公匏ゞャンル蚘事ランキング教育361䜍 23 4 5

 

 

頁

 

倚なるものの豊かさず䞀なるもの

 

 「䞀なるもの」[das Eine]には倚様な意味がある。䞀なるものは、論理的なものにおいおは、思惟され埗るこずずしおの統䞀性〔あるいは単䜍性〕である。䞀なるものは、䞖界の内では、珟実的なものの統䞀性であり、自然においおも歎史においおもそうなのである。䞀なるものは、実存にずっおは、其凊においお実存が自らの存圚をも぀ずころの䞀なるものである。なぜなら、この䞀なるものは実存にずっお䞀切であるからである。

 圢而䞊孊においおは、「䞀なるもの」が探求される。この䞀なるものが、思惟可胜性ずしおそれであるような統䞀性〈単䞀性〉を超えお[ÃŒber]超越するこずによっお探求されるものであろうずも、〔あるいは〕䞖界の内で統䞀性を摑み取るこずによっお探求されるものであろうずも、〔あるいは〕「実存的に䞀なるもの」ずしお歎史的な自己存圚の無制玄性であるような統䞀性から[aus]超越するこずによっお探求されるものであろうずも、である。これら諞々の路は互いに亀差しおいる。すなわち、これらの路は共通の展望のために互いに出䌚うこずがあるのである。差し圓たりは各々自分だけで個別の路であるにしおも。

 䞀なるものの実存的根源。— 実存開明においおは、行為の無制玄性が感埗可胜になるのであるが、それは自己存圚ず䞀なるものずの同䞀性によっおであり、この䞀なるものを自己存圚は珟存圚においお摑み取るのである。問題である䞀なるものが私にずっお存する堎合にのみ、私は本来的に自分なのである。察象の圢匏的統䞀が自己意識にずっお察象が思惟可胜であるこずの条件であるように、内実に満ちた䞀なるものは、自己存圚にずっおの無制玄性の珟象なのである。だが、思惟可胜性が普遍劥圓的な真理の関連に属しおいる䞀方、実存的な䞀なるものは、他の諞真理を自らの倖に持ちながらも、自分ではその諞真理ではないような真理なのである。存するのは、すべおの諞真理が其凊ぞ止揚されるようないかなる知られ埗る党䜓でもなく、頁ひず぀の、決しお党きものずなるこずはなく、䞀床たりずも倖郚から思惟可胜ずはならない存圚における、これらの実存する諞真理の限界無き可胜的亀わりなのである。

 実存的な統䞀性は、第䞀に、自己同䞀化における歎史的芏定性ずしおの限界づけであり、この自己同䞀化は、排他性によっお存圚の深みを明瀺するのである。たしかに、珟存圚における実存は、䞀なるものを欲するずずもに他なるものをも欲するこずがあり埗る。実存は、取り替えたり、詊みにやったりするものだ。実存は挫折し、そしお新たな詊みをいろいろずやっおみる。しかし、これらすべおのこずが珟存圚においお適切なのは、ただ、私が珟存圚においお自分自身である限りにおいおではなく、私が珟存圚を甚立おる限りにおいおのみなのである。私が私自身である堎合、私は、倖偎から芋ればひず぀の制限された珟実であるずころのものずの同䞀性においおのみ、そうなのである。私が存圚するのはただ、私が可胜的実存から歎史的に生成し、自分を珟存圚のなかに沈朜させる堎合のみなのである。逞脱するず、倚様なものに気を散らしお分散する[Zerstreuung]こずになる。すべおが他のようでもあり埗るずすれば、私は私自身ではないのである。私がすべおを欲するならば、私は䜕も欲しおいない。私がすべおを䜓隓するならば、私は存圚ぞず至るこずなく、無際限なもののなかで流れ散っおしたうのである。

 統䞀性は、第二に、理念ずしおの党䜓である。諞々の党䜓性ずしおの諞理念に関係しおいるものは、自らの統䞀性を、特定のこの理念ずいう盞察的な党䜓においお持぀のであり、この理念が無ければ、偶然なものの単なる倚様性であるだろう。ゆえに、統䞀性からの逞脱は、郚分ぞの、そしおこの郚分の絶察化ぞの逞脱であり、したがっお、路も目暙も無く盞互に戊い合う、諞々の任意な察立ぞの分裂に逞脱するこずである。

 分散しないように護る実存的な統䞀性ず、無際限に倚様化しないように党䜓性を通しお護る理念による統䞀性ずは、䞀臎するものではなく、緊匵関係にあるのである。諞々の理念は実存たちによっお担われるが、実存の統䞀性は、理念が硬盎あるいは鈍麻しおいる堎合には、この理念を突砎するものである。諞々の理念は、粟神のコスモスずしお思惟されるならば、粟神的な䞖界のひず぀の像を瀺すものである。しかし、芋かけ䞊の党䜓性を前にする堎合には、実存たちは消滅するのであり、そしお実存たち無しでは、この䞖界はいかなる珟実性も有さないのである。粟神的䞖界の像が、諞々の理念的党䜓性の自由な浮遊ずなっおいる堎合には、この像は私自身ではない。このような粟神的䞖界の像は、なるほど、可胜性ずしおは私以䞊であるが、珟実性ずしおは私以䞋なのである。

 統䞀性は、第䞉に、遞択を通しおの決断ずしお、実存的根源の統䞀性である。没萜は、䞍決断なものぞず、そしお決断しようずしないこずぞず赎くこずである。私は存圚ぞも私自身の意識ぞも至るこずはなくなり、単に私の珟存圚を守るだけの前のめりの千鳥足の状態なのである。この状態では、私が決断の因子ずなる代わりに、私に関しお決断が䞋されるのである。

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 それゆえ、根源の統䞀性が意味するものは、歎史的芏定性であり、理念的な党䜓性であり、決断性である。没萜ずは、散挫ぞず、孀立化する絶察化ぞず、䞍決断性ぞず、陥るこずなのである。

 珟存圚、これず私は歎史的芏定性ずしお、諞理念によっお充実させられお、決断的に同䞀ずなったのであるが、この珟存圚が私にずっお絶察的ずなる堎合、それでも珟存圚ずしお絶察的ずなるのではないのである。実存的ずなる瞬間においおは、歎史性のなかで、歎史性の超越者が出䌚われる。䞀なるものは珟存圚ずしお超越者ぞの路ずなり、䞀なるものの内密さは、超越者ぞの関係に立っおいるずいう確信ずなるのである。ずいうのも、䞀なるものは、根拠づけられ埗ないものであるように、蚀衚され埗ないものでもあるからである。あらゆる蚀衚はただ衚面䞊の統䞀性に的䞭するのみであり、有限性における客芳化なのである。蚀衚は単なる客芳性ずしお数的統䞀性におけるものであり埗、䞀なるもの無しであり埗るのである。すなわち、ある有限的なものの固定化であり埗るのであり、この有限的なものに私は超越者を欠いたたた力ずくで結び぀いおいるのである。䞀なるものは、珟存圚の有限性のなかで錓動する心臓であり、知られざるひず぀の光の照射である。各人は自らの光線のみを有しおおり、その光線は亀わりのなかで各人にずっお明瞭ずなる。比喩においおは、あらゆる光線は䞀なる神性から来るずしおも、それでもやはり、䞀なる神は䞇人にずっおの客芳的な超越者になるこずはない。䞀なる神はその郜床ただ、䞀なるものにおいお超越する実存にずっお、䞀なるものの脈動ずしお存圚するのみである。

 䞀なるものがけっしお觊れるこずがなく、倚様な珟存圚の肯定性を絶察的なものであるず芋做し、すべおのものは代替できるこずを可胜性ずしお採甚し、それを越えお死が存するこずを忘れる者のみが、぀ぎのように蚀うこずができるだろう 生においお自分の心をただひずりの人間やただひず぀の事柄に䜙りにも懞けすぎるこずなく、倚くの人間たちず倚くの事物を愛するずいう広い根拠を自分のものずするずいうこずは、適切なこずである。ずいうのは、ただひずりの者が倱われるず盎ちに党䜓が疑問芖されるこずになれば、他者たちの死ず砎壊は、䜙りにも、たさに砎滅的に、自分自身の珟存圚を芋舞うこずになるであろうから。自分の愛を分散し、䜕ものも䜙りに愛さないようにするこずで、自分を防埡するこずになるのだ。

 このような、珟存圚には適切な基準に拠る、内圚的次元に留たる考え方は、䞀なるものにおいお超越者を経隓するこずずは、最も決定的に察照的なものである。この䞀なるものは、珟存圚ずしおの実存を、珟存圚を包み越えながら、自らず同䞀的なものずしお立おるものなのである。

 䞖界における統䞀性。— 䞖界定䜍においお私に接近可胜ずなるものは、私がそれ自䜓の内で関連し合っおいる䞀なるものずしお捉え埗るもののみであるので、ひず぀の統䞀性の関連の䞭に収集されないものは、その異質性においお理解されずに留たっおいる。䜓系的な統䞀性の芁求が自らの基準ずするものは、諞々の知識の単に無際限な収集ずは区別されおいる認識である。統䞀性は、頁研究者に方向を䞎える力であり、この力は、この力そのものがそれによっお初めお可胜になるずころのあらゆる分離を超えた凊で、この分離が無基盀なものの䞭に陥らないよう芋匵っおいるのである。

 ずはいえ、統䞀性、党䜓性、䞖界における圢態、ずいったものが存圚するこずによっお初めお、䜓系的な䞖界認識が可胜になるずはいっおも、やはり、このような諞々の統䞀のいかなるものも、それ自䜓ずしおは、超越者であるような䞀なるものではないのである。䞖界における諞々の統䞀は、方法的な諞々の芳点ぞず盞察化されるか、そうでなければ、この諞々の統䞀自䜓が、超越者である䞀なるものぞの関係によっお内実に充ちたものずなるかなのである。

 したがっお、䞖界の内での統䞀性が本来的に真であるものになり埗るのは、研究の芳点ずしおでもなければ、すべおの諞事物の盞互䜜甚である空間的な絡たり合いずしおでもない。さらには、合理的に芋通せるような盞互了解の共同性ずしおでも、䞖界囜家のような人間的諞事物の秩序ずしおでも、たた、宗教的信仰の客芳的な統䞀性を信じるず衚明するこずにおいおでもない。そうではなく、ただ、それ自䜓が超越者に関係づけられおいるものずしおのみ、䞖界の内での統䞀性は、本来的に真であるものになり埗るのである。それ以倖のどんな統䞀性も、自らにずっお盞察的な統䞀性であり、倖面的な統䞀性ずしお、欺瞞的なものなのである。

 論理的なものにおける統䞀性。— 私が統䞀性を思惟する堎合、統䞀性は先ず、数ずしおの䞀であり、この䞀によっお倚なるものは数えられるようになる。統䞀性は次に、単䜍であり、この単䜍においお諞察象のひず぀の倚様性はひず぀の党䜓なのである。そのような党䜓ずしおこの倚様性は把握可胜ずなるものである。統䞀性は第䞉に、自分を自分に関わらせる人栌性における自己意識の統䞀性である。超越者は、これらの統䞀性のどんなものにおいおも、超越者自䜓に盞応しく思惟されるこずはできず、䞀なるものずしおすべおの統䞀性を超え出お求められるものであるが、その堎合、これらの䞖界内での諞々の統䞀性は、超越者の束の間の様盞であり続けるのである。

 a) 神性は、数的に䞀であるもの[numerisch Eins]ではない。ずいうのも、そうであるなら、即刻、思惟し埗る可胜性が存するこずになり、ただ䞀なる神が存するだけではないこずになるであろうから。たた、数的な䞀は、倚なるものず察峙するものであるから。ずころで神性は数的な䞀でもなければ、原理的に数えるこずのできる倚でもあり埗ない。数ずしおの統䞀性は、圢匏的であるゆえに垞に倖的な統䞀性であるに留たるのである。

 さお、超越者が、数的に䞀であるものずしおも倚なるものずしおも思惟されるはずのものであるのなら、算術可胜性を越え包む意味においお数倚なるものであるず同時に䞀なるものであるために、䞀定の数なるものは終了しなければならない。我々の衚象行為は数的な䞀性ず倚性をどうしおも甚いお行われるのであり、それゆえ、この〔䞀性ず倚性の〕䞡者が同䞀であるず思惟されるような䞍条理を通しお超越するこずが為される堎合には、この䞡者は共倒れにならざるをえない。このこずが感埗させるのは、数的な䞀性を神性に適甚するこずは、数的な倚性を適甚するこずず同様、䞍適切であるずいうこずである。頁䞀ず倚を越え出お、超越者である䞀なるものぞ超越するこずによっお、志向されるものは、数が衚珟し埗るものよりも深いものでなければならない。

 b) 倚の統䞀ずしおの䞀性[Einheit]は、単に総䜓ずしおあるのではなく、質的に、䞀性ぞ至った倚性ずしお、党䜓性あるいは圢態[Gestalt]ずしお、あるのである。このような䞀性は、ただ倚性によっおのみあるのであり、そしお、このような倚性は、ただこのような䞀性の内でのみ盞互に関係づけられたものずしおあるのである。このような䞀性は、䞖界の内においお、特定のひず぀の事物ずしおの各々の察象の統䞀なのであり、そのような事物ずは䟋えば、ひず぀の道具、特定の有機䜓ずしおのひず぀の生きもの、ひず぀の芞術䜜品、ずいったものである。そのような諞々の統䞀は、私が察象的に私の前に立おられたものずしお芳ずる造圢物である。そのような統䞀は、有限な俯瞰可胜性よりも以䞊のものであるに応じお、矎ずしお我々をこの䞀なるものである超越者ぞず惹き぀けるように芋える。しかし神性そのものは、この統䞀ではあり埗ない。なるほど、神性は其凊においお偉倧な客芳性を有する像にはなったかもしれないし、私はそのような客芳性ず、讃嘆しながら芳察するずいう関係を有し、その茝きのなかで安らぎもする。だがそこに欠けおいるのは、珟存圚においお統䞀を劚げ、私〔の心〕を捉えながらも砎滅させる珟実的なものなのである。ずいうのも、この統䞀においお瀺されるものは、もはや超越者ではないからである。この超越者に私は、反抗ず垰䟝、没萜ず䞊昇、昌の法則ず倜ぞの情熱ずいった、解決できない二埋背反を通しおこそ関係づけられおいるのである。

 c) 数的な䞀ず、ひず぀の党䜓ずいう統䞀性は、これらを芳じお思惟する䞻芳にずっおあるものであり、これらそのものにずっおあるのではない。これらは、これらが互いに関係し合っおいるずいう意識があるからずいっお、互いに䜜甚し合っおいるわけではない。意識、自己意識、人栌性は、我々がそれでありうる統䞀性であるが、察象ずしおはもはや論理的に適切には思惟されないものなのである。

 統䞀性ずしおの超越者は、我々自身がそれであり埗る統䞀性よりも䞍充分な統䞀性においお我々に珟象するこずはあり埗ない。人栌性は、その限りにおいお、統䞀性ずしおの神性になければならないであろう最小限のものである。ずはいえ、人栌性は、他の人栌性ず共にのみあるのであるが、神性は神性自身のようなものず共にあるのでもない。人栌性は実存なのであり、ただ超越者ではなく、正にそれにずっおのみ超越者が存圚するずころのものなのである。

 人栌性は、その珟前性においお同時に究め難い統䞀性であり、そのような人栌性の統䞀性においお超越するこずが為されるのである。このこずによっおこの統䞀性は、自らの存圚の重みず、自らを越え包む意矩の埮光ずを保持するのであるが、超越者が人栌性ずなるこずはないのである。

 䞀なるものぞず超越するこず。— 我々が、我々にずっお近づき埗る統䞀の諞圢態ぞず県差しを戻すなら、どんな統䞀の圢態にも、超越者ぞの関係はあり埗たのである。頁䞀なるものそのものを圢而䞊孊的に摑み取るこずは、実存的に䞀なるもののなかに根差しおいる。超越者ぞの関係は自らの珟存圚空間を、䞖界ず歎史ずの䞀なるもののなかに持っおいる。䞀なるものの論理的諞圢態は衚珟手段なのであっお、それ自らの合理的意味を超越者無くしおも持぀のである。

 䞀なるものは、䞀なる䞖界のこずではなく、䞇人にずっおの䞀なる真理のこずでもなく、すべおの人間を結び぀けるものの統䞀でも、我々がそのなかで互いを了解し合う䞀なる粟神でもない。論理孊ず䞖界定䜍における䞀なるものの通甚性ず、そしお、諞々の特定の統䞀性においお超越するこずは、その圢而䞊孊的な意味を、実存の䞀なるものに基づいお初めお持぀のである。

 ぀ぎのようなこずが問われる どうしお神性は䞀なる神性ずしおそのような魔法〔のような吞匕力〕を有しおいるのか どうしお䞀なるものは、あたかも他の仕方で圚りようが無いかのような自明さを持っおいるのか どうしおこの䞀なるものは、超越者が神性ずしお䞀なるものでないずする堎合には、劚害や喪倱のようであるのか その理由は、私は超越者である䞀なるものにおいお私の本来的な自己存圚を芋いだすからであり、この自己存圚は䞀なるものである超越者を前にしお[vor der einen Transzendenz]初めお、そしお歀凊でのみ真実に、消え去るからである。

 珟存圚における可胜的実存ずしおの私に、私がそれず同䞀ずなるこずによっお私自身に至るずころの䞀なるものが顕珟するなら、その時私は、この䞀なるものが珟象するこずに拠っお、䞀なる神ずいう、思惟できない仕方で䞀なるものであるもの[das undenkbar Eine des einen Gottes]に遭遇するのである。あらゆる諞統䞀が自らの盞察性を感知されるに任せおいる䞀方で、実存的に䞀なるものは、自らの無制玄性においお根源であるたたであり、この根源は、そこから神がすべおの実存の歎史性の䞀なる根拠ずしお芳られるような根源なのである。私が䞀なるものを生においお無制玄的に摑み取るに応じお、私は䞀なる神に信頌するこずができる。私が、私の生の歎史的珟実においお、実存ずしお䞀なるものぞず超越するずいうこずが、䞀なる神性ぞず超越するこずの条件なのである。私がこの最埌の飛躍の埌で䞀なる神を確信しお生きるずいうこずは、逆に、私が私の䞖界における䞀なるものをも無制玄的に捉えるこずの、根源なのである。私にずっお超越者が存圚するのは、私の珟存圚の持続性における䞀なるものが存圚するに応じおのみなのである。

 このようにしお、䞀なる神は、実存的に䞀なるものを通しお、その郜床私の神なのである。排他的に䞀なる者ずしおのみ、この神は近い〈芪密な〉ものである。私はこの神を党人間たちの共同䜓においお持぀のではない。この䞀者の近さは、私が超越するこずの様盞なのである。だが、最も確かな顕珟ですら、客芳的には単にひず぀の可胜性であり、私に充分なだけであっお、この神が私にずっお䞀なる者[Einer]であり埗る仕方でのみあるのである。この近さは、䞖界のほうから私にたいしお、疎遠な信仰ず、他の人々にずっおの他の神々ずを䌎っお歩み寄っお来るものを、揚棄するこずはないのである。ずころで私がこちらの䞖界を芋遣るず、䞀なるものは私にずっお遠いものであり、頁たったく近づき難いものなのである。実存の䞀なるものにおいお、䞀なる神性が感埗されるようになる堎合、この神性は、特定のこの瞬間の歎史性の、翻蚳䞍胜で亀われない「近さ」に入るか、最も抜象的な到達䞍可胜性ずいう「遠さ」に入るかの、いずれかずなる。たしかに、この䞀なる神性は、私ず同䞀ずなるこずは決しおなく、最倧限の近さにおいおも絶察的な距離を保っおいる。それでも、この神性の近さは顕珟ず同様なのである。これに察しお、遠さのほうは、差し圓たっお䞖界珟存圚を貫通する超越行為をするずいう課題を克服しおも尚、この䞖界珟存圚の非完結性、分裂性、倚重性、統埡䞍可胜性のために、この課題の圌方にある、そういう遠さのである。䞀なる神が芋いだされるずすれば、それは、諞々の力の諞圢態が䞖界珟存圚においお諞々の超越者ずしお盞争う、その諞様盞〔そのもの〕を超出するこずによっお初めお、芋いだされるずころのものだろう。

 党䜓ぞの衝動が珟存圚においお他のものに衝突するように、統䞀性ぞの衝動は超越者においお神性に衝突する。この神性は䞇人に同じ顔を芋せるのではない。私が、䞀なるものを芋遣っお自分の力を獲埗し぀぀、他の人々に抗しお行為する堎合、私の神を唯䞀の神ず芋做すなら、それは䞍遜ずいうものである。真実な実存は、「近き」の神を越えお「遠き」の神を芖界から倱うこずはあり埗ない。この真実な実存は、抗争においお尚、他者が神ず結び぀いおいるこずをも芋ようず欲するのである。神は私の神であるず同様に、私の敵の神なのである。寛容は、限界無き亀わり意志においおは積極的なものずなる — そしお、闘争が運呜であるずいう意識においお、この亀わり意志が効かない堎合には、この運呜意識は決断でなければならないのである。

 近き堎合でも、遠き堎合でも、䞀なる神性は端的に認識されおいないものである。䞀なる神は限界ずしお存圚するのであり、䞀なるものずしおのみ絶察的である。倚重な諞圢態、暗号文字の倚様性が、神性だず芋做されるず、人は任意性に陥る。すなわち、倚なる神々が、私が䜕を望もうずもそれはすべお、䜕らかの仕方で正しいのだず認めおくれるこずになるのである。私の恣意は䞀぀のものから他のものぞず向かうが、䞀なるものは、倚なるものずいう小さな貚幣に分割されお、もはや無制玄的なものではない。超越者の倚性ず察峙しながら、私は䟝然ずしお、私がその倚性を自ら生み出すのであるこずを知っおいる。だが、限界ずしおの䞀なるものは、いかなる仕方でも私自身ではないずころの存圚であり、この存圚に私は、本来的自己ずしおの私に関係するこずによっお、関係するのである。この存圚が私ず異ならないならば、私は超越者に関係しないで、ただ私に関係するのみであり、しかも自分であるこずはないであろう。唯䞀、私の存圚を通しおのみ、すなわち、私次第である実存の䞀なるものの珟実を通しおのみ、私は自分を、私自身ではないずころの䞀なるものに向っお開くのである。

 矎的に倚なるものにおいおは、統䞀性ずずもに無制玄性は倱われおしたう。たずえ客芳的には、倚なるものが䟝然ずしお、矎しい圢像においお頁察象的な統䞀性に繫ぎ止められおいようずも、私にたいし、即座に他の矎しい諞圢像も瀺されるのである。䞀なるものは、実存においおその郜床排他的なものずなるのであるが、悟性にずっおは察象的に芏定可胜ではないのず同様に、䞀なる神は、察象的に䞀なる者ずしお接近可胜なのではない。䞀なるものを、裏切るこずなく守るためにこそ、䞀なるものの客芳化は避けられなければならないのである。知るこずず芳るこずにずっお、珟存圚ず諞暗号ずの豊かさが圚るのであるが、この豊かさは、具䜓的な珟前においお、䞀なるものの歎史的圢態になるのでなければ、建お前ず遊びであるに留たるのである。

 確かなものは、私が経隓するずころのものであり、私が為すずころのものである。すなわち、それは、人間たちずの事実的な共同䜓であり、自分自身ぞの態床をずる事実的な内的行為であり、倖に向っおゆく諞々の行為である。神が䜕であるかを、私はけっしお認識しないだろうが、私であるずころのものを通しお、私は神を確信するようになるのである。

 䞀なるものである超越者が䞇人にずっお䞀般的な超越者ではないように、超越者は孀立化した単独的個人の絶察的に亀わりず無瞁な超越者に留たっおいるのでもない。超越者は、最も深い亀わりを打ち立おるものずなるのである。だがそれはいかなる普遍的な超越者にもならない。人が、真なる神性は人類を普遍的に結合し埗るものであるず宣蚀するならば、それは実存にずっお、超越者の通俗化なのである。最も突っ蟌んだ亀わりは、狭く限定された仲間どうしにおいおのみ可胜である。ここでのみ、超越者はその深みを、それぞれに歎史的な圢態においお開顕するのである。今日においおすべおの者たちを結び぀けるのは、もはや神性ではなく、珟存圚に関わる諞々の利害関心であり、技術、普遍劥圓的な悟性の合理性であり、最も深い氎準の䞀般的に人間的な衝動性であるか、あるいは、ひず぀の統䞀ずいう暎力的な理想郷の諞々であるか、あるいは、盞互に党然関わるずころのない、本質の異なる者たちの共存を寛倧に目指すずいう、ひず぀の方向意欲ずしおの消極的な統䞀であるかである。超越者を最も普遍的なものずしおその䞭で生きるこずは、超越者そのものを倱うこずである。むしろ、䞀なるものは珟存圚においおは、他を陀倖するこずによっおのみ珟象するのである。䞇人にずっおの䞀なる䞖界ず超越者、ずいう諞ノィゞョンは、闘争ずいう限界状況の諞々における実存の珟実的な力を前にしおは、溶け去っおしたう。限界状況においお実存は初めお、超越者を自分の超越者ずしお我がものにしなければならないのである。それは、真正な亀わりに基づくこずによっお初めお、䞇有ずの可胜的統䞀ずいう歎史的な広がりの䞭ぞ突き入るためなのである。

 倚神論ず䞀なる神。— 倚なるものは自らの暩利を欲する。根源的には、至る凊で倚神論が存圚しおいる。倚神論は、珟存圚においおは、止揚され埗ない意味を有しおいるのである。ずいうのも、珟存圚における実存にずっおは、超越者の珟象が可胜であるのは、垞に束の間のものであるゆえに抂芳できないほど倚様な圢態においおだからである。しかし同様に根源的なこずは、頁倚神論ずずもに、䞀なるものずしおの神性が思い描かれおいたこずであり、それも日垞や祭匏においおではなく、背景ずしおのみ思い描かれおいたのである。〔人間が〕実存するこずによっお関係づけられる珟前的な神性ずしおでもなかった。野生諞民族すべおの神話的な父。ギリシャ人における、あらゆる人栌化ず芏定性ずの根底に存しお、これらを包み超え、ただこれらで代理される神的なもの䞀般。諞々の統䞀的集団ぞの神々の集合、䞀぀の最高神を有する神々の囜家ぞの、神々の集合。最埌に、単に最高神でもなければ、それず䞊存しお他の諞民族が他の神々を有するような単に䞀なる神でもなく、唯䞀の、すべおを支配する神であるような、䞀なる神。すなわち、哲孊的な理性を通しお思惟された、ギリシャ哲孊の䞀なる神、および、根源的にはどんな哲孊も無しに魂の孀独のなかで経隓された、ナダダ預蚀者たちの神 — これらは、このような䞀なるものの史実䞊の諞圢態なのであっお、この䞀なるものは、歎史的な過皋のなかで自らを倚神論から解攟しおいるのである。

 私が向き盎る「䞀なる」神の簡玠な諞衚象は — この神が自らを私に啓瀺するにしおも隠すにしおも —、蚀葉にされたものずしおは再び玠朎なものである。衚象は芏定的な衚象ずなるが、それは、党胜な、遍く珟前する、党知なものずしおの神性の衚象である。たた、愛しか぀怒るものずしおの、正矩でありか぀恩寵を䞋すもの、等々ずしおの神性の衚象である。しかし、衚象が無ければ、あるいは、思想が無ければ、神性は䞀床たりずも我々の非知にずっお存圚するこずはないのである。非知は神性ぞの実存的関係の衚珟であるずいうのが本圓なら、神性は実存にずっお、束の間の諞衚象や諞思想の圢態で珟象する、ずいうのもたた本圓なのである。

 しかし明らかなのは、その際、䞀なる神を絶察的に䞀なる、自らの内で完結しおいる神、この神自身ではない䜕ものをも自らの倖に持たない神、ずしお思惟する思想は、そのたたでいるこずはできない、ずいうこずである。ずいうのも、䞖界が存圚するからであり、私自身が存圚し、私は可胜性においお反抗ず垰䟝にたいし、没萜ず飛翔にたいし、自由であるからである。私は超越者をただ昌の法則においおのみ経隓するのではなく、倜の暗闇においお〔も〕経隓する。倚なるものが䞀なるものに察抗しお立ち䞊がり、諞々の珟存圚䞖界の倚皮倚様性が人間の歎史の統䞀性に察抗しお立ち䞊がるのである。だが、倚なるものをそれ自䜓ずしお存圚にするこずは、同様に䞍可胜なのである。倚なるものは神性そのものの䞭に取り入れられるが、それは二埋背反に拠っお真なる存圚の䞭ぞの飛翔を芋いだすためなのである。

 しかしここで生じる諞思想ず諞衚象があっお、これらは、明晰に思惟されるなら玔粋な䞍条理の諞々であるが、歎史的な凝結〈あるいは具䜓化〉ずしおは、最も深くお知られ埗ない秘密なものの衚城[signa]なのである。䞀なる神性は蚀わば頁自らの生成のひず぀の過皋の䞭ぞず入るべきなのであり、自らの䞀性はずもかくずしお、ひず぀の倚性を蚱すべきだずいうのである。䞉䜍䞀䜓説は、神の䞀性を、神の自立的な諞人栌ずは区別しお思惟する。すなわち、䞉぀の人栌の同等性を、父ぞの子の䟝存性にも、これら二぀ぞの聖霊の䟝存性にもかかわらず思惟し、氞遠な存圚を、子ず聖霊ずの産出ずしおの生成にもかかわらず思惟する。この思想は䞍適切な数的地平で思惟されるならば、思想䞊、䞀が䞉に等しいずいう信仰が芁求されるこずになる。このような䞍条理は、人栌的な自己意識の比喩を通しお持ち䞊がるものではない。このような自己意識においおは、私は自らを分裂させるものの自分に垰還するが、即座に自分を新たに分裂させるのであり、〔このように〕ひず぀の円環過皋ずしお、このような自己閉鎖の安静にありながらも垞に䞍安静な、私の珟存圚を持぀のである。〔぀たり〕私自身が䞉぀の䞀぀〈䞉䜍䞀䜓〉[einer der drei]なのである。〔問題の䞍条理は、このような自己意識の比喩によっお持ち䞊がるものではない〕ずいうのは、このような比喩においおは、自己意識の䞀性は超越するこずの路ずしお受け取られるからである。だが、この自己意識はただ他の自己意識ず共にのみ圚るのであり、〔問題の〕䞍条理は䟝然ずしお、䞀なる人栌が䞉぀の人栌でありか぀䞉぀の自立的人栌がやはりただ䞀なる人栌でのみあるはずである、ずいう圢態においおあり続けるのである。

 これは、ず぀おい぀する思想であっお、諞々の䞍可胜性のなかで超越が為される限りでは真であり埗るが、信仰内容ずしお固定化されるず非真理であり埗るのである。

 䞀なる神性の超越者。— 䞀なる神は、思惟されるず必然的に諞々の䞍条理ぞ通じるが、これら䞍条理を超越するこずで私はこの神を感じずるはずなのである。この䞀なる神は実存的な関係においおは、私に応答する埡手であり、私が真であり本来的に私自身である凊では、私に応答するのである。この神は近き神であり、遠くおも正圓に私に報いるのである。子䟛のように敬虔であるこずは、あらゆる問題性ず暗号ずを飛び越えるこずであり、この二぀によっお壊されるこずはない。すなわち、この敬虔さのなかには信頌があるのであり、いかなる問いももはやない — そこでは私は飛翔しおいるのであり、昌の法則に埓っおおり、䞖界の内に留たり、神性が䜕を送っお来ようずも同意するのである。

 このような神は、この神が存圚するのだずいう意識を通しお、〔人間が〕死ぬ運呜であるこずに耐えるこずを教えるこずが出来る。䞍死性は〔この䞖の〕有為転倉においおも飛翔の際の存圚意識ずしお留たり続けるかもしれないが、〔他方で〕苊痛、䞖界の内では、私が愛するすべおも私自身も残り無く死ぬ運呜にあるずいう、この苊痛も、承認されお欺瞞無く摑み取られるのである。このようなこずのための力が、䞀なる神の氞遠性を前にしお、可胜なのである。この神は、たずえ近づき難く隠れおいようずも、存圚しおいるのであるから。

 その堎合、飛翔があっおも人間の生は取るに足らないこずぞの絶望から、解攟されるのである。䞀なるものである存圚が圚るずいうこずで充分なのである。珟存圚ずしおは残り無く過ぎ去るものである私の存圚は、もし頁私が生きるかぎりは飛翔にのみ留たる堎合でも、どうでもよいものである。䞖界の内には、すべおのものず私自身ずの無垞性を、玍埗のゆくものずしお、たた耐えるこずのできるものずしお私に珟象させるような、いかなる珟実的で真実な慰めも存しない。慰めの代わりに圚るのは、䞀なるものの確信ずしおの存圚意識なのである。

 䞀なるものの確信においお人間は、䞀なるものは真理を欲するずいうこずを知る。諞々の恐怖が、人間の䞍安や、䞍安の聖職者的な解釈を通しお、あらゆる䞖界で拡がっおいた。それらの恐怖は、神を䟮蟱したかもしれないための地獄的な䞍安の諞々なのであるが、これらの恐怖や䞍安は、私がほんずうに真であるならば、萜ち去っおしおしたうのである。神はいかなる欺瞞も欲さない。この䞖界で珟象するあらゆるものは、神の代理のようなものであるず自称しおいるずしおも、぀ぎの劂き問いに服するのである それはどのようにしお珟実であるのか、どのようにしお生じたのか、䜕を、どのようにしお結果するのか、ず。私が䜕か或る「神の䜜品」 — 䞖界であるずころのすべおのものは、䞀瞬はそう呌ばれるべし — を容赊なく培底的に研究する堎合に、私は神を䟮蟱しおいるのではない。私が神を䞖界の内で疑わしく思う時、私が反抗する時、そしお私が倜ぞの情熱の暗闇のなかで神の怒りを把握する時、かの䞀なる神は私の玔朎な意識にずっお背景ずしお、ひず぀の子䟛らしい衚象ずしお、存圚しおいるのである — ずいうのも、本来的に人間であり続ける者は、子䟛であり続ける者なのであるから —。䞀なる者ずしおの神は、疑わしくお散り散りに匕き裂かれた䞖界の内では認識され埗ない、ずいうこずは、真理であり続ける。この䞖界の内で、この神は、私の真実性が承認する諞様盞を甚だ倚く呈瀺するので、䞀なるものは繰り返し沈み蟌むように芋えるほどなのである。

 䞀なる神は、私がこの神を思惟するかぎり、いわば生気なく青ざめたものである。この神は思想ずしおは党然、匷制的な〈是が非でも認めなければならないような〉ものではない。䞇有が、このような神に反察する声を発しおいる。この神は、あらゆる䞭間項を飛び越えお、ただ先取りされおいるかのように把握されおいるだけである。それゆえ、子䟛らしい衚象のみが適切なのである。この衚象が最も、客芳的であるには欺瞞な感性的珟実であるず呌ばれるこずが少ないのである。

 しかし䞀なる神は、私があらゆる懐疑の埌で、私の善意志のために、私の昌存圚のために、共振を其凊で芋いだすずころの根拠である。この根拠は、私の孀独のなかで私に近づくものではあるが、それでもけっしお珟存圚ずなるわけではないのである。

 この䞀なる神が私にずっお限界ずしお感じられ埗る堎合には、この神はあらゆる盞察性の䞊に立っおおり、真正な亀わりを担うのである。この神は、真なる実存が他の実存ずの亀わりにおいお飛翔の際に自分自身にずっおそれであるずころのもの以倖の䜕ものをも、自分のために芁求しないように芋える。この神は、代䟡も祭儀もプロパガンダも芁求しないように芋えるのである。䞖界の内で私ず出䌚うのは実存のみである。神は䞖界の内では神自身ずしお存圚するこずはないのである。

 祈りは、隠れたるもの〈神〉の䞭に突入しおゆく䞀皮の厚かたしさであっお、これを人間は最倧に昂じた孀独ず困窮においおは敢行するかもしれず、頁〔䞀方、〕これは、毎日の習慣ず圢匏化した慣習ずしおは、疑わしい固定化であるものである。このような固定化には哲孊は同意しないのである。神の近接が日垞的に確かであるずすれば、神ずの関係はその深みを奪われるであろう。神ずの関係の深みずいうものは、こういった日垞的な近接を疑っおいるものなのである。〔そのような神の近接があるずすれば、神の〕超䞖界性は止揚されおしたい、埗られる安らぎず満足は、実存には䜙りに容易いず思えるこずになろう。ずいうのも、神が隠されおいるずいうこずは、人間は様々な疑いず困窮によっお苊しむべきであるずいう芁求のように芋えるからである。

 神性の幇助[Hilfe]は、実存にずっお、私の呌び掛けにたいしお䜕かをもたらしたり劚げたりするであろうような性栌をも぀ものではない。神性の幇助は、暗号のなかで瀺されはするが、隠れたたたに留たっおいるものなのである。暗号は、そのなかで神性の幇助が最も盎接的か぀決定的に自らを瀺すずころのものであるが、私自身の行為なのである。しかし、祈りは、絶察的意識が超越者に関係づけられおいるこずの確認ずしお、いかなる客芳的な圢匏にもならない、亀わり無き実存的珟圚であり、絶察的意識の歎史的な䞀回性毎にあるものなのである — 䞀なるものぞの飛翔ずしお。

 ずはいうものの、既にそのような蚀葉が、もし究極的な安らぎの衚珟ずしお通甚する぀もりなら、過ぎた[zu viel]ものである。䞀なるものぞの飛翔は、ひず぀の庇護性ずなっおしたうこずだろう。この庇護性においお私は、珟存圚䞖界をその無際限な倚様性ず疑わしさず倚矩性のたたにしおおくのであり、䞖界にたいするこのような䞍忠実においお私は、軜々しい調和のために、珟実から身を匕くこずになるであろう。ずいうのも、䞀なるものは、ひず぀の神性のようなものであっお、この神性はこの䞖界の䞭に疎遠なものずしお来お、私が実存的に䞀なるものに基づいお自分がこの神性ず䞀臎しおいるず感じる限りは、私を助けるのである。しかし、ひず぀の別の䞖界から私に来るように芋えるずころの、この神性の近さは、自らの遠さを私に忘れさせおはならないのであっお、この遠さを通しおは、この䞖界は散り散りに分かれた状態で、神性がそれであるずころのものなのである。

 䞀なるものは、最高で最埌の避難堎凊であるが、珟実に基づく可胜的実存の党き緊匵においお摑み取られおいない堎合には、実存的な危険になり埗るものである。䞀なるものは、そこから䞀なるものが出䌚われるずころの根拠に基づいおのみ、すなわち、実存の珟存圚における䞀なるものの無制玄性に基づいおのみ、真なのである。決しおこの䞀なるものは、あらゆる先行するものがそれを以お克服されおいるような、持続する安らぎずなるものではない。私の超越者ずの䞀臎から、私は再び珟存圚においお珟われ出なければならず、反抗ぞ、没萜ず倜の可胜性の諞々ぞ、倚なるものぞず、戻る路を芋いだすのである — この路は、私が時間珟存圚の内に圚る限りは、反埩されざるを埗ないのである。ずいうのも、あらゆる安らぎは、自分はかき乱されたくないず思う単なる珟存圚の幞犏意志ぞず、速やかに倉化するものだからである。

 

 

〔「倚なるものの豊かさず䞀なるもの」 ここたで〕

 

「超越者ぞの実存的関係の諞々」翻蚳終わり ‘..

 

 

 

 

 詳现目次 

 

反抗ず垰䟝 頁

 憀怒 —頁 知欲の䞭での決断の停止 —頁 知欲における我々の人間存圚は既に反抗である —頁 反抗する真理意志は神性ぞ呌びかける —頁 自己自身を欲するこずにおける割れ目 —頁 垰䟝 —頁 神矩論 —頁 神性の秘匿性のための時間珟存圚における緊匵 —頁 諞々の極を孀立化しお高める過ぎるこずの砎壊性 —頁 諞々の極の孀立化における無意味な逞脱 —頁 信頌の無い垰䟝、神を芋捚おるこず、神無しでいるこず —頁 最埌には問い —頁 

 

没萜ず䞊昇 頁

 没萜ず䞊昇における私自身 —頁 私が評䟡するように私は生成する —頁 䟝存性における自己生成 —頁 超越者のなかに保たれた過皋の方向は、䜕凊ぞ行くのか定たっおいない —頁 過皋であり党䜓であるものずしおの私自身 —頁 守護倩䜿ず魔物 —頁 䞍死 —頁 私自身ず䞖界党䜓 —頁 䞖界過皋 —頁 歎史における没萜ず䞊昇 —頁 党䜓ずいうものにおいお完成される没萜ず䞊昇 ―頁

 

昌の法則ず倜ぞの情熱 頁

昌ず倜ずの二埋背反 —頁 䞀局具䜓的な蚘述の詊み —頁 取り違えの諞々 —頁 昌の疑わしい根本前提の諞々 —頁 あり埗る眪[Schuld] —頁 実存をめぐっお闘争する守護倩䜿ず魔物 —頁 䞡方の䞖界の総合ぞの問い —頁 神話的な開明 —頁

 

倚なるものの豊かさず䞀なるもの 頁

䞀なるものの実存的根源 —頁 䞖界における統䞀性 —頁 論理的なものにおける統䞀性 —頁 䞀なるものぞず超越するこず —頁 倚神論ず䞀なる神 —頁 䞀なる神性の超越者 —頁