『 岩手県の南、一関を太平洋の方へ曲り車で三十分程走り峠のトンネルを越えると東山町松川がある。石灰工場の多い町であちこち採掘された山肌が露出している。宮沢賢治が亡くなる前勤めたタンカル工場の採掘場も保存され、側に 「石と賢治のミュージアム」 という記念館も建てられている。そのタンカル工場(東北砕石工場)の創立者が鈴木東蔵という人で、賢治を工場に招いた人である。そのご子息、故鈴木実先生は教育者で賢治の研究もしていた。実先生は谷川徹三氏と交友があり、谷川氏が大切にしていた高田博厚(私の師)作のアラン像に感動、谷川氏を通じて高田先生と識り合う。そして自らもアラン像その他を求め、又宮沢賢治や盛岡の新渡戸稲造の像を高田先生に依頼する事に奮闘する。賢治像は、花巻の賢治記念館やこの東山町の役場(今は一関市と合併し東山支所)の玄関等にある。新渡戸像は、盛岡市役所の脇、中津川のほとりにある。そんな訳で私も実先生とは自然に近づき、又色々お世話にもなり東山町には度々来ていた。
この松川を更に東へ十分ほど走ると高い岸壁の渓谷があり猊鼻渓と名付けられ竿であやつる和舟が行き交い、船頭さんが民謡など唄ってくれる静かで気持ちの良い観光地となっている。その川の少し下流に東山町の役場があり、十五年程前(一九九四年)新しい橋が出来、その親柱に彫刻をという話が町長より私のところへきた。何か横になっているものが良いというので小さなブロンズのエスキース等を見せると、一緒にいた企画課の藤野さんが東山町にも水に流された顔も手もない二十五菩薩があって横になった飛天などもあるという。何度も東山町に行っているのに初めて聞く話なので早速見に行くことにする。
松川の公民館の脇に古いお堂と新しいコンクリート製のお堂が斜めに並んであり、その新しいお堂のガラス戸のある棚に二十五菩薩の残欠がきちんと並べられていた。
まずトルソ(胴体)だけになってしまった像に目が行き、四十センチ位のものであるが、胸板も厚く、腹もふっくらとして堂々としている。古臭さを感じない立派な現代彫刻である。踊っているのか下半身しかない立像も二体ある。下半身だけでもその動作の喜びのようなものが伝わってくる。あぐらをかいている像も数体あり、又そのあぐらの部分だけのものも沢山ある。衣の襞の動きからか音楽でも聞こえてきそうな感じがする。宇治平等院の雲中菩薩を思い出す。中央に等身近いすべて揃っている本尊(阿弥陀如来)もあるが、これは何となく精気がなく、多分後に手が入ったのだろう。壁には藤野さんが言っていた横になった飛天が四、五点取り付けてある。顔も手もなく小さいが、生々としている。今度のモニュマンはこれを土台にしようとデッサンをしたり写真を撮ったりした。
これらは平安後期のものだそうで、おそらく平泉の彫刻群の流れをくむ、都の仏師がこちらに来て作ったものだろう。いわゆる浄土思想の色々な楽器等をたずさえ、お迎えに来る菩薩達なのだ。
ロダン、彼は古代ギリシャやローマの発掘された彫刻に惚れ込み、自らも収集した。そして顔や手や足もないトルソの美を発見、自らもトルソを作った。そしてブルデル、マイヨル、又高田先生も盛んにトルソを作った。「トルソ」という概念を我々に植え付けたのはロダンなのである。
私もこの松川のお堂に入った時は、和製のにわかロダンになったような気分であった。もちろんもしロダンがこのお堂に来たなら、間違いなく感動した事だろう。
家に帰り少ししか出来なかったデッサンと私の素人写真では心許ないので、雑誌に載っていた写真を写真家から取り寄せ横笛を吹いているのと花を持っている一対の飛天を作り上げた。初めての仏像、何か手ごたえは感じた。でもこれでよいのかという複雑な気持ちも残った。
その後ギリシャを旅しその余韻にひたっていた時、千葉県野田の名刹金乗院から連絡があり、観音像を作ってみないかという。伺って仏像の本や資料をお借りしてきた。又ちょうどその時やっていたガンダーラ展(ブッダ展)のチケットもいただいたので見に行く。もともとガンダーラ仏は大好きだったが、今回の展覧会は今まで以上にすっと入り込め堪能した。
ガンダーラ仏は古代ギリシャ彫刻が古典期からヘレニズム期に移りかけそろそろ甘さが出だした頃、あのアレキサンドロス大王がインド近くまでの大遠征により、ギリシャ彫刻と仏教とが結婚、衰えかけていたギリシャ彫刻が蘇ってしまうという現象をもっている。ギリシャ帰りの私にとってそういう歴史が強く実感出来たのだろう。日本の仏像もこのガンダーラから長い長いシルクロードを通り、又各地で色々な影響を受けながら奈良時代にたどり着いた。