、ひらすらにそれを強化する動きを繰り返していってしまうということでもあります。
意図的に変容させる意識をすることは情報空間の書き換えに繋がります。
そうすることで情報から写像された存在である身体は大きく変わります。
なにかを変えたいとき、始めたいときには、特別な何かをする必要は無くて、意識が変わるような環境をデザインをすればいい、ということを以前の記事で書きましたが、トレーニングはひとつの機会の通り路となり得ます。
解剖学と気功を最大限利用したトレーニングで身体を機能的に美しくデザインしていくことで、決して覗きみることの出来なかった自分の高いポテンシャルに気付くことが出来るのかもしれません。
今の人は本当に重いものを持ち上げた経験はないのだろうかということです。自分を超える圧倒的な存在と対峙する経験が無いと、幼児的な全能感から逃れられません。もちろん本当に重いものを持っている人々でも、それでも間違った使い方を修正しなくてはいけませんが、持っていない人に比べると、持っている人は圧倒的に速く身体を修正できます(もちろん古いフレームが邪魔することもありますが)。
重いものを持ち上げる経験をするのは簡単です。壁を押してみればいいです。押して動かさないといけないと思って押してみることです。もしくは窓枠などを持ち上げようとしてみてください。頭の血管が切れるくらいに力を込めてみると、ハタの感覚が浮かび上がってきます。
頭の血管が切れるとか筋繊維が切れるとか筋繊維が断裂するとか、内出血するとか、非常に暴力的で野蛮な感じがしますが、ハタヨガをされている受講生達が感じるように、普通のいわゆる普通の身体の使い方のほうがはるかに暴力的です。身体を地面に叩きつけながら歩き、ありえないバランスで筋肉を壊しながら立ったり座ったりしています。そして壊しても、そのことに気付かない鈍感さ故にそれが普通と思っています。
整体で全身を機能に動く状態へ変化させながら、やっていくトレーニングは圧倒的な変化を作り出していくことが可能になります。
頭を鍛えつつ、身体を鍛えつつ、共感覚を鍛えるという圧倒的に移動していけるチャンスの経路のひとつかと思います。
ただ、これは変化した世界に移動したときに実感するものであって、現状の自分では観えない世界。
知らなければ観えない世界。
ゴールがあって、そこに向かって移動している人の言葉を聞くことで垣間見ることができるものです。
そういう世界もあるのかと、自分の理想世界と合わせて想像してみることかと思います。
身体の快適さが観えない人には、快適さは存在しないのと同じように。
身体の表現型として分かりやすいのは、トレーニングのデッドリフトが重量を200キロから一気に230キロまで扱える重量が上がったり、ベンチプレスを100キロを無理なくあげたりできるようになったりするものです。
そして、機能性をあげながら鍛えている身体は思考力や決断力、意志力にも影響を与えます。
IQと身体はきわめて密接です。身体を整えれば、必要なIQは手に入りやすくなります。
まといのはブログより